『竜は宝に執着する』
それは古くから伝わるもので、事実竜の本能の一つである。
『宝』の認識は竜によって様々だ。光り輝く希少な宝石、神話時代からの聖剣、芳醇な魔力が込められている魔具、何の変哲もないの石ころ、竜では着れもしない衣服、はたまた住処自体が『宝』である場合も。
一般的な価値は関係ない。『宝』の価値は竜が決める。豪奢であろうが、ささやかであろうが。数を求めるか、質を求めるか。大小を問わず、共通するのはそれを奪おうとする者は苛烈な怒りに晒されるということだけだ。
だが『宝』が意思を持たぬ物であるのならまだいい。どれほど強大な力を持つ竜であっても、『宝』を愛でる行為自体は竜一匹の範囲で収まるのだから。
そうでなければ……………………
▽▽▽
少なかった竜の同族はとうの昔に空へといなくなり、ここにいるのは一匹になった。白竜である私は皆が消えてしまったあとも、変わらずに住み続けている。
竜は長生きだ。途方もない年月をただの一匹でいると、自分自身が竜の形をした苔むす岩なのではないかと錯覚してしまう。身を包む白金の鱗は緑に塗れ、所々木や植物のツタに絡みつかれている現状は数十年この場から動いていないことを示す。
険しい山々の狭間、隔絶された竜の住処をすき好んで来る者などもおらず、やって来るのは私の尾や背中を遊び道具か寝具代わりにする獣だけだ。獣たちも私のことを精々温かい置物程度にしか思っていないだろう。
寂しいわけではない。生命力溢れる獣たちの営み、小さな木々が緩やかに大樹へと育っていく様、季節によって何色へとも変わっていく自然。私がそれらの生活の一部に溶け込んでいく感覚は飽きることなどない。このまま朽ちていくのいいかと思える程に。私は今、脈々と受け継がれる生命の営みの中に住んでいるのだ。
ただ……私は、私を除く生命の活動を傍から見ているに過ぎない。生命が子を育み、次の世代へと継承されていく姿は大変興味深いが、あくまで他人事である。
寂しいわけではない……が虚しさを覚えるのも確かだ。同族……家族が増えていく獣たちがいる一方で、私はどこまでいっても一匹だ。
でももし、我が儘が言えるのなら私も……………………
朝露が躰を濡らす肌寒い早朝のこと。普段であれば感じることのない気配で微睡の中から意識が浮かび上がる。野生では生きられない程に弱弱しいその気配は、獣に足りえない。放っておけばすぐにでも、消えて無くなる小さな生命の息吹。
好奇心が生まれた。その存在は一体何だろうか。いつ振りかの心の動きだ。
そして、瞼を開く。眠りから覚めた薄ぼんやりとした目を凝らし、弱く小さい存在を視野に捉える。目の前にいたのは……………………恐らく人間の赤子だ。恐らく、なのは人間についての知識はあるけれど、私自身が人間の赤子を見るのが初めてなこと、虚空から出てきたとしか思えない存在を人間と呼んでいいのか疑問であることが理由である。
どうするのがいいのだろうか。爪で突いてみる?鼻先で触れてみる?それとも口で咥えてみる?いや、人間は弱いのだ。それも赤子なら輪にかけて弱いに違いない。そんなことをしてしまえば、せっかくの新しい生命が見るも無残な物体に早変わりしてしまう。
湿っている冷たい地面に直に置かれ、その脆弱な肉体は薄い布で包まれただけ。ちらりと目線を上げてみれば、一雨やってきそうな空模様。私は当然平気だが、この後の雨風に晒されてしまう人間の赤子は生き抜けるのだろうか。まだ身動きも十分に取れない、ましてや体を守る魔力すらも微弱である。身を守る術を何も持っていない。このまま何もせず放置しておくと、肉を好んで食べる獣の餌となるのは確実だ。それも自然の定めだと思うが……
そもそも赤子は親の庇護下に置かれるのが常である。それは竜であっても、獣であっても、人間であっても。しかしこの赤子にはいない。無条件で守らなければならないはずなのに。弱くちっぽけな生命なのに。
未だに眠る赤子はこの状況を理解できていない。理解しろというのも無理な話か。何かの拍子でここにやってきた、哀れな人間の赤子。自ら空を駆けることも、自らこの場を抜け出すこともできない程にか弱い。
とうとう空は薄暗くなり、ぽつぽつと雨が降り始める。思ったよりも早く降り始めてしまった。もちろん誰であっても平等に雨は降りかかる。赤子の顔にも水の雫が落ちていく。獣に襲われる前に、雨で体を濡らしその冷たさで朽ちる可能性の方が高いようだ。
ここには庇護をしてくれる人間はおらず、遅かれ早かれ何らかの要因で骸になる運命にある。獣によるものか、気候に寄るものかは定かではないが、それが道理であり、自然だ。どうであれ、私はその流れを眺めるだけだ。いつも通り……
あ……
同族も家族も誰もいない、無力なばかりに残された者が独りで朽ちていくのを……私が……?
そうか。そうなのか。あなたと私は似ているんだ。なら……私がすることは一つだけ。そして、これはきっと自分勝手な願いを叶える最後の機会。
………………………竜の姿ままではこの子を押しつぶしてしまう。壊れないように扱うのであれば、同じ人間の姿になる他ないが、人化の魔法ならそれも可能だ。遠い昔に遥か歳上の竜に教えてもらったが使うことのなかった、必要もなかった魔法だ。その竜は物知りで人間との交流を好み、皆も長老と呼び慕っていた。もうずっと忘れていた記憶だ。
人化の魔法のやり方は簡単である。躰に内包した魔力を人間の形にし、言葉を唱えるだけだ。
『竜よ、人間へと変われ』
躰が淡い光を放ち急速に縮んでいく。それに伴って目線は段々と低くなり、躰のあちこちに絡みついていた植物も剥がれ落ちる。四足から二足へと、強靭な爪や逞しい翼は消え去り人間らしい体つきに。
時間にすれば、数瞬。私の竜の躰は人間の体に変貌した。
「小さくなった」
変化が終わり、そう呟く。元の躰よりも言葉では表わせないくらい小さくなってしまった。人間とはこんなにも小さいのか……実際に己が人間になってみるとわかるが、私の幼い頃よりも更に、更に小さい。
手足は……細い。試しにその場で足踏みしたり、手指を動かすにしてみても支障はなさそう。むしろ繊細な力加減ができるようになっている。
人間には不釣り合いな自慢の尻尾は残ったままだが、特に問題はない。真っ白で艶々とした、今の体と比較すると太い尻尾を思い切り振り回すと、そこらに鎮座する岩は粉々に粉砕された。
ふむ……全体的にやはり人間の体になったせいか、かなり弱くなっている気がする。魔力は変わらないが、竜の躰よりも膂力は著しく落ちている。まぁ、それでいいのだが。
雨が少しだけ強くなる。急がなくては。
私は迷いなく、赤子の元へと歩きだす。一歩、二歩。雨に濡れた草たちが肌をくすぐる。それらを踏む感触は今まで味わったことのない不思議な心地だ。だが竜の躰なら一歩で辿り着く距離であっても、何倍もの歩数がいる。少し不便だ。
赤子の傍に着いた頃には、お互いにしっとりと雨で濡れてしまっていた。小さくなった私よりも、更に、更に、更に小さい赤子がやはりそこにいた。壊れ物を扱うようにできるだけ優しく抱き上げると、そこでようやく、いつの間にか目を覚ましていた赤子とも初めて目が合う。そのまん丸な目を見るに、どういう状況かは理解できていない様子だ。驚愕?そんな風に見える。当然か。赤子だものな。
「はじめまして。大丈夫?」
知らない場所で一人は心細いはずだ。怖がらせないように、精一杯の笑顔とわかりやすく柔らかな言葉を掛ける。誰かに話し掛けるのはいつ振りだろうか。誰かに笑い掛けるのもいつ振りだろうか。
「あなたには私がいる。安心して」
