「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩――   作:八神 アキト

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第十四話 方家堡編 其ノ二 劇場

幕が上がっても、宴賓楼に漂うあの湿り気を帯びた寒気は消えなかった。

それはまるで肌に張りつく薄い膜のようで、形は見えないのに、呼吸だけが確実に重くなっていく。

観客席には、黒々とした影がずらりと座ったままだった。

背筋は不自然なほど真っ直ぐで、両手は行儀よく膝の上に置かれている――

「芝居を待つ人間」というより、そこに並べられた器物のようだった。

灯りがわずかにともる。

だがその光は温もりを持たず、井戸の底から反射してきたような冷たい光だった。

その光に照らされても、浮かび上がるのは鼻筋と頬骨の輪郭だけ。

そこに「人の形」はあっても、「生きている気配」はない。

阿虫は、その場から一歩も動かなかった。

ここが鬼城であることも、

この場所における「一見まともに見えるもの」が、より深い異常の表れであることも、彼は理解している。

だが――

舞台中央に立つあの女に視線を戻した瞬間、思考が一瞬、空白になった。

彼女は灯影の中に立ち、衣の裾を静かに垂らしていた。

線は端正で、過剰な装飾はない。

その美は艶ではなく、長い長い悲しみを骨の奥まで練り込んだ末に残った、冷ややかさと節度だった。

その瞳はひどく澄んでいる。

この陰鬱な城とあまりに不釣り合いでありながら、同時に、この城の闇すべてを映し込めそうな光を宿していた。

舞台の女旦(じょたん)が、そっと手を上げる。

太鼓も、囃子もない。

喧騒は一切ない。

彼女は指先で、見えない弦を軽く弾くような仕草をした。

次の瞬間――

舞台の奥から、かすかな「カチリ」という音が響いた。

それは木の関節が正しい位置に戻る音にも、金属の留め具が噛み合う音にも聞こえた。

続いて、幕の奥から二つの人影が、ゆっくりと押し出されてくる。

――いや、人影ではない。

二体の「人形」だった。

彼らは帝国の華やかな舞台衣装を身にまとい、冠も、飾り帯も、刺繍も完璧だった。

だが、その動きはどこか不自然で、足取りは浮いているように軽い。

身を翻すたび、関節のあたりから、鋭く小さな摩擦音が走る。

さらに異様なのは、灯りの下で、彼らの袖口や裾が時折、細い光を反射することだった。

――糸のような、線のような光。

阿虫は目を細めた。

糸。

女旦の指先から伸びるそれは、ほとんど見えないほど細く、空気の中に張り詰めている。

蜘蛛の糸のように、そして――人の命脈のように。

「……傀儡か」

彼は低く呟いた。

阿虫の左右に立つ菖蒲と剣蘭も、最初は警戒を崩していなかった。

だが、舞台から最初の唱が響いた瞬間、二人の呼吸がはっきりと止まった。

それは、普通の一座が出せる声ではなかった。

女旦が口を開いたその瞬間、劇場全体に満ちていた「観客たち」の静寂は、さらに深く押し沈められた。

その唱は凄絶で、遥か遠くから届くようでありながら、人の胸腔から直接引き剥がされたかのような、生々しい真実を帯びていた。

――《鳳哀凰離》。

帝国の名劇。

剣蘭は幼い頃、城下で何度も観ている。

菖蒲に至っては、北王府の宴席で繰り返し目にしてきた。

二つの仇敵の皇族。

権謀と血の因縁の中で愛し合った少年と少女が、家の名に引き裂かれ、最後には共に命を落とす――

天下に知られた悲劇だ。

二人とも、すべてを知っている。

展開も、詞も、鼓の入りすら。

それなのに――

今耳にしている《鳳哀凰離》は、まるで初めて観るもののようだった。

女旦は舞台の中央を、音もなく歩く。

一歩踏み出すたび、衣の裾が水のように広がる。

彼女の視線は客席を見ていない。

届くはずのない、遥かな場所を見つめているようだった。

糸に操られた傀儡たちが現れ、礼をし、身を翻し、唱を交わし、抱き合う。

その動きは依然として「生きて」はいない。

だが、女旦の唱の中では、それがかえって残酷な対比となっていた。

魂を持たぬものが魂の悲歓を演じ、

心を持たぬものが人の心を引き裂いていく。

「初逢」の折。

舞台上で、鳳族の継承者が花影を踏み、凰族の継承者が幕の奥から現れる。

