A社1区、A社本社。
クモハタの執務室。
夕刻。
A社の定時を少し過ぎたころ、外の廊下にはまだ書類を抱えて歩く調律者たちの気配が残っていた。
都市の頂点に立つ機関――頭。
その中枢であるA社は、黒と金に彩られた威圧的な本社を持ちながらも、実態はやはり企業であり、仕事のやり取り、監視、報告、そして少しの休息がある。
その執務室の前に、呼び出されたスージーが立っていた。
D社4区担当調律者、スージー。
他の調律者よりもひときわ優雅で気品があり、黒地に金のハニカム模様が走る制服すら、彼女が着るとひとつの装いとして完成して見える。
だが、そんな外面の美しさとは裏腹に、その内側には調律者らしい冷静さと、わりと強引な実行力がある。
部屋の中から声がかかる。
「……入っていいよ」
スージーが扉を開けると、執務机の向こうでクモハタが静かに書類を閉じていた。
A社1区担当調律者。
麗しい貴公子と呼ばれるほどの見目の良さを持ち、A社の経営陣にも顔が利くウマ娘。
緑茶の入った湯呑みを片手に、どこか柔らかい笑みを浮かべている。
「……オルフェーヴルを調律者に勧誘しようとしたそうだね」
クモハタの声は静かだった。
怒鳴るでもなく、責めるでもなく、ただ事実を並べるような口調。
それが逆に、どれだけ話題が重いものかを示していた。
スージーはひるまない。
「ええ、適性はあると思いましたので、一度勧誘しましたわ」
「……あまり勝手な行動は控えてほしいんだけどね」
クモハタは湯呑みを傾ける。
「確かに、現在調律者の席がひとつ空席なのはA社の課題だけどね……それと同時に、また赤い霧のような規格外の存在に調律者を討ち取られるなんて事態が起きないように、フィクサー協会への牽制として特色の専属フィクサーを雇っているんだよ」
スージーは少しだけ唇を尖らせた。
「ですが、赤い霧が調律者を討ち取ったのは、当時の頭が把握出来ていなかったE.G.Oという装備と、ガリオンさんの油断と慢心が原因でしょう? 今は調律者たちも装備の新調をしましたし、問題ございませんわ」
クモハタは少し目を伏せる。
「……それはそうだけどね……でも、オルフェーヴルはあくまで専属フィクサーの方が都合が良いんだよ」
その言葉には、A社の実務を知る者らしい冷静さがあった。
「最高戦力故に都市の禁忌違反でない限り動かせない調律者や凝視者、処刑者とは違って、A社専属とはいえあくまでフィクサーのオルフェーヴルであればフットワークが軽い。ハナ協会への伝達もスムーズになるしね」
スージーは少しだけ首を傾げた。
「ふむ……もしかしてA社のタブーハンターにでもするおつもりですの?」
都市には二種類の法がある。
頭が定める都市全域での禁忌と、翼が独自に定める巣ごとの禁忌。
前者には調律者、凝視者、処刑者が派遣される。
後者には、各翼が雇うタブーハンターと呼ばれる専門のフィクサーが対処する。
クモハタは湯呑みを置き、少しだけ頷いた。
「まあ、今も暫定的にタブーハンターの仕事はしてもらってるけど、正式に任命しても良いかもね」
スージーはそこでようやく納得したように息をついた。
「そういうことなら承知しましたわ」
クモハタはやわらかく笑う。
「うん、次から独断的な行動は控えてね」
そして、少しだけ視線を逸らした。
「……ところで、今オルフェーヴルは何をしているのかな?」
スージーは、何でもないことのように答えた。
「確か、テミーさんに連れていかれてましたわ。今頃、執務室でしょうね」
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テミーの執務室。
部屋の造りは他の調律者の執務室と大差ない。
だが、棚の様子だけは少し違っていた。
そこには古今東西のあらゆる酒瓶が並び、壁際にはグラスや氷を入れるための器具まで整然と揃えられている。
調律者の部屋にしては、妙に“夜の気配”がある。