▽▽▽
「だから!魔王討伐のために僕はこの世界に来たんだって!前々から言ってるでしょ!」
「リューは小さい子。危ない」
「過保護すぎ……もう十四歳だよ」
「ダメダメ。獣たちも心配してる」
「……意思疎通なんてできないのに嘘言わないでよ。こんなんじゃ、いつになったら旅に出られるかわからないなぁ………………………」
食卓に着くと早々、食事にも手を付けずにリューがまたそんなことを言い始めた。まったく。まだまだ子どもなのに旅に出るなんて危険だ。確かに体は人化した私より大きくなってきているが、人間の体なんて弱弱しいのだから。旅に出させるか云々はともかく、仮にこの山の外へ行かせるにしても
「そもそも別にリューが行かなくてもいいはず。どうせ他の人間が魔王を討伐しに行く」
「それが無理だったから僕が召喚されたじゃないかな……?それに、女神様からもらった力もあるんだから平気さ」
リューはそう言って手の平から自慢げに魔法でファイアーボールを出す。小さくて可愛い。
「上手上手。ぱちぱち」
「馬鹿にしてるじゃん……………………」
「してない。上手だなって思ってる。本当」
「無表情で言われるとなんだかなぁ。とりあえずいただきます」
呆れたと言わんばかりにため息をつき、ようやく朝食をとり始めるリューの姿をじっと見つめる。今日の朝食は赤いドレッシング付きのサラダ、トマトスープ、スクランブルエッグ、トーストだ。それと隠し味を少々。きちんとした食材をここで得るのは不可能なので、私が山を越え谷を飛び、人間の住む町に降りて貰って来ている。途中までは竜の姿で行くが、町の中ではもちろん人の姿で。
「まじまじと眺められると食べにくいんだけど」
「???見てるのはいつも通り。いっぱい食べて大きくなりなさい」
「ぐ、幼い見た目の子に言われると変になりそう……」
「私はリューより歳上。何もおかしいところはない」
「そもそもの話、僕も前世では普通に成人してたんだって!」
「それを含めてもきっと私が歳上」
リューはこことは違う世界の人間だったらしい。一度その世界で死んでしまってからここに連れてこられたとのことだ。本当なら人間の住んでいる場所に飛ばされるはずだったが、手違いで私のもとに送られてきたそうだ。『一番適した場所に転送しておくと聞かされたんだけどね?』とリューは首を傾げる。リューには悪いけれど、私にとっては幸運だったわけだ。
それで魔王討伐が転生?するときに女神から託された使命なのだが………そんなことしなくてもいいだろう。リューは人間にしては頑丈な肉体と豊富な魔力を持っている。女神から頂いたものだとリューは嬉しそうに語るが、私の足元にも及ばない程度の力が恩恵では心配だ。
「ごちそうさまでした」
「ちゃんと完食して偉い。味はどうだった?」
「まぁ……美味しかったよ」
「えへへ。嬉しい」
私は人間のように必ずしも食事がいるわけではない。竜は空気中に漂う、地に流れる魔力の元である魔素を吸収することで生命維持を行う。口から摂取する行為はあくまで嗜好の範囲である。私は特に食事に興味を持たずに生きてきたためか、結果的に味にこだわりがない。食べられるのであればそれでよいのだ。
作った料理が美味しいか否か、リューに尋ねる他ない。味見をしようが『食べられるな』としか思えないのだから。隠し味込みでリューの口に合うのなら私は嬉しい。
「…………………………………………どれだけ可愛かろうが相手は育ての親だぞー。色んな意味でやばいぞー。気の迷いだぞー。しっかりしろー。使命を忘れるなー」
「リュー。難しい顔してる」
「とにかく!僕は絶対に!旅に出るから!いい!?」
「ダメ。行く必要がない」
※※※
「このままじゃあなぁ……」
僕は普段住んでいる家から離れ、燃料用に薪を割る。全身に魔力を流し込み斧を振るうと、疲れも全くなく、さらにはゼリーを切るかのように軽やかだ。本当は魔力を流し込まずとも、素の身体能力だけで余裕だけどね。これも魔力を自由自在に扱うための修行の一環だ。
普通の大学生だった僕が死んでから十四年。つまり女神様によってこの世界に転生し、リューという名を貰ってから十四年。ファンタジーな世界に来たというのに何一つそれっぽいことが出来ていない。せっかくの女神様からの恩恵を活かす機会がほとんどない。こんなの宝の持ち腐れだ。魔王を倒すための旅に出られるなら思う存分力を振るえるのだけど……義母さんを説得しない限り、それも不可能だ。無視してさっさと行く……というのは流石に不義理だし、悲しませたくもない。どうしたものか。
女神様からも夢の中で『進捗どうです?あ、まだ旅にも出ていない?過保護すぎて山からも出られてない?観てたので知ってはいましたが、フフフ、竜って
困ったことって何だ、何に対して気をつければいいんだ……頼むから具体的に言ってくれよ。今旅に出られない状況以外に困ったことってあるのだろうか?
「リュー。リュー。どこ……?」
どこかで僕を呼ぶか細い声が聞こえてくる。
早く旅に出たい理由は魔王討伐の使命があるからなのと……実はそれ以外にもう一つある。というか、こっちの理由の方が僕にとっては重大で早急に対応すべきことなのだ。
正直……義母さんがめちゃくちゃ可愛い。早く出ていかないと変な気を起こしそうになるぐらい。
全体を一言で例えるなら真っ白だ。降り積もった後、誰にも踏みつけられていない真っ白で無垢な新雪をイメージさせる。それだけならまだしも、さらに人間とは思えない程に整った容貌が心を惑わせてくる。
なぜか毛先に緑が混じりながらも、きらきらと光り輝くように美しい長く白い髪。豪快に燃え盛る焔を思わせるルビー色の瞳といつも少しだけ眠たそうな目元。そして小さく形の良い鼻と常に瑞々しさを失わない唇が綺麗に配置されている。
ほとんどの時間で無表情ではあるけど、ふとした瞬間に蕾から花弁が薄っすらと開くかのように静かに笑うのだ。そんなのをこれ以上見せられたらおかしくなる。
あと、日常的に無防備すぎる。竜だから服なんてあまり気にしてない。一応、本当に一応!ワンピース状のまとも?な服を着てくれてはいるが、それだけだ。それ一枚しか身に纏わない。本来なら下に何かしら身に着けるはずのうっすいワンピースを一枚だ。
あーそういうのが普通な世界なのかなと思って女神様に夢で尋ねると『いや、ありますけど。あなたも現に下着は穿きますよね……って何を聞いてくるんですか。あっ!そういうのが気になる年頃?いやぁ、思春期思春期…………え、何。育ての親が一枚しか身に纏っていない?まぁ……竜って普通衣類とか着けないもんねぇ。人化して全裸じゃないだけマシじゃないですか?』と。確かに……と理解はした。納得はしていない。
それでも目に毒だからと恥を忍んで義母さんに直接言ってみたが『人間と同じものを着てる。それでいいはず。似合う?』と何ともズレた答えが自慢げに返ってきた。僕は諦めた。
早くここから出ていかないと終わる。理性的なものが。
「リュー。ここにいた」
「……義母さん、さっき薪を作ってくるって言ったじゃないか。そんなに探さなくても」
見つけたそのままの勢いで真正面から僕に抱き着いてくる。それと一緒に太い尻尾が絡みつき、まるで僕を逃がさないように。もう身長は僕の方が随分高い……いや、義母さんの身長が元々低いのもある。見た感じ僕の頭一つ分は低い。
抱き着いたまま全身をぐりぐりとを押し付けてくるからか、生々しい体の感触が否応に伝わってくる。なんでこんなに距離感が近いんだよ……!普通の親子でもこんな風じゃないだろ……!
