ベルリク戦記 ー 戦争の生涯 ー 作:さっと/sat_Buttoimars
01話「三度敗北」・第6章開始
臭い。
手洟をかんで手についた真っ黒い鼻水を確認して吃驚すると同時に、通りが良くなって酷い臭いが上がってきた。
臭いの元は垢と脂と血に、乾き始めた泥と腐った肉、痛んだ携帯食糧、あとはズボンにこびり付いた下痢糞だろう。痛んだ布地、虱が同棲している毛皮にも染みついている。革の服にしとけば良かったな。
蝿がうるさい。乗っている馬もうるさそうに目をシパシパさせて首を振って鼻息を鳴らす。
敗残の退路は糞のようだ。もしかしたら糞の方が清潔。
馬に二人以上乗せている兵士が目につく。馬にしがみつく体力も無い者と、馬を失った者の双方だ。
馬もあちこち転戦して集めた奴等で、道草食えば何とかなる草原と北森の馬共は元気だが、砂漠と農民の馬共は腹が弱くて飼料が足りず倒れている。
この光景は哀れみを誘う。誘われてみて許容していたが、これ以上はまともな者も道連れになりかねないと判断して声を上げる。
「助からない奴は置いていけ!」
少しボソボソ、独り言等が上がる。不満、謝罪、色々だが、感情を大にするほどの元気は皆持ち合わせていない。
「とどめは刺してやれ! 良い扱いなんか無いぞ!」
まばらにボトボト、地面に負傷兵が落とされる。優しく下ろす余裕はすくない。臭いし。幸いか、地面は今乾いているので泥溜りよりは罪悪感がやや薄い。
苦鳴が上がるものの、短刀が足手まとい達、弱った仲間達に振り下ろされた。慈悲である。
捕虜になっては目玉金玉抉られ、皮を剥され、自分の腹の肉を食わされ、死んだかも確認しないで浅い墓穴に生きたまま埋められるより何ほども良い。
風が最近はめっきり冷たく、湿ってきている。
秋が近付いている。つい前まで夏だと思っていた。最近は冷夏が続いているせいか夏が短い。そもそも短い北の夏が終わろうとしているようだ。
風が吹いて来る方角を見れば分厚い雲が空を覆い、こちら側の青空を埋めつつある。目を凝らせば雲の奥、視界の彼方側の雲が壁のようにも見える。降雨が迫っている。
湿気は嫌いだ。湿気が好きな遊牧民がいるか?
水は物を腐らせる。神経まで腐らせる。
負傷兵、死人を下ろしてしばらく。臭いが収まってきた。蝿も減った。だが今度は陽射しが途切れた。
気温が下がる。湿っぽくて冷たい。湿った寒さは凍る寒さより身に応える。
雨が追いついて体を濡らす。馬から騎手が落ち始める、馬までもが倒れ込む。
もう動けなくなった人と馬を、まだ元気が多少ある者が殺していく。
あともう少しで本隊のいるヘンバンジュ市に到着する。そのあと少しが遠い。弱った者には耐え切れない。
本隊の後退のために行った陽動攻撃は成功だった。その代わり、我々がこんな悲惨な目に遭っている。
泥沼の天政内戦に介入し、中原に突入してレン朝を支援し、失敗して引き上げて兵、武器、物資を補充して軍を再編してまた突入する、を反復した。
一度目はヤンルーの都を目前にするまで突入したが、天政無双を謳われる特務巡撫ルオ・シランが指揮する西勇軍に破れて撤退した。
二度目は暗殺された東王の長子がヤンルーで天子に即位して、我々が救援に向かう前にエン朝とかいう、南朝天子の外戚が立ち上げた賊軍がヤンルーを占拠して天子を処刑する。
