ダクター・フィーラ・オーケスタは、地下で己の半生を振り返っていた。
第七王子という、王家の中でも『重要ではない』位置に生まれたダクターの人生は、16の時に大きく変わることになった。
それは、ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアとの婚約。
……第七王子とはいえ、王家の者が、歴史も何もなく金しか持っていないような貴族の娘と婚約するなど、普通ならばあり得ないことだった。
ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアにしても、生まれつきの貴族ですらなく、幼い頃に貴族の身分を手に入れたというだけの、言ってしまえば下賤な娘であった。
自分には相応しくない相手だ。ダクターは婚約が決まる前から、そう思っていた。
そして婚約が決まる時、父である国王には詫びを入れられたものだ。
『王家の財政を立て直すためにも、フォルテシアの娘と結婚してくれ』と。
……下賤なフォルテシア家であったが、金だけはあった。それこそ、王都に長く続く名家のいくつかよりも多くの金を持っているのではないかとすら思われた。更に、フォルテシアはこれからも成長していくであろうことがダクターの目にも明らかだったのだ。フォルテシアの家は、貴族というよりは、抜け目ない商人のそれであった。
そうして婚約が決まった後、初めてヴァイオリア・ニコ・フォルテシアに会った時。ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアが「ごきげんよう、ダクター・フィーラ・オーケスタ様」と挨拶してくるのを見て……少々、気が変わった。
元々、王家の中でも下の方の子である自分には、元々大した期待は寄せられていなかった。その結果として下賤な家の娘と結婚させられる、というのはダクターには耐え難いことであったが……それでも、ヴァイオリアは幾分マシに見えた。
彼女は、生まれついての貴族の娘と比べてみても遜色ない程、優雅に振舞った。
彼女は、ダクターの姉妹である王女達と比べてみても遜色ない程、美しかった。
彼女は、献身的にダクターを愛し、ダクターの愛を得ようと努力していた。
……懸命に自分を気遣い、自分を愛し、自分の愛を得ようとする健気な娘を前にして、ダクターの気は変わっていった。
ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアであるならば、まあ、結婚することもやぶさかではない、と。
だが、またしてもダクターの人生は大きく変わることになる。
それは、ダクターが18の時。つまり、去年の春先だったが……国王から、こう言われたのである。
『フォルテシアの家を取り潰すことにした』と。
王家の財政の悪化は、ダクター婚約当初に予想されたよりも早く進んでいた。であるからして、王家は財政の安定のための特効薬……手っ取り早く手に入る金を、欲していたのである。
そこで目を着けられたのがフォルテシア家。王国の他の貴族達と強固な繋がりがあるわけでもなく、その割に金だけは持っているフォルテシア家は、適当な理由をつけて取り潰して財産を没収するのに丁度いい位置であったのだ。
……これにはダクターも困惑した。何せ、愛し愛される予定であった娘を手放せという話であるのだから。
ダクターとヴァイオリアの間には、婚約からの2年と少しでいくつもの思い出ができていた。会えない間もヴァイオリアは熱心に手紙を書いて寄越したし、ヴァイオリアの学院の休暇中には王城の中庭で茶話会を開いた。昨年、避暑地へと共に赴いた時などは、決して下品にならないながらもはしゃいだ様子を見せていた。
……そもそも、ダクターは既に、ヴァイオリアが愛し愛されようと努力する様子を見て、それを受け入れようと心を決めていたのだ。不本意な婚約であっても、そうするしかないのであれば受け入れるしかないだろう、と、諦める努力をしていたというのに。
