E社5区の巣、レストラン。
巣の中でもそれなりに格式のある店だった。
外装は上品で、窓には曇り一つない。
店内には柔らかな灯りが満ち、食器の触れ合う小さな音と、控えめな話し声だけが静かに流れている。
そんな落ち着いた空間の一角だけが、どこか別の熱を帯びていた。
テーブルいっぱいに並んだ料理。
肉料理、スープ、焼き物、蒸し料理、パン、デザート。
明らかに二人分ではない量が、すでにいくつも空になり、なお次が運ばれてくる。
その中心で、オグリキャップは幸せそうにもぐもぐと食事をしていた。
「...もぐもぐ」
アーモンドアイはその様子を眺めながら、小さく笑う。
「...ふふ、やっぱりオグリさんは食事をしてる時が一番幸せそうね」
オグリキャップは、手を止めることなく素直に頷いた。
「もぐもぐ...ああ。美味しいからな」
あまりにもまっすぐな答えだった。
飾り気も、気取りもない。
ただ本当に、そう思っているのだと分かる声音だった。
アーモンドアイは、その答えに少しだけ目を細める。
「...そう。それなら良かったわ」
オグリは変わらず料理を口に運ぶ。
高級な店だろうが、巣の食堂だろうが、裏路地の屋台だろうが、彼女にとって食事はいつだって真剣だった。
だが、その真剣さは決して貪欲さだけではない。
美味しいものを食べて、満たされて、それを良いことだと思っている。
その感覚が、彼女の中にはずっと変わらずある。
「...もぐもぐ」
その時、端末が小さく鳴った。
ピロン。
オグリキャップが視線を落とす。
「...む、メールだ」
アーモンドアイが首を傾げる。
「メール? なんのかしら?」
オグリは端末の画面を見つめ、ほんの少しだけ目を見開いた。
「...巣の移住権の知らせだ」
「巣?」
「ああ」
オグリは短く答える。
「母さんが安全に暮らせるように、ネイチャやタマが巣の移住権の申請を手伝ってくれたんだ」
アーモンドアイは一瞬だけ言葉を失う。
それが何を意味するかは、都市で生きている者ならすぐ分かる。
裏路地から巣へ。
それもただの巣ではない。
場所によっては、一般人どころか高位フィクサーでも簡単には入れない。
「てことは...」
オグリは画面から目を離し、はっきりと言った。
「...認可された。...母さんにも連絡しないとな」
その言葉には、珍しく抑えきれない喜びが滲んでいた。
大きく笑うわけではない。
声を荒げるわけでもない。
それでも、その一言だけで分かる。
彼女は本当に嬉しいのだ。
アーモンドアイも、自然と口元が緩んだ。
「へぇ、ふふ。良かったわね」
「ああ」
オグリはゆっくり頷く。
「...母さんが安全に暮らせるようになるなら...私は嬉しい」
その言葉には、何の打算もなかった。
見返りも、自分の得も、そこにはほとんどない。
ただ母親が無事に暮らせること。
それだけを心から喜んでいる。
アーモンドアイは、ふと現実的な疑問を口にした。
「ちなみにどこの巣なの?」
「2区だな。B社の巣だ」
「...頭の直轄地?」
アーモンドアイの声に、わずかに驚きが混じる。
1区、2区、3区。
それは都市の中でも特別に安全で、特別に閉じた場所だ。
頭、目、足爪の影響が色濃く及ぶ区域。
普通の人間はもちろん、並のフィクサーでも住めるような場所ではない。
だがオグリは、その重さをあまり理解していないようだった。
「出来るなら安全な場所の方が良いと言ってくれたからな。ネイチャやタマに任せた」
「そう...良かったわね」
「ああ」
アーモンドアイは頷きながらも、心の中では別の感情が渦巻いていた。
...私でも、頭の支配下の1区〜3区に移住なんて出来なかったのに...
オグリさんはやっぱり凄いわね...