「オルフェ、来てくれてありがとうね」
明るく笑うテミーに、オルフェーヴルは少しだけ目を細めた。
「ふん、今度は貴様か」
M社13区担当調律者、テミー。
明るく軽く、難しいことを考えるのが苦手な女性。
だが、その瞳の奥には、調律者らしい冷たさが確かにある。
軽い笑顔のまま、人の命を判定できる側の目だ。
オルフェーヴルは腕を組む。
「それで、余に何用だ? 貴様も調律者の勧誘か?」
「違う違う」
テミーは両手を振った。
「私は別にそういうつもりはないよ〜。ただ今日の仕事終わったし、これから晩酌しようと思って。1人だと味気ないから、オルフェに付き合って欲しかったんだよね」
「別に定時は過ぎておるのだから、他の調律者を誘えばいいであろう」
テミーは肩をすくめた。
「でもね〜、お酒飲む調律者って結構少ないんだよ。カフェはコーヒー派だし、スージーは紅茶派だし、クモハタさんは緑茶派だし。他の調律者もあんまり付き合ってくれないし……お願いオルフェ! 私の秘蔵のお酒あげるから!」
オルフェーヴルは少しだけ沈黙したあと、鼻を鳴らす。
「……ふん、まあ良い。余も酒は嗜んでおる方だしな。今回だけだ」
「おお! ありがと!」
テミーはぱっと表情を明るくした。
そして、棚の前に立って酒瓶を選び始める。
「……貴様、随分酒好きなんだな」
オルフェーヴルが棚を見回す。
そこには清酒、焼酎、ビール、ワイン、ウイスキー――ありとあらゆる酒が並んでいた。
「かなり揃っておるな」
「まあね。都市に存在しているお酒なら、大体揃ってるよ」
テミーは軽く笑った。
「オルフェは何飲む?」
「ウイスキーで良い。……銘柄は何がある?」
「色々あるよ。メーカーズマーク、ジョニーウォーカー、あとオールドパーなんてものもね」
オルフェーヴルは少しだけ考え、それから答えた。
「……なら、オールドパーを頂こう」
「おっけー。飲み方は何がいい? 水割り? ロック?」
「ロックで良い」
「はいよー」
テミーは慣れた手つきで氷を入れ、酒を注ぎ、グラスを差し出した。
「はい、どうぞ」
「うむ。……ほう、中々良い味だ」
「でしょう?」
テミーは得意げに笑う。
「T社の技術で作られた25年物のオールドパーだよ」
「T社か。あそこの技術なら納得だ」
T社。
都市南部20区を支配する翼。
時間停止、時間遡行、時間加速――時間に関わることなら都市最先端と名高い大企業である。
“数秒で三日煮込んだようなシチュー”を作る鍋のような、常識のずれた品まで生産していることで知られていた。
テミーは自分のグラスも手に取り、軽く揺らす。
「じゃあ私も飲もうかな。ストレートで」
そうして、二人の晩酌が始まった。
グラスが触れ合う硬い音はない。
代わりに、氷の鳴る音と、酒が喉を落ちる静かな音だけが室内を満たす。
少しして、テミーがふと口を開いた。
「……そういえばオルフェーヴルってさ、なんでフィクサーになったの? 確か経歴だとM社13区の巣の出身らしいし、巣の住民なら、わざわざフィクサーの危険な仕事に就く理由も少ないはずだけど」
オルフェーヴルはグラスを見つめたまま、少しだけ黙った。
「……うむ。確かに余は巣の出身だ。……師匠に出会わなかったら、翼に入社していた可能性もあっただろうな」
テミーは目を輝かせる。
「……確か、ドリームジャーニーと一緒に特色フィクサーのステイゴールドの弟子になったんだよね?」
「ああ。当時、エイト協会の西部支部長だった師匠が、私の両親と懇意になってな。その縁で、姉上と私も知り合った」
「ふーん……それでどうなったの?」
オルフェーヴルは少しだけ目線を上げる。
「エイト協会は外郭や大湖への調査が専門だった。時折、外郭の話を幼かった私らに聞かせてくれた。……まあ、退屈はしなかった。そして姉上はステイゴールドに憧れ、フィクサーになると言い出し、それに余も同調したのだ」
テミーは驚いたように目を丸くした。