二人は見つめ合い、詞には「命にして語るべからず」とある。

だが、女旦が吐き出したその「語るべからず」は、

長く喉に詰まっていた言葉を、無理やり押し戻すようだった。

声が、ほんのわずかに震える。

だがその震えは、観る者の心臓を直に打った。

剣蘭の指が、無意識に強く握られる。

ここは本来、軽やかな掛け合いが入り、甘さが滲む場面だ。

それなのに、女旦の唱う甘さには、痺れるほどの苦味が混じっている。

――これは始まりなどではない。

始まった瞬間から、すでに終わっているのだと。

そう告げられている気がした。

菖蒲もまた、言葉を失った。

技巧も演出も、誰よりも見てきたはずなのに、

今耳にしている唱が、技なのか、それとも――真なのか、判別できない。

舞台で演じられているのは名劇ではなく、

演じる者自身の過去なのではないか。

そんな錯覚すら覚えた。

言葉にできない引力が、劇場に満ちていく。

先ほどまでの陰湿な圧迫感は消えていない。

ただ形を変え、音楽となり、詞となり、呼吸の合間の沈黙となって存在している。

見えない手が、そっと後頭部を押さえ、視線を逸らすことを許さない。

阿虫も、目を逸らさなかった。

最も警戒すべきは彼のはずなのに、

気づけば――聴いてしまっている。

女旦が「冤」の折を唱う。

鳳族の継承者は反逆の汚名を着せられ、万人に糾弾され、

最も近しい者たちすら、口を開いて彼女を裁く。

舞台上の傀儡たちは、玉印や鉄符を掲げ、ぎこちなく指を突きつける。

顔なき裁定者の群れのように。

女旦はその中央に立ち、声を極限まで落とす。

喉から声を抜き取り、残った一線の息で唱う。

――「我に罪なし」。

だが、その三文字には弁明の力がない。

あるのは、限界まで押し潰された、語ることすら許されぬ痛みだけだ。

阿虫の指が、ゆっくりと食い込む。

その引力の正体が、ようやく分かった。

芝居ではない。

冤罪を受け、口を封じられること。

その痛みを、彼は知っている。

思い出したくないほどに、知っている。

だからこそ、毒舌や冷笑で誤魔化してきた。

「くだらない」と切り捨てることで、認めないようにしてきた。

それでも――

かつて自分も、指を突きつけられる側に立っていたことを。

芙蓉。

その名が、胸の奥で小さく響いた。

顔は思い出せない。

だが、あの清潔な匂いだけは覚えている。

陽に干した布のような、遠い温もり。

思い出した瞬間、その温もりは、より鋭い痛みに変わる。

阿虫は思った。

女旦が唱っているのは、鳳族でも凰族でもない。

生きながら、訴える場所を持たぬ者たちだ。

芝居は、次第に刃となる。

長老たちが別離を強いる場面。

本来なら「天命」という言葉で片付けられるはずのそれは、

ここでは冷酷な別物に変わっていた。

――天命ではない。

――人心だ。

――運命ではない。

――権力だ。

傀儡たちが輪を作り、糸が網のように二人を引き離していく。

女旦の唱は、ここで完全に解き放たれた。

長く抑え込まれていた悲嘆が、一気に溢れ出す。

観客たちは動かない。

だが空気は締め付けられ、剣蘭は息ができなくなる。

目が、赤く滲む。

これは芝居だと知っている。

名劇だとも、何度も観たことがあるとも。

それでも――

今、瞬きをしたら、舞台の二人は永遠に引き裂かれる気がした。

そして、結末。

原作では、二人は死ぬ。

仇は解けず、悲劇は固定される。

だが、ここでは違った。

運命の縄を、力づくで断ち切るように。

最後の折。

枷が下ろされ、傀儡が迫る中で、二人は死を選ばない。

見つめ合い、

絶望の底で、互いの手を見つける。

そして――背を向ける。

死ではなく、逃走。

唱は一瞬、軽やかになる。

それは喜びではなく、絶望の中の反逆だった。

「俗を棄て」

「天地を路とし」

「ただ一生を共にせん」

糸が乱れ、傀儡の動きが狂う。

幕を抜けた瞬間、舞台の奥に、あり得ない暖光が灯る。

この鬼城では、あまりに不釣り合いな光。

だからこそ、胸を刺した。

剣蘭の涙が、今にも零れ落ちそうになる。

声を出せば、この幸福が壊れる気がして、唇を噛みしめた。

最後の唱が落ち、女旦が指を戻す。

糸は緩み、傀儡は力を失い、静止する。

死のような静寂。

幕が下りる。

「――ドン」

世界の扉が、閉じられたような音。

