A社1区、A社本社。
休憩室。
都市の支配者たるA社の本社は、相変わらず黒と金の威圧感に満ちている。
だがその中にも、現実の会社と変わらない場所はある。
休憩室。
そこは、調律者たちが束の間だけでも戦闘と裁定から離れ、茶を飲み、書類を置き、ほんの少しだけ人間らしく息をつくための空間だった。
その一角で、A社専属の特色フィクサー、オルフェーヴルがひとり、客として迎えられていた。
「どうぞ、オルフェーヴル」
優雅な声とともに差し出されたのは、湯気を立てる紅茶だった。
オルフェーヴルは受け取ったカップを一度持ち上げ、香りを確かめる。
「……頂こう。ふむ、アールグレイか。随分質が良いな、拘っているのか?」
声には嫌味はない。
純粋な評価だった。
向かいに座るスージーは、上品に微笑んだ。
「ふふふ、無論ですわ。調律者御用達の茶葉工房で仕入れたものなんですの」
D社4区担当調律者、スージー。
金色のハニカム模様を走らせた黒い制服に身を包み、その立ち振る舞いはまるで上流階級の貴婦人のようだった。
だがその微笑の奥には、調律者らしい鋭さがある。
彼女は指先で自分のカップを軽く持ち上げながら、何気ない口調で続ける。
「紅茶の味が分かるとは、オルフェーヴルもお好きなのかしら?」
「まあな。時折、姉上に入れて貰っている」
「ハナ協会のドリームジャーニー本部長に? ふふ、姉妹仲がよろしいのですわね」
オルフェーヴルはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「御託は良い。……スージーだったか。余に用があるとのことだが、紅茶でもてなす辺り、余程の話か?」
スージーは軽く肩をすくめる。
「ふふ、大したことではありませんわ。オルフェーヴルが紅茶派と聞きましたので、どれほど詳しいのか知りたかっただけですわ」
「そうか……調律者も暇なんだな」
「23区担当のテンさんや12区担当のジェナさんはともかく、安定してる区の担当調律者はそこまで忙しくはありません。せいぜい毎月B社やC社を通じて翼から法人税を徴収するくらいですわ」
さらりと言うが、その内容は十分に都市の上澄みだった。
都市の巣を支配しているのは26の翼とはいえ、そこには頭の監視が常にある。調律者たちは、日常の裁定と監視、税の徴収、そして時折の粛清に追われる。
ただし、前線で毎日血を浴びるわけではない。
オルフェーヴルは一口だけ紅茶を含み、それからカップを置く。
「……回りくどいのは好かん。余への話があるなら、さっさと切り出せば良いであろう。何か隠しているのは分かるぞ」
スージーの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「……あら、お分かりになられたんですの?」
「雰囲気で大体分かる。何やら重要な話を切り出そうとしておるぐらいはな。余とて特色フィクサー、洞察力には自信がある」
スージーは、その言葉を受けてゆっくりと姿勢を正した。
「ふふ、なら単刀直入に言いましょう。オルフェーヴル、貴女、調律者になる気はなくて?」
オルフェーヴルの眉がわずかに動く。
「調律者に?」
「ええ」
スージーは静かに、しかし明確に続けた。
「調律者の定員は各区に一名、最大二十五人ですが、貴女もご存知の通り、かつて赤い霧によってH社8区の調律者ガリオンさんが殉職。そのまま8区の調律者は空席状態が続いております。現状はQ社17区担当のマンハッタンカフェさんが兼任しておりますが……やはり調律者の補充は必要急務」
その言葉には、ただの雑談ではない重みがある。
A社は都市の秩序を担う機関だ。
調律者の欠員は、単なる人手不足ではなく、都市の天井に穴が空いたようなものだった。
「そこで貴女をスカウトしたいのです。そうすればA社としても専属フィクサーというものを雇う必要も無くなりますし、貴女も調律者という都市の最高戦力になれます。ふふ、特色フィクサーでさえも比べ物にならない立場を保証しますわ」
オルフェーヴルは、しばらく黙っていた。
その沈黙には、軽率に断るには惜しい条件だという冷静な計算があった。
