A社1区 A社本社 マンハッタンカフェの執務室
A社上層階の一角。
そこには24人の調律者たちの執務室が並んでいる。
そのうちのひとつ、Q社17区担当調律者マンハッタンカフェの執務室では、今日も静かに書類が処理されていた。
「H社の特異点『丸』の特許管理の項目修正書類……確かに受け取りました。ではあとはA社で手続きを進めます」
「ありがとうございます」
机の前に立っていたのは、H社8区の代表――家主、ジア・シーチュンだった。
若く、小柄で、萌え袖のチャイナ服がよく似合う女性である。
まだ就任して間もないが、その表情には、以前より少しだけ落ち着きが出ていた。
ただし、今は緊張の方が勝っているらしい。
視線が、カフェの背後に控える白い衣装のウマ娘へと移る。
「……あの、カフェさん。その、後ろにいる方は……?」
マンハッタンカフェは、湯気の立つマグカップを軽く持ち上げながら答えた。
「ああ、A社と専属契約を結んでる特色フィクサー『金色の暴君』のオルフェーヴルさんですよ。フィクサー協会からの人質として、A社に常駐してもらっています」
「……人質?」
シーチュンが目を瞬かせる。
オルフェーヴルは腕を組んだまま、静かに鼻を鳴らした。
「余は物扱いか」
「……前任のH社8区担当調律者のガリオンさんが、あの伝説の特色フィクサー赤い霧に討たれた件がありました。その損害の補填をフィクサー協会に命じた結果、特色フィクサー1人を差し出す形になったんです。……まあ、調律者の席は空いたままですので、今でも17区担当の私が8区の仕事も兼任してますが」
シーチュンは、小さく息を呑んだ。
「……そんなことが……」
「……ガリオンさんといえば、H社は禁忌を破った前科がある翼でしたね。孔滅日、でしたっけ?」
カフェの声は淡々としている。
だが、そこに混じる冷たさは、A社直属の調律者としてのものだった。
「その件の経緯はA社も把握してます。……次に同じようなことが起これば、どうなるかは言うまでもありませんね?」
「は、はい! あのようなことは、もう二度と決して起こさせません!」
「よろしいです……では手続きはこれで終わりです。どうぞお気をつけて」
「はい……失礼します……」
シーチュンは緊張した面持ちのまま、深く一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まると、執務室にはカフェとオルフェーヴルだけが残る。
しばしの沈黙のあと、カフェが口を開いた。
「……オルフェーヴルさん。貴女は翼の代表を見るのは初めてでしたね。どう見えました?」
オルフェーヴルは、しばらく黙ってから答える。
「ふん……翼の代表というからどんな強か者かと思えば、まだ未熟そうな女子とは。確か、就任してまだ1ヶ月半程度らしいな。だが……少なくとも実力は確かで、代表の資質はあるように見える」
「その通りです。新興企業リンバスカンパニーが、シーチュンさんの後ろ盾として家主就任を後押ししました。その際、先代家主のジア・ムー氏、そしてそれまでH社の影の支配者だった『仙人』たちとのいざこざが発生しまして……最終的に直接対決で敗北した側が退き、シーチュンさんが正式な家主になりました。結果、H社はそれまでの体制から大きく変わっています。当初は信頼も低かったのですが、1ヶ月の修行の後理事会からも信用を得て、今では安定して8区の統治をしていますね。」
オルフェーヴルは、眉をひそめる。
「……随分と荒っぽいことをしたものだな、リンバスは」
「……A社にはあまり関係ないことですけどね」
「……そして孔滅日か。ガリオンが動いた一件らしいが、翼のような企業でも禁忌を破ったりするんだな」
カフェはマグカップを机に置いた。
黒いコーヒーの表面が、わずかに揺れる。
「そうですね……まあ、実際は“嵌められた”に近いですけど」
「どういう意味だ?」
カフェは少しだけ視線を落とし、それから静かに語り始めた。
「……元々鴻園生命工学グループには、現在運営しているジア家・シュエ家・ワン家・シー家の四家に加えて、コン家という一族もいました。今からおよそ15~16年前、コン家は十二支を元にしたH社の戦力『黒獣』の研究をしていまして……ある時、当時の家主ジア・ムーの助言で、“13番目の黒獣”を作る研究を始めたんです」
オルフェーヴルは、珍しく口を挟まずに聞いていた。
「……しかし、それはジア・ムーの計略でした。実際に出来た“丸”は、都市の禁忌である外郭の亜人種を誕生させるものだったのです。その結果、H社の研究所で外郭の亜人種“鳥鴶人”が生まれてしまい、研究所は壊滅。事態鎮静のためにA社は調律者ガリオンと処刑者を派遣し、すべてを粛清しました。……それが孔滅日です」
「……翼の代表が禁忌を破ったのに、H社自体は存続したのか?」
「いえ。ジア・ムーは“製造や作り方の助言”だけで、自身は丸の製造に直接関わっていませんでした。なので禁忌違反の対象外だったんです。結果、コン家だけが禁忌違反の汚名を被り、滅びました」
オルフェーヴルは小さく息を吐く。
「……強かなものだな。自分は無事で、政敵だけを滅ぼしたか」
「文字通り、“頭”を使ったんですよ。……まあ、A社にとっては禁忌を破った結果が全てです。そこはもう何も言いませんが」
「……ジア・シーチュンだったか。あの者はH社をどう変えるつもりなのだろうな」
カフェは少しだけ目を伏せた。
「……それは、私の知るところではありません。……とはいえ、変化の兆しがあることは否定しませんけどね」
オルフェーヴルは、執務室の窓の外に視線を向ける。
A社の上層階から見下ろす都市は、黒と白と灰色の塊として沈んでいる。
変わるものもあれば、変わらぬものもある。
H社は、その境界に立っているように見えた。
「……余の目から見ても、あの代表は悪くない。だが、鴻園という大きな箱を動かすには、相当な苦労がいるだろうな」
「ええ……それでも、彼女なら少しずつでも進めるでしょう」
「……随分と評価が甘いな、カフェ」
「ふふ……そう見えますか?」
「見える」
「……では、たぶん正しいです」
執務室には、コーヒーの香りが静かに漂っていた。
H社の新しい代表がどこまでたどり着けるのか。
それはまだ、誰にも分からない。