「リューは宝。見えなくなったら嫌」
「はいはい」
上目遣いでそんなことを囁かれると僕も何も言えなくなる。あー本当にどうしようか……
▽▽▽
ふむ。リューの体から段々と
「義母さんはさ、竜なんだよね」
「そう。私は竜。白竜」
太陽がちょうど真上に位置する時間帯、私が座って獣たちと戯れていると横からリューが話しかけてくる。今の躰は小さいからか獣たちとも楽しく遊べる。嬉しい。
「変なこと聞くんだけど竜って強い?」
「強さ?」
「義母さんってのんびり屋で穏やかでしょ?今も動物たちとゆったりと遊んでるし……そんな姿見てるとあまり強そうな気がしないって言うか」
気を悪くしないでねとリューが最後に付け加える。毛が硬い獣の匂いを嗅ぎながら別に怒りはしないのにと思う。リューは私に対してほんのり遠慮している気がする。残念だ……
「ふむふむ。強さは戦闘力?生殖力?」
「義母さんにとっての強さは二つあるんだね……僕が聞きたいのは戦闘力の方」
「なら最強。ちなみに生殖力は弱い」
「結局どっちも答えるじゃん。それにしても最強かぁ。大きく出たね」
「そう。最強」
胸を張って堂々と答える。自信満々だ。
「例えばここにいる皆とこの山、やろうと思えばすぐに消し飛ばせる。もちろんやらない」
「消し飛ばっ!?」
「人化していてもそれくらい強い。竜の姿ならもっとすごいことが可能。えへへ。見直した?」
「そんなに強いならもう義母さんが魔王討伐に行けばいいんじゃ……?」
「ううん。私がする理由がない。人間は困っているんだろうけど、理由がないのに討伐するのはかわいそう」
理由がないのに弱い相手にわざわざ私が出向くのもどうかと思う。理由なき暴力も嫌いだ。それに困っているのなら、困っている者たちが解決する方が良いと思う。
「あぁ!義母さんはRPGの裏ボスみたいな立ち位置なんだ!」
「あーるぴーじーのうらぼすが何かはわからないけど、多分そう。竜は強いのです」
リューも合点がいった顔をしている。よかった。竜の強さをわかってくれたようだ。あーるぴーじーのうらぼすくらい強いのだ。あ、次は毛がサラサラな獣を触ろう。
「なんだかやっぱりファンタジーって感じだ。でも……ここには義母さんだけしかいないんだね」
「竜はとても珍しい。長い、長い間私はここで一匹だけの竜」
どれだけ長かったのかは数えてない。数えても無駄なことはある。ただ誰もやって来なかったことを考えると、もしかすると私以外の竜はもう…………いや、竜は強いのだ。恐らくどこかで楽しく暮らしているはずだ。きっと。
「それってなんだか……寂しいね」
「寂しかったより……虚しかった」
毛がもふもふの獣を撫でるのを止める。名は確か、羊だったか。
「同じ白竜はいなかったけれど、同族の竜がいた時期もあった。でもその時……私はまだ小さく幼い竜で。何も残せなかった。置いてかれてしまった」
竜の中でも白竜はほぼいないらしい。赤、黒、青、その他色々。様々な色の竜がいたけれど皆、違う色だった。産みの親に関してもどうやら竜の住処には存在せず、私の育ての親も違う色。だからとても、とても、とても珍しい。そして本質的にどうしようもなく一匹だった。救いがあるとすれば、ここにいた皆は私にとっての家族だったことか。
だけど私を置いて、皆は空の彼方へ行ってしまった。幼い私はまだ飛んでいけなくて、一緒についていけなかった。
「私にはこの住処があって、たくさんの獣たちもいて。寂しくはなかった。あったのは他の生命活動をじっと眺める虚しさだけ」
「義母さん……」
寂しさなど微塵もなかった。獣たちの爛爛と輝く刹那的な生き様を、植物たちが季節ごとに姿を変える様を、私だけの住処が皆の住処になっていく様を、間近で見ていたんだから。生命が日々を懸命に生き、次へと生命を繋いでいく。これほど面白いものがあるのだろうか。
それと裏腹に心はちっとも満たされなかった。美しいものをずっと眺めていられるのになんでだろう。
多分私が朽ちていくまでの間に、ほんのわずかで私に都合の良い奇跡が起こらない限り、心に住み着いた虚しさは残ったままだった。でも……
「でも今はリューがいる。もう虚しさもない」
あの朝、都合の良い奇跡は起こったのだ。それが手違いによるものであったとしても、私は絶対に逃しはしない。絶対に。
リューは
「リュー。私のところに来てくれてありがとう」
心の底から偽りなくそう思う。
※※※
『竜について聞きたいのですか?あなたの親代わりの竜に聞けばいいでしょうに……あぁ。なるほど。竜自身の主観ではなく客観による、竜についてですか。ふうん……そうですねぇ。前提ですが、竜はその世界に一匹しかいません。あなたが義母さんと呼んでいる個体が最後の一匹です。なぜかって?他の竜は全て死病で亡くなったからですよ』
『他の竜は何も伝えずに、死病を移さないようにとどこか遠くで朽ちていきました。ですがあの竜は…………あの子は特殊です。あらゆるものに耐性がある特別製。もちろん未知の病に対しても。他の竜があの子のためを思っての行動は、結果的には無意味だった。そして何も知らない、自分が至らないせいで置いて行かれたと思っている小さな竜だけが残された。私はそれを見ていることしか……』
『…………少し、話が逸れてしまいました。で!要は竜は既にほぼ伝説上の生き物として扱われているってことなんですよ。最後の一匹がかれこれ二百年近く姿を見せなければ、そう思われちゃいますよねぇ~。うんうん!まぁここ十数年に限って言えば、ちょこちょこと飛んでいるのを目撃されることもあるので「あれ?もしかして竜……?本物……?見間違いかな……?」と人間たちの間では噂になっていますけど』
『他には?他にはねぇ……人化の魔法が使えるのは知ってるでしょうし、というかあなたの前ではいつも人化してますもんね。めちゃくちゃ強い……っていうのもイメージ通りでしょうし。竜の宝……も普段から多分言ってるでしょうし。あぁ!じゃあ竜の血…………やば。いや何でもないです。何でもないです。何でもないって言ってるでしょ!忘れてください!よし!』
『これ以上は余計なことを話しちゃいそうだから終わりです!あーそれと最後に!私にこそこそ問うよりもあの竜に尋ねる方が良いですよ?プライベートな部分は特にね?それでは!またね~』
夢から覚めると見慣れたベッドの上。寝起き特有のぼんやりした頭をはっきりさせるために、大きく欠伸をする。女神様との会話はいつも夢の中だけだ。夢ではあるけど会話した内容は覚えているし、この世界の情勢も尋ねれば教えてくれる。住んでいる山から出られない僕にとって、女神様は先生兼貴重な情報源である。
義母さんも当然色んな知識を持っているんだけど…………微妙に先生役には向かない。例えば、魔法を教えてもらおうにも感覚派な義母さんは『こうやってこう…………わかりにくい?力をグッと入れてバッと出す。簡単』と無表情ながらも多彩な身振りでどうにかする。ひらひらと薄い服でふわふわゆるゆると動くのを眺める分には眼福、もとい目に毒なのだが、何一つわからない。
…………しかし今回の女神様、曖昧にしか教えてくれなかったな。しかも途切れた部分もあるし。女神様が何かしたに違いないが、文句を言える立場でもない。でも、そうか。やはり竜はもう義母さんしかいないのか。
女神様には竜について聞きたい、と言いながらも本当に知りたかったのは義母さんについてだ。女神様のことだから、竜関係の話から何かの拍子にぽろっと口を滑らせるかと思っていたけど、そこまで甘くないか。終わり際に釘を刺されてしまったし。
義母さんは自分自身のパーソナルな部分を話すことが極端に少ない。数日前、僕の前で言葉少なに口にした過去でさえ、相当珍しい。
何をして生きてきたかとか、何が好きで何が嫌いか、そんな些細な情報さえも自分からはほとんど話さない。義母さん自身が、己に関して興味がないのかと思ってしまう程にだ。ただ、話さないだけで一緒に過ごしているとなんとなく好みはわかるけど。
(僕って義母さんのことあまり知らないんだなぁ)
その事実に気づくとモヤモヤする。悔しいような、寂しいような。あまり心地良い感覚ではない。
「リュー。おはよう」
「あぁ義母さん、おはよう……って、ん?」
今、どこから声がした?あれ?と思った瞬間にもぞもぞと毛布が動き、ひょっこりと声の主が顔を出す。いつもの無表情で僕の右半身にそっと寄り添っている。猫のように薄く光る目をぱちくりとさせながらこちらの様子を伺い、僕が何らかの反応をするの待つ。実家で飼っていた猫もこんな風に忍び込んできてたなぁ。じゃなくて。
「何してるの」
「添い寝」
「……なんで?」
「寝顔の確認。普段は起きる前に撤収する。今日は失敗」
「普段は?今日は?まさか毎日……」
「えへへ。リューは眠りが深くて助かる」
「義母さん。これはめちゃくちゃ大事なことなんだけどね?僕はもう子どもじゃないから添い寝は必要ないんだ」
「???竜の皆、宝と一緒に眠ってた。むしろ私は控えている方」
義母さんは端正な眉をほんの少しだけひそめ、困惑した雰囲気を漂わせる。竜の常識かぁ。義母さんが悪いわけでは決してない、決してないんだけど……今寝起きだから。すこぶる健康体だから。やんちゃな年頃だから。関係性と実際の年齢はともかく、好みにばっちり合致している見た目が美少女に同衾されてたら、色々やばいんだよ……この時点で元気になりそうな部分を気合で抑え込むしかないのだ。あぁやばいやばいやばい。反応したら終わる!軽蔑される!ぴったりくっつかないで!!
「リュー苦しそう。体調悪い?顔が赤い……熱?嘘。まさか、病気?
「と、とりあえず離れて」
「!!!ごめんなさい……」
僕が自分自身と戦っているのを見て勘違いしたのか、無表情が崩れて顔面が蒼白になった義母さんはパッとベッドから抜け出ていった。た、助かった。あれ以上はもう本当にやばかった。
……でもあんなに焦った義母さんは久しぶりだ。前に見たのは……あれいつだったっけ?見たような記憶にはあるけどどこでだっけな。
それにしても、義母さんはどんな勘違いしたのか。量を増やしたって何を?