「……調律者の立場か。具体的には?」
スージーは、待っていましたとばかりに指を立てる。
「調律者は言うまでもなくA社の社員、故にA社の福利厚生を享受することが出来ますわ」
「A社の福利厚生?」
都市に福祉があること自体は、別に珍しくない。
命の値段は軽い。
だがそれでも、都市には都市なりの社会制度がある。
T社には福祉委員会があり、孤独死専門の葬儀屋サービスや、無料給食センターのようなものまで存在する。
冷酷な世界に見えて、案外“普通の暮らし”は残っている。
ただし、それが誰にでも平等に行き渡るわけではない。
スージーはさらりと説明する。
「まずA社の管轄下である1区の巣の全ての施設を無条件で利用出来るようになりますわ。他の住民とは違い、調律者には優先利用権がございます。さらに、A社内でも執務室が与えられ、比較的自由で快適な労働環境を過ごせますわ」
オルフェーヴルは少しだけ目を見張った。
「ほう……」
「他にも、A社で保管されているあらゆるものを自由に利用できますわ。都市中で生産された飲食料品や出版物、娯楽品、嗜好品……なんでしたら今飲まれた茶葉やコーヒー豆、酒など、飲み放題ですわよ?」
「結構手厚いのだな。流石、頭といったところか」
スージーは誇らしげに微笑む。
「調律者は都市の最高戦力、故に相応の高待遇は当然ですわ」
だが、オルフェーヴルはそこでふと目を細めた。
「……ひとつ聞く。その調律者スカウトは、クモハタの指示か?」
スージーの表情に、一瞬だけ余裕のある色が混じる。
「いいえ、わたくしの独断ですわ」
「独断?」
「クモハタは、協会への人質としてあなたを利用する気のようですけど、わたくしとしては正式に同僚として迎えても良いと思っておりますわ」
上品な声のまま、しかしその奥に、調律者らしい実務的な強さがあった。
「心配せずとも、わたくしとて調律者。クモハタへの交渉術ぐらいは身につけております。いかがかしら、オルフェーヴル。調律者になる気はなくて?」
オルフェーヴルは紅茶を一口飲み、それから静かにカップを置いた。
「……あいにくだが、余はあくまでフィクサーだ。金の色を授かったものとしての誇りとプライドもある」
まっすぐな拒絶だった。
「福利厚生とやらは興味深いが、そんなものに頼るほどやわではない」
スージーは、少しだけ残念そうに目を伏せる。
「……あら、それは残念」
だが、引き下がりはしない。
「まあ、気が変わればいつでも受け付けますわ。調律者の特異点を操る力……貴女も知れば虜になると思いますわよ」
オルフェーヴルは鼻で笑った。
「ふん……その福利厚生とやら、利用している調律者はいたりするのか?」
「ええ、ガリオンさんなんかはかなり積極的に利用していましたわ」
スージーは少しだけ懐かしむように語る。
「特に、紅茶の茶葉の利用をね。日常的にセイロンティーの茶葉を愛用して、調律の仕事に持っていき、仕事終わりに現地で飲むのがあの人の日常でしたわ。あまりに紅茶を飲むものなので、周囲からは“紅茶ニート”のあだ名が付くほどでした」
「紅茶ニート……」
オルフェーヴルの口元がわずかに動く。
「なにしろ最低限の業務以外サボるような人でしたので、B社やC社に紅茶飲みながら遊びに行くなど……まあ、素行の問題は多かったですわ。それでも、調律の仕事だけは真面目でしたので問題視はされませんでしたが」
オルフェーヴルは、しばし黙って紅茶を見つめた。
そして――
「……まあ良い。少なくとも福利厚生などは今の余には無縁のものだ」
そう言って立ち上がる。
「ではそろそろ仕事に戻る時間故、失礼する。茶は美味かったぞ」
「ええ、どうぞ」
オルフェーヴルが休憩室を出ていく。
扉が閉まり、空気が少しだけ静まった。
残されたスージーは、自分の紅茶をゆっくりと口に運んだ。
「……ふふ、オルフェーヴルも結構人間くさいのね。特色の地位にこだわるなんて……」
彼女は少しだけ笑う。
「まあ、アタシとしてはフィクサーのオルフェーヴルも気に入ってるし、別にいいわ」
そしてカップを置き、どこか楽しそうに呟いた。
「……今度、ガリオンが気に入ってたセイロンティーでも差し入れしようかしら」