だが剣蘭と菖蒲は、動けない。

魂を引かれたまま、呼吸すら芝居の余韻に縛られている。

阿虫が手を振る。

「おい。起きろ」

反応はない。

菖蒲の睫毛が震えるが、上がらない。

剣蘭は、暖光の中に立ったままだ。

「……チッ」

その時、幕が再びわずかに上がる。

女旦が前へ出て、深く、正確な礼をした。

すべての悲しみを礼節に封じ込めたような動きだった。

「ありがとう」

唱よりも軽く、だがはっきりした声。

「あなたたちは……初めて、私の改編版を最後まで観た人」

視線は阿虫に向けられる。

三人の中で、彼だけがまだ現実に立っていると、知っているように。

「これまでの人たちは、結末まで耐えられなかった」

「途中で逃げるか……二度と出られなくなるか」

一瞬の沈黙。

「ここは、あなたたちの来る場所ではない」

「できるなら……魂を奪われてほしくはない」

阿虫が低く問う。

「出ていけって言ってるのか」

否定はしない。

「だが、もう入ってる」

「ここまで来て、今さら?」

女旦は一瞬、影を落とす。

「……ええ。もう出られません」

指を引く。

見えない糸が張り詰め、彼女の輪郭が薄れる。

「せめて、自分で選んで」

「魂を、ここに残さないで」

糸が巻き取られ、女旦は闇に消えた。

劇場は、空になった。

次の瞬間――

地が、低く唸る。

中央が裂け、黒気が噴き出す。

「――ギャアアアアアアアアッ!!」

魂を噛む咆哮。

鬼王、方家堡の主が、姿を現す――

裂け目の中から、ひとつの影がゆっくりと浮かび上がる。

豪奢な衣をまとった男だった。

体躯は大きく、だが顔は火に焼かれたかのように歪み、皮膚は不自然に引きつっている。

冠は傾き、衣のあちこちには、鉄錆のような暗色の痕が残っていた。

それは血にも見え、冷え固まった鉄水にも見えた。

なにより恐ろしいのは、その眼だった。

底の見えない穴のように黒く、その奥では怨嗟が渦を巻いている。

方家堡堡主。

この地に巣食う鬼王。

男は口を開いた。

その声は、鉄刃で骨を削るようだった。

「方家堡に足を踏み入れし者よ――

 その魂、我が子らへの供物とせよ!!」

その言葉が落ちた瞬間――

観客席に座していた“観客”たちが、一斉に立ち上がった。

あまりに揃いすぎた動き。

息が詰まるほどの統一。

顔立ちは生きた人間のままだ。

だが皮膚の下には、不自然な灰色が透けている。

瞳は空虚で、口元だけが微かに痙攣している。

まるで内側から何かに皮を引っ張られているようだった。

歩き出しても、足音はしない。

聞こえるのは衣擦れの「サラ……サラ……」という音だけ。

まるで、屍衣を引きずる音。

「……屍煞か」

阿虫が低く言う。

これはただの亡霊ではない。

魂を奪われ、人の皮だけを被せられた傀儡。

鬼王に使役され、魂を狩るための存在。

屍煞たちは一斉に三人へと向きを変えた。

生気を嗅ぎつけた虫の群れのように、じりじりと距離を詰めてくる。

阿虫は即座に符を取り出した。

すでに用意していた符紙が、掌の中で広がる。

彼は指先を噛み、血を落とした。

血が符に染み込むと、符紋が生き物のように脈打つ。

地面に叩きつける。

「起!」

淡い光が円を描き、三人を包む薄い結界が立ち上がった。

屍煞が突進し、見えない壁にぶつかる。

「ドン、ドン……」

鈍い衝撃音。

だが、その結界はあまりにも薄い。

紙一枚のようで、いつ破られてもおかしくなかった。

阿虫は振り返る。

剣蘭と菖蒲は、まだ半ば魂を引きずられている。

瞳の奥に、さきほどの芝居の残響が残っている。

舌打ちひとつ。

――考える暇はない。

阿虫は腕を振り上げ、そのまま平手を叩きつけた。

「パァン!」

剣蘭の顔が横を向く。

呆然と振り返る彼女の目には、まだ涙の名残が浮かんでいた。

阿虫は間髪入れず、もう一度。

「パァン!」

「目、覚めたか!!」

怒鳴り声が劇場に響く。

菖蒲はもともと意識が強かった。

最初の鬼嚎の瞬間、すでに気で精神を押さえ込んでいた。

平手の音を聞いた彼女は、袖から細い針を抜き取り、迷いなく掌に突き刺す。

鋭い痛み。

「……大丈夫です」

掠れた声だが、意識は完全に戻っている。

剣蘭は、遅れて涙を滲ませた。

それは感動ではなく、屈辱と恐怖だった。

「な、なによあんた……!

