『ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』
ずっと後にこの日のことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
もしも、あの朝ノートの端で指を切らなければ。
もしも、絆創膏を持っていれば。
私は、あの人たちと言葉を交わすことさえなかったかもしれないのだ。
今や考えられないことだけど。
* * *
「すみません、絆創膏ください」
医務室に入ると、先生の他に三人の男子生徒がいた。
わー、空条先輩がいる。この学校一の有名人、毎日の登下校の騒ぎは風物詩と言っていいだろう。遠目で見ててもすごいと思う。
「あら、怪我したの?」
「紙で指切っちゃって…絆創膏だけ貰えますか?」
「そこの棚にあるから自分でとっていいわ。私はこっちの健康優良児を教室に戻さないといけないから」
「先生ー、俺たちちょっと熱っぽいんですよぉ、早びけさせてくださいよ〜」
「ハイハイ、さっさと熱計ってもらうわよ」
絆創膏を探していると、後ろのやり取りが聞こえる。
「これが万年筆に見えるなんて、なんて頭の悪い子たちなのかしら!!よくッ!見てッ!見なさいッ!」
「せ、先生⁉︎」
異様なやり取りに振り向くと、先生が男子生徒の顔にペンを振り下ろそうとしている。
嘘でしょ⁉︎
咄嗟に守護霊くんーー子供の頃から側にいる、私以外誰にも見えない子で先生の手を押さえる。
ペンはギリギリ目を逸れるが、顔から血を流した男子生徒は、半分腰を抜かしたまま保健室から逃げていった。
ゾッとする。止めるのが間に合わなければ、目を潰していた。
一体先生はどうしちゃってるの⁉︎ 気でも触れたの⁉︎
「あんたもッ!まさかこれが万年筆に見えるなんて言わないわよねェッ⁉︎」
先生を後ろから羽交締めに押さえるがすごい力で振り解こうとしてくる。口から泡を飛ばし、目の瞳孔は開いてーー正気の顔じゃない。
守護霊くんは力は強くない。私と一緒に押さえているが、このままでは押さえきれなさそうだ。
仕方ない、ちょっと重いよ、先生!
守護霊くんが先生にかかる重力を重くする。ふらつき、膝が落ちそうになる。それでもなお、ペンを握る手を振り回そうとしている。
3倍の重力が先生の体を押さえつけている。普通なら腕や肩が持たないはずなのに。
「驚いたな、ジョジョ以外にスタンド使いがいたとは」
その声の方を見ると、いつのまにか窓際に茶色い髪の少年がいた。
「スタンド使い?何それ」
「ふん、そんなことも知らないのか。邪魔をするならお前も殺すぞ。この花京院典明のスタンド、
「はあ?なに言ってるのあんた」
「花京院、テメェ!何者だ!」
その時、空条先輩が私の前に来た。
「言っただろう、花京院典明。スタンドはハイエロファントグリーン。私は人間だが、あの方に忠誠を誓った。だから、貴様を殺す!その女医には私のスタンドが取り憑いて操っている。私のスタンドを攻撃することはその女医も傷つけることだぞ、ジョジョ」
花京院の言葉にギョッとして先生を見る。リミットの外れた異様な力は操られているからだったのか。体へのダメージを考えていないんだ。
「おい、お前。そのまま先生を押さえてろ」
先輩のすぐ横に青い巨人が浮かび上がった。その手が先生の口元に伸びると、口の中からなにかが引きずり出される。光る緑色の紐のようなものが体から離れると、先生の体から力が抜けた。顔を覗きこむが、目を閉じて動かない。気絶しているみたいだ。
「先生を傷つけはしねーさ」
驚きすぎて言葉も出ない。自分以外の守護霊くん…もとい、スタンドを見たのも初めてなのに。何が起こってるわけ? あとこの人なんて言った…殺す⁇
先輩のスタンドは緑色のスタンドを掴みあげて動きを封じている。スタンドが掴まれているのと同じ場所に指あとが浮いている。――スタンドが傷つくと本体も傷つくんだ。
突然、花京院のスタンドから液体が出る。それが固まって弾丸のように飛び、先輩を吹き飛ばした。
「先輩!大丈夫ですか⁉︎」
あげかけた悲鳴を飲み込む。この人は本当に先輩を殺す気だ。
そのとき、抱きあげていた先生の口から血が飛び散った。
「先生⁉︎」
先輩も驚きに目を見張る。スタンドを引きずり出すときに喉を傷つけた、お前の責任だ、お前がやったのだ、お前が大人しく殺されていれば女医は無傷ですんだ、と言う花京院。
いや、どう考えてもあんたのせいだろ。なに勝手なこと言ってんだ。
先輩が低い声で話しだした。
「…この空条承太郎は……いわゆる不良のレッテルをはられている…。ケンカの相手を必要以上にブチのめし、いまだ病院から出てこれねぇヤツもいる…。
イバルだけで能なしなんで気合を入れてやった教師はもう2度と学校へ来ねぇ。
料金以下のマズイめしを食わせるレストランには代金を払わねーなんてのはしょっちゅうよ」
空条先輩もすごいことを言ってる。噂話は聞いてたけど、尾鰭がついてると思ってたらそのまんまのもあったんだ……。レストランの代金は払った方がいいよ……好みの味じゃないだけかもしれないじゃないか。
状況についていけなすぎて、思考が明後日に向かっている。先生の血の赤がやけに鮮やかだ。これは、現実に起こっていることなの?
「だが、こんなおれにも、はき気のする悪はわかる!!
悪とは、てめー自身のためだけに、弱者を利用し踏みつけるヤツのことだ!!
ましてや女をーっ!きさまがやったのはそれだ!あ〜〜〜〜ん、おめーの「スタンド」は被害者自身にも法律にも見えねえしわからねえ…だから………おれが裁く!」
スタンドは見えない人にはなにが起こってもわからない。私が止めてなかったら先生は生徒の目を潰していた。先生がなにも覚えていなくても結果だけが残る。
たとえ怪我がなくても、先生の人生はめちゃくちゃになっていたはずだ。
「それはちがうな。「悪」とは敗者のこと。「正義」とは勝者のこと。生き残った者のことだ。過程は問題じゃない。負けた奴が悪なのだ」
また勝手なことを。そんなもんが正義であってたまるか。
花京院のスタンドの手にエネルギーが集まり始めた。さっきのエネルギー弾をまた撃つつもりだ。
――させるか!
足元の重力の向きをねじ曲げた。花京院は窓に向かって落ちる――が、即座に触脚で体勢を立て直した。続けて加重する。圧迫された床がかすかに軋む。花京院はよろめくが、倒れはしない。
「ふん、小賢しいマネを。貴様も死ね!」
ヤバい!先生を抱えて慌てて飛び退く。スタンドエネルギーの散弾が部屋中を破壊する中、必死に避ける――痛っ!掠っただけでも結構痛い!
避ける間に距離が開き、花京院にかけていた圧が解除される。
先輩は――エネルギー弾を全て弾き飛ばしている。え、嘘でしょ?強すぎない?
「負けた奴が悪…か。それじゃあやっぱりテメーが悪じゃねーか」
先輩のスタンドは文字通り目にも止まらぬスピードで、拳の連打を叩き込んだ。
「オララララオラ裁くのは俺のスタンドだッ―‼︎」
花京院は完全に沈黙した。……生きてる、よね?
「おい、お前、大丈夫か?」
「何とか。一年の柏木晶です。先生は――」
「…これなら手当てすれば助かるな」
終わった、と息を吐いた瞬間、非常ベルが鳴り響いた。こちらに誰か来る気配もする。
どうしよう。ガス爆発でもあったのか?というくらいに壊れた医務室。窓ガラスは割れ、薬品棚も倒れてこぼれた消毒液の匂いが鼻を刺す。血を流して意識のない先生。同じく血まみれの花京院。なんて説明すればいい?
「チッ、今日は学校をふけるぜ」
花京院を肩に担ぎ上げ、外に向かう先輩が、チラッとこちらを振り向く。この惨状の中に置いてかないで!あと何がなんだかわからないから説明を求めます!
さっさと先を行く先輩を追いかける。涼しい顔してるけど、意識のない人間は相当な重さだ。スタンドで花京院の重さを軽くする。これで同じサイズのぬいぐるみと変わらないだろう。
先輩は目線を向けたが、何も言わない。……戦闘中のほうがよほど喋ってたなぁ、この人。