C社3区 深淵事務所
深淵事務所のオフィスは、今日も静かだった。
窓の外では都市の喧騒が遠く鳴っているが、事務所の中には書類をめくる音だけが小さく響いている。
「……ふぅ、書類整理はこんなものかな……」
新人の8級フィクサー、コントレイルが棚へ依頼完了書類を戻し、ようやく肩の力を抜いた。
まだ慣れない仕事ではあるが、動きそのものは悪くない。
少なくとも、深淵事務所に入ってからの数ヶ月で、彼女は確実に“使える”側へ育ちつつあった。
その背後から、柔らかな声が落ちる。
「お疲れコント。書類整理ご苦労さま」
「ディープさん、いたんですか?」
振り返ると、そこには代表であり特色フィクサーでもあるディープインパクトがいた。
青い翼の称号を持つ、深淵事務所の看板だ。
穏やかで礼儀正しいが、その実力は都市でも屈指。
彼女の存在そのものが、この事務所の格を引き上げていた。
「一応仕事が終わったから急いで帰ってきただけだよ。……アパパネたちはまだみたいだね」
「はい、依頼の帰りに買い出しもしてるみたいなので、遅れるそうです」
「うん、分かった」
コントレイルは、ふとディープの顔色に気づいた。
わずかに疲労が残っている。
それも、ただの肉体的疲れではない。
「……ディープさん、また協会からの依頼ですか?」
一瞬、ディープは肩を揺らした。
だがすぐに、困ったような笑みに変える。
「……はは、コントっていつも目敏いよね。すぐ気づくんだから」
「ディープさんが疲れたり、面倒って思うような案件は大体分かりますからね。……ディープさんって、特色の中でも特に協会から依頼を受けることが多い方ですし」
「……私は気楽に行きたいんだけどね。事務所を守るためだし、仕方ないよ」
「……青い残響の後任になってしまいましたからね」
「……アルガリアさん、か」
その名には、今も都市に残る悪臭のようなものがあった。
青い残響アルガリア。
特色でありながら狂気に沈み、残響楽団とともに都市を壊し尽くした男。
そして、その死後に空いた“青”の座へ座ったのがディープインパクトだった。
「……私は自由が好きなんだけどね。最近は協会から“特色のイメージ回復”のために色々駆り出されてるから……流石に困ったかな」
「……大丈夫ですよ、ディープさん。僕たちで支えますから」
「……ありがとう、コント」
ディープはそこで、わずかに目を細めた。
その優しさは、代表としてではなく、仲間としてのものだった。
「じゃあ、湿っぽい話はここまでにして、そろそろ仕事に戻るよ」
「はい」
その時だった。
プルルルル。
「おっと、電話かな」
ディープインパクトが受話器を取る。
「はい、こちら深淵事務所。……あっ、ドリームジャーニー本部長。……はい、はい、……ハナ協会の本部に今から……ですか。分かりました、直ぐに向かいます……えっ、コントレイルも一緒に?」
「……?」
「分かりました、直ぐに連れて行きます」
通話を終えたディープが、少しだけ首を傾げる。
「ハナのドリームジャーニー本部長からだった。話があるから、直ぐにハナ協会の本部に来て欲しいって。……コントも一緒に、とのことだけど……珍しいな。とりあえず外出の支度して」
「分かりました」
ディープインパクトにとって、協会本部へ呼ばれるのは初めてではない。
だが、深淵事務所の新人であるコントレイルまで呼ばれる理由は、さっぱり見当がつかなかった。
---
ハナ協会本部
一時間後。
白い外壁、白い内装。
ハナ協会本部は、都市の中でも特に“清潔”な空気を持つ建物だった。
コントレイルは、思わず廊下を見回す。
「……本当に白いですね。ハナ協会に来るのは初めてです」
「コントも出世したら嫌というほど来ることになるよ」
ディープは平然と言うが、その言い方からして、彼女自身はこういう場所を好んでいないのだろう。
本部長室。
コンコン、とノックが鳴る。
「どうぞ」
「失礼します」