それは嫉妬ではない。
ただ、自分がどれだけ努力しても届かない場所へ、この芦毛の怪物はいつの間にか手をかけている。
その事実への静かな驚きだった。
オグリが顔を上げる。
「...アイ、どうかしたか?」
「え?」
「なんだか、私のことを見つめていたようだから...」
アーモンドアイは少しだけ言葉に詰まった。
「...なんでもないわ。ただ、オグリさんの特別性を再認識してただけ」
その言葉に、オグリの手が止まる。
「...特別...?」
彼女は視線を少し落とした。
「...アイ、私は特別の意味が良く分からない。なぜみんな私のことを不思議な目で見るんだろうか?」
アーモンドアイは答えようとして、すぐには言葉が出なかった。
オグリは続ける。
「だって、私はただ母さんに恩返しをするために約束を守ってただけだ。友達を大切にして、約束を守って、名前で呼んで、ルールを守る...それだけだ」
その声は静かだった。
だが、言葉の一つ一つは驚くほど真っ直ぐだった。
「普通のことだろう? 私はそれしかしていないのに...なぜみんな特別とか言うんだ...?」
アーモンドアイは、目の前のオグリキャップを見つめる。
都市では、そんな“普通のこと”が一番難しい。
約束を守ることも、友達を大切にすることも、名前で呼ぶことも、ルールを守ることも。
どれも当たり前のはずなのに、都市では当たり前ではなくなる。
だからこそ、オグリは特別なのだ。
その当たり前を、壊れずに持ち続けているから。
けれど、オグリにとってそれは自慢でも武器でもない。
ただ母親から教わったことを、そのまま守ってきただけなのだ。
オグリは小さく眉を寄せた。
「...難しいことを考えるのは苦手だから、よく分かんない...でも、普通のことをしてるだけで特別とか言われるのは...苦手だ...」
その言葉に、アーモンドアイは少しだけ息を呑んだ。
今までオグリのことを、純粋で、天然で、どこか鈍い子だと思っていた。
もちろんそれは間違いではない。
だが今、目の前で語っているのは、ただ鈍感な少女ではなかった。
彼女はちゃんと違和感を持っている。
分からないなりに、周囲が自分に意味を載せすぎていることを、息苦しく感じている。
アーモンドアイはそこで初めて理解した。
オグリキャップは、ただ無自覚な怪物なのではない。
自分の普通を守ったまま、周囲だけが勝手に意味を膨らませていくことに、戸惑っている個人なのだ。
アーモンドアイはゆっくりと口を開いた。
「...オグリさんって、純粋なだけじゃなかったのね」
「?」
オグリは本気で意味が分からない顔をする。
アーモンドアイは、小さく首を振った。
「...そうね、オグリさんがしてることはただの当たり前よ。...私たちが勝手に意味を持たせてるだけ」
その言葉は、半分はオグリに向けたもので、半分は自分自身へのものだった。
今まで自分も、オグリの特別性を語ってきた。
価値を説き、強かであれと求め、規格外だと評してきた。
けれどそのたびに、オグリ自身の気持ちをちゃんと考えていただろうか。
アーモンドアイは静かに続けた。
「...気にしなくていいわ。...それと、ごめんなさい」
オグリがきょとんとしたまま問う。
「何故謝るんだ? 私がなにかしたのか?」
「...大丈夫よ」
アーモンドアイは少しだけ微笑んだ。
「オグリさんはいつも通りでいいわ」
その言葉は、やっと出せた正解のように感じられた。
都市は彼女を怪物と呼ぶだろう。
協会は価値を見積もるだろう。
指や翼は利用を考えるだろう。
でも、それでも。
少なくとも今この席では、オグリキャップは“特別な構造”ではなく、ただ食事をして母親の無事を喜ぶ一人のウマ娘でいていい。
オグリは、少し考えるように間を置いてから頷いた。
「...分かった。アイがそういうならそうなんだろう」
そう言って、また料理に視線を戻す。
どこか安堵したようにも見えた。
アーモンドアイは、その横顔を静かに見つめる。
完璧を求め続ける自分とは、あまりにも違う。
なのに、その当たり前の強さでは到底敵わない気がした。
オグリはひと口食べてから、小さく呟いた。
「...美味しいな」
その一言に、アーモンドアイもようやく肩の力を抜いた。
「ええ、そうね」
怪物と呼ばれる彼女は、今日も怪物らしくない。
いや、怪物らしくないまま怪物であり続けている。
だからこそ、誰もが勝手に意味を見出す。
そして、本人だけがそれを理解できずに戸惑う。
そのズレの痛みを、アーモンドアイは少しだけ知った夜だった。