だが。
困惑するダクターに、国王は言ったのだ。
『ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアの代わりに、きちんとした家柄の娘をお前に与えよう』と。
ダクターは思い直した。自分に相応しい家柄の娘が新たな婚約者となるのであれば、今までの努力が無駄になっても構わない。
ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアは家柄以外、欠点など見つからないような人物ではあったが……それも、国王が潰すと決めたなら仕方ない。
そうして、ダクターはその後の茶番劇に一枚噛むことで、ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアに婚約破棄を言い渡し……晴れて、自由の身となるはず、だった。
そう。『はずだった』のだ。
ダクターの新たな婚約者探しはゆっくりと行われた。
表向きは元婚約者に裏切られ、殺されかけた傷心の王子である。さっさと次の婚約者を決めてしまうのはいささか外聞が悪い。
だが、ある程度目星をつけておくくらいは構わないだろうということで、ダクターは名家の年頃の娘達を調べていた。
フルーティエの娘は中々愛らしい顔立ちで、如何にも守ってやりたいような印象を抱かせる。
ホーンボーンの娘はダクターより少々年上だったが、それ故の妖艶さと包容力が魅力的だった。
クラリノ家は既に兄と婚約している者も多かったが、傍系まで格を落とせば、やはり、自分に相応しいような娘達が大勢いた。
……だが。
彼女達は、ダクターが婚約の申し入れをするより先に、儚くも滅びていってしまったのだ。
フルーティエ家が没落した、と聞いた時、ダクターは強い衝撃を受けた。
丁度、フルーティエ家の娘との茶会を計画していた矢先であっただけに、あまりにも衝撃的な話であったのだ。
その時、ダクターの脳裏にはちらりと、ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアのことが過ぎった。
ダクターが婚約破棄を言い渡した時、彼女は言っていたのだ。『王家は破滅の道を歩むことになる』と。
更には……『地獄の底で後悔なさい』とも。
まさか、とは思ったが、笑い飛ばす気力は無かった。
……フルーティエ家の没落は、フォルテシアの呪いに思えた。
その後も、ダクターが目を付けた娘の家は没落していった。
エルゼマリンの貴族達が皆殺しにされたことで、ダクターが目を付けていた娘達のおよそ3分の1が消えていた。それにとどまらず、あちこちで貴族の運営するワイナリーなどがスライムの害に遭って潰れたり、はたまた王家主催の舞踏会に来ていた娘達が攫われて奴隷にされてしまったりと、あまりにもできすぎな悪運が続いたのである。
……そうして、王家自体もまた、調子を狂わせていった。
元々財政の危うかった王家は、次第に権力すら危うくしていった。
大聖堂は王家に靡かず、王家の威信を取り戻す手段も少なく……民衆の心が離れていくにつれ、その影にはヴァイオリア・ニコ・フォルテシアの姿がちらついた。
何故、彼女はこのようなことをするのか。
ダクターは理解できないヴァイオリアの行動の結果を立て続けに見せつけられて、只々困惑したのである。
やがて、王家は酷い状態になった。
革命軍などという悍ましいものが出来上がり、そして……。
……ダクターはいよいよ、王家の皆に裏切られたのだった。
空気に溶ける毒、というものが存在することを、ダクターは初めて知った。そしてその恐ろしさを、身を以て知ることになった。
食卓についた姿勢のまま、体が動かせなくなった。