三度目の今回は、今度はエン朝が伝説の龍帝と黒龍公主とか言う妙な化物――らしい――に乗っ取られ、龍朝を名乗って中原の征服速度を上げたので、せめて全土統一はされまいと牽制するのが目的だった。
初めから三度目は縁起が悪かった。中原入りした矢先にこちらと友好的だった北王は龍朝を認めた北方三藩に滅ぼされた。
分裂した東王領では好き勝手に天子を名乗り始めた王子達が内戦を繰り広げていて、団結を呼びかけても梨のつぶて。
南王領では未だに乞食難民の群れを率いる廃王子が天子を名乗って暴れ回っているが、あんなものが何になるのか。
失敗だ。我々はこんなところで誰と何を相手に戦っているのだ。
アッジャール朝崩壊後に散らばる流浪の遊牧同胞達を集め、統率してきた結果がこの、何の愛着心も沸かない中原とかいう泥沼での殺し合いだ。
ここは蒼天の神が見下ろす草原でも砂漠でも無い。祖先の風はここまで吹いてこない。
意味も無く殺して、殺されて逃げ帰っているだけだ。
■■■
遊牧領域と中原の境目である大河ジン江中流に位置するヘンバンジュに我がジャーヴァル軍は到着した。
軍の名前は第一次遠征時、昔のままだが、損耗と補充と再編で中身はもうジャーヴァルの気配は無い。
そのジャーヴァル軍の帰還を歓迎してくれたのは門からぶら下がる、元ヘンバンジュ太守。レン朝に対し反乱したところを撃破したのも少し前の話である。
元太守はわざわざ防腐処理がなされ、カラス避けに網籠を被せてあるほどだが、流石に風雨で痛みが見えてきている。虫がつかないところはうらやましいかも。特に虱。虱は死人につかない。
仲間の帰還に喜びと悪臭への嫌悪が混ざって変な顔になった門番に挨拶をして入城する。
一軍の帰還である。市内が慌しく動き始め、本隊の将校達が労いの声をかけてくる。
脱落者は多い。解散して休暇に入らせた時、食事と秣が食べ切れないくらい用意されていたことに結果的になってしまっていた。
この惨状を市庁舎にいる我々の節度使様へ報告に上がる。
市庁舎内の廊下で擦れ違った官僚がこんなことを言った。
「これは将軍、お帰りなさい。しかしその姿で参られるのですか?」
戦場帰りの軍装そのままだ。垢と埃、血や泥で汚れて凄まじい臭気を放っているままだ。服が擦れるととてつもない、人間とは思えない臭いが鼻を刺す。服を手で払えば虱と煤交じりの土埃がパラパラと落ちる程度。
「これが戦争だ」
「左様で」
当て付けだ。
擦れ違う人々に嫌な、分かったような、そんな顔をされながら進んで、暖簾の下がる執務室の前で化け犬、公安号に通せんぼされて「ヴォン!」と腹に響く音で咆えかけられる。
「退け」
公安号は次に低く唸る。正直、理性で抑えられそうにないくらい怖い。猛獣というのはそういうものだ。このまま背を向けたいのが正直なところ。
「報告をさせないつもりか? ワンころが。土産の虱をくれてやろうか」
「ウゥ」
この化け犬には言葉が通じるが、聞き入れられるかは別だ。
「将軍を通しなさい」
「クゥン」
机仕事に筆を動かす節度使サウ・ツェンリーの背後へ公安号が一転子犬のように鼻を鳴らして大人しく引き、その背を覆うように座る。
あれでも上等な室内犬なんだろうが、未だに定住民共が糞食いの犬っころを可愛がる感覚は理解できない。草じゃなくて糞だぞ?