その後、義母さんは氷やら薬やらを大量に腕に抱えて飛ぶ勢いで戻ってきた。なるほど。僕が病気か何かになってしまったのかと勘違いしたのか。結局病気ではないと勘違いを訂正しても、義母さんはしばらくの間ずっと僕にくっついたままだった。この時ばかりは見た目通りの、僕よりも歳下の寄る辺のない少女のように思えてしまう。
「リュー。リュー。リュー」
僕の名前を小さく繰り返し呼ぶ義母さんは、泣きたくなる程に痛ましい。
なぜそこまで……?わからない。
大切にされているなとは思う。
溢れんばかりの愛情を惜しみなく注いでくれる義母さんには感謝してもしきれない。だって見ず知らずの突然現れた人間の赤ん坊をここまで育ててくれたんだ。抱きしめてくれるのも口では恥ずかしいから、子どもではないから止めてくれと言いつつ、その実嬉しくないわけがない。
過剰なスキンシップが多いのは義母さん自身の愛情表現なのだろう。引っ付きたがるし、ベッドに入り込む。どこに行こうにも心配して付いて来ようとする。多分、いつまで経っても義母さんの中では僕は子どものままだ。正直何とも言えない気持ちになるが……
一方で大切にされていることが異質だなとも思う。
多分義母さんの生命に対する普段の姿勢は良くも悪くも傍観者だ。積極的に他種の生命の活動に関わることはせず、一個体を優先することはほとんどない。
ここにいる動物たちと遊び戯れることはあるが、それ以外の直接的な生き死に関与せず一線を引いてじっと眺めるだけだ。自分が動けばどうにでもなってしまうと思っているから誰かのためには動かない。その価値基準はある意味で平等、ある意味で高慢だ。
……だから、僕に対する態度は義母さんの価値基準に反して異質だ。
ただ、僕には義母さんが怖がっているように見える。まるで僕がどこか遠くに今にも消えてしまうんじゃないかと思わせる程に。そんなことは決してないのに。僕にとって一番大切なのはあなたなのに。悲しませることなんてしないのに………………………信じてくれていないのは、ほんの少しだけ辛い。
「義母さん……もう大丈夫だからさ」
「……………………」
僕がそう言っても、義母さんはがっちりと抱き着いたまま無言で見上げてくるだけだ。表情は変わらない。しかし義母さんの美しい焔を思わせる目が揺れているのがわかってしまう。篝火のように揺らぎ、消えてしまいそうな不安定さと悲しみを帯びている。何を不安に感じているのだろうか。その『何』を断片的な少ししか推し量れないのは悔しく思う。
それでも無言だけがいつまでも空間を支配することはない。義母さんはようやく口を開き、平坦な声で僕に尋ねてくる。
「リューは」
「うん」
「リューはいなくならない?」
「………………………」
僕がここから、義母さんの傍から完全に離れてしまったらどうなってしまうのか。いや、もしかすると離れる必要なんて……
『はーい。こんばんは。今日はどうしましたか?「本当に魔王討伐をしに行かないといけないのか?」うーんちょっと認識に誤解がありますねぇ。方法は何でもいいんです。魔王を武力で討伐しようが、説得しようが、封印しようが、何なら魔王の立場を奪うのでも』
『今回の魔王は人間に対してとんでもなく高圧的かつ敵対的、それと異常に強くて全く話の聞かない暴君なんです。人間相手だけでなく、魔族や魔物たちも逆らうと酷い目に遭わされるようで嫌々従っていて、世界の均衡を乱す存在です。端的に言えば、懲らしめて欲しい』
『でもねぇ……この魔王がもう本当に無駄に力を持ってて、ほぼ無敵です。束になっても敵わないから抵抗するのも難しいのが現状です。一応魔王をボコボコに出来る者もいるにはいるんですけど、世情に興味がないうえに住んでいる場所を動かないので…………だからあなたの出番なのです』
『転生させる際、あなたに神の恩恵を与えたのは覚えていますよね?そうそう!高水準な肉体と魔力、それと成長率無限の恩恵です。鍛えれば鍛えただけ強くなれる、あなたにわかりやすく言うとレベルに上限がありません。夢のような能力ですよね!!まぁ、魔王はそのレベルで言えば五百くらいありますけど頑張って!ちなみにあなたは現時点で…………百です。なんか高いですね。竜の血を日常的に、多量に摂取してるから妥当ですかねぇ』
『……私としては、あなたが旅に出るのが早ければ早い程嬉しいです。その分魔王に苦しめられている者たちが早く救われるわけですから。覚えていて欲しいのは
……あぁ…………………………やっぱり行くしかないよなぁ。それが僕の使命だ。
その日、義母さんは目に見えてそわそわしていた。抱きつく頻度は普段以上、尻尾の絡みつき方は力強い。しかも顔をぴったりと僕の体に引っ付け大きく深呼吸までする始末。髪、首元、胸、お腹、背中……下半身にまで引っ付きそうになるのは流石に止めたけど……明らかに様子がおかしい。
「今日は特別な日だからご馳走。楽しみにしてて」
そう言ってぱたぱたと山を下りていく。ただその言葉とは裏腹に嬉しそうとは言い難く、僕に対して申し訳なささでもあるかのように憂いを帯びていた。初めて見せる表情に少しだけ、いやかなりドキッとした。これにはヤバいと思って冷静になるために、頭を岩にガンガンとぶつけて事なきを得た。が、ぶつけた部分はひりひりするだけなのに対し、岩の方はというと……………………粉々だ。そんなに強くぶつけたわけではないのに。
思えば最近、自分自身の体の調子がすこぶる良い。女神様からの恩恵で元々身体能力は高かったけど、それはあくまで人間の範疇。それ以上の力を出すのならば、魔力を体に流す必要があった。
しかし今では魔力を流さずとも素の身体能力だけで済んでしまう。つまりは普段の状態で人間の域を超えた膂力が身に付いている。成長期などでは言い訳が効かないくらいの伸び方をしているのだ。
ここでは比較できる対象が義母さんと動物しかいないが、多分この世界の人間としても途轍もない力を持っているのだと思う。それこそ魔王に挑む者ならば必要なくらいには。
……………………正直、旅に出るのならこれ以上にない状態だ。義母さんが反対していた一番の理由は僕が弱いから。確かに今でさえ義母さんと比べるとまぁ見劣りするが、足元くらいには及ぶ自信はある。それは既に十分な力だろう。
説得するべきだ。このタイミングが最善な気がする。ここを逃せばズルズルと先延ばしになっていくのは紛れもない事実である。
星降る夜。僕は一人になりたい時、家から離れ湖近くの大きな洞穴へと足を向ける。大小様々な石ころばかりが置いてあるそこは、夜であっても壁に張り付く苔が薄ぼんやりと青く光り不思議と穏やかな気持ちにしてくれる。それに……ここならば天井にぽっかりと開いた大穴から星がよく見えるんだ。
石ころでゴツゴツした地面に背を着けると、眼前に広がるのは豆粒にしか見えない光だ。どの世界にも星ってあるんだなぁと平凡な感想を抱く。でもこっちの星の方がより輝いてる気がする。空気が違うのかな。
「リュー。リュー。どこ…………?」
いつものように僕を探す声が聞こえる。真剣に話さなければならなかった。きっと今がその時なのだろう。
▽▽▽
きっかけはリューがここに来たばかりの赤子の頃。リューが酷い熱を出してしまったことがある。頬が炎のように真っ赤になり苦しそうな表情を浮かべたリューを見て、柄にもなく大焦りしたのを記憶している。他の竜が残していた秘薬で熱自体はすぐに治まったが、私は熱が治まって安心したのと同時にとても怖くなってしまった。『人間は簡単に死んでしまう可能性がある』とただの知識ではなく、実感として知ってしまったのだ。
それからはリューの一挙手一投足に目を向けてしまうようになったのは言うまでもない。心臓の鼓動、呼吸の音、身に宿る体温……リューがしっかりと生きていることを確かめずにはいられなくなった。目を離してしまうとすぐに死んでしまうような気がして。
こんなにも小さくて、こんなにも弱弱しくて、でもこんなにも愛おしくて…………病になんか負けて欲しくなくて。でも人間の体は竜よりも脆いのは理解していたから…………初めは丈夫に育って欲しいからと、それだけのつもりだった。
竜の躰に流れる血液は万能だ。体内へと摂取することでまるで竜のように強くなれる、らしい。それは眉唾な話ではあるが、滋養強壮に効果があるのは確かだ。人間たちの間でも、たった一滴の古い竜の血が高価な金額で取引されているとのことだ。そういう話を竜の長老からもよく聞かされていた。
