南部ハナ1課 オフィス
夜明け前。
ハナ協会南部1課のオフィスは、相変わらず薄暗かった。
天井の照明は必要最低限しか点いておらず、長机の上には未処理の書類と報告書が、かつてよりは減ったとはいえ、まだ整然とは言い難い量で残っている。
それでも――数日前までと比べれば、明らかに“前に進んでいる”空気があった。
それはひとりの応援者が来てからの変化だった。
マージは束ねた書類を棚に収めながら、感嘆混じりに息を吐いた。
「……凄いですね、クリフジさん。本当に。
あの“山脈”みたいだった書類が、ここまで減るなんて……」
机の向こうでは、栗毛の髪を揺らしながら、クリフジが静かにペンを置く。
書類に書き込まれた端正な文字は、まるで機械が書いたかのように正確だった。
「慣れているだけです。
事務所に所属していた下積み時代は、こういう仕事が大半でしたから」
淡々とした声。
だが、その言葉の裏には、長い時間と積み重ねがあったことが滲んでいる。
エナスはデスクに手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
「ああ……正直、助かったよ。
君が来てくれなければ、私たちはまだ書類に溺れていた」
「いえ。私はあくまで手伝っているだけです」
そう答えながら、クリフジの視線は自然とエナスへ向けられていた。
その顔色。目の下の隈。わずかに震える指先。
――休んでいない。
「……協会長から、少し話を聞いています」
クリフジは、慎重に言葉を選びながら切り出した。
「エナス部長。最近、ほとんど休まれていないそうですね。随分と無茶な仕事の仕方をしていると」
エナスの肩が、びくりと跳ねた。
「うっ……。
し、しかし……1課を再建するというのに、部長の私が休んでいては示しが……」
言い訳めいた声。
それを、マージは苦しそうな表情で見つめていた。
クリフジは静かに首を横に振る。
「それで倒れてしまえば、本末転倒です。
貴女は部下からの信頼が厚い。……だからこそ、上司が無理をすれば、部下も無理をします」
「……」
「休むべき時に休めない上司の背中を見て、安心して休める部下はいません。
仕事には、メリハリが必要です」
理詰めの言葉だった。
だが、責める響きはない。
エナスは言葉を失い、視線を落とす。
「……う、うう……」
クリフジは一歩、距離を詰めた。
「……エナス部長。
貴女は、何をそんなに恐れているのですか?」
その問いに、エナスは思わず顔を上げた。
「……分かるのか?」
「人を見る目は、多少鍛えています。
……眠れない、のではありませんか?」
一瞬、空気が凍った。
エナスの唇が震え、やがて絞り出すように言葉が零れる。
「……あの日から、一瞬も忘れたことはない」
その声は、低く、重かった。
「残響楽団に襲われて……仲間たちが、次々に死んでいく光景……
青い残響の、あの狂った笑み……」
マージが、拳を強く握る。
「……そして、生き残った私たちを逃がすために……
朱色の十字が、ひとり残った……」
エナスは目を伏せた。
「寝ると、必ず夢に見るんだ。
あの日の続きみたいに……だから……もう、寝たくない。
でも、休むと眠ってしまう……だから私は、仕事をするしか……」
「部長……」
マージの声は、震えていた。
クリフジはしばらく黙り込み、やがて静かに口を開く。
「……ひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」
「……なんだ?」
「朱色の十字とは、どのような方でしたか。
私は資料でしか知らないので……」
エナスは、わずかに目を細めた。
「ああ……朱色の十字か。
……あの方は、本当に素晴らしい特色だった」
マージも頷く。
「ハナ協会と合同の仕事が多くて……
いつも頼りになるベテランでした。信頼も厚くて」
「資料では、巨大な熱せられた十字架の剣を使う、と」
「ああ。初めて見た時は、正直、度肝を抜かれたよ」
エナスは、懐かしむように微笑んだ。
「だが、剣を振るえばすぐに分かる。
あの人の剣さばきは、本物だった……
どんな都市災害相手でも、真正面からねじ伏せるような強さだった」
「……特色に相応しい方だったのですね」
「ええ。
ただ……無口な方で。プライベートではあまり話さなかったです。本名も、最後まで名乗らなかった」
クリフジは、資料庫で見た一文を思い出す。
「……残響楽団との戦いでは、
幹部“血染めの夜”の眷属を一掃し……殿を務めた、と」
マージは静かに頷いた。
「“各自、任された仕事をするだけだ”……
そう言って、私たちを逃がしました」
「……だから、貴女方は生きて帰れた」
「……ああ」
エナスの声が、かすれる。
「……だが、朱色の十字は帰って来なかった。
……私たちは生き残れたのに……!」
顔を歪めるエナスを、クリフジは真っ直ぐに見つめた。
「……最期、どんな様子でした?」
「……いつもと変わらない顔だった。
青い残響を前にしても……恐れなんて、微塵も見えなかった」
「……そうですか」
クリフジは静かに目を閉じた。
「……素晴らしい方だったのでしょう」
「……ああ。
それに比べて、私は……部下も守れなかった……情けない部長だ……」
その言葉に、クリフジの声が鋭くなる。
「……それは、朱色の十字への侮辱ですか?」
「……え?」
「朱色の十字は、自分よりも貴女方が生きることを選んだ。
それは、貴女方を信頼したということです」
静かな、だが強い言葉。
「……その信頼を否定するような自己卑下は、
彼の選択を無意味にする」
エナスは、息を呑んだ。
「……私は彼を知りません。
ですが、少なくとも彼は“最適だ”と判断した。
だからこそ、貴女方を逃がした」
クリフジは一歩引き、柔らかく続ける。
「……だから、エナス部長。
まずはご自身を整えてください。体調管理も、仕事の一部です」
「……青紫の孤独……」
「……貴女は、自分を見つめ直すべきです。
かつて1課を率いていた頃、貴女はどんな部長でしたか?」
その問いに、エナスの脳裏に、かつての1課が蘇る。
笑い声。軽口。支え合う仲間たち。
「……」
「同じでなくてもいい。
新しい自分には、なれるはずです。1課の部長に相応しい人物に」
マージが、力強く頷く。
「……はい。我々は、部長について行きます」
「……マージ……」
「……今すぐでなくていい。
いつか、自分を赦してあげてください」
エナスは、深く息を吐いた。
「……私は……1課の部長に、相応しいのだろうか……」
「ええ」
クリフジは、はっきりと答えた。
「少なくとも、生き残った人員は全員、
“エナスさんが部長だ”と思っていますよ」
「……そうか……」
残響は、まだ消えない。
だが――
「……私も、いつか……前を向けるだろうか……」
「……きっと」
静かな確信を込めて、青紫の孤独はそう告げた。