 お父様だって、こんなふうに叩いたことないのに!」

阿虫は冷笑する。

「今は感情論の時間じゃねぇ。

 今起きなきゃ、次は親父の顔すら分からなくなるぞ」

剣蘭は言葉を失った。

その間にも、屍煞の衝突は激しさを増す。

符の光は明滅し、引っ掻かれるような「ジジ……」という音が響く。

「突破するぞ!」

阿虫が叫ぶ。

「甘えるな!」

菖蒲が最初に動いた。

手首を返し、数枚の飛刀が放たれる。

冷たい光が閃き、先頭の屍煞二体の眉間を正確に貫いた。

だが、倒れない。

身体が硬直し、皮膚の下から黒気が噴き出す。

裂けた袋から空気が抜けるような「シィ……」という音。

剣蘭も歯を食いしばり、降魔棍を振るう。

金属音を伴う一撃が屍煞を弾き飛ばす。

だがその感触は、生身ではない。

皮を被せた木塊を叩いたような、空虚な反響。

数が増えていく。

観客席、通路、階段――

四方から黒い影が溢れ、潮のように押し寄せる。

結界に、ひび割れのような光の線が走った。

「多すぎる……!」

剣蘭が息を荒くする。

菖蒲の額にも冷汗。

「……合神、使いますか?」

阿虫の目が鋭くなる。

合神。

鎧魂萃を用いた鎧甲合神――

短時間で戦力を跳ね上げる切り札。

だが代償は大きい。

神識の消耗は激しく、維持もできない。

「今合神しても、もたねぇ」

彼は鬼王を睨む。

「こいつらは前座だ。本命はあいつだ」

裂け目の上空で、鬼王堡主は獲物を眺めるように笑っている。

怨気が濃くなり、黒気が触手のように結界へ伸びる。

光がさらに削られる。

「一度撤退だ」

阿虫は早口で言う。

「生きて出て、仕切り直す」

菖蒲は即座に頷く。

剣蘭は反論しかけたが、結界の限界を見て歯を噛みしめた。

「……分かった!」

その瞬間――

「ドン!!」

劇場の側扉が、乱暴に破られた。

一条の影が、嵐のように飛び込んでくる。

長槍を携え、鋭い光を帯びた刃が回転する。

振るわれるたび、空気が裂ける音が走る。

引き締まった肢体が、灯りの中で鮮烈な軌跡を描く。

高く結われた長い馬尾が、舞うように弧を描いた。

それは危険で、同時に美しかった。

槍は龍のごとく走り、人は槍と一体となる。

――演武ではない。

生死の中で磨かれた動きだ。

一閃。

挡路に立つ屍煞が、まとめて宙を舞う。

黒気が刃先で弾ける。

「どけ!」

澄んだ女声。

戦場で鍛えられた、迷いのない声音。

槍が横薙ぎに振るわれ、正面の屍煞列が崩れる。

彼女は踏み込み、槍尾を床に突き立てた。

木床が唸り、衝撃が走る。

――道が、開いた。

阿虫の目が細くなる。