舌がもつれ、縮こまり、今にも喉を塞いでしまいそうなあの閉塞感。血管が膨れ上がり、血がおかしな流れ方をし、心臓が嫌な脈打ち方をし……。
……いよいよ、死を覚悟したのだ。
その時ダクターが知ったのは、自分が王家にとって至極どうでもいい存在だったという絶望。
適当な家の娘と婚約させられ、更にはその娘に婚約破棄を言い渡され、次の婚約者が見つかるでもなく、その後もいいように使われ……そして、肉親に裏切られ、こうして殺される。
ダクターは絶望した。
そして、死を覚悟したのである。
……そしてダクターは死ななかった。
それは、ヴァイオリア・ニコ・フォルテシアが彼を救ったからである。
猛毒の部屋の中へと果敢に飛び込んできたヴァイオリアは、ダクターを連れて外へと逃げ出した。
ダクターの近衛の兵士ですらダクターを見捨てていったというのに。彼女だけが、ダクターに救いの手を差し伸べたのである。
その事実に……ダクターは、はっとさせられた。
自分を認める存在は、まだこの世に残っていたのだ。
何もかもが上手くいかず、肉親にも裏切られ、いよいよ死ぬしかなかった自分にも、まだ希望の光は残っていた。
……その希望の光に吸い寄せられて、ダクターは、王家を後にした。
裏切られたのだから裏切ってもいいだろう。自分に手酷いことをした王家など、滅びてしまえばいい。
いよいよ愛想を尽かしたダクターは、その日の夜、さっと城を抜け出して……それから、行方をくらませた。
それは、王家の滅びを待つため。
そして……新たなる王国の主となる彼女を、待つために。
……そうしてオーケスタ王家は滅び、新たな王国が始まった。
ヴァイオリアは女王として、新たな国を率いることになった。この国で一番の権力者となったのだ。そう。ようやく彼女は、ダクターに相応しい身分を手に入れた。
……だが、ヴァイオリアに再会したというのに、彼女の態度はつれなかった。そして、ヴァイオリアはダクターに、『死ね』と言ってきたのだ。
結局、ダクターの思い通りにはならなかった。ヴァイオリアはダクターを拒絶した。
だが、今度こそ、ダクターはヴァイオリアを愛するべきなのだ。婚約者であった彼女がこうして新たな国の国王になったということは、最早それが運命。自分に残された希望はそこにしかない。
自分にそう言い聞かせて、ダクターは……。
……自分のものにならないヴァイオリアに痺れを切らし、彼女を撃った。
その結果、今、ダクターは地下牢に居る。
そしてダクターは、自分の手で自分の希望をふいにしてしまったことを後悔していた。
最後まで希望に縋ればよかっただろうか。あそこで銃を撃つべきではなかっただろうか。だが、ヴァイオリアのかたくなな態度さえなければ、このようなことには……。
そして、堂々巡りの考えに陥るダクターの下へ、足音が近づいてくる。
その足音は、徐々に、徐々に大きくなり……やがて、ダクターの牢の前で、止まった。
そして、そこに現れた人物を見て……ダクターは、目を見開いた。
「ごきげんよう、ダクター様」
にっこりと優美に微笑むヴァイオリア・ニコ・フォルテシアが、そこに居たのだ。
「……ヴァイオリア……い、生きて、いたのか……」
「あら。死んでいた方がよかったかしら?」
「とんでもない!ああ、本当によかった……」
冗談めかして笑うヴァイオリアを前に、ダクターは心から歓喜した。よかった。まだ、ダクターの希望は消えていない。
これから女王と2人、仲睦まじく暮らしていくのも悪くはない。むしろ、自分の身分は以前のそれよりも高いものとなる。これ以上は望めないだろう。
ダクターは牢の前に立つヴァイオリアを前に、固く決意する。
今度こそ、この手を放さない。ヴァイオリアを、必ずや手に入れてみせる、と。
「ヴァイオリア、すまなかった。本当に、僕はなんてことを……」
「あら、気が動転してらっしゃったんでしょう。別に気にしておりませんわよ。この通り、私、すっかり回復しましたもの」
