A社1区、A社本社。
調律者執務室。
都市の支配者たる頭。
その中核を成すA社の本社は、最初から最後まで黒で統一されていた。
黒い壁。
黒い床。
黒い机。
そこにだけ、金色のハニカムパターンが理路整然と走っている。
装飾というより、構造そのものが視覚化されたような意匠だった。
その建物の上層階、調律者たちが執務を行う区画の一室にも、同じ色彩と静けさが満ちていた。
そこに座る1区担当調律者クモハタは、まるで何事もない昼下がりでも過ごすような優雅さで、湯呑みに口をつけていた。
「...ふふ、今日は静かだね」
その声音は柔らかい。
だが、その言葉の意味するところは一般的な“静けさ”とは違う。
「1区の巣も問題なし、裏路地もいつも通り。...平和で何よりだよ」
平和。
それは、人が死んでいないという意味ではない。
揉め事が起きていないという意味でもない。
裏路地では今日も、どこかで誰かが死んでいるだろう。
巣の中ですら、搾取や事故や見えない切り捨ては絶えない。
だが、頭が動く必要はない。
禁忌に触れず、都市の大枠を揺らさず、頭の意に反しないなら、それはすべて“平和”に分類される。
つまりクモハタの言う平和とは、
頭にとって対処の必要がない状態
というだけだった。
クモハタは湯呑みを置き、皿の上のよもぎ団子を一つ摘まんだ。
「...よもぎ団子も良い味付けだね」
その穏やかな仕草には、日常の洗練がある。
だが調律者にとっての日常とは、常人にとっての平穏とは根本から違う。
どこで誰が死んでいようと。
どこでどんな悲鳴があろうと。
頭の規定に反していなければ、すべてはどうでもいいこと。
それが彼らの基準であり、職務であり、世界認識だった。
その時、扉がノックされた。
コンコン。
クモハタは顔を上げずに言う。
「...どうぞ」
ガチャ。
「失礼します」
「失礼します...」
入ってきたのは、2区担当調律者エリナと、17区担当調律者マンハッタンカフェだった。
クモハタはようやく顔を上げ、二人を見る。
「エリナにカフェか。どうしたかな?」
エリナが一歩前に出る。
いつも通り無駄のない所作だった。
「はい。灰色の怪物およびその家族の2区での受け入れ、完了したそうです」
クモハタの表情は変わらない。
「そう。それでどんな様子だい?」
エリナは資料を確認し、簡潔に答える。
「...B社の情報では、いつも通り巨大おにぎりを食べていると...」
一瞬の間。
それからクモハタは、くすりと笑った。
「つまりいつも通りか。分かったよ」
まるで天候報告でも聞いたような気安さだった。
オグリキャップ。
協会二つの体制を変え、指や翼や協会上層部と接続し、個人としては明らかに規格外の存在。
だが、その今の様子が「巨大おにぎりを食べている」なら、頭にとってはそれ以上でも以下でもない。
変わらないなら、問題ではない。
問題でないなら、処理不要。
クモハタは次にマンハッタンカフェを見る。
「...カフェはどうしたんだい?」
マンハッタンカフェは影の薄い声音で答えた。
「はい...H社から今月の法人税を徴収できたので報告しに来ました...。ご精査ください...」
差し出された書類を、クモハタが受け取る。
その仕草は淡々としていて、そこに感情は見えない。
税。
頭の監視。
禁忌管理。
特許。
都市運営。
その全てが、頭にとっては同じ“処理すべきもの”に過ぎない。
クモハタは書類に目を通し、すぐに頷いた。
「うん、不備はないね。いつもながら見事な仕事ぶりだよ」
マンハッタンカフェは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます...」
短いやり取りのあと、クモハタは再び湯呑みに手を伸ばしながら、何気ない調子で言った。
「...それにしても、灰色の怪物も来るところまできたってことね」
エリナが応じる。
