「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
寒さは、唐突に襲ってきたわけではなかった。
それは水のように、ゆっくりと、確実に広がっていくものだった。
まず皮膚を濡らし、
やがて少しずつ、骨の奥へと染み込んでいく。
剣蘭は眠りの中で眉をひそめた。
だが、目を覚ますことができない。
意識が、灰白色の深い水の底へ押し沈められていくようだった。
音はない。
あるのは、ただ沈み続ける感覚だけ。
息をしようとした。
けれど胸の内側は、冷たい空気で満たされていた。
――その瞬間。
かすかで、しかし異様なほど執念深い温もりが、ぴたりと寄り添ってきた。
火ではない。
陽光でもない。
誰かに抱きしめられたときの熱とも、どこか違う。
それは、震えを帯びた、今にも尽きそうな体温だった。
剣蘭は「見た」。
それは視覚ではない。
像を見るよりも、もっと直接的な感覚だった。
そこにいたのは、小さな少年。
驚くほど痩せ細り、肩も背中も強く張り詰めている。
ほんのわずかでも力を緩めれば、何か決定的なものが切れてしまう――
そんなふうに、全身で踏みとどまっているようだった。
少年はほとんど身体ごと剣蘭に寄り添い、
残されたわずかな温度を使って、四方から押し寄せる寒さを遮っていた。
呼吸は浅い。
一息ごとに、生き続けるべきかどうかを量っているかのようだった。
その、かろうじて保たれている温もりの奥には、
底の見えない闇が広がっていた。
それは悪意ではない。
苦しみでもない。
ただ、孤独に慣れきってしまった空白だった。
まるで最初から、
誰かに理解されることなど、望んでいなかったかのように。
少年はただ、見えない一本の線を、必死に掴んでいた。
たとえその線の先が、
すでに自分の血肉に深く食い込んでいたとしても。
剣蘭は口を開こうとした。
けれど、声にならない。
もう放してもいい――
そう伝えたかった。
だが、少年は応えなかった。
彼はただ寄り添い続け、
今にも消えてしまいそうな体温で、剣蘭をこちら側へ引き戻していた。
――
剣蘭は、はっと目を開いた。
胸が大きく上下する。
まるで氷水の中から、引き上げられたばかりのようだった。
反射的に身体を丸めようとして、
自分の四肢にほとんど感覚がないことに気づく。
背中から指先へ。
消えきらない冷えと痺れだけが、細く残っていた。
鼻腔に、知らない匂いが流れ込む。
苦く、辛く、そして、わずかに血の気を含んだ甘さ。
視線を動かすと、粗い木梁の天井が見えた。
小さな小屋。
薄暗い室内。
半分閉じられた窓から差し込む日差しが、
木々の影に切り刻まれ、床に斑点を落としている。
――そのとき。
違和感が走った。
軽すぎる。
布団の下に、ほとんど何も感じない。
剣蘭は視線を落とし――
そのまま、固まった。
呼吸が、一瞬で乱れる。
「――きゃあっ!!」
悲鳴が、屋根を揺らす勢いで響いた。
慌てて布団を引き寄せ、身体を包み込む。
剣蘭は小さく身を縮めた。
頬は一気に熱を帯び、
耳元から首筋まで赤く染まり、
心臓が胸を突き破りそうなほど跳ねている。
「こ、ここは……どこ……!?」
床の脇から、かすかな擦れる音がした。
ざらり、と。
その音で、剣蘭はようやく気づく。
ベッドの下。
柱の脇。
さらには窓枠の縁にまで――
色も形も異なる蛇たちが、幾匹もとぐろを巻いていた。
静かに身を縮め、
鱗は光を受けて冷たく輝き、
吐き出される舌の音は小さく、規則正しい。
まるで、こちらを観察しているかのようだった。
悲鳴が、喉の奥で詰まる。
「こ、来ないで――!」
その瞬間、扉が開いた。
