クリス・ベイ・クラリノは、机の上に無造作に置かれた『革命軍募集のお知らせ』の紙を眺めた。
……紙に記された日時は、明日の夜。
場所はエルゼマリンへ向かう途中の山、とあったが、詳しい位置などは分からない。
尤も、多少、山の中で目的地を探すことがあったとしても、精々数時間のことだろう。目的の山はそれほど大きなものではない。探すのもそれほど苦労しないだろうと予想される。
王都から山までは数時間を見ておけば十分事足りる。決行時刻の6時間も前に出れば、十分間に合う。
……そう、幾度となく繰り返した確認をまた繰り返して、クリスは深くため息を吐いた。
伸し掛かる重圧はあまりにも大きい。国王からの期待も、現当主である父からの期待も、そして、諸貴族らや、国民からの期待も。
それらを裏切るわけにはいかない。
今回こそは、負けるわけにはいかないのだ。
武道大会での敗北は、クリスのこれまでの生涯における最大の汚点となった。
今まで敗北らしい敗北など喫したことのなかったクリスにとって、ほとんど初めての敗北であり……同時に、あまりにも大きな敗北であった。
人狼らしいものの影が見えたあの夜、屋敷へ戻ってきたリタルに『誰かに会いに行っていたのか』と尋ねたところ、嘘を吐くのが下手なリタルは『今日の対戦相手だった聖騎士と会っていた』と、重要な情報を漏らしてくれた。
そこから推理していけば、クリスが準決勝で対戦する相手こそが人狼であると答えを導き出すことも容易い。
同時に、月明かりの下、人狼だということを差し引いても十分に屈強な体躯を見れば、普通の聖騎士の鎧より大きく作られたそれを身に着けていた風変わりな聖騎士のことを思い出すのもそう難しくはなかったのだ。
……だからこそクリスは、目の前に飛び出してきたそれらの情報に、安易に飛びついてしまったのだ。
有り得ない程の幸運だと、思ってしまった。この幸運を逃すべきではない、と。
……『必ず』勝利する未来が欲しかった。そのために、クリスは最も選ぶべきではなかった手段を選んでしまったのである。
対戦相手が人狼だという事実を糾弾すれば、戦わずして勝てると踏んだ。
だが……衆人環視の中、人狼は躊躇うことなく鎧を脱ぎ捨てて、その忌まわしい化け物の体を露わにした。
獣の耳も、臀部から伸びる尾も、人間にはあり得ないそれであり……恐怖の象徴であった。事実、観客は人狼の姿を見て、恐怖し、戸惑っていたのだ。
……人狼が口を開くまでは。
人狼は随分と口が達者だった。朗々と言葉を述べていく様は、まるで何処かの演説家かのようであった。
人狼の言葉は観客を惑わせ……あろうことか、人狼の言葉通り、人狼を見逃すべきだと声を上げる者すら出てきたのである。
これが、クリスの1度目の敗北だった。
クリスは焦った。
観客の反応は、クリスが想定していた反応ではなかった。観客は人狼を恐れ、忌み嫌い、クリスと共に糾弾するはずだったのである。
即ち、『殺せ』と。
……観客を突き動かすための仕掛けが足りていなかったのだと、クリスは後から思う。
恐怖を煽り、民衆の意思を1つにして、『敵を殺せ』と声を上げるべきだった。だが、そのための準備はあまりにも不足していたのである。唐突に飛び出してきた幸運は、クリスに準備の時間や冷静になる時間を与えてはくれなかったのだ。
その結果……クリスは、判断を誤った。
兵士をステージに上げて、観客の同意無しに人狼を殺そうとした。
……クリスはそこで、2度目の敗北を喫したのである。
兵士達は無残にも蹴散らされた。人狼の戦いぶりは、まさに人外のそれであった。
あっという間に蹴散らされた兵士達が倒れ伏す中、人狼はクリスに対して……戦うよう、要求してきたのである。
そう。最もクリスが避けたかった『戦い』を。
人狼を糾弾して、兵士を使って、そうしてでも避けたかった人狼との戦いが、目の前に突きつけられた。
……冷静にはなれなかった。他に打開策が何も思い浮かばなかった。人狼の糾弾などすべきではなかったと後悔しても、もう遅かった。
そうしてクリスは人狼と、望まずして戦うことになったのである。
それが、クリスの3度目の敗北であった。
戦いが始まってすぐ、クリスは恐怖を感じた。
一撃一撃があまりにも速く、重い。人外の者の攻撃は、見事にクリスを翻弄した。
人間じみた姿かたちの魔物と戦ったことは数多かったが、それらのどれよりも強い相手を前に……クリスは自らの敗北を悟ってしまったのである。
最早、クリスの精神はこの時点で敗北していた。数えるならば、4度目の敗北となろうか。
……そして『勝てない』事実を悟ったクリスの前に闖入してきたのは、リタル・ピア・エスクラン。