血、どうやって出せばいいのだろうか。普通の刃物では歯が立たないし。そうだ、他の竜が集めていた『宝』に良いものがあるのかも。ちょっと借りよう。
うーん……どれも刃の方が欠ける。無意識のうちに自分の躰を魔力が守ってしまうのだ。突破するとなると武器と認識させないようにしないと。
色々試したが、自分自身の竜の爪が一番良さそう。う、痛い……すぐに傷が修復するとはいえ、痛いものは痛い。
そうして瓶一杯に集めた竜の血をを少しずつ、少しずつリューへの食事に混ぜてみた。一滴だけ。二滴だけ。すると予想通り、リューは風邪一つひかない元気な子に育ってくれた。よかった、やはりこれが正しい。これからも続けていけば、きっとリューのためになる。
私の中ではもう、リューの存在が大きくなっていた。だって私が育てたのだもの。だって私がご飯を食べさせたのだもの。だって私が夜には寝かせたのだもの。だって私が………………………
数えだすと時間がいくらあっても足りない。でもその夜の星のような、無数に輝くその一つ一つの思い出が私の隙間を埋めていく。リューの笑った顔、悲しい顔、怒った顔、驚いた顔……全てが愛おしいのだ。誰にも渡したくない程に。
そうだ。私は羨ましかったのだ。目の前で私以外の生命が家族を作っていくのが。ずっと、ずっと、ずっと。
私は一匹だった。でも今はリューがいる。家族がいる。リューと出会ってから十年にも満たない刹那の時間は、一匹になってからの物理的な長い時間よりも私を満足させるものだった。
リューは私に笑い掛けてくれる。話し掛けてくれる。ご飯を美味しいと言ってくれる。竜の姿を素敵だと褒めてくれる。正しくないことは訂正してくれる。一緒に森を散歩をしてくれる。魔法を教えてとせがんできてくれる。そして………………………忘れかけていた家族の暖かさを与えてくれる。
あぁ、リュー。愛しいリュー。私の元へと来てくれてありがとう。あなたは私の『宝』。私にたくさんのかけがえのないものをくれるあなたに。私を母と慕ってくれるあなたに。私は報いることが出来ているのだろうか。
確かなのは……私は満足だったということ。満たされた胸の中には暖かいもので溢れていた。
私はそれで満足だったのに。欲望の器は際限なく大きく歪になるのを私は知らなかった。
…………リューの歳が二桁に差し掛かる時期のことだ。いつも通り、最近は妙に恥ずかしがるようになったリューに抱き着くと、微かに遠く過去を想起させる懐かしい匂いがした………………………竜の匂いだ。もう嗅ぐことのないと諦めていた同族の、竜の匂いだった。
心の中の奥底に隠していた、見ない振りをしていた寂しさが膨らんでくる。その匂いと共に蓋をしていた記憶が溢れ出してしまう。
皆、なんで私を置いていったの……?もう涸れたはずだった涙が一粒だけ落ちていく。『どうしたの?』と見つめるリューをごまかし、何でもないように取り繕うしか私にはできなかった。
そして理解した。竜の血は、継続的に摂取させることで人間を竜へと至らせることが可能なものであると。
私はその時、まだ戻れるはずだった。リューは人間にしてはとても丈夫になった。馴染んだ竜の血は残るだろうが、リュー自身でも恐らく気にならない程度だ。
総量で言ってもどうにでもなる範囲。時間が経てば淘汰される程度。女神からの恩恵もあるのだから、今ならまだ常人とは比べ物にならない頑丈な『人間』で済む。今ならまだ…………でも……もう少しだけ…………
………………………………そうだ、まだ足りていないに違いない。人間は弱いのだから。混ぜる量を増やしてみよう。きっともっと
既に目的は卑しいものへと変わってしまった。リューのためだと心の中で嘯き、その実自分自身のための行為に他ならない。満足していたはずなのに、どうしても諦めきれない。
そうして欲望には果てがないのだと思い知った。家族だけでは飽き足らず、竜の同族まで欲しがるとは。
リューは気づいていない。気づくはずがない。私が言わなければ、このままだ。
なんて……私は浅ましい竜なのだろうか。リュー。どこにも行かないで。傍を離れないで。嫌いにならないで。私とずっと一緒にいて。私を……もう一匹だけにしないで………………………
あぁ、これは竜の匂いそのものだ。濃い竜の匂いだ。もう、元には戻れない。
私はきっとリューに恨まれる。でも……それでも……後悔はしていない。
「リュー。リュー。どこ…………?」
満天の星が空を覆いつくす夜。夕食の時間になっても戻って来ないリューを探す。探すとは言っているが、リューの魔力を探知すれば一瞬で見つけることはできるため、魔力を辿ってそこに向かうだけだ。リューのいる場所は……竜の長老が寝床にしていた洞窟にいるようだ。リューはあそこが好きらしい。
今日は特別な日だ。リューの体に竜の血が完全に馴染み、一体となった日。姿形は変わらないが、匂いでわかる。
特別な日には御馳走が必要だと聞く。山から町に降り、お店で大きな大きなお肉を買ってきた。今の私の顔程の大きさのお肉だ。私は食べても味がよくわからないがきっと美味しいに違いない。
喜んでくれると嬉しいな。リューが美味しそうに食べてくれる姿を想像すると、なんだか楽しみになってくる。
洞窟に入ると当然のようにリューはそこにいた。長老の宝であった無数の石ころが散らばる地面に寝転がり、天に広がる星を見つめている。
「リュー。今日は御馳走。早く帰ろ?」
私がそう声を掛けると、リューはゆっくりとこちらに顔を向けた。
「義母さん。話があるんだ」
※※※
「…………何度も言うけど、リューが無理に行く必要なんかない。他の誰かが行く。これで話は終わり」
氷のような冷たさで、やはりにべもなくさっと却下される。今までは僕もなぁなぁにしていたが、今回はそういうわけにはいかない。義母さんの前に立ち、しっかりと目を見据える。いつもならばそれで話を終わりにしていた義母さんも、僕の真剣な様子に首を傾け困惑の色を滲ませる。
「リュー。どうしたの?」
「義母さん、他の誰でもなく僕が行く。やっぱりそれが僕の使命だから」
多分、僕には覚悟が足りなかったのだと思う。心のどこかで『自分がやらなくてもいいのかもな』と。義母さんの言うように他の誰かが行くだろうと。でもそれは間違いだ。仮にそうだとしても、自分が見て見ぬふりをする理由にはならない。
それに対し義母さんは……色のない表情で淡々と答えてくる。
「ダメ。怪我したら痛いよ?ここなら安全だし、私が守ってあげられる」
「そうだろうね。ここは安全だと思う。でも……それは僕だけの安全だ。僕以外の人間はその範囲に入っていないでしょ?」
「???そんなの当たり前。私にとって大事なのはリューだけだから。他の人間は知らない」
義母さんは何故そんな当然のことを聞くのだろうかと思っているに違いない。そうだ。義母さん自身には他の人間を保護する相応の理由がない。あくまで中立。あくまで自然の流れに沿うだけ。ここまで魔王がやってくればようやく対処するだけなんだ。
義母さんは強い。けれども義母さんには自ら積極的に魔王を倒しに行く理由がない。意義すらない。世界の危機は義母さんにとっては些事なのだ。
だからこそ僕がやらなければならない。義母さんがどう言おうが譲らない姿勢を見せる。
「……この世界には僕以外にもたくさんの生き物がいて、その皆も困ってるんだ」
「……………………?それが自然なことなら仕方ないと思う。リューがいればいいよ?」
尻尾の先をくねくね動かし、するすると僕の足へと絡みつかせていく。優しく丁寧に。普段ならどうってことない習慣のような行為が今の僕には辛く感じる。でも……
絡みついてきた尻尾をそっと外す。その様子を目撃した義母さんは……呆然としている。口を少し開け、焔の瞳が篝火の如く揺らめく。僕から尻尾を外すことなんてなかったから。
「僕は……それを見て見ぬふりはできない。魔王討伐の旅に行かせて欲しいんだ」
「…………………………………………リューは弱いから死んじゃう………………………」
いいや、僕は決して死なない。だって義母さんを置いてなんて死ねないから。
「そりゃあ義母さんには負けるけど僕だって強くなってるんだ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。魔王を懲らしめたらすぐにでもここへ帰ってくるからさ」
「…………ここへ……………帰ってくる?」
「当たり前じゃないか!だから約束し「嘘」」
僕が言葉を続けようとしたその時、義母さんが割り込んできた。いつもの無表情は崩れ去り、生気の抜けた弱弱しい悲し気な顔で僕を見つめる。寒々とした洞窟内が更に冷たく感じる。