ヴァイオリアへ謝罪すると、それはあっさりと受け入れられた。それにダクターは、喜びを大きくする。
「それに、ダクター様。あなた、私を愛してくださっているのでしょう?」
更に、そう言ってヴァイオリアが微笑むのを見て、ダクターはいよいよ、深く歓喜する。
理由は分からないし、最早そんなものはダクターには考えられない。
だが、どうやらうまくいっている。そんな気がする。そして、高揚した気分はダクターを鼓舞した。
「さあ、ダクター様。こちらへいらして?お食事をご用意しておりますのよ」
そして、ダクターは特に何も疑うことなく……ヴァイオリアがガチャリ、と牢屋の鍵を開けたことに喜び、そして、差し伸べられた手を取るに至ったのであった。
ヴァイオリアに案内された先は、美しく飾られた部屋であった。
鮮やかな黄緑色の壁紙は優美なつる草模様。床は大理石ではないようだったが、白く塗られた石材でできていて中々洒落ている。シャンデリアは王城に飾ってあったものとよく似ていて立派な造りであった。壁に張り巡らされた緞帳はまた色鮮やかな緑や深い赤紫。活けられた花は甘く香り、用意されている卓には美しい細工のカトラリーが並ぶ。
そして、完璧に整えられた部屋の中で微笑むヴァイオリアもまた、完璧に整えられていた。
様々な赤色に染められた布を幾重にも使った豪奢なドレスを纏い、幾種類もの風変わりな宝石を飾った装飾品を身に着け。
……ヴァイオリアが身に着けているものは、それ単体では派手に見えるであろう代物であった。だが、それらがヴァイオリアに身に着けられ、全て揃うことによってしっくりと収まり、ヴァイオリア自身を1つの芸術へと昇華させていたのである。
「さあ、ダクター様。どうぞこちらへ」
ダクターを誘うヴァイオリアから、何か甘やかな香りがした。ダクターの知らない香りであったが、不快ではない。これは一体何の花の香水だろうか。或いは、花ではない何かの香りなのだろうか。ダクターはぼんやりする頭でそんなことを考えながら、誘われるがままに食卓へ着く。
ダクターとヴァイオリアが席に着くと、部屋の向こうから食事が運ばれてくる。
「あら、ご苦労様」
ヴァイオリアはにっこりと笑ってそれを流すが……驚くべきことに、食事を運んでいたのはゴーレムであった。
敢えて人間を使わないのだろうか。ダクターは少しばかり不思議に思いつつも、その不思議の裏に潜む何かへと思索を巡らせることはできない。
やがてゴーレムは、卓に前菜とワインとを運び終えた。
「それでは乾杯といきましょう」
ヴァイオリアはにっこりと微笑み、ワイングラスを軽く掲げてみせた。
ダクターはそれに倣って、同じくグラスを掲げ、そして、中に満たされたワインを飲む。
……それは、不思議な味わいであった。
上等なワインの味わいの中に、不思議な甘みがある。
やや舌に残る不思議な甘みは、しかし、ダクターの中で微かな違和感となっただけであった。ダクターは目の前で微笑むヴァイオリアに勧められ、早速前菜へと手を付ける。
前菜は牡蠣だった。牡蠣を上品に蒸しあげたものに、濃厚な旨味を内包するクリームソースが掛けられている。
口に運ぶと、牡蠣の濃厚な旨味が広がった。王城を逃げ出してから碌なものを口にしておらず、ここで地下牢に閉じ込められている間も粗末な食事を与えられていただけであったダクターにとって、それは強い歓喜を呼び起こすほどの味わいであった。
……だが。
微かに、引っかかるものを感じる。
渋みともえぐみともつかない、痺れのようなもの。金気臭さのような香り。
……それらはごく僅かなものだ。それこそ、笑って流してしまえるようなものである。だが、ダクターはそこに何か、引っかかりを覚えた。
「如何かしら。……私が調理したものなんですの。お口に合えばいいのですけれど」
だが、ダクターが覚えた微かな違和感は、ヴァイオリアが恥じらうようにそう言ったことによって霧散する。