暖簾を手で払って執務室に入る。
「任務完了しました」
「ご苦労様です」
墨を塗ったくっても代わり映えしそうにない黒の官服官帽姿の節度使サウ・ツェンリーは机上の書面に目を落としたまま、こちらを見もしない。
この、なおもレン朝に拘泥するツェンリーが歯痒い。どう考えてもレン朝など風前の灯なのにそれを支えようとしている。
絶望してもいいのにあの小娘――今はもう成長して顔が見上げる位置にあるが――超然として、好きな子に微笑んだことも無さそうな小難しい顔のままだ。
「我が騎兵の損耗は酷く、質も士気も落ちています。積極的な作戦はしばらくの間不可能です」
兵も馬も酷いものだ。弓馬もまともに扱えない上に目の悪い非遊牧民が増えて得意の戦術も使えず、上等な餌じゃないと腹を下す馬ばかりで昔のような素早い行軍もできない。それでも走れれば使いようもあるが、ロバと変わりがない、調教もろくにしていない農耕馬ではどうにもできない。
「そうですか。鎮守将軍と協議して下さい」
他人事のように言いやがる。情厚く語る奴ではないことは重々承知していたが、キレた。
「もうあんたの王朝でいいだろ。ハイロウが俺達の中原じゃダメなのか? 天政の伝統とやらはそこで続けられりゃいいじゃねぇか! その出来の良い”おつむ”に詰まってんだろが。ハイロウは持ちもんだ。これにテイセンの蛇姉ちゃんだって、忠実な宇宙太平団だっているじゃねぇか。あれだけ揃えてる王なんて世界にどれだけもいねぇ。何が不満だ、何が足りないんだ!」
「ビジャン藩鎮は一官僚である節度使が管理、守護します」
こちらが感情的に喋ってもこれだ。
「もう分かってるだろ。俺達にとってはお前が天子だ」
「東王領は分裂しても未だ滅ばず、南王領ではレン・セジン様が奮闘しております」
「レン家なんか滅亡寸前じゃねぇか! 力が及ぶ範囲なんてほんのわずかだ。それで何をあんな、死に掛けの連中のために……」
「一官吏の与り知らぬところであります」
「与り知らない!? お前以上にこの、ここを、知っているあんたが知らないだと!? 馬鹿にしてるのか! レンなど知るか。ビジャン藩鎮の全員がお前だからついてきたんだぞ!」
「ビジャン藩鎮節度使の存在と功績は天政あってのことであります」
「あんた個人の声を聞かせろ!」
ツェンリーが首を傾げ、書面にまだ半分目をやりながらこちらを一瞥する。
「分かり切ったことを小うるさい」
首の傾きは呆れか?
「じゃあ何だ?」
「万の年月と億の生命が積み重ねって生まれた正統性に裏づけされた正統天政を不滅にします。ならば一官吏としての立場は崩すことのできないものであります」
「……我々の命を美談にして後の世にでも語り継ぐ気ですか?」
「あなた方の信仰で云う、祖先は風の解釈にあたります。事象を幽地の際の向こうへ置いて乾期不変の一部とします」
勇敢に死んで伝説になれと言うのだ。事象を……なんちゃらは良く分からないが、大体同じ意味だろう。
忠義に殉じて滅びでもすれば、それは後の世にまで語り継がれるだろうし、ツェンリーが守ろうとした天政の伝統とやらも一目置かれるだろう。間断無くとはいかなくても不滅にはなろう。
「本気で言っているのですか」
理想の思想のために死ねと?
「それが何か」
「約束は? ヘラコムの北と西の草原を俺達のものにする話は?」
「順序通りです。中原における内乱が平定されて後、余力が復活したところでそのようにする。約束が違うと思うのはそちらの認識の利己的な飛躍です」
「それが無ければ我々は散ると言いましたよ。先延ばしは反故に等しいはずです」
「約束を果たす条件が整っておりませんので先延ばしではありません。それに散ってどうしますか? 数多くの人馬を失い、未亡人を重婚させて何とか一族的な縁を繋いで部族を擬態しているあなた方に何ができますか?」
「くそったれのサウ・ツェンリー万歳」
この節度使には言葉が通じるが、聞き入れられるかは別。
一官僚、一官僚。汚職もしなければ職権の濫用もせず、潔癖の果てがこれだ。ケツに鉄棒突っ込んで梃子噛ませてもこっちが負けそうだ。
「節度使に万を号することは出来ません。訂正しなさい」
「うるせぇ!」
吐き捨てて部屋を去ろうとしたら、足が床にくっついていた。あ?
「訂正しなさい」
今までこちらをまともに見もしなかったツェンリーが、真っ直ぐこちらを睨んでいた。
「そんなこと……今更なんだよ」
「道理に反し、序列を軽んじる発言は慎みなさい」
「その内、石を投げれば天子に当たる時代が来るぜ」
「訂正しなさい」
石どころではない、鋼の頭だ、こいつ。
「……先ほどの発言を取り消します」
「よろしい」
床から足が離れ、姿勢が崩れて転びそうになる。靴底を見ると夏なのに、泥が凍り付いていた。
難なくその恐ろしい方術を使ってツェンリーは何事も無かったように書類仕事に移ってこちらに関心も払っていない。
暖簾を乱暴に払って退室。通りがかった女官が口を開いたと思ったらえずく。
しかし臭ぇなこの体。よくもあの節度使は文句も言わないで平気な面をしていられたものだ。若いのに鼻が悪いんじゃないか?