「起きた?」
気怠げで、からかいを隠そうともしない声。
入口に立っていたのは、辛夷だった。
片腕を組み、
もう一方の手には、まだ蠢いている黒い毒虫をつまんでいる。
彼女は剣蘭を上から下まで眺め、
すぐに、楽しげに笑った。
「いい反応ね。」
「まだ、ちゃんと生きてるみたい。」
剣蘭の顔色が、一気に引く。
「だ、誰なの!? ここはどこ!? それに、この蛇――!」
「まあまあ、落ち着いて。」
辛夷は毒虫を軽く揺らした。
「この子たち、けっこう大人しいよ。」
「試してみる? 新しく調合したばかりで、活性も悪くない。」
剣蘭の声が、完全に裏返る。
「い、いやああ――!!」
辛夷が、さらに何か言おうとした、そのとき。
外から足音が近づいてきた。
「辛夷。」
聞き覚えのある声。
菖蒲だった。
呆れをはっきり含んだ調子で、続く。
「いい加減にしなさい。」
菖蒲が中へ入ってくる。
布団にくるまり、身を縮める剣蘭。
部屋いっぱいの蛇。
そして、完全に面白がっている辛夷の表情。
それを一目で把握し、菖蒲は小さく息を吐いた。
「彼女、起きたばかりよ。」
「驚かせないで。」
辛夷は肩をすくめ、毒虫を脇の木箱へ放り込む。
「はいはい。」
唇を尖らせる。
「ほんと、つまらない。」
剣蘭はようやく呼吸を整え、
二人の顔を交互に見た。
声は、まだ震えている。
「菖蒲……ここは……?」
菖蒲はベッドのそばへ歩み寄り、声を落とす。
「泰城の外。」
「辛夷が住んでいる、小さな小屋よ。」
剣蘭は、一瞬言葉を失った。
少しずつ、記憶が戻ってくる。
血の池。
骨に刺さるような冷え。
意識を引きずり込まれる感覚。
そして――
最後に、自分の前に立ち塞がった、あの瞬間。
「私……生きてる……?」
「かろうじて、ね。」
辛夷が、軽く口を挟む。
「あと半刻遅れてたら、もう埋めるしかなかったわ。」
「辛夷。」
菖蒲が眉を寄せる。
「はいはい、もう言わない。」
両手を上げる。
「事実だけど。」
菖蒲は剣蘭に向き直り、声を和らげた。
「阿虫が、あなたをここまで連れてきたの。」
「辛夷がいなければ……血毒呪は解けなかった。」
剣蘭の目が、大きく見開かれる。
「阿虫……?」
「ええ。」
菖蒲は静かに頷いた。
「方家堡を出てから、ほとんど休んでいない。」
辛夷は壁にもたれ、気だるそうに続ける。
「血毒呪の解法、私も初めての実践だった。」
「材料が揃うまで、この子が誰よりも走り回ってたわ。」
菖蒲は否定しなかった。
剣蘭は彼女を見つめ、
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……ありがとう。」
菖蒲は首を横に振る。
「感謝する相手は、私じゃない。」
剣蘭は少し迷い、布団へ視線を落とした。
そしてまた、顔が熱くなる。
「それで……どうして、私……こんな……」
辛夷は、やはりという表情を浮かべた。
「血毒呪は、造血を止める。」
淡々と説明する。
「毒が完全に回る前に、たいていは極度の低体温で死ぬ。」
剣蘭の身体が、わずかに強張る。
「この二日間。」
辛夷は続けた。
「誰かが密着して、気で体温を支えてなかったら――」
「とっくに冷え切ってた。」
室内が、一瞬静まり返る。
剣蘭の頭の中で、何かが鳴った。
「……密着して……?」
菖蒲は視線を逸らし、否定しなかった。
剣蘭の顔が、さらに赤くなる。
「そ、それって……!」
「あの人が……!?」
「そう。」
辛夷はあっさり頷く。
「ずっと、彼だった。」
剣蘭は口を開いたまま、言葉を失う。
罪悪感。
驚き。
混乱。
それらが一気に押し寄せた、その直後。