少し前までの落ち着きを払った態度は消え、尻尾は忙しなく動き回っている。異様な雰囲気が辺りを包み込み、明らかに踏み込んではいけない領域に足を踏み入れてしまった気配であった。
「嘘。そんなの言うだけ。帰ってなんて、来てくれない。約束なんてしても、守ってくれない。だって私、竜の皆と約束したのに。戻ってくるって、約束してくれたのに。誰も帰ってきてくれなかった……!」
ところどころ詰まる言葉に怒りは込められてない。そこにあるのはどうしようもない程の悲痛さ。
「明日、きっと帰ってくるかなって。もう一年経ったら、そろそろ帰ってくるかなって。あと何回季節が廻れば帰ってきてくれるかなって。私待ってた。ずっと、ずっと待ってた……!」
美しく整った顔を歪ませ、はらはらととめどなく零れ落ちる涙は地面へと吸い込まれていく。そこにあるのは待つことしかできなかった子どものような無力さ。
「リューも……リューも私を置いていくの?」
ふらふらと立ってられずに体に縋りつく姿に普段の飄々としたものは見る影もない。そこにいたのは…………ただの孤独に震えるしかできない小さな竜だった。
「や、やだ。やめて。置いていかないで」
「お、落ち着いて義母さん」
「ダメなところは直すから……何でもするから……………………ひとりぼっちはもう……いや」
胸の中で嗚咽を漏らし、言葉に詰まりながら呟く。
あぁ、そうか。そうなのか。ようやくわかった。どれだけ長く生きようが、どれだけ力が強くなっていようが、どれだけ自分でさえも騙せていようが……義母さんの心は今も置いていかれたままなんだ。あの頃の仲間に理由もわからず置いていかれた幼い竜のまま。
……………………義母さんは未だ過去に囚われている。救われずにその痛みを今の今まで押し込めて、ここまできてしまった。そして、そうさせてしまったのは僕だ。
世代を継いでいけないことを大人ぶって『虚しい』と強がらせ、ただの『寂しい』という本当の感情を吐き出すことができなかったのは……悔しいが僕が頼りないせいだ。僕が義母さんにとっては小さな子どもに過ぎず、どこまで行っても庇護の対象だから。
それってやっぱり……辛いなぁ。義母さんが安心して寄りかかれない程度である自分の不甲斐なさが、至らなさが、弱さが辛い。
でも……嘆いている暇なんてない。そんな事実は後でいくらでも嘆いてやる。だから今は、その情けない自分を全部を飲み干して気合を入れろ。泣かせるつもりなんてなかった。だけど泣かせた責任は僕にある。ならば僕のやることなんて決まってる。
「義母さん」
僕の声に反応して義母さんの体ががびくりと揺れる。
「義母さんは僕が帰ってこないと思ってるんだね。ここを出たらもう二度と」
僕の意思は変わらない。絶対に帰ってくる。何があってもだ。ただ、義母さんはその約束を信じることができない。待っていても帰ってこなかった経験があるからだ。置いていかれてしまった恐怖は計り知れない。言葉での「帰ってくる」という約束は意味を為さないのだ。
「……………………」
目の周りを赤く腫らし、見上げる虚ろな瞳には光はない。沙汰を待つ罪人かのようにじっと動かない。
「多分、僕の言うことは義母さんには信じられないんだろうね。帰ってくる、なんて口約束だもん。破ってしまっても僕には不利益なんてない」
不利益がない、とは嘘だ。この約束を破れば、僕は義母さんに顔向けできない。それは不利益以外の何物でもない。
……そもそも実力行使をすれば、このような問答をせずとも僕はここに留まる他ない。無理矢理従わせることだってできるはずなのに。それをしないのは義母さんが善良であるからだ。
「僕の言葉が信じられないのなら……行動で示すことにする」
どんなに思っていても、その思いが伝わらなきゃ全く存在しないのと同じだ。
ねぇ義母さん?知らないだろうけれど、僕がこの世で一番大切なのはあなたなんだよ。本当は世界よりも、誰よりも、何よりも。
「だから……義母さん、僕と一緒に旅に出よう。あなたを決してひとりぼっちにはさせない」
僕は義母さんの折れそうな程に華奢な体を正面から強く抱きしめる。そうだ、自分から抱きしめるなんてこと恥ずかしくてできなかった。でも、込めた思いは形にしなければ伝わらないのだろう。
腕の中で少し身じろぎをする義母さんと見つめ合う。涙はもう流していない。時が止まったかのような静寂。お互いの心臓の鼓動も溶け合い、ゆっくりと時間は過ぎていく。雲一つない、遥か空彼方の星の光が降り注ぎ、この場を照らし続ける。
義母さんは何かを言おうと口を動かそうとし、止める。それを何度も繰り返し、言葉を紡ぎだすのをためらっている。しかし、義母さんの瞳には美しく燃え盛る焔が戻ってきていた。あぁ、やっぱり綺麗だ。義母さんにはその焔が良く似合う。
しかし、その静かな時間もいつかは終わる。義母さんは顔を埋めながら僕に、この空間に、空の星に向かってぽつりぽつりと少しずつ話し出す。
「………………私ね、置いてかれるのが一番怖い。ひとりぼっちは寂しい」
「うん」
「だけど私、なんとなくわかってる。竜の皆が私を一匹にしたのには何か理由があって………………多分それは私のためで……ただ、もう生きていないんだろうなって」
「……」
「でも……でもね?置いていくのが私のためであっても、最期まで一緒にいたかった。ちゃんとお別れもしたかった。だって皆は私の家族で……ううん、それだけじゃない……………………皆のこと、大好きだから」
言葉へ乗せられた色に怒りなどなく、残されたことへの恨みは微塵も感じられない。そこにあるのは戻ることはない遠い過去に向けた愛しさだけだ。
「もっと話したかった。もっと甘えたかった。もっと一緒に暮らしたかった。ありがとうって、ごめんなさいってもっともっと………………」
義母さんは溢れ出す思いの一つ一つを言葉という実物にし、一つ一つを大事に噛みしめる。言えなかったこと、言いたかったこと……それらを己に言い聞かせているのだろうか。水面に現れては消える泡のような無数の思いが優しく流れていく。僕はその独白に静かに耳を傾ける。
吐き出すべきだった思いは、伝えたかった相手にはもう届かない。だから僕がそれを聞き届けよう。僕はいなくなってしまった誰かの代わりにはなれないけれど、それでも義母さんを受け止められるくらいには強くありたいから。
「……………………リューは、もう小さな子どもじゃなかったんだね」
「小さくはないね」
「でも弱い」
「手厳しいなぁ。まぁ強くなるのはこれからだよ。見てて欲しいな」
「……うん、私傍で見てる。旅の間もずっと、これからもずっと」
「あぁ、それなら僕も安心だよ」
「えへへ、そうでしょ?」
僕を見上げる瞳はしっとりと潤みつつも晴れやかだ。
義母さんのその微笑みがずっと続くように僕頑張るからさ。
▽※▽※▽※
「天気がいい。旅日和」
私は降り注ぐ日の光に手をかざす。爛爛と照っているからか目を細めなければ眩しく感じるだろう。旅に出るにはうってつけの天気だ。あれから数日経ち、私とリューが旅に出る日がやってきた。世界に迷惑をかけているらしい魔王とやらを懲らしめるための旅だ。
リューが他の皆のためにわざわざ危険を冒す必要はないと私は今でも思っている。だって痛いのも、血が出るのも、苦しいのもリュー自身なのだ。旅に出る当日なってもこれは一切変わらない。
魔王の所業に困っているのなら、その当人の間で解決すべきである。私たちは今のところ困っていないし、ここに何かするつもりならその時に対応するだけだ。例えその結果、この住処以外が魔王の支配下に置かれてしまっても私たちには関係ない話である。いくら考えても世界のために魔王を締め上げる理由がない、というのが私の結論だ。
魔王はやりたいことをやっているだけだ。欲望の赴くまま行動するのは生命のあるべき姿である。その大小は関係ない。
しかし……あくまで私がそう思うだけで、リューは違う。見ず知らずの人間のために、自分が傷つくのも厭わない。弱いのに魔王を懲らしめに行こうとする。それは何故か。答えはリューが優しい子だから。
そして………………………………私は力づくでリューの選択を止められない。本当であれば私はまたひとりぼっちだった。竜の皆と別れた時と同じ。
でも今回は違う。リューは私に『一緒に行こう』と言ってくれた。ずっと誰かに言って欲しくて、ずっと待ち望んでいた言葉。リューと一緒に……リューと一緒に……!離れなくてもいいんだ!ずっと一緒に!
