I社9区
裏路地
この区画の裏路地は、
都市では珍しく「音楽の路地」と呼ばれている。
理由は単純だ。
路地の至る所に、
古びたレコードショップ、
壊れたピアノ、
誰が置いたのかも分からないスピーカー。
どこからか、
かすかな旋律が流れてくる。
かつてここには、
音楽を愛する人々が集まっていたらしい。
だが――
この場所には
決して忘れられない事件がある。
史上最悪のねじれ。
「ピアニスト」
その存在が暴走した日、
この地区は地獄になった。
約30万人。
都市では珍しくない数字だが、
それでも異常な被害だった。
あの時、
一人の特色フィクサーが現れた。
黒い沈黙。
彼がねじれを止めたことで
9区は辛うじて都市に残った。
しかし――
それ以降、この路地は
どこか不気味な静けさを持つようになった。
今も住民はいる。
店もある。
裏路地としては
そこそこ平和な場所だ。
だが、
この街の空気はいつも少しだけ
音を失っている。
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その路地を
二人のウマ娘が歩いていた。
ラヴズオンリーユーが
周囲を見渡しながら言う。
ラヴズオンリーユー「グランちゃん」
少し声を低くする。
ラヴズオンリーユー「確かこの辺が目撃情報のあった場所よね?」
隣を歩くグランアレグリアは、軽い足取りのまま頷いた。
グランアレグリア「あたしもそう聞いてる!」
元気よく言う。
グランアレグリア「幻想体――軽蔑の螺旋」
壁の上に飛び乗る。
グランアレグリア「今回の討伐対象!」
そして、
いつものように笑った。
グランアレグリア
「さっさと片付けないと
被害が広がるから急ごう!」
ラヴズオンリーユーは
静かに頷く。
「分かったわ」
そして――
立ち止まった。
「……っと」
少し目を細め、視線を上に向ける。
「そうこう言ってたら、現れたわね」
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それは
ゆっくりと空中に浮いていた。
軽蔑の螺旋。
黄金のトゲが
螺旋状に絡み合った構造。
その中心には――
祈りを捧げるような
人間の形。
だが顔は存在しない。
腕だけが
虚空へ向かって伸びている。
そして手からは
赤い液体が滴っていた。
血のような色。
その幻想体が
二人を見下ろす。
その視線を受けた瞬間、
胸の奥に不快な感覚が生まれた。
螺旋が心臓を締め付けるような
嫌な感覚。
そして同時に――
湧き上がる感情。
嫌悪。
侮蔑。
軽蔑。
まるで世界全体が
自分を見下しているような
感覚だった。
だが――
ラヴズオンリーユーは、全く動じなかった。
大剣を肩に担ぐ。
ラヴズオンリーユー「さっさと片付けるわ」
その瞬間。
地面が爆発した。
凄まじい跳躍。
グランが目を丸くする。
「速っ――」
ラヴズオンリーユーは
空中で剣を振りかぶる。
巨大な刃が
光を反射する。
そして。
「ふん!」
振り下ろした。
轟音。
空気が裂ける。
次の瞬間、幻想体はそのまま卵へと変化した。
路地が静まり返る。
軽蔑の螺旋は
本来かなり硬い幻想体だ。
WAWクラス。
都市のフィクサーでも
複数人で戦うことが多い存在。
だが。
今の戦闘は――
一撃だった。
ラヴズオンリーユーは
剣を肩に担ぎ直す。
そして淡々と呟いた。
ラヴズオンリーユー「……こんなものなのね」
卵を見下ろす。
ラヴズオンリーユー「私の敵じゃないわ」
グランアレグリアは目を輝かせた。
「流石だよラヴズちゃん!
軽蔑の螺旋って、一応WAWクラスなのに……!」
ラヴズは少しだけ笑った。
ラヴズオンリーユー「私だって特色よ」
剣を背中に収める。
ラヴズオンリーユー
「幻想体程度
一撃で倒すのはどうってことないわ」
グランは腕を組む。
グランアレグリア「じゃあこれで終わりかな?」
ラヴズは頷いた。
ラヴズオンリーユー「そうね、帰って報告書書きましょう」
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I社9区
裏路地アパート
彼女たちの住処は、
古びたアパートだった。
かつての創始事務所と比べれば
かなりみすぼらしい。
壁は薄く、廊下は軋み、階段は今にも崩れそうだ。
だが――
部屋だけは少し広かった。
それだけが
唯一の取り柄だった。
ドアが開く。
グランアレグリアが
元気よく叫ぶ。
「今戻ったよ!」
キッチンから
クロノジェネシスが顔を出した。
クロノジェネシス「おかえりなさい、もう終わったのですか?」
グランは笑った。
「うん!」
親指を立てる。
「ラヴズちゃんが
軽蔑の螺旋を一撃で倒しちゃったんだ!」
クロノジェネシスの目が少し開く。
クロノジェネシス「一撃ですか……!流石ですね……」
カレンブーケドールが
お茶を持ってきた。
カレンブーケドール「ですがラヴズさん……」
少し心配そうに言う。
カレンブーケドール「最近、少し働きすぎでは?少し休んだ方が……」
ラヴズオンリーユーは
それを受け取りながら笑った。
ラヴズオンリーユー「大丈夫よ」
軽く首を振る。
「私、まだまだ働きたいの」
視線を落とす。
「みんなに迷惑かけた分……頑張らないと、気が済まないわ」
クロノジェネシスは
優しく言った。
クロノジェネシス
「……ラヴズさん、それはありがたいですが
あなたの体調が最優先です。疲れたら、必ず休んでください」
ラヴズは少し笑う。
「分かってるわ」
そして三人を見る。
「いざと言う時は
みんなを頼りにするから」
グランがすぐ言った。
グランアレグリア「うん!だってあたしたち仲間だもん!」
クロノも頷く。
クロノジェネシス「はい」
静かに言う。
クロノジェネシス「いつかまた事務所を立ち上げましょう」
カレンも微笑んだ。
カレンブーケドール「ええ、四人でもう一度」
ラヴズオンリーユーは
三人を見つめた。
そして小さく笑う。
ラヴズオンリーユー「……ありがとう」
ゆっくり言った。
ラヴズオンリーユー「私たちはずっと一緒よ」
部屋の外では
裏路地の雑音が聞こえる。
遠くで鳴る機械音。
誰かの怒鳴り声。
都市のいつもの音。
だがこの小さな部屋だけは
少しだけ暖かかった。
創始事務所は
もう存在しない。
だが――
四人の絆は
まだここにある。
そして都市のどこかで。
特色フィクサー「黒緑の愛」の名は、再び広まり始めていた。