遅れてやってきた羞恥が、爆発した。
「ま、待って!」
声が裏返る。
「じゃ、じゃあ私……私って――!?」
「裸で、二日間抱えられてた。」
辛夷は軽い調子で言う。
「その通り。」
剣蘭は、完全に固まった。
頭の中に浮かぶのは、ただ一つ。
――終わった。
「わ、私……これから……」
「嫁に行けない、って?」
辛夷が先に言う。
笑みを隠しもしない。
剣蘭の耳まで、真っ赤に染まる。
「じゃあ……どうして……」
「菖蒲じゃ、ダメだったの……?」
辛夷は眉を上げた。
「女の気は、陰。」
「今のあんたの状態で、陰同士を重ねたら、もっと早く死ぬ。」
一拍置き、続ける。
「それに――」
辛夷の視線が、剣蘭に向く。
一瞬だけ、真剣な色を帯びた。
「あなた、命格は陽寄り。」
「彼は男で、気は陽。」
「でも、本質は陰。」
「……ちょうど、噛み合う。」
剣蘭は、言葉を失った。
菖蒲も、わずかに目を見開く。
辛夷は肩をすくめる。
「こういう適合は、運よ。」
剣蘭は、頭が痛くなってきた。
「……それが、運……?」
「生き残れた。」
辛夷は淡々と言う。
「それ以上の運はない。」
室内には、しばらくのあいだ、蛇が舌を吐くかすかな音だけが残った。
剣蘭は布団を強く握りしめる。
まるで、自分自身をその中に押し込めようとするかのように。
「生きている」ことに安堵した、その直後。
「生き延びた方法」を突きつけられ、足元が崩れる。
恥。
戸惑い。
苛立ち。
そして、言葉にできない違和感。
それらすべてが喉元に詰まり、飲み込むことも吐き出すこともできずにいた。
菖蒲はベッドのそばに立ったまま、何か言おうとして、結局何も言わなかった。
ただ、足元に置かれていた木盆を、そっと脇へずらす。
盆の中には、暗褐色の薬草が数枚、浸されている。
水面には薄く油が浮かび、鼻を刺すような辛い匂いが立っていた。
長く嗅げば、頭が痛くなりそうな臭気。
辛夷は、まるで空気が変わっていないかのように、低い椅子を引き寄せて腰を下ろした。
指先で細い蛇の尾をつまみ、ベッドの下から持ち上げ、また無造作に戻す。
その動きは、縄でも扱うかのように慣れている。
「動かないで。」
辛夷は剣蘭に向けて言った。
「今、目を覚ましているってことは、血毒呪の主毒線は切れてる。」
「でも、造血はまだ戻ってないし、体温も安定してない。」
一拍、置く。
「感情を揺らしすぎると、気が乱れる。」
「そうなったら、また最初からよ。」
「そんな……」
剣蘭は反射的に言い返そうとして――
自分の身体が、小さく震えたのに気づいた。
それは外気の冷えではない。
身体の奥、骨髄のあたりに残っている冷たさが、じわりと浮かび上がってきたものだった。
剣蘭は歯を食いしばり、震えを抑え込む。
辛夷はその様子を一瞥し、口の端を歪める。
「ほらね。」
剣蘭は視線を上げる。
「……阿虫は?」
その問いは、思っていたよりも早く口を突いて出た。
焦りが先に滲み出てしまい、剣蘭はすぐにそれを押し殺す。
菖蒲が静かに答える。
「一笑楼で、休んでいるはず。」
剣蘭の喉が、きゅっと縮んだ。
「……あの人は……どうしてる?」
「方家堡を出てから今まで、ずっと限界を超えてた。」
菖蒲は淡々と続ける。
「あなたの解毒が終わるまで、まともに眠っていない。」
「ここまで運び込めた時点で、すでに限界以上よ。」
辛夷は大きく欠伸をする。
「あいつは、そういう性分。」
「放っておけないって顔してるくせに、口だけは悪い。」
剣蘭は一瞬、言葉を失った。
「……知り合いなの?」
「知り合い?」
辛夷は首を傾げる。
「その言い方は、丁寧すぎるかな。」
少し考えてから、言い直す。
