A社1区 A社本社 調律者執務室
朝の光が、磨き上げられた床に金色の筋を描いている。
ソファに深く腰掛け、オルフェーヴルは古びたハードカバーの本をめくっていた。
ページを捲る音だけが、静かな部屋に響く。
扉が開く音。
ジェナが、金色のハニカムが刻まれた黒いコートを羽織りながら入ってきた。
オルフェーヴルは本から目を上げずに答える。
「来たか、ジェナ」
「オルフェ、なんで出社前なのに私の執務室にいるのよ」
ジェナはコートの裾を翻し、デスクに腰掛けた。
「あいにく調律者で親しいのが私しかいない、ってとこかしら?」
「……その通りだ」
「あら? 暴君様は意外と人付き合いが苦手なのかしら?」
オルフェーヴルは本を閉じ、ため息をついた。
「ふん、私にだって知り合いの1人や2人くらい……いないこともない」
「ふふふ、そういうことにしておくわ」
「チッ、余計なことを言ってしまったか……」
ジェナはコーヒーを淹れながら、からかうような笑みを浮かべる。
「それにしてもオルフェ、随分来るのが早いけど、どこに住んでるのよ。
A社専属の特色なんだから1区の巣のどこかではあるのでしょうけど」
「別に大した場所ではない。
ただ本社に近い場所に姉上と住んでるだけだ」
「ドリームジャーニーと? それは興味深いわ。
暴君様の暮らしがどんなものか気になるわね」
オルフェーヴルは少しだけ目を逸らした。
「ふん、言っておくがそんな大層な暮らしはしてないぞ。
豪邸なんてものは私や姉上の趣味ではないからな。
本社に近い場所の一戸建てに住んでる。
1日の活動も私はA社、姉上はハナ協会の本部に出社して仕事に取り組み、終われば帰宅する。
それの繰り返しだ」
ジェナはカップを手に、目を丸くした。
「へぇ、オルフェも結構普通な暮らしぶりなのね」
「都市で仕事をしてる以上、A社の巣だろうが裏路地だろうが変わらんさ」
ジェナは悪戯っぽく微笑んだ。
「そういえばオルフェって普段何食べてるのよ?
23区の上流階級で流行ってる人肉料理とか?」
オルフェーヴルは顔をしかめた。
「そんなゲテモノ食うわけがなかろう。
まあスコーンやミートシチューを食べたりするな。
だが、姉上も私も好物は……茶漬けだ」
「茶漬け? オルフェって結構庶民的なのね」
「普段の食事はともかく、好物には高級も庶民的もないからな。
ただ好みなだけだ」
ジェナはカップを置き、身を乗り出した。
「なるほどね。姉と2人暮らしってことは、家での家事は分担してるのかしら?」
オルフェーヴルは一瞬、目を泳がせた。
「……家での家事は基本的に姉上がしてくれている。
……私は家事が苦手だ」
ジェナの口元が、にやりと緩む。
「へぇ、それはいいことを聞いたわ」
「ジェナ、そのニヤニヤ顔をやめろ。鬱陶しい」
「はいはい、分かったわよ」
彼女は立ち上がり、コートの襟を整えた。
「でもね、オルフェ」
「なんだ」
ジェナは窓の外、朝焼けに染まる1区の巣を見やりながら呟いた。
「貴方みたいな強者でも、誰かと一緒に暮らして、茶漬けが好きで、家事が苦手で……
そういう普通の部分があるって、ちょっと安心するわ」
オルフェーヴルは少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「……ふん、調律者に安心されてもな」
二人は同時に窓の外を見た。
1区の巣は、朝の光を浴びて静かに輝いていた。
この都市で最も安全で、最も遠い場所。
そこに住む者たちは、
翼の影に守られながら、
それでも誰かと茶漬けを食べ、
誰かを待って帰る、
ただの“人”でもあった。