(只者じゃねぇ)

菖蒲はさらに早く気づいた。

女の胸元――羽翎の紋。

鳳翎(ほうれい)。

「……鳳翎の人ですか?」

思わず声が漏れる。

女は一切の無駄を省いた。

「鳳翎所属、瑞木菀(ズイモク・えん)だ」

槍先を外へ向ける。

「今は話してる場合じゃない。

 生きて出るぞ!」

彼女は黒気を払い、側幕を掴み取る。

引き裂かれた幕が落ち、屍煞の突進を阻む。

布が焦げ、黒く爛れる。

「走れ!」

阿虫は即断した。

符を収め、結界を解除。

剣蘭の手首を掴み、菖蒲を押す。

「ついてこい!」

四人は駆けた。

背後で、劇場の秩序が完全に崩れる。

殺到する音、呻き、床板の軋み。

鬼王の嘲笑が、天井から降り注ぐ。

「逃げる?

 逃げ切れるとでも――!」

黒気が鞭のように打ち下ろされる。

瑞木菀が振り返り、槍を突き出す。

轟音。

雷のような衝撃。

彼女は半歩退いたが、踏みとどまった。

(……やはり)

阿虫は悟る。

槍は強い。

だが無形の怨魂には決定打にならない。

術と符が必要だ。

彼らは宴賓楼の側廊を抜ける。

方家堡の街路は相変わらず薄暗かった。住民たちの「停止」は破られ、さらに多くの“人の皮”をまとったものが路地から向きを変えて現れる。まるで同じ意志に起こされ、同じ合図で動き出したかのように。

追手は刻一刻と濃くなり、空気に漂う死気は潮のように盛り上がって押し寄せてくる。

四人がいよいよ包囲されかけた、その時。

前方の目立たない小屋に、ぽつりと一盞の灯がともっていた。

灯りは大きくない。だがこの陰の中では異様なほどくっきり見え、まるで黒い水面に誰かが星を一つ点したみたいだった。

戸口に、痩せて小柄な男が立っている。

手には灯を提げ、光が横顔をなぞって、疲れているのに目だけは醒めている――そんな表情を浮かび上がらせた。瑞木菀たちが来るのを見るなり、男は灯をすっと持ち上げ、声を落として、急き立てるように呼ぶ。

「こっち! 早く来い!」

瑞木菀は足を止めた。だがそれは迷いではなく、まるで最初からここを知っていたかのような一瞬で、すぐに先頭に立って駆け込む。

「入れ!」

一同は小屋へ飛び込んだ。

扉が閉まると同時に、外の陰冷さと喧騒が、刃でばっさり断ち切られたみたいに途切れる。屍煞の足音、黒気の唸り、遠くで鬼王があげる嗤い声――それらは見えない壁にぶつかったように、瞬く間に遠のき、ぼやけていった。

阿虫は反射的に振り返り、扉の隙間越しに見た。数体の屍煞が戸口へ扑っと飛びつき、手を伸ばして掴もうとする。だが透明な障壁に当たったかのように弾かれ、指先が触れた瞬間、鈍い「ドン」という音が鳴った。