「あのドリームジャーニーがそんなこと言ったんだ?」
「当時は私も姉上も幼かったからな。初めての憧れであるステイゴールドと同じ立場を目指すことを夢見るようになったのだ」
テミーはグラスを口に運ぶのを忘れたまま、続けて尋ねる。
「……それで、弟子入りしたの?」
「うむ。普段は飄々としておるが、教えるとなったらかなり厳しい奴だった。とはいえ、余も姉上も泣き言は言わずに着いていったがな」
「へぇー。つまり、オルフェーヴルの強さの秘訣はステイゴールドの教えってこと?」
オルフェーヴルは少しだけ顎を上げる。
「うむ……とはいえ、余も姉上も師匠に憧れはあったが、同じ協会に所属しようとは思わなかった。別の道を歩めと教えられたこともあったしな。姉上は管理職の適性があると言われてハナ協会を目指した。余は、ステイゴールドの知り合いが経営していたフィクサー事務所を紹介されて、そこに所属した」
「確かマルゼンスキーの事務所だよね。マルゼンスキーとステイゴールドは姉妹弟子の関係って聞いてるけど」
「うむ」
オルフェーヴルは静かに頷いた。
「余が特色になったのは、その事務所にいた時期だ。そして数年後、マルゼンスキーが事務所を畳んだのをきっかけに、しばらくはフリーランスで活動していた。……あやつと一緒にな」
「あ〜……ミスターシービーだよね。元特色フィクサーの」
「ああ。マルゼンスキーの事務所にいた頃からの仲で、常にコンビで活動していた。……なんだかんだ付き合いは悪くなかった」
テミーは少しだけ表情を変える。
「……確か、1年前だっけ。ミスターシービーが不純物になったのって」
オルフェーヴルのグラスが、わずかに止まる。
「……ふん、あやつも脱税なんてくだらない罪を犯しおって……」
テミーは、そこで少しだけ口元を緩めた。
「オルフェーヴルがA社専属になったのって、シービーを自分の手で始末するためだったよね? ちょうどあの時期の頭が図書館でガリオンの回収に失敗して、損失の穴埋めのための特色フィクサー専属契約を結ぶことを考えていたし、オルフェーヴルからその候補に申し込んだらしいじゃん」
オルフェーヴルは小さく息を吐く。
「頭と繋がりを持てば、あやつを追いかけることができるからな。だが、いざ対峙すれば、あやつを殺すのには躊躇してしまった……複雑な感情が湧いてな」
テミーは少しだけ真面目な顔になる。
「で、結局外郭へ放逐したんだっけ?」
「うむ。あいつの脱税のきっかけが余への拗れた感情だと知って癪だったからな。そんなに殺されたいなら、むしろ殺してやるつもりはないと言い切って追い出した。一応、都市に戻らぬ言質は取ったから問題はないであろう」
テミーは軽く肩をすくめた。
「もちろん、頭の規定では禁忌を犯した者の末路は二つ。死ぬか外郭に行くか。外郭でずーっと住み続ける覚悟があるなら、別に禁忌を犯しても頭的には問題ないんだよね〜」
オルフェーヴルはそこで、少しだけ目を伏せた。
「……まあ、余の昔話はこんなところだ」
テミーはグラスの中身を減らしながら、どこか感心したように言う。
「オルフェーヴルも濃い人生歩んでるよね〜。まあ都市じゃ珍しくないけど」
「ふん……だが、A社専属という生活は悪くない。都市の上層の生活というのが知れるからな」
テミーは笑う。
「別に調律者だって都市の住民って意味じゃあ、他所の翼の職員と大差ないよ。仕事して、終わったら好きなように過ごして、一日を終える。それだけだよ」
その言葉は軽い。
だが、どこか優しい。
調律者という都市の最上位ですら、生活の本質は意外と変わらないのだと、彼女はさらりと告げる。
オルフェーヴルは、グラスを傾けながらその言葉を受け取った。
その夜、執務室には酒の香りと、少しだけ昔の話が残った。
A社の休憩室で茶を飲む者がいるように、調律者にも晩酌のひとときがある。
都市の上澄みにいる者たちも、結局はそれぞれの過去を抱え、今日の仕事を終えて、明日へ戻っていく。