「そうでございますね。まさか二協会の体制を変更させるとは...」
マンハッタンカフェも、珍しく疑問を隠さずに言った。
「...あれ、本当に個人なんですか...?」
その声には、少しだけ本音が混ざっていた。
「協会は翼や指とともに都市の秩序の一角を担う組織...それを個人の存在だけで変えるなんて...」
その違和感は、極めて自然だった。
協会は都市の制度の一部。
個人は制度の中で動くもの。
本来なら、その順序は覆らない。
だがオグリキャップは、そのあり方を一時的にせよ揺らしてみせた。
普通に見れば異常だ。
だがクモハタの返答は、拍子抜けするほど静かだった。
「...まあ確かに、灰色の怪物の影響力はもはや揺るぎないものになったが」
そこで一度区切る。
「頭にとっては些細なことさ。禁忌に抵触してなければ、見守るだけ」
その言葉で、部屋の空気がさらに冷える。
些細。
協会二つの運営が変わっても。
予算配分が動いても。
個人が制度を揺らすほどの価値を持っても。
頭から見れば、それは些細。
なぜなら頭は、そのすべてを包んだ上位構造だからだ。
制度の変化も、予算の再配分も、協会の改革も、全部“都市の中で起きている範疇の変化”に過ぎない。
頭の絶対性そのものには、まだ何ひとつ触れていない。
エリナはすぐに頷く。
「ええ、当然です」
マンハッタンカフェも、少しの間のあと静かに頭を下げた。
「...承知しました」
クモハタは、そこでようやくわずかに笑みを深める。
「ふふ、心配しなくていいよ」
その口調は柔らかい。
だがその柔らかさの奥にあるのは、絶対的な自負だった。
「例えどんな存在が出てきても、頭と都市は揺るぎない。...それがこの都市の理だ」
都市は変わる。
組織も増減する。
協会も体制を変える。
翼も衰退し、新しい技術や制度が生まれる。
だが、頭がいる限り、その変化はすべて頭の下で起きる。
反逆も、改革も、逸脱も、最終的には頭という枠の中で位置づけられる。
だからこそ、都市は続く。
だからこそ、調律者はこの静かな部屋で茶を飲んでいられる。
そこでマンハッタンカフェが、少しだけ視線を落としながら口にした。
「...リンバスカンパニーが頭に取って代わろうとしてはいますけどね」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
エリナは無反応。
クモハタはわずかに目を細めただけだった。
「...まあ、頭への反逆思想は禁忌ではない」
あっさりとした返答だった。
「...行動に起こすまでは、放置しなさい」
その言葉は、この都市の異様さをよく表していた。
頭を倒したいと思うこと。
支配に反発すること。
制度を憎むこと。
それ自体は、禁忌ではない。
なぜなら思想はまだ“結果”ではないからだ。
頭にとって重要なのは、秩序を乱す行為であって、心の中で何を考えているかではない。
反逆を夢見ようと。
頭を憎もうと。
それが具体的な危険に変わるまでは、制度の内側で観察可能な一要素に過ぎない。
つまりこの都市では、
反逆思想ですらも、管理可能な制度の範疇
なのだ。
マンハッタンカフェは静かに頷いた。
「...分かりました」
それで会話は終わる。
クモハタはまた緑茶を飲む。
エリナは変わらず直立している。
マンハッタンカフェは書類を抱え直す。
部屋の中には、何も起きていない。
少なくとも頭にとっては。
灰色の怪物がどれだけ伸びようと。
リンバスカンパニーが何を企てようと。
都市のどこかで今日も誰かが死のうと。
頭が動くべきでないなら、それは“平和”の一部だ。
クモハタは最後に、ほんの少しだけ笑った。
「...さて、次の報告は何かな」
その声音はあまりにも日常的で、
だからこそ都市の不変を何より雄弁に語っていた。
報告 ネタが切れましたので、新ウマ娘発表かリンバスの新しい情報開示まで休みます