「まあ、馴染みはある。」
「口も悪いし、性格もひねくれてる。」
一拍。
辛夷は指を軽く弾いた。
「でもね。」
「自分の中で“やる”って決めたことには、本気で突っ込む。」
その小さな音に、剣蘭の背筋が一瞬こわばった。
血池。
朱緋魇が、指を鳴らして結界を砕いた場面が、脳裏に重なる。
恐怖が、まだ完全には抜けきっていない。
そのとき、剣蘭は改めて辛夷を見た。
日に焼けたような古銅色の肌。
だが荒れてはいない。
光の加減で、皮膚の奥に何かが反射するようにも見える。
服装も奇妙だった。
人界で一般的な布衣ではない。
異なる素材を縫い合わせた短装で、腕と脚が露わになっている。
腰には、細い骨管や薬瓶が連なって下がり、動くたびに小さな音を立てた。
室内も同様だ。
壁には干された蛇の抜け殻。
机の上には、虫、草、形の分からない黒い塊が浸された瓶が並ぶ。
隅には、小動物の骨格が積まれ、割られた頭骨の中は乾ききっている。
炉の横の鉄枠には、針がずらりと並び、先端が淡く青く光っていた。
剣蘭は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
それでも――
視線を逸らさず、口を開く。
「……あなた、何者なの?」
辛夷はちらりと剣蘭を見た。
天気の話でもするかのような顔で、短く答える。
「魔族。」
心臓が、重く跳ねた。
「……魔族!?」
剣蘭は反射的に後ずさり、布団をさらに強く握る。
目つきが、一気に警戒へと変わった。
血池。
朱緋魇。
殷翦璃の死。
血毒呪の刻限。
すべての記憶が一度に蘇り、
この小屋が、別の罠のように感じられた。
「剣蘭、落ち着いて。」
菖蒲がすぐに声をかける。
「どうやって落ち着けっていうの……」
剣蘭は声を低く押さえた。
「本人が、そう言ってるのに……」
菖蒲は一歩前に出る。
剣蘭のすぐそばで、はっきりと告げた。
「私の判断では、辛夷は今のところ信用できる。」
剣蘭は歯を噛みしめる。
「その判断が……」
「少なくとも、今のあなたの感情よりはね。」
辛夷が割って入る。
淡々とした口調だったが、刃のように刺さった。
「死にたいなら、動き続けなさい。」
「死んでくれた方が、私も楽。」
剣蘭は言葉を失う。
怒鳴り返したかったが、身体がついてこない。
ただ、睨み返すことしかできなかった。
辛夷は肩をすくめ、菖蒲を見る。
「安心して。」
「食べたりしない。」
「本気でやるなら、とっくに終わってる。」
菖蒲は眉をひそめた。
「魔族だと言ったわね。」
「それなら、どうして泰城の外にいるの?」
辛夷は細い蛇を指に絡め、糸を巻くように遊ばせる。
「魔界の裏切り者だから。」
「それに、人と魔は、もともと相容れない。」
少し間を置き、嘲るように続ける。
「どっちにも居場所がない存在が、隠れる以外に何ができる?」
剣蘭は、言葉を失った。
殷翦璃の姿が、脳裏に浮かぶ。
朱緋魇に“愛を間違えた”と嘲られ、
繭の中で終わった、あの魔将。
魔族への拒絶は消えない。
だが同時に、
“魔族だから死んで当然だ”と、単純に言い切れなくなっている自分にも気づく。
辛夷は、その迷いを見透かしたように鼻で笑う。
「理解されたいなんて、思ってない。」
菖蒲は話を本筋に戻した。
「血毒呪は……本当に解けたの?」
「解けてるわ。」
辛夷は剣蘭の方を指で示す。
「まだ口答えができるでしょ。」
「それが何よりの証拠。」
剣蘭の顔が、かっと熱くなる。
「あなた……!」
辛夷は気にも留めず、淡々と続けた。
「解けたのは、師の残した資料があったから。」
菖蒲がわずかに目を見開く。
「……師?」
「十二魔将の一人。」