ならば、魔王は邪魔だ。リューと私がずっと一緒にいるためには目障りだ。理由はできた。さっさと灸をすえてやろう。狭い範囲で粋がっている奴に痛い目を合わせてやる。
………………………………リューがまだ起きてこない。ふふふ、リューもまだまだ子ども。私が起こしに行かなければ。ついでに抱き着いても良いはずだ。役得である。
間違いなく夢の中。真っ暗闇の空間に僕はいた。そしていつも通り自分の感覚を頼りに前へと進んでいけば、光が円状に広がる場所に辿り着いた。
そこには背もたれある一人掛けの椅子が二脚、こじんまりとした白い丸テーブルだけが存在する。丸テーブルを挟んで椅子が対面になるように設置されているため、誰かと語り合うのを前提とした置かれ方だ。初めて見た当時は『なんだこれ』と思ったけど、幾度も通った今ではもう慣れたものである。
片方の椅子へ腰かけたのを合図に、気づかぬうちに対面側の椅子には真っ白な印象の女性が静かに座っていた。腰まで伸ばした上質な白い絹糸のような髪を持ち、全身を白を基調とした露出を抑えた衣で身を包む。顔の前面を覆っているベールによって表情こそわからないが、薄っすらと見える口元はにっこりと笑みを浮べているのがわかる。目の前に急に現れたこの方こそ、時には役に立ち、時には役に立たない助言を度々くださっていた女神様だ。
『どうやら話がまとまったみたいですねぇ。いやぁ、あの子も連れていくことになるとは……魔王になんてもう勝ったようなものですよ!だってあの子はこの世界で唯一単独で魔王よりも強いんですもの!その強さ誉れ高い!あっはっは!』
透き通った声と清楚な見た目に似合ぬ豪快な笑い方だ。腕を組んで笑っているために余計にそう思ってしまう。
「……僕はそんな打算的な考えで義母さんと一緒に行くわけではないのですが…………………」
『あれ?軽率な発言でしたかね?』
「いえ、別に……それで結局義母さんとはどんな関係なんですか。今まではぐらかされてきて、しかも妙に訳知りって感じでしたけど」
いつもならばこのような素っ気ない態度で話すことはない。相手は女神様なのだから失礼にならないようにしていたんだけど……今日はそうもいかない。
僕が一番聞きたいのは女神様と義母さんの関係である。今までの女神様の話しぶりを思い返してみると、義母さんに関しては他人事のようでいて何か含みがあった。そしてどういう関係なのかは何となく予想ができるけれど、女神様自身の口から聞きたいのだ。
『なんか怒ってます?……それはそうといい質問です!実はですね……………………何を隠そうあの子とはいわば親子関係!まぁ正確には創造主ではありますけど、ほぼ同じですよ!ほらほら、私たちって見た目が似てるでしょ?人化状態のあの子をそのまま大人バージョンにした姿が私!ちょっと竜のエッセンスが加わって、目の色が違う感じ?美女には変わりありませんが!!』
女神様は今まで顔を覆っていたベールを外し、満面の笑みを浮かべて見せつけてくる……まじまじ見ると確かに似ている。女神様の言葉通り、義母さんが人間のように順当に成長するのであれば女神様のような容姿に近くなるのだろう。素直に称賛するのは悔しいけれどめちゃくちゃ綺麗だ。ただ重要なのはそこではなく。
露わになった女神様の目をまっすぐに見据えて不敬であっても言わせてもらう。
「ふぅん親子関係!じゃあなんですか?義母さんがひとりぼっちで苦しんでいたのに?親のあなたはずーっと!放っておいたわけだ!」
思わず声を荒げてしまったが、正直僕は怒っている。だって家族とも呼べる竜たちを失った幼い義母さんは数百年もひとりぼっちだった。ずっとだ。女神様程の方であれば何かできたはずじゃないのか?そう思ってならないんだ。
でも一方で……この問いを投げかけることがズルいのは自分自身でも理解している。これは僕のただの感情的な駄々のようなもの。終わってしまった過去へ、そこに関与すらしていない第三者が『どうにかならなかったのか?』と無責任に糾弾するだけの自己満足だ。
……それでも言わずにはいられない。
『……………………痛いところを突きますね。私だって、あの子がひとりぼっちに残された時点でこちら側に連れて来たかった。ですが、現世の生きている者への直接干渉はあまりできないんです。けれどあなたの言う通り……ずっと放っておいたのは紛れもない事実です。だからまぁ……言い訳ですね』
僕の無礼で自分勝手な言葉に対し、女神様は曖昧に微笑むだけに留まった。女神様には女神様の事情がある。それもわかっていたことだ。だって女神様が薄情ではないのは今までの経験で知っているから。
「でも、今の僕みたいにこうやって夢で話しかけることくらい」
『残念ながらあの子に精神干渉の類、あるいは状態異常と呼ばれる全ては一切の意味を成しません。竜種を統べる者、あらゆる存在への抑止力……そういう風に生み出しましたので。仮に夢の中で会話が可能であったとしても、私は話しかけないでしょう』
「……なぜ?」
『少しでも会話をしてしまうと、私は規則を捻じ曲げてあの子を無理矢理連れて行ってしまいます。それは……女神として正しくない行為でしょう?』
困ったように眉を下げ、悲しげに呟く女神様に僕はもう何も言えなかった。
それからはお互いに無言が続く。僕と女神様の間には何とも微妙な雰囲気が漂ってしまった。初めに文句を言い出した僕が悪いのは重々承知のうえで……気まずい。
『……はい!まぁ湿っぽい話ですので!これ以上は、ね?やめやめ!気軽に話せるのも一旦最後になるでしょうからね。気まずい感じで別れるのは心苦し過ぎます!!』
この空気を打破するためか、普段通りの明るい様子で女神様が手を振ってストップをかけ始めた。ん?今最後って……?
「え!?……話せないんですか!?」
『ごめんね!いやぁ、こうして夢の中に顕現するのもギリギリの状況なので。ちょーっと張りきり過ぎたのかも?ほら!見て!体が薄くなってる!!すごい!このままじゃ背景に溶け込みそうですよ!』
うわっ!本当だ!さっき話していた時は普通だったのにホログラムみたいになってきてる!触ってみてと差し出された手を握ろうとしても通り抜けてしまう始末だ。
「今まではこんなことなかったのに」
『実はぁ、今の私ってほぼ残りカスなんですよねぇ。魔王に色々と封印されちゃってて。いやはや用意周到、全く酷い奴ですよねぇ!困ってしまいますよ!あっはっはっ!』
「よく笑えますね!?え、これ大丈夫なんですか!?」
そう言ってる間にも女神様の身体はどんどんと薄くなっていき、背景と同化しそうな程に透き通っていく。女神様から漏れ出る小さな光の粒が空間に散らばっては霧消していくのが見て取れる。存在のほとんどが消えていく、そんな印象だ。
『まーまー心配しないでください。魔王をボコしてくれたら、多分元通りになりますから!ま、ちょちょいのちょいで頑張ってくださいよ!余裕余裕!』
「か、簡単におっしゃってくれますね……いや世界的にも普通に責任重大なのか……」
事の大きさに今更だけど不安になってきた。それに魔王はどうしようもなく強いという話を以前聞いていたのを思い出す。もしもどうにもならなければ……重圧が押しかかって来るのを感じる。はっきり言ってめちゃくちゃ怖くなってきた。
しかし僕のそんな弱気な心持ちを見透かしたのか、
『安心してください。あなたたちは絶対に魔王をどうにかできます。なんてったって私が選んだあなたと、私の娘ですよ?無敵です』
「女神様……」
既に目を凝らさないと見えない程になってしまった女神様が一際優しく励ましてくださる。女神様自身がもう消え去ってしまいそうなのに……
そうだよな。やることは決まっていて、あとはそれをするだけだ。女神様のお墨付きも頂いたんだ。不安がる必要なんて全くない。
『そもそも戦力的には十分過ぎるくらいなんですよ?あの子はもとより、あなたに関しても竜の血を毎日のように摂取していて、想像以上に強くなっているんですから!!!問題なし!!』
ん?竜の血?
「うん?あの女神様……?竜の血って?」
『……あ、やべ……まずいかな……………………ごほん!勇者リューよ。後は任せました。あなたの旅路に幸あらんことを』
「おいこら」
『あーダメです。もう姿を維持できませんね。消えていくー。それでは頑張ってくださーい。一応最後の力を振りぼって各所に『勇者が行くんで』ってお告げをしておくので!便宜を図ってくれるはずですので!』
目を逸らしぷひゅーぷひゅーと下手な口笛を吹きながら、影も形もなく消え失せてしまった……と思ったらにゅるっともう一度現れた。意外と余裕あるのでは……?
『そうだ最後に!あの子を、シロをよろしくお願いしますね。知っての通りまだまだ甘えん坊な竜です。一人ぼっちにさせて泣かせちゃ……ダメですよ?それではまた全て終わったら会いましょう!』
義母さんに似た微笑みを浮かべながら、次こそ本当に消えてしまった………………女神様、ありがとうございました。後は任せてください。
シロ、それが義母さんの名前なのか。白竜だからシロ……僕の名前はリューで…………親子揃ってネーミングセンスが安直だなぁ!
