R社18区 巣 創始事務所 深夜
事務所全体が、まるで息を潜めているかのように静まり返っていた。
かつては依頼の完了を祝う笑い声や、夕食の匂いが満ちていたリビングも、今は埃と冷たい空気だけが漂う。
壁の時計が、針を進めるたびに小さくカチカチと音を立てるのが、妙に耳に響く。
所長室の扉は半開きで、中から漏れる薄いランプの光が、廊下の床に長い影を落としていた。
クロノジェネシスは机に向かい、疲れきった瞳で二人を見据えた。
彼女の肩は重く落ち、手元の書類には「赤い愛 凶行報告」と赤い文字で記されたハナ協会からの警告書が置かれている。
「……グランさん、ブーケさん。あれから1ヶ月半、もう時間がありません……
おそらくあと数日もしないうちにハナ協会がラヴズさんを都市災害に指定するでしょう。そうなる前にラヴズさんの正気を取り戻す作戦……一か八かですが、ひとつ思いつきました……」
グランアレグリアは椅子から身を乗り出し、震える声で尋ねた。
彼女の瞳には、涙が浮かびそうになるのを必死に堪えている光があった。
「本当……? クロノちゃん……」
クロノジェネシスは深く息を吸い、静かに、しかし決意を込めて頷いた。
「はい……かなりのギャンブルではありますが……」
カレンブーケドールは静かに目を閉じ、すぐに開いて頷いた。
彼女の声は穏やかだったが、手は膝の上で固く握られていた。
「構いません……ラヴズさんが元に戻る可能性が少しでもあるなら……」
クロノジェネシスは深呼吸し、静かに語り始めた。
「その作戦とは……
ラヴズさんの『愛』を正面から受け止め、
スケッチブックを奪い、彼女が唯一の心の支えとしている『幼馴染の存在』を断ち切ることです。
……カルメンの声に魅入られている今、ラヴズさんは現実と幻の境界が曖昧になっています。
スケッチブックを失わせることで、強制的に現実を直視させ、
そこで私たちが全力で説得する……
失敗すれば、ラヴズさんは完全にねじれてしまうかもしれませんが……
成功すれば、正気を取り戻す可能性があります」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
数分後
ラヴズオンリーユーの自室
部屋は真っ暗で、窓から差し込む街灯の光だけが、
ベッドに座る彼女の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
血に染まったスケッチブックを胸に抱き、
彼女は誰にも聞こえない声で、甘く、狂おしく囁き続けている。
「ふふふ……♡ マルちゃん、聞こえるよ♡
私まだまだ愛を広めるから……♡
だからもっと色んな声を聞かせて♡ 貴方の優しい声……♡
とっても素敵だから……♡」
ノック。
「失礼しますラヴズさん」
ラヴズオンリーユーはゆっくり顔を上げ、
歪んだ笑みを浮かべた。
「あら、クロノちゃんにみんな? どうしたのかしら?♡」
「ラヴズさん、あなたの愛……私たちも理解したいのですが、教えていただけませんか?」
ラヴズオンリーユーの瞳が、ぱっと輝いた。
狂気の光が、部屋の闇の中で不気味に揺れる。
「! 本当?♡ 私の愛、理解してくれる気になったのね!♡」
「う、うん! ラヴズちゃんがずっと1人でいるのは嫌だから……!
あたしたちも寄り添いたくて……!」
「ええ、是非よろしくお願いします」
ラヴズオンリーユーはゆっくり立ち上がり、
深紅の大剣を手に取った。
その動きは優雅で、まるで舞うようだった。
「ちょっと待ってね♡ すぐにこの痛みを貴方たちにも上げるから……♡」
「……その、ラヴズさん。ここだと狭いんで、外で教えて貰えませんか?」
「外?」
「はい、裏路地で……私たちと戦って貰えませんか?」
「戦う……? それじゃあ愛が伝わらないわよ♡
だって愛って痛いんだから痛みを知らないと愛を知れないわ♡」
「いいえ、戦いの最中の苦しさや痛みを通じて愛を教えて欲しいのです。
ラヴズさんの愛に全力でぶつかるために……お願いします」
ラヴズオンリーユーは少し考え、
歪んだ笑みを深くした。
「……そういうことならいいわよ♡
じゃあ行きましょうか♡ ふふふ♡ ラヴミー♡ ラヴユー♡」
(……上手くいったね)
(あとはラヴズさんの隙をつく……)
裏路地 広場
崩れたビルの影が長く伸び、
血の臭いがまだ残る広場に、四人は立っていた。
月明かりが冷たく地面を照らし、
遠くから風が廃墟を鳴らす音だけが聞こえる。
ラヴズオンリーユーはスケッチブックを胸に抱いたまま、
三人を見据える。
「ふふふ♡ マルちゃん♡ みんなが愛を知りたいんだって♡
良かったね♡ また愛がひとつ広まるよ♡」
(相変わらずカルメンの声に魅入られていますね……
これだとほぼ確実にきっかけひとつでねじれるでしょう)
(だ、大丈夫なの……?)
(……ねじれたとしても、説得次第では戻せる……
ディエーチ協会の記録にも書いてありました)
「クロノちゃん♡ そろそろ着くころかしら?♡」
「ええ、もうそろそろですよ……」
開けた場所に出ると、クロノジェネシスが手で合図を出す。
その瞬間――
グランアレグリアとカレンブーケドールがラヴズオンリーユーを抑えつける。
「えっ!? な、何するの!?」
クロノジェネシスが素早くスケッチブックを奪い去る。
「あっ! か、返してクロノちゃん! 返しなさい! 返せ!!!!!」
「ラヴズさん……あなたの愛は間違っています……
あなたの感じてる痛みは愛ではなく……ただの哀しみです……!」
「な、何言ってるの……? だって、マルちゃんは愛を大切にしてって……」
「貴方の愛はもっと純粋で穏やかで……そして暖かった……
今のあなたからは……愛を感じません……」
「ち、違う……! 私は……愛を……!」
「ラヴズちゃん! あなたの愛はもっと綺麗なものだったはずだよ! 思い出して!」
「そうです! ラヴズさん! 正気を……取り戻して……!」
「……違う、愛は痛いもの……このずっと続く痛みが愛なのよ……
そうじゃないと……私の……愛が……
あ、ああ……マルちゃん……♡ マルちゃんは認めてくれるのね……♡
この痛み……この苦しさが本当の愛って……♡
うん♡ うん!♡ そうよね! 私の気持ちを分かってくれるのはマルちゃんだけだよ♡!」
その瞬間――
「! グランさんブーケさん! 離れてください!」
「う、うん!」
「ら、ラヴズさん……!」
ラヴズオンリーユーの身体が、異形に変わり始める。
頭が雲か宇宙のように空っぽになり、
周囲にひび割れたハートが無数に浮かぶ。
赤い荘厳な衣装に身を包み、
愛用する大剣を握り、
三人に向かって殺意を放つ。
「ふふふ♡ そうなのね♡
これがみんなに愛を伝えるのに相応しい姿……♡
分かったわ♡
まずは私を裏切った3人にラヴを教えないとね♡!」
三人は、
ねじれと化したラヴズオンリーユーと向き合う。
「さあ……♡
私の愛、受け取って♡」
「行きますよ2人とも」
「うん!絶対にラヴズちゃんを戻すよ!」
「ラヴズさん……!」
愛は、
完全に歪み、
都市を蝕む災厄と化した。
その愛は、
救いか、
それとも永遠の絶望か――
まだ、誰も知らない。
Proelium Fatale
LASCIATE OGNI SPERANZA VOI CH’ENTRATE