「毒魔将。」
室内の空気が、再び沈む。
剣蘭の呼吸が少し乱れた。
「あなたの師匠も……魔将なの?」
「それなら、あなたは――」
「私は魔将じゃない。」
辛夷は即座に遮った。
「昔はね。」
「ただの奴隷だった。」
“奴隷”という言葉は、淡々と口にされた。
感情も、重みも、そこには込められていない。
だが、その二文字だけで、
部屋の空気が一段低くなったように感じられた。
菖蒲は辛夷をじっと見つめる。
「……それでも、どうして解法を手にできたの?」
辛夷は唇を歪める。
「毒魔将は、研究が好きだった。」
彼女は卓の端に置かれた瓶を、指先で軽く叩いた。
中には、灰白色に変色した舌の一部が沈んでいる。
「十二魔将には、それぞれ立場がある。」
「属している勢力も違う。」
「協力することもあるし、潰し合うこともある。」
辛夷は肩をすくめる。
「毒魔将が血毒呪を研究していたからって、
血魔将に肩入れするとは限らない。」
一拍。
「ただ――面白いからやってただけ。」
そう言い切った。
「私がその解法を見ていなかったら。」
「この子、本当に道はなかった。」
剣蘭は布団を握りしめたまま、唇を噛む。
しばらく沈黙が続いたあと、
抑えきれないように、ぽつりと呟く。
「……二日も……」
「裸で……あんな奴に抱えられて……」
辛夷の肩が、ぴくりと揺れた。
次の瞬間、噴き出すように笑う。
「そこ、引っかかるんだ。」
剣蘭の顔がさらに赤くなる。
「笑わないで!」
辛夷はまだ笑いを含んだ声で言った。
「でもね。」
「私から見れば、あんたたちは生まれただけで運がいい。」
菖蒲が静かに口を開く。
「剣蘭。」
「もし、あれがなかったら――」
「あなたは、もうここにいない。」
剣蘭は言葉を失った。
菖蒲は視線を逸らしたまま続ける。
「望んだかどうかの問題じゃない。」
「あなたは、造血が止まり、体温も落ちていた。」
「阿虫がああしなければ、夜明けを迎えられなかった。」
剣蘭の喉が、きゅっと締まる。
分かっている。
頭では、分かっている。
だが、目覚めたときの恐怖。
裸であることを知った瞬間の羞恥。
選択肢すら与えられなかった、あの感覚。
それらが胸の奥で絡まり合い、
息苦しさとなって残っていた。
――助けられた。
けれど同時に、
世界からもう一度、突きつけられたようでもあった。
自分には、
体面を選ぶ資格などないのだと。
辛夷は、あえてそこを踏み抜く。
「それで、菖蒲じゃダメだった理由。」
剣蘭は歯を食いしばる。
「……陰と陽、でしょ。」
「そう。」
辛夷は頷いた。
「男の気は陽。」
「女の気は陰。」
「同じ“気”でも、作用は違う。」
「今回は、ただの冷えじゃなかった。」
「血毒呪で、陰陽の均衡そのものが断ち切られていた。」
「間違えれば、即、断線。」
剣蘭は眉を寄せる。
「でも……」
「私は女なのに、どうして命格が陽なの?」
辛夷は、待っていたかのように答える。
「命格と性別は別。」
「あなたは外側は陰。」
「でも、内側は陽を走ってる。」
「神我心意流。」
「感情だけで殴ってる拳法だと思ってる?」
剣蘭は反射的に言い返す。
「……今は、そんな……」
「今は、恐怖に押さえ込まれてるだけ。」
辛夷はあっさり言う。
「陽が立ち上がらないだけで、本質は変わらない。」
そして、何気ない調子で付け加えた。
「阿虫は逆。」
剣蘭と菖蒲、二人ともが息を詰める。
「外は陽。」
「でも、本質は陰。」
「だからできた。」
「自分の陽を極限まで柔らかく、安定させて、
陰であなたの欠けを埋めることが。」
「普通の男なら、気機を壊して終わり。」
剣蘭は混乱したまま、問いを絞り出す。