………………………………そろそろ眠りから覚めそうだ。あと義母さんに聞かなければならないこともできたんだけど……
目の前にはぐっすりと眠るリューがいる。そう、ぐっすりだ。今日中に出立すれば良いのだから別にすぐに起こさないでも構わない。そうだそうだ。私は正しい。
私はもぞもぞとリューの眠るベッドに入りこみ、当初の予定通り添い寝をすることにした。いや、添い寝では足りない。抱き着いておこう。尻尾をリューの身体に巻き付け、密着して離れないように固定だ。
リューは恥ずかしがるけれど、私は恥ずかしくない。むしろ積極的に推奨すべき行動、体温を分け合うのは家族なら当然。
そして首元をすんすんと鼻を鳴らして嗅ぐ。最近知ったのだが、竜の匂いとリュー自身の匂いが合わさったものは嗅ぐと途轍もない幸福感を得られる。すごい。大発見だ。しかし謎だ、不思議だ。
深呼吸。深呼吸。深呼吸。これはとんでもないぞ。病み付きだ。
「あの……?義母さん?何をしてるのかな?」
む。リューが起きてしまった。正面から嗅いでいたので目線を上げるとちょうどリューと目が合う形になった。寝ぼけ眼のリューもやはり良い。
「ふむ。リュー、良い質問。私は鼻がよく利く。だから嗅ぐ」
「答えになってないよ!?」
「これはリューが寝坊した結果の出来事。しかし良い匂い。自信を持って」
「あぁ……もう。いいよ。別に嫌ではないから存分に嗅いで」
……!!リューからそうやって許しが出るのは珍しい。どういう風の吹き回しだろうか。お言葉に甘えてどんどん嗅がせてもらおう。うむ、癖になる。
ただ、リューの様子を確認しながらだ。私は我慢ができる竜である。リューが嫌がるようなら止めるのも………しかし良い匂い…………ちらりと顔を窺う。すると嫌がってるようには見えないが、何かを考えているように見えた。
「そのままでいいから聞いて欲しいんだけどね。義母さんはさ、自分の名前って知ってる?」
「私の……名前?」
そのままでいいらしいが嗅ぐのを止める。名前……考えたこともなかった。知ってる以前の問題だ。私には必要がない。竜の皆といた昔も、リューといる今も私に名前などなくても事足りる。私はただの白竜だから。
それでも一応考える素振りを見せ、ほんの少し頭を振って否定する。実際は知らないというよりは『ない』の方が正しい。少なくとも名付けられた記憶がないの確かだ。
それを見たリューは真剣な表情で私に話す。
「これから一緒に旅をしていく中で、名前って必要だと思うんだ。人前で義母さんって呼ぶのは色々問題がありそうだし」
「問題なんてないでしょ?いつも通り義母さんって呼んで」
「いや……それは多分、他人から歳下の女の子を義母さんって呼ぶ特殊な人間だと思われる」
「???他の人間から何を思われても関係ないのでは?リューはリュー。私の一番大切な宝」
尻尾の拘束を外して少しだけ上側に移動し、リューの頭を胸に抱きながらを撫でてあげる。人前で義母さんと呼ぶのが恥ずかしい年頃なのかもしれない。人間にはそういう時期があると長老も言っていた。だが、もしも何か言われるのなら私が守ってあげよう。これも私の責務。
「うおっ……これは……天国か……あ、いや嬉しいけど!嬉しいけどね!そうじゃなくて!!義母さんにはちゃんと名前があるんだって。最後に女神様が呼んでたんだ。シロって」
リューがもごもごと動き胸元から抜け出してしまった。そのまま座ってしまったので添い寝時間は終わりを告げる。む、尻尾を外すべきではなかったか。反省である。
………………………………?何故女神が私の名を?会ったことも、話したこともないのに。よくわからない。それにしてもシロ……シロかぁ。
「私が白竜だからシロ?なんだか単純。誰が付けたのかも不明」
「まぁ…………」
私の率直な感想に口ごもるリュー。責める意図は全くない。けれど、私の話す人間の言葉は些か直線的過ぎるのかもしれない。ただ………………………………
「でも、私は好き」
私が覚えていないだけで竜の皆が付けてくれていたのかな。それとも見たこともない産みの親か。いや、そのどちらでも構わないのだ。
名はあくまで個体を呼称するための手段の一つだ。本質的にそれ以上の意味はない。だけど……そこに何か他の意味を見出すのであれば……
きっと。私がリューを『リュー』と名付けたのと同じように、その誰かが私を愛おしい宝だと思って『シロ』と名付けたのだろう。ならばその思いは理解できる。
「誰が名をくれたのかは知らないけれど。単純で、簡単で、素朴だけれど。でも、素敵な名。私は好き」
私はシロ、シロ、シロと初対面の名を小さく口ずさむ。良い響きだ。
「……そっか。義母さんがそう言ってくれて喜んでると思う」
「リューもシロって呼んでみて?呼んで呼んで?」
「うん、人前ではそう呼ぶね」
「今、呼んで?」
「………………………………そろそろ起きようか。さぁ、今日から旅の始まりだ!頑張るぞ!」
「ほら、シロって。ねぇ、なんで呼んでくれないの?私、寂しい……」
「ぐ、ずるくない?それ?でもそのうち呼ぶことになるんだし、慣れておいた方が……?うぅ仕方ない。じゃあ呼ぶよ、シロ……義母さん」
「うん!旅、楽しみだね!」
しっかりと朝食をとり、最後に家の中の片づけを終えて準備完了だ。住処の獣たちにしばしの別れを告げ、私とリューは山を下りていく。もちろん竜の姿で飛んだ方が早く下りられるのだが、少しは歩くのもいいかもしれない。ちなみに人化した状態で普通に歩いて下りると数日以上かかると思う。
「あ、義母さん?ちょっと聞きたいんだけどさ」
「何でも聞いていいよ。私は物知り」
「竜の血って何か知ってる?」
「…………………………………………どうしても知りたい?怒らない?嫌わない?」
「え、怖い怖い。前置きが怖い」
「リュー。大丈夫、安心して。竜の血自体は馴染んでるから害はない。もう既にリューの半分くらいは竜」
「……………………へ?」
「私と同じ竜。家族で同族」
「待って待って、理解が追い付かない。どういう状況なの」
「大丈夫。全部竜にはなってないから。一応、姿は人間のまま。これからは……どうだろう?」
「えぇっと……勝手に………………?いつから………………?どうやって………………?」
「勝手に。リューが赤子の頃から。私の竜の血を食事に混ぜて」
「………………」
「実は私も言おうか悩んでたの。でもリューは私をひとりぼっちにしないんでしょ?なら竜の方が好都合。竜の身体能力は最強」
「……………………そうだけどさぁ!離れないけどさぁ!それとこれとはさぁ!」
「えへへ。一緒一緒!」
「……ぐ!嬉しそうだから怒るに怒れない!」
まぁ……そんな様子でリューとの旅が始まったのであった。ふふふ、楽しみ。
『竜は宝に執着する』
それは古くから伝わるもので、事実竜の本能の一つ……らしい。
『宝』の認識は竜によって様々だ。光り輝く希少な宝石、神話時代からの聖剣、芳醇な魔力が込められている魔具、何の変哲もないの石ころ、竜では着れもしない衣服、はたまた住処自体が『宝』である場合も。
一般的な価値は関係ない。『宝』の価値は竜が決める。豪奢であろうが、ささやかであろうが。数を求めるか、質を求めるか。大小を問わず、共通するのはそれを奪おうとする者は苛烈な怒りに晒されることだけだ……と義母さんは胸を張って語る。
だが『宝』が意思を持たぬ物であるのならまだいい。どれほど強大な力を持つ竜であっても、『宝』を愛でる行為自体は竜一匹の範囲で収まるのだから。
そうでなければ……………………自由奔放な竜に思うまま、一生好き勝手振り回されることになる。
「リュー?早く抱きしめて?今日はまだ四回しかしてない。足りない」
「町の中だから勘弁して………………皆見てるよ……」
「???何もやましいことはないから平気」
幸せだからいいけどさぁ!!
・シロ
旅に出てからは、今までに増してリューに抱き着く。所かまわず。人目は気にしない。
世界のことよりも、リューとどこへ寄り道をしようかが楽しみでたまらない。
・リュー
最短で魔王の所に行きたいが、なんだかんだ道中で人助けをしてしまう。
『これ義母さんがいたら旅に緊張感がないな……』と途中で気づく。
・女神様
割と一か八かに賭けるのが好き。今回は大成功。
あとリューをシロのもとへ送ったのは間違ったわけではなく、わざと。良い方向に転がることを願って。
・魔王
勇者と白竜にボコられた。完膚なきまでに。自分が一番強いんだと調子に乗ってはいけない。