愛する女性が手ずから調理したものにケチをつけるべきではない。そもそもヴァイオリアは成金貴族とはいえ貴族の育ち。そして今は女王である。そんな彼女が調理に慣れている訳も無いのだ。違和感など、気づいた素振りを見せずに流すべきである。
「ああ。とても美味しいよ」
「そう?ならよかったですわ」
ヴァイオリアは優美に微笑んだ。ダクターはその笑みを見て、満足感すら覚えた。
今、自分は世界一幸福な人間なのではないかとすら、錯覚していた。
次に運ばれてきたのはスープであった。
スープはとろりとして赤い。そこに、柔らかく煮込まれた肉や根菜が見えている。
ダクターはそれらをスプーンですくい、口にした。
……鉄臭さのようなものを感じたが、それもすぐに忘れる。
強く利いた香辛料が、ダクターに違和感より先に驚きを齎したのである。
「あら、お口に合わなかったかしら。異国の料理だそうですの。このように沢山のハーブやスパイスを利かせたもので……私は気に入っているのですけれど」
ヴァイオリアが少しばかり残念そうな顔をするのを見て、ダクターは慌ててもう一口、スープを口に運んだ。刺激の強いそれを飲み込めば、麻痺した舌は特に違和感を覚えることもなくそれを受け流す。
「慣れない味だが、僕も気に入ったよ。これは中々面白い」
「あら、嬉しい。そう言って頂けると、作った甲斐がありましたわね」
ヴァイオリアがまた上機嫌そうに微笑むのを見ながら、ダクターはスープを胃の腑へ流し込んでいった。
……そうして次に運ばれてきた肉料理は、贅沢に赤身の一枚肉を焼きあげたものだった。
一口、口にしてみれば、それが極上のドラゴン肉だということが分かる。噛みしめる程に溢れ出る旨味。重厚な風味。脂の一滴に至るまで甘く、完璧な晩餐会に相応しい逸品であった。
……だが。
「あら、ダクター様。どうされましたの?お加減がすぐれないようですけれど」
「そんなことはない。大丈夫だ」
大丈夫だ、と言いながらも、ダクターは体に違和感を覚えていた。
微かな震え。気づけば指先は冷え、それでいながら妙に体が熱い。冷たい汗が出る。そして、胃が微かに痙攣しているかのような……。
「そうですの?なら、私の勘違いかしら。……私、ダクター様はもしかしたら、嫌々にお食事をなさってらっしゃるんじゃないかと……」
「嫌々だって?とんでもない!君と食事を摂っていて具合が悪くなるなんて、そんなことはありえないさ」
だが、ダクターはそれらを、今までの過酷な生活と、緊張の糸が切れたことによるものだと信じた。
……希望を掴んだ今更にその希望を疑ってかかることなど、ダクターにはできなかったのである。
そして食事は進み、最後の皿が運ばれてきた。
最後の皿は可愛らしいデザートだ。輝くような白いムースの上に見慣れない木の実が品よく飾られている。そしてムースケーキの周りには、飾りの木の実で作ったのであろう濃い赤紫のソースが流してあった。
芸術品さながらの美しい一皿を前に、ダクターはスプーンを手に取り、ムースを一すくいすべく、皿へ近づけ……。
そこで、銀のスプーンが黒く濁ったように変色していくのを見て、凍り付いた。
「あら、どうなさったの?ダクター様」
そんなダクターを見て、ヴァイオリアは微笑む。
「どうぞ召し上がってくださいな。今までの皿と、同じように」
ダクターは動けずにいた。
何故銀のスプーンが変色したのか分からない。何故フルーツソースがこんなにも色鮮やかなのか分からない。ヴァイオリアの微笑みの意味が分からない。
……否。
分かっていた。
銀のスプーンが変色するのは、そこに毒がある証。フルーツソースの材料であろう飾りの木の実は、かつて植物図鑑で見た有毒植物によく似ている。そして、ヴァイオリアの微笑みは……。
……分かってしまった瞬間、ダクターの背筋を冷たい汗が伝う。胃のむかつきは確かな違和感として自覚される。