「……そんなふうに言うけど……」
「あの人、苦しくなかったの?」
辛夷の笑みが、わずかに薄れる。
「苦しいに決まってる。」
机を、指で軽く叩いた。
「木偶じゃない。」
「あなたの体温が下がるたびに、
呼吸も、気の流れも、何度も調整してた。」
「それに――」
「もともと、限界だった。」
剣蘭は黙り込んだ。
夢の中で見た、あの少年。
震える体温。
その奥に広がっていた、底のない孤独。
今なら分かる。
阿虫は、
“抱いていた”のではない。
線を、掴んでいた。
剣蘭の命の線。
そして――
自分自身の線も。
それができた理由は、
感謝されたかったからじゃない。
ただ――
切れるのを、見ていられなかっただけだ。
剣蘭は布団の中で、指をゆっくりと緩め、
また、静かに握り直した。
罵りたい気持ちと、
礼を言いたい気持ち。
それらが絡まり合い、
最後には、鈍く重たい痛みだけが残った。
剣蘭が黙り込んだのを見て、
菖蒲は話題を変えた。
「辛夷。」
「さっき言ってたわね……」
「“人間として人界に生まれたこと自体が、いちばんの幸運”だって。」
辛夷は視線を上げる。
まるで、その問いを待っていたかのようだった。
「ええ。」
剣蘭は眉をひそめる。
「……どういう意味?」
辛夷はすぐには答えず、窓辺へ歩いた。
留め金を外すと、外の風が流れ込む。
木々の匂い。
湿った土の気配。
部屋にこもっていた薬臭と虫の匂いが、わずかに薄まった。
「方家堡のことは、もう聞いた。」
辛夷は外を見たまま言う。
「殷翦璃の悲劇。」
「原因は、最初から決まっていた。」
剣蘭の表情が、かすかに揺れる。
「魔族として生まれたこと。」
辛夷は続ける。
「魔族の身分。」
「魔将という立場。」
「そして、“節点の執行者”という役割。」
「彼女は、最初から一本の道の上に立たされていた。」
「一歩も、外れられない構造の上に。」
「彼女は人間を好きになった。」
辛夷は小さく笑う。
そこには嘲りではなく、疲れが滲んでいた。
「それって――」
「あなたたちから見て、間違い?」
「それとも、哀れ?」
剣蘭は口を開いた。
だが、言葉にならなかった。
菖蒲も黙っている。
二人の脳裏に、同じ言葉が浮かぶ。
――殷翦璃が間違えたのは、
愛した相手が人間だったこと。
もし、殷翦璃が魔族でなかったら?
もし、人間だったら。
あるいは、別の何かだったなら?
彼女の愛は、
最初から“死刑”を宣告されることはなかったのではないか。
構造と感情の狭間で、
あそこまで引き裂かれずに済んだのではないか。
辛夷は、二人の沈黙を見つめる。
待っているようでいて、
最初から分かっていたようでもあった。
「私は、仮定を出しただけ。」
「もし殷翦璃が魔族でなかったら、
結果は違っていたかもしれない。」
剣蘭の喉が詰まる。
「……それでも――」
「代表するなんて言ってない。」
辛夷は静かに遮る。
「ただ言ってるだけ。」
「あなたたちは、人間として人界に生まれた。」
「それだけで、いちばん澄んだスタート地点に立ってる。」
彼女は振り返り、
自分の腕を見下ろした。
古銅色の肌。
光の下で、かすかな紋理が浮かび上がる。
皮膚の下に押し込められた鱗のように。
「私みたいなのはね。」
辛夷は淡々と言う。
「人界では魔女。」
「魔界では、出来損ない。」
語り口は、まるで他人事だった。
「どちらにも居場所がない。」
「でも、あなたたちは違う。」
「少なくとも――」
「“合法的に生きられる場所”がある。」
剣蘭は反論しかけた。
だが、泰城で聞いた噂が脳裏をよぎる。
蛇屋。
毒虫。
呪い。
魔女。
そして、自分自身も――
