8区・鴻園 ― 翌朝
8区で一晩を明かしたクリフジは、朝の喧騒が本格化する前に宿を後にした。
人々の足取りは軽く、商人の呼び声が路地に反響している。
――この都市は、今日も生きている。
だが、クリフジの向かう先は活気とは程遠い場所だった。
「……ハナ協会、本部」
都市全域のフィクサーを束ねる組織。
秩序を定め、暴力を管理する“最後の理性”。
今回、クリフジが足を運んだ理由は二つ。
ひとつは、協会長への正式な挨拶。
もうひとつは――資料庫。
自分と同じ“特色”たちが、どのように生き、どのように終わったのか。
それを知るためだった。
ハナ協会本部・協会長執務室
重厚な扉の向こうは、無駄のない簡素な空間だった。
装飾よりも機能性を重んじた部屋。その中央に、ひとりのウマ娘が立っていた。
「よく来たね、クリフジ」
低く、落ち着いた声。
長年の経験が滲む眼差し。
「私が現ハナ協会長、スピードシンボリだ」
クリフジは一礼する。
「はい。
特色フィクサー、“青紫の孤独”――クリフジと申します」
「うん。形式ばった挨拶は十分だよ」
スピードシンボリは小さく笑うが、その視線は鋭い。
「エクリプスから話は聞いている。
……君、随分と“やんちゃ”をしたそうじゃないか」
「……他所の仕事の横取り、ですね」
「そう。
あれは立派な職務逸脱だ」
一瞬の沈黙。
クリフジは視線を逸らさず、素直に答える。
「ええ。
今は反省しております」
その言葉に、スピードシンボリは目を細めた。
「ならいい。
過去を咎め続けるのは、協会の役目じゃないからね」
一拍置いて、話題を変える。
「それで?
今日ここへ来たのは、私への挨拶だけかな?」
「それもありますが……」
クリフジは少し間を置いて続ける。
「資料庫に、入らせて頂きたく」
「資料庫?」
「はい。
これまでハナ協会が保管してきた、特色フィクサーの記録を閲覧したいのです」
スピードシンボリは腕を組み、考え込む。
「……ふむ」
沈黙が流れる。
協会長としての判断の時間。
やがて、彼女は口を開いた。
「いいだろう。
だが、その代わり……ひとつ、頼みを聞いてくれるかな?」
「頼み、ですか?」
「ああ。
資料庫の閲覧が終わった後で構わない」
クリフジは静かに頷く。
「……内容次第ですが。
お聞きしましょう」
スピードシンボリの声が、少しだけ重くなる。
「今、南部ハナ協会“1課”が再建途中なんだ。
だが、どうにも進捗が悪い」
クリフジは眉をわずかに動かす。
「……2年前の、残響楽団の件ですか」
「そうだ」
即答だった。
「あの事件で、1課はほぼ壊滅した。
生き残ったのは、ほんの一握りだ」
「……」
「部長のエナスも……」
スピードシンボリは言葉を選ぶ。
「仕事に取り憑かれている。
休めと言っても聞かない。壊れる寸前だ」
クリフジは静かに問いかける。
「……PTSD、ですか」
「近いね」
スピードシンボリはため息を吐いた。
「そこで君に、数日間だけでいい。
事務仕事と、いくつかの任務の手伝いを頼みたい」
「……なるほど」
少し考えた後、クリフジは答えを出す。
「分かりました。
引き受けましょう」
スピードシンボリの表情が、わずかに和らぐ。
「助かるよ。
……本当に」
ハナ協会・資料庫
静寂。
積み上げられた無数の記録。
都市の“歴史”が、ここに眠っている。
クリフジは一冊、また一冊と資料を手に取る。
「……赤い霧」
「青い残響」
「黒い沈黙」
「紫の涙……」
色で呼ばれた怪物たち。
英雄であり、災厄だった存在。
「……本当に、色々いますね」
ページをめくる指が、ふと止まる。
「……朱色の十字?」
目に留まったのは、その名前だった。
「ハナ協会1課と共に残響楽団追討任務に参加……
死亡……」
残響楽団。
青い残響アルガリアが率いた犯罪組織。
クリフジは、当時この事件に関わっていなかった。
図書館にも、楽団にも、無関心を貫いていた。
「……もし、私が関わっていれば」
ぽつりと、独り言が零れる。
「……何か、ひとつくらいは変えられたでしょうか」
答えは、どこにもない。
クリフジは資料を閉じ、静かに息を吐いた。
「……今更、意味はありませんね」
そう言い聞かせるように呟き、立ち上がる。
「さて……約束通り、1課に行きましょうか」
ハナ協会・南部1課部署
扉を開いた瞬間、空気が違うと分かった。
暗い。
重い。
活気が、ない。
かつてはハナ協会屈指の精鋭部隊。
今は、僅かな人員が静かに書類と向き合っているだけだった。
「……これは」
思わず、声が漏れる。
奥のデスクから、激しい言い争いが聞こえた。
「部長、もう休みましょう!」
「貴女まで倒れたら、1課の再建はどうするんですか!」
必死な声。
「止めるな、マージ!」
「私は……絶対に、あの頃の1課を取り戻すんだ!」
悲鳴に近い叫び。
「……失礼します」
クリフジが声をかけると、二人が振り向いた。
「……?
あ、貴女は……?」
「え……?」
「はい。
特色フィクサー、“青紫の孤独”クリフジと申します」
静かに名乗る。
「スピードシンボリ協会長から、1課の応援を頼まれて参りました」
マージの表情が、安堵に緩む。
「あ……応援の方でしたか。
南部1課フィクサー、マージです」
エナスも、少し遅れて頭を下げた。
「……失礼した。
南部1課部長のエナスだ」
クリフジは二人を見渡し、率直に言う。
「……状況は、あまり良くなさそうですね」
マージが苦笑する。
「はい……
人手不足で、業務も滞っていて……」
エナスは拳を握りしめた。
「……私の責任だ。
あの時、守れなかった」
「部長……」
クリフジは、静かに割って入る。
「……ひとまず、仕事に取り掛かりましょう」
エナスが顔を上げる。
「……何から頼めばいい?」
「まずは、溜まった事務仕事から」
「……分かった」
書類の山に向き合うクリフジ。
ハナ1課の再建は、まだ遠い。
だが――確かに、動き始めていた。