「失礼……します」
中では、ドリームジャーニーが書類仕事をしていた。
ハナ協会本部長。
穏やかに見えて、必要な時には冷徹に裁く人物だ。
「ディープさん、よく来てくれましたね。……コントレイルさんは初めましてですね。ハナ協会本部長のドリームジャーニーです」
「初めまして。深淵事務所所属の8級フィクサー、コントレイルです」
「ほう……8級フィクサーにしてはかなり落ち着いてますね。普通の下級フィクサーならこういう場に来ると、かなり緊張するものなんですが」
ディープインパクトが横から補足する。
「コントレイルは階級こそ8級ですが、精神面は十分大人なんですよ。少なくとも上級フィクサーに会った程度では狼狽えたりしません」
「それは素晴らしいですね。目上に対して過度に緊張せず、適切に応対できるのは良い素質ですよ」
「ありがとうございます」
ディープが手を組む。
「……それで本部長、今日はどんな御用ですか? またハナ協会から依頼でも?」
ドリームジャーニーは、すぐには答えなかった。
代わりに、静かに席を立つ。
「いえ、今回はコントレイルさんに“お願い”があって呼びました」
「僕に?」
「ええ。少しお待ちを……」
本部長室の隅に置かれていた次元ケースが開く。
そこから取り出されたのは、青いコートと黒い服、青と金を基調としたパイプタバコ、そして青い持ち手と黒い銃身の狙撃銃だった。
ディープの表情が変わる。
「……これは?」
「“魔弾の射手”という幻想体から抽出したHEクラスのE.G.O装備、“魔法の弾丸”のフルセットです。以前、“何もない”というALEPHクラスの幻想体からE.G.O装備ミミックを抽出した経験がありましてね。そこから紆余曲折あって、ようやく手に入れることが出来ました。セブン協会とディエーチ協会の協力もありまして」
コントレイルは、初めて目にするE.G.O装備に目を奪われた。
「これが、噂のE.G.Oですか……」
「ええ。一応抽出自体は2回目でしたが、手に入れるまでには苦労しました。かなり不安定だったミミックとは違い、こちらは旧L社品ほどではないにせよ、比較的安定しています」
ディープが少し身を乗り出す。
「……で、これがコントにどう関係するのです?」
「実は、コントレイルさんにこの“魔法の弾丸”の試験運用を依頼したいのです」
「……僕に?」
「そうです。これを着て、いくつか任務をして欲しい。無論、使いこなせるようであればそのままお譲りしますよ」
ディープの声が少し硬くなる。
「ちょっと待ってください。なぜコントなのです? 人間の心から発現したE.G.Oならともかく、幻想体から抽出したE.G.Oは侵食のリスクもあると聞きます。8級フィクサーのコントには、少しリスクが高いのでは?」
「懸念は最もです。しかし、いずれE.G.O装備を普及させるとなると、ハナ協会としては下級フィクサーが身につけた場合の反応も調べておきたいのです。それにコントレイルさんは、聞くところによると銃の腕前が良いそうではありませんか。銃型のE.G.Oである“魔法の弾丸”に、まさにピッタリです」
ディープは、なおも言い返そうとした。
「それならロジックアトリエの狙撃銃を使うクリスエスの方が……」
シンボリクリスエス。
ハナ協会東部支部長。
ディープの親友であり、銃の扱いならはるかに上だ。
だが、ドリームジャーニーは静かに首を振る。
「今回のテストの目的は、下級フィクサーが装備した場合の想定です。上級フィクサーのクリスエス支部長では合いません。それに、この件はスピードシンボリ協会長からも既に許可を頂いているんです。……どうかご了承を」
ディープは、悔しそうに唇を結んだ。
ここまで言われると、もう止められない。
「……コント」
「大丈夫です、ディープさん。この装備を着て任務に行くだけなんですよね? それぐらいなら何とかなりますよ」
「でも……」
「迷惑は掛けませんから」
