A社1区 A社本社 ジェナの執務室
L社12区担当調律者、ジェナの執務室。
今日もA社本社の上層階では、都市の秩序を支えるための事務作業が淡々と進んでいた。
書類を積み上げ、処理を終えたジェナが、ようやく一息つく。
「12区の治安は相変わらず悪化してるけど……禁忌は起きてないわね。うん、今日も問題なし。さて、一通り片付いたし、オルフェ貴女も休んでいいわよ」
「そうか、分かった」
オルフェーヴルは、机の上の書類を整えながら静かに応じた。
A社専属の特色フィクサー「金色の暴君」。
今では調律者たちの業務補佐を担うことが多いが、その立ち姿には、まだ特色としての矜持が残っていた。
ジェナは、ふと目を細める。
「そういえば……オルフェってA社に来てから、私たち調律者の業務補佐が基本だけど、貴女どうやって特色級の戦闘力を維持してるのかしら?」
オルフェーヴルは少しだけ肩をすくめた。
「別にそう大したことではない。帰宅してから感覚を失わぬように、一人で訓練を続けているだけだ。……まあ、流石に長期間戦闘から遠ざかるとレベルは落ちたがな」
「へぇ? 今はレベルいくつ?」
「昔は91だったが……この間測った時は88だった」
一般的な特色の戦闘レベルは87〜90台。
その中で88という数字は、まだ十分に一線級と言えるが、以前よりは確かに落ちている。
ジェナは少しだけ意地悪く笑った。
「まあまあ下がったのね。たるんでるじゃないの?」
「ふん、余だって引退したわけではないからな。すぐに感覚くらい取り戻してみせる」
「まあ頑張りなさい。でも、オルフェだって既にいい歳なんだから、いずれは衰えると思うけどね」
「ふん……否定はせん。だが、そう簡単に私は死なぬぞ」
「そうだといいわね。ガリオンと戦って死んだ赤い霧は例外だとしても、特色だって死ぬ時は死ぬんだから。例えば、都市で初めて確認されたねじれ『ピアニスト』に殺された……確か……」
オルフェーヴルは、すぐに言葉を継いだ。
「黒い沈黙のアンジェリカ」
「そうそう。彼女だって実力は特色でも上澄みクラスだったのに、引退してたのと妊娠中という間の悪さが重なって死んだんだから。オルフェだってそうならないとは限らないでしょ?」
オルフェーヴルの目が、わずかに細くなる。
「……アンジェリカか。あやつが死んだと聞いた時は、私も耳を疑った。あやつの実力は把握していたからな。……同時に、各地で黒い沈黙と思われる存在が暴れているという情報についてもな」
ジェナが少しだけ頷く。
「ああ、ローランの一件ね」
その言葉に、オルフェーヴルの表情がわずかに変わる。
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三年前 ハナ協会本部 本部長室
白を基調としたハナ協会本部。
本部長室には、当時まだフリーランスフィクサーとして活動していたオルフェーヴルと、ハナ協会のナンバー2、本部長のドリームジャーニーがいた。
「……姉上、ピアニストの一件は片付いたのか?」
オルフェーヴルの問いに、ドリームジャーニーは静かに答える。
「うん。被害は30万人の犠牲者と甚大だったけど、裏路地だけで済んだし、討伐も終わったからね。この件だけなら、もう片付いたことだよ。……まあ、別の問題が起きてるんだけどね」
「……噂の黒い沈黙が乱心してるという事件か?」
「うん。ひとまずこれを見て欲しい」
ドリームジャーニーが一枚の報告書を差し出す。
差し出された書類を、オルフェーヴルはすぐに目を通した。
そこには、都市各地で起きた異常な殺戮事件の概要が、簡潔かつ冷徹に記されていた。
オルフェーヴルの目が、行を追う。
「……謎の黒い手袋をつけたフィクサーが各地の犯罪組織や怪しい団体を殺戮。その中には親指傘下の組織や南部地域の中指も含まれており、五本指からも反発の声が出ている。……犯人については複数の証言から、特色フィクサー黒い沈黙の可能性が高い。……なるほど、しかし姉上、黒い沈黙……もといアンジェリカは……」