屍煞たちは悔しげに周囲を彷徨うが、どうしても一歩が踏み込めない。最初から“入れない”と知っているように、境界の前で足を止め続けた。

小屋の中の空気は、外とはまるで違った。

冷えは残る。だが「死気が呼吸している」あの圧迫がない。灯火がかすかに揺れるだけで、人は久しく忘れていた安全感を、思わず胸の奥で確かめてしまう。

灯を提げていた男はそれを下ろし、ゆっくり息を吐いた。長く息を詰めていた恐怖を、ようやく吐き出すみたいに。

「……当面は安全だ」

声は軽い。だが、はっきり醒めている。

「ここには結界がある。鬼は入ってこられない」

剣蘭はその時になってようやく気づいた。

室内の壁際には数枚の符が貼られている。符紋は阿虫のものと違い、より細く、より隠れるようで、攻めのためではなく遮断のための符に見えた。梁のあたりには、小さな鈴が一串吊るされている。鈴は鳴らない。それでも、音もなく境界を保っているようだった。

菖蒲が男を見据える。

「……あなたは誰?」

男は目を上げた。屍煞のような空洞はない。生者の目だ。疲れがあり、それでも確かに“生きている”重さがある。

「懐玉(かいぎょく)だ」

名を告げ、続けて一言足す。まるで皆が一番気にしていることに答えるように。

「……僕は、まだ人間だ」

彼は皆を見回し、とりわけ阿虫へ視線を置いた。ここで決めるのは彼だと見定めたように。

「ここは、さっき劇場で見た女旦――殷翦璃(いん・せんり)が残した場所だ。彼女がわざわざ結界を張った……僕を守るために。……それから、今みたいに一時的に入ってきた生者も守れる」

阿虫は眉をひそめる。

「……なぜ、彼女はお前を守る?」

懐玉の目が一瞬だけ揺れた。即答せず、低く落とす。

「話せば長い。……ただ、彼女の中では、僕が唯一、まだ彼女を裏切っていない人間なんだ」

外では、鬼王の嗤い声が今も遠くから届く。風に鉄屑が混じって耳膜を削るような、嫌な音。

だが屋内は、まるで別世界へ切り離されたみたいに、灯は安定し、符紋は静かだった。

瑞木菀が長槍を脇に立て、室内を一度掃うように見て、沈んだ声で言う。

「まずは息を整えろ。外のアレは、これで終わる気はない」

菖蒲はようやく瑞木菀の胸元の鳳翎の徽章をしっかり見直し、声を落とす。

「……どうして鳳翎がここに? あなた……」

瑞木菀は壁にもたれ、短く答えた。

「お前たちより数日早く来ていた」

「修行の旅の途中で、ついでに探している人間がいてな」

「ここを通りがかった時、明らかにおかしいと感じた。だから、首を突っ込んだ」

自嘲するように一度笑う。

「結果はこうだ。私の槍はあれらを殺せる。だが、本当の鬼王には届かなかった」

「懐玉に会っていなければ、私はもう死んでいた」

阿虫を見る。

「……お前は術を使うのか?」

阿虫は否定しない。

「まあな」

瑞木菀は小さく頷き、何かを確かめるように言う。

「ならいい。これからここを出るにしても、槍だけじゃ足りない」

懐玉は灯を机に置いた。灯影が顔を横切り、声はいっそう低くなる。

「ここまで入った以上、方家堡が簡単に逃がしてくれると思うな」

「ここの“規則”は、人が決めたものじゃない」

「生きて出たいなら――」

「まず、悲歓台が何を演じているのかを突き止めろ」

小屋の中に沈黙が落ちる。

剣蘭はようやく完全に我に返り、阿虫に叩かれて赤くなった頬を押さえた。怒りと怖さを混ぜたまま、声だけは低く抑える。

「覚えてなさいよ……外に出たら、絶対に精算してやるから」

阿虫が横目で見る。

「まず生きて出てから言え、デブ!」

「あなた――!」

菖蒲は深く息を吸い、感情を沈めてから阿虫を見る。

「……まずは慎重に。鬼王と、あの女旦の演目……何かが繋がっているはず」

阿虫は答えず、ただ扉の向こうの闇を見上げた。

結界の外で、何かが徘徊しているのを感じる。血の匂いを嗅ぎつけた獣のように、辛抱強く、こちらがこの扉を開けるのを待っている“何か”。

そして阿虫は、はっきり分かっていた。

――これは、まだ一夜の始まりにすぎない。

 

 

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