目覚めた瞬間、辛夷を恐れ、拒絶した。
剣蘭は、黙った。
そのとき。
コン、コン、コン。
扉が叩かれた。
急かすでもなく、
遠慮しすぎるでもない。
断られることに慣れ、
それでも、もう一度叩く音。
辛夷が扉を開ける。
隙間ができた瞬間、
明るい声が飛び込んできた。
「辛夷お姉ちゃん――!」
子どもが顔を覗かせる。
青白い顔。
額には汗。
それでも、目だけはやけに輝いている。
その後ろに、さらに二人。
一人は激しく咳き込み、
もう一人は腹を押さえている。
戸口に立っていたのは、西門鸢だった。
泰城でよく見かける布衣。
袖をまくり、薬箱を提げている。
額に汗が浮いているのは、急いで来た証拠だ。
室内に人がいるのを見ると、
一瞬足を止め、すぐに菖蒲に会釈し、
剣蘭には穏やかな笑みを向けた。
「お邪魔します。」
「子どもたちを診てもらいに。」
辛夷の声色が、はっきり変わる。
相変わらず毒舌だが、
棘が少し抜けていた。
「また来たの?」
「昼間は遠出するなって言ったでしょ。」
子どもが辛夷の足にしがみつく。
「院長が言ってた!」
「辛夷お姉ちゃんが一番すごいって!」
「それに、ここの蛇、噛まないし!」
剣蘭の瞼が引きつる。
――怖がっていない。
この子たちは、
辛夷を“恐ろしい存在”だと思っていない。
辛夷は子どもの額の汗を拭った。
動作は早いが、乱暴さはない。
「変なこと言わない。」
「噛むときは、ちゃんと痛いわよ。」
子どもは口を尖らせる。
「でも、治してくれるもん。」
辛夷は舌打ちしながらも、
子どもたちを中へ入れ、炉のそばに座らせる。
薬箱を開け、
一人の呼吸を確かめ、
もう一人の瞼を開いて目を見る。
迷いはない。
動きは正確だった。
剣蘭は、思わず見入る。
この部屋は毒と怪物で満ちている。
だが、辛夷の子どもたちへの接し方は――
実験体に向けるものではない。
厄介者を見る目でもない。
口は悪い。
だが、手は揺れない。
西門鸢が薬箱を置き、
声を落とす。
「伝言があります。」
剣蘭の胸が跳ねた。
「……阿橙?」
西門鸢は頷く。
「動けそうなら、一笑楼へ来てって。」
「体力が戻るように、食事を用意するそうです。」
“一笑楼”という言葉を聞いた瞬間、
剣蘭の脳裏に浮かんだのは料理ではなかった。
阿虫の顔。
いつも淡々として、
何を考えているのか分からない、その表情。
指先が、無意識に縮こまる。
菖蒲は辛夷を見つめる。
「辛夷。」
「さっきの話と、今の行動……」
「どうして、ここまで子どもたちを助けるの?」
辛夷は薬を飲ませながら、目も上げない。
「理由なんてない。」
菖蒲は引かない。
「人魔どちらにも居場所がないって言った。」
「それなのに、孤児院の子たちを無償で診る理由は?」
辛夷は、ようやく視線を上げた。
「……話が聞きたい?」
菖蒲は頷く。
「話してくれるなら。」
辛夷は薬碗を渡す。
子どもは一気に飲み、顔をしかめる。
「にがい!」
「苦くて正解。」
辛夷は冷たく言う。
「甘いものほど、信用ならない。」
子どもたちは笑った。
このやり取りに、慣れている。
辛夷はその笑顔を一瞬見つめる。
ほんの一瞬、柔らかいものが滲む。
だが、すぐに視線を逸らした。
「本当に知りたいなら。」
「ゆっくり話してあげる。」
剣蘭が思わず聞く。
「……今?」
辛夷は一瞥する。
「その体で歩ける?」
「焦らない。まずは生き延びなさい。」
剣蘭は悔しそうに口を閉じた。
西門鸢は子どもたちを落ち着かせ、
帰り支度をする。
去り際、剣蘭を見る。
「顔色、良くなりました。」
「阿橙と阿虫にも伝えます。」
剣蘭は頷いた。
だが、笑顔は浮かばなかった。
扉が閉まり、