「……分かった。でも、何かありそうならすぐ止めるからね」
「ありがとうございます」
「では、ひとまず着替えてみてください」
---
十分後。
装備を整えたコントレイルは、少し緊張した面持ちで立っていた。
青いコートは彼女の細身の体によく似合い、銃も妙にしっくり馴染んでいる。
ディープが小さく息を漏らす。
「……うん、似合ってるよコント。すごくかっこいい」
「ええ、実に相性ぴったりですね」
「ありがとうございます」
ドリームジャーニーは、装備を見ながら問う。
「着てみた感想はどうですか?」
コントレイルは、自分の手を見下ろした。
「……意外としっくりきますが……何だかこの銃を撃ちたくてたまらない感じがしますね。でも、我慢できないってほどではないかと」
「魔弾の射手は、悪魔と契約した結果、自らも悪魔に堕ちた狙撃手の幻想体ですからね。その影響を少なからず受けているのでしょう。……では、試験運用のほどよろしくお願いします。ある程度の使用感も、定期的に報告してください」
「分かりました」
---
事務所に戻ると、副代表のアパパネ、そしてディープの姉のブラックタイド、妹のオンファイアが待っていた。
アパパネが最初に反応する。
「……で、協会からその装備をコントちゃんが貰ったのね?」
「まあ……半ば無理やりね……」
ブラックタイドは腕を組み、落ち着いた声で問う。
「E.G.Oね……何かとリスクも高い装備って聞くけど、大丈夫なの?」
オンファイアも不安そうに覗き込む。
「うんうん、なんかこうして見てるだけでも不思議なオーラ感じるし、コントの雰囲気もなんか危なそうな気がする……」
ディープは、少し困ったように笑う。
「……正直不安だけど……ハナ協会相手には断れないから……」
「大丈夫ですよ、僕は負けませんから」
アパパネが少し微笑む。
「そう? ……無理はしないでね、コントちゃん」
---
数日後。
深淵事務所に、ハナ協会から一本の依頼が届く。
内容は、都市怪談に分類される小規模の異常個体の排除。
E.G.Oの初任務としては、悪くない。
むしろ試験にはちょうどいい。
ディープインパクトは、銃を手にするコントレイルを見送った。
「……何かあったら、すぐ戻ってきて」
「はい」
現場はC社3区の裏路地。
古い煉瓦造りの廃ビルに、ねじれか幻想体か判別しづらい異形が潜んでいた。
コントレイルは深く息を吸う。
魔法の弾丸が、手の中で妙に熱い。
撃ちたい。
撃てば、何かが変わる。
そんな感覚が、じわじわと胸の奥を刺激する。
――撃て。
――もっと。
――弾丸を、願え。
「……落ち着け。僕は、僕の判断で撃つ」
一歩踏み込み、狙いを定める。
幻想体が飛びかかる。
その瞬間、銃声。
乾いた一発。
だが、それはただの弾丸ではなかった。
敵の装甲を貫いた弾は、あり得ない角度で内部から破裂し、異形の核を正確に砕いた。
「……っ」
コントレイルは自分の手を見つめた。
撃った瞬間、確かに何かが囁いた気がした。
もっと撃て。
もっと奪え。
弾丸を、願え。
だがそれは、すぐに引いた。
彼女は銃を下ろし、静かに息を整える。
「……まだ、平気だ」
---
任務後。
ドリームジャーニーは報告書を読み終え、静かに頷いた。
「……初回としては上々ですね」
「……コントは?」
ディープがすぐに尋ねる。
「侵食の兆候は軽微。使い勝手も良好。幻想体抽出E.G.Oとしては、かなり安定しています」
ディープは、少しだけほっとした表情を見せた。
「……銃に引かれる感覚はあったようですが、自我の崩れは見られませんでした。むしろ、抑え込んだ側ですね」
コントレイルは、肩の力を抜く。
「……思ったより普通でした。少し撃ちたくなる感じはありましたけど、耐えられないほどではありません」
ディープはそこで、ようやく微笑んだ。
「……なら、今日はよくやったね」
コントレイルは、少しだけ照れたように目を逸らした。
「ありがとうございます」