親指本部
五本指のひとつ、**親指**。
その本部は都市の中央地域に存在するとされているが、正確な所在は一般には知られていない。
ただひとつ確かなのは、そこが親指の指揮系統の最上位であり、
未だ謎多きトップ――ゴッドファーザーがいると目される場所だということだけだった。
赤を基調とした装飾と調度品。
厳粛で、どこか葬列のように重たい空気。
それでいて、親指らしい規律と階級の圧が建物全体に満ちている。
その廊下を、一人のウマ娘が歩いていた。
「ふああ……久しぶりに本部に呼び出し受けて来たは良いけど遠かったな〜。あたしゃ遠出は苦手だっていうのに……」
赤いハットに赤いコート。
親指特有の肩掛けスタイルをきっちり着こなしているそのウマ娘は、**シンザン**。
親指北部を統括するアンダーボスの一人だった。
一見すると気さくで緩い雰囲気をまとっているが、その実、親指の規律を徹底的に重んじる人物である。
礼を欠いた相手への粛清に躊躇はなく、階級とケジメには非常に厳しい。
シンザンは軽く肩を回しながら、ぼやくように続けた。
「それにしてもゴッドファーザー様からの呼び出しっていうならともかく、コンシリエーレがあたしを呼び出すなんて珍しいこともあるもんさね……まっ、ひとまずさっさと会いに行かないとね」
やがて、ある部屋の前に着く。
親指の人間らしく、彼女はまず礼儀正しくノックをした。
「入れ」
「失礼するよ」
部屋の中には、執務机に座って仕事をしている一人の男性がいた。
室内には、都市各地の巣の禁忌や法令を収めた書棚が並び、
そこにいるだけで“親指の事務”というものが如何に重いかを思わせる。
「久しぶりだねコンシリエーレ、相変わらず真面目で堅苦しそうなことで」
コンシリエーレ。
親指の参謀役にして、ゴッドファーザーへの助言役を担う存在。
階級的にはアンダーボスと同格だが、ゴッドファーザーへ直接物を言える立場にあるため、どこか別格の空気を持っている。
コンシリエーレは書類から顔を上げずに答える。
「シンザンアンダーボス、そっちこそ相変わらずのフランクさだな。言っておくが、そんな態度は私へはともかくゴッドファーザー様の前では控えた方がいいぞ。ヴァレンチーナのようになりたくなかったらな」
シンザンは、肩をすくめて笑った。
「はいはい、あたしだって弁えてるよ。少なくとも3日でアンダーボスを首になったあの傲慢女のことは反面教師にしてるつもりさ」
「ふん……」
短いやり取りの中にも、親指らしい上下関係が見える。
シンザンの軽さはあくまで“許される範囲での軽さ”だった。
「で、今日はなんの呼び出しだい? あたし、少なくともここしばらくはヘマした覚えはないけどね」
コンシリエーレはそこでようやく本題に入った。
「シンザン、阿頼耶識の捜索はどうなってる? 良秀の行方は分かったのか?」
「ああ、一応ね。今14区に移動中とのことらしいよ」
「14区……N社か」
「だねぇ。あそこって苦手なんだよね。N社って翼の中でも関わるの結構面倒なタイプだし。まあ、一応やれっていうなら14区行ってリンバスカンパニーを襲撃しても良いけど……どうするの?」
コンシリエーレは即座に首を振った。
「いや、リンバスへの襲撃は待て。阿頼耶識プロジェクトは瓦解したとはいえ、リンバスへの対応については次の指切りで話し合う予定だ。それまでは監視のみに留めておくように」
シンザンは少しだけ片眉を上げる。
「ふーん? やけに慎重だね。やっぱり先月蜘蛛の巣が壊滅したのは想定外だったのかい? 元アンダーボスのヴァレンチーナに、人差し指の神託代行者リアン、中指の元長兄マティアス、薬指元マエストロのカリスト……全員死んじまったからね」
コンシリエーレは、数拍だけ沈黙したあとに答えた。
「ああ。まさかリンバスカンパニーのような、翼でもない一企業が、左遷組とはいえ五本指の元最高幹部たちを全員討伐するとは思わなかったからな。ゴッドファーザー様からも、リンバスカンパニーへの警戒はしっかりするようにと命じられた。迂闊に手を出せば痛手を負う可能性もあるしな」
シンザンは納得したように手をひらりと振った。
「わかったよ。じゃあこっちでリンバスの動きは見張っておくから、何かあったらすぐに報告するよ」
「頼んだぞ」
「じゃああたしはそろそろ帰るから……今度は出来るならメールか電話で伝えてほしいね」
「生憎、私は口頭で伝えることしか信用していなくてな。また何かあれば呼び出す」
「はいよ〜」
シンザンは部屋を出た。
親指本部の廊下を戻りながら、彼女は小さく息をつく。
「……阿頼耶識ね。あの遺物をリンバスに取られたのは痛いけど……無くてもなんとかなるとは思うんだけどね〜」
その声は軽い。
だが、その軽さの裏には、親指の人間としての冷徹な判断がある。
阿頼耶識を失ったこと。
蜘蛛の巣が壊滅したこと。
リンバスカンパニーが予想以上に危険な相手だったこと。
それらすべてを、彼女はもう“親指の問題”として頭に入れていた。