体が震える。寒い。歯の根が合わない。
息が詰まる。吐き気がする。心臓が狂ったように脈打っている。
希望が、ダクターの手の中で、脆くも砕けて消えていく。
後に残るのは……冷たく確かな、死神の刃。
死と絶望のみである。
ガチャン、と、音が鳴る。
自分が銀のスプーンを取り落とした音だと気づくこともなく、ダクターは既に恐怖に囚われていた。
見ていた希望は幻覚だった。そう分かってしまった事はダクターにとって不幸以外の何物でもなかっただろう。
気づかなければ、幸福な夢を見て死ぬこともできたかもしれないのに。
……そう。『死』。
それは確実に、容赦なく、ダクターを捕らえに来ているのだ。
「あら、お気に召さなかったのかしら?美味しいですわよ?砒素のムース。インクベリーのソースも絶品ですわ」
ヴァイオリアは優雅にスプーンを動かすと、彼女の皿からムースケーキをすくって口に運んだ。そして、美味である、と表現するように口元を綻ばせたが……彼女の持つスプーンもまた、黒く変色してしまっている。
それを見て、ダクターはぞっとした。目の前に居る女はきっと、人間ではない。悪魔か、死神か。はたまた、毒を食らうことを躊躇わない、狂人か。
「そうね、砒素といえば、この部屋の壁紙、綺麗でしょう?この緑は砒素によるものですのよ」
「な……」
更に、花びらのような唇から紡がれた言葉を聞いて、ダクターはぞっとした。
ただ美しいとしか思っていなかった部屋は、見渡せば全てが毒である。
美しい緑の壁紙は砒素。同じく緑色に染められた緞帳も砒素。白い床は鉛だろうか。活けられた花はきっと毒花に違いない。
……嗚呼、この部屋は確かに完璧であった。完璧な、処刑場であったのだ!
「それから、インクベリーですけれど。ほら、ご覧になって?このドレスのこの部分はインクベリーで染めたものですのよ?こっちは辰砂。こっちはバジリスクの血。……それに、このネックレスもね。いわば、毒の塊ですわ」
ヴァイオリアが席を立って近づいてくる。翻るドレスの裾は、まるで死を招く死神の衣。飾られた宝石の数々は悍ましい毒物であり、きっと、彼女から香る甘い香りもまた、毒の香りなのだろう。
「く……来るな!来るな!」
ダクターもまた、席を立っていた。そして、少しでもヴァイオリアから逃れようと後ずさる。
だが、震える体、萎えた脚では碌に動けもしない。そうこうしている間に、体はどんどん動かなくなっていく。それは果たして、恐怖によるものか、はたまた毒によるものか。
「ぼ、僕を殺す気か!?殺す気なのか!?どうしてだ!こ、こんなことをして、どうして!どうして!」
ダクターは錯乱気味にそう言い募る。すると……ヴァイオリアは、ふとため息を吐きながら、言うのだ。
「そうねえ、ダクター様。あなた、私に『変わってしまった』と仰いましたけれど……変わっていませんのよ。本当に。だって私、元々あなたを殺すつもりでしたもの」
「あなた達が玉座の間で『王子暗殺未遂』の罪を糾弾してくださいましたけれど。あれ、濡れ衣でもなんでもありませんでしたのよ?私はあなたを殺すつもりでしたわ」
「な、何故……」
ダクターは特に意味もない言葉を発する。言葉を発している自覚も最早、朧であった。
「……まあ、それも済んだことですわね。ですから私、今一度あなたにお伺いしましょう」
だが、恐怖に震え、死に震え、足元すら覚束ないような状態になったダクターにも、ヴァイオリアの瞳は容赦なく向けられた。
その、鮮烈すぎる赤色の目が、ダクターを見据えて……嗤っていた。
「あなた、この毒の女王に求婚する気概がおありかしら?」
そうしてダクターは、知るのだ。
「できますわね?愛を免罪符にするつもりなら、相応の覚悟がおありなのでしょうね?……さあ、毒という毒を纏った私を、どうぞ抱きしめてごらんなさいな」
自分がどうしようもなく、間違えた、ということを。