ドリームジャーニーは、静かに首を振る。
「そう、ピアニストに殺された。つまり犯人は別人だよ」
オルフェーヴルはすぐに思考を巡らせる。
「アンジェリカが死んで、乱心するとなったら、兄の青い残響アルガリアの可能性もあるが……」
「彼は今はまだ大人しいよ。それに、こんなふうに無闇に殺戮するのはアルガリアさんのやり方じゃないしね」
「なら犯人は……」
報告書の最後の欄を指差したドリームジャーニーは、少しだけ視線を落とした。
「アンジェリカさんの夫で、元チャールズ事務所隊長1級フィクサーのローラン……彼だろうね。大衆はピアニストについて黒い沈黙が討伐したと認識してるけど、実際に倒したのはローランさんみたいだし」
オルフェーヴルは、ほんの少し眉を寄せる。
「……あやつか。だがアンジェリカとローランでは性別も体格も違う。どうやって見間違えるというのだ?」
「彼の旧友でハナ協会所属のオリヴィエさんによれば、ローランは昔から認識阻害効果のある仮面をつけていたそうなんだ。それで、結果的に黒い沈黙の手袋だけが認識されて、ローランさんはアンジェリカさんに間違えられてるんだろうね」
オルフェーヴルは、眉をひそめる。
「……では、どうするのだ姉上。被害者は裏路地の闇組織や犯罪者とはいえ、無闇な殺戮はフィクサーとしての信用低下に繋がる。……少なくとも、お咎めなしは無理があろう。しかも特色を騙るなど……」
ドリームジャーニーは、珍しく冷えた声で言った。
「うん、だからスピードシンボリ協会長とも協議した結果、ローランさんは9級フィクサーに降格させることにした。そして黒い沈黙の手袋も没収だ。今度呼び出して正式に通達するよ」
オルフェーヴルは、短く息を吐く。
「了解した」
その時のオルフェーヴルは、ただ規律に従うことを当然としていた。
だが、今思えばそこには少しだけ、別の感情も混じっていたのかもしれない。
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現在
ジェナの執務室に戻る。
「そんなことがあったのね。まあハナ協会としては妥当ね」
「ふん、ローランのやつの心中は察するが、それでもあの一件は頂けぬ。アンジェリカへの冒涜だからな」
ジェナは少しだけ首をかしげる。
「オルフェって、アンジェリカやローランとは知り合いなの?」
「まあな。姉上共々、古い付き合いだった。……故に、あやつが死んだのは少しばかり寂しいものよ」
「まあ……そういうものよ。都市って場所は」
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オルフェーヴルは窓の外を見やる。
A社本社の高層階から見る都市は、いつだって遠く、冷たい。
死んだ人間の名は、都市ではすぐに記号になる。
だが、特色の名は簡単には消えない。
それが善きにしろ悪しきにしろ、残る。
黒い沈黙。
アンジェリカ。
ローラン。
その三つの名が、同じ一つの武器に結びついてしまったことが、この事件の歪さだった。
ジェナは淡々と書類を束ねながら言う。
「……でも、ローランが何を思ってああなったのかまでは、私たちにはどうしようもないわね」
「そうだな。だが、名を継ぐというのはそういうことだ。死者の顔を被れば、いずれ自分自身も歪む」
「オルフェって、たまに妙に年寄りくさいこと言うわね」
「余を誰だと思っている」
ジェナはくすりと笑った。
「まあ、いいわ。今日の仕事は終わり。オルフェも、少し休みなさい」
「ああ」
オルフェーヴルは静かに目を閉じる。
アンジェリカの死も、ローランの喪失も、都市では決して綺麗には終わらない。
それでも、名だけは残る。
黒い沈黙。
そして、その名を背負わされた男。
都市はいつだって、死者の残響をうまく処理できない。