傍系の家系だったが、齢の少々離れた弟のようにさえ思っていた彼が……自分より『格下』だと信じて疑わなかったリタルが、クリスの前に飛び出してきたのである。
クリスを止めるために。
……それを見たクリスの中には、実に様々な思いが渦巻いた。
失う恐怖。与えられる屈辱。より決定的なものとなった敗北への絶望。
それらはリタルへの憎しみとなり、憎しみは疑念を瞬時に描き出した。
この敗北は、リタルによって仕組まれたものなのではないか、と。
そう思った途端、剣が動いていた。
自分に憧れ、自分もまたそれなりに目を掛けてやっていた相手に向かって、迷いなく剣は振り下ろされた。
……そして、リタルを庇った人狼を斬りつけたと気づいた時……クリスは、5度目の敗北を味わったのである。
会場中が、クリスを非難していた。
最早、クリスこそが悪であり、人狼は正義の使徒であった。
更には、『悪の』クリスを倒そうと、『革命家』ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアが現れた。
……見事な登場であった。まるで、ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアこそが正義であるかのように、彼女は振舞った。観客もそれに、流されていた。
あり得ないことに、クリスは本来の善悪を反転されてしまったのだ。ここでクリスは6度目の敗北を味わい……そして、あっさりと。完膚なきまでに。
ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアは、クリスを叩きのめしていった。
これがクリスの人生最大の敗北にして……この日に感じた、7度目の敗北であったのだ。
自分が下手を打ったせいで、自分の首を絞めた。
そればかりか、クラリノ家の名誉に泥を塗り、自分のこれまでの栄光さえも、無様な敗北で塗り替えてしまった。
国はヴァイオリア・ニコ・フォルテシアによって大きく揺り動かされてしまった。民衆は惑わされ……オーケスタ王国の安寧にすら、罅を入れてしまったのだ。
クリスの責任は大きい。
陰で嘲笑う貴族も、クリスの前では『気にすることは無い』『相手が悪すぎた』と薄っぺらい慰めを口にしたが、それらを許すわけにはいかなかった。
クリスは認めるわけにはいかなかったのだ。自らの敗北など、認めてはならなかった。
自分を飾るものは全て栄光でなければならない。敗北を受け入れることなど、クリスの考えにはまるで無かった。
……幸いにも、クリスの栄光の材料は存在している。
そう。フォルテシアの悪魔がクリスの手で死ねば、クリスの栄光は取り戻される。救国の英雄として、クリスはまた名を上げることになるのだ。
自分に残された道は最早、それしかない。
1年前の春、フォルテシアの悪魔を国のために生贄にすることを決めたあの日から、巨悪を飼い慣らす道も、巨悪と共存する道も、完全に失われているのだ。
……あの日、クリスや他の貴族達、そして王家が生み出したのは、哀れな生贄ではなく……悪魔そのものだったのかもしれない。そう。フォルテシア家は悪魔の卵であったのだ。それを不用意につついてしまったために、悪魔が孵った。
……無論、クリスにはそう思うことももう、無い。
クリスは、認めてはならない。
あの日、自分が選択を誤ったなどと、認めてはならないのだ。
ましてや、下賤な成金貴族などが、生粋の貴族に勝利するような事が、許されてはならないのだ。
……クリスはまたため息を吐いて、作戦の確認を行う。
自分の勝利への道筋を何度も何度も確認する。まるで何かに取り憑かれたかのように。……それは、それ以外のものを見ないようにするために。
そんな折。
「クリス様!」
駈け込んできた召使いの声に滲む焦燥に、クリスの張り詰めた精神はより一層張り詰めた。それこそ、今にでもふつりと切れてしまいそうなほどに。
「……どうした」
最悪の返答を予想しながらクリスが問えば……召使いは、言ったのだ。
「リタル様がお部屋にいらっしゃいません!お屋敷の、どこにも……!」
クリスを裏切ったリタル・ピア・エスクランは、エスクラン家に帰すことなく、クラリノ家の客間に軟禁してあった。少なくとも、この作戦の終わるまでは、と。
だが、そのリタルが逃げ出した、となれば……。
「いよいよ、殺さなければならない、か……」
クリスはそう決意した。
今更、たかが傍系でしかない親戚になど、何の価値も無い。ましてやクラリノ家に汚名を着せようと働く者なら尚更始末するべきだ。
そして何より……自分を『裏切った』相手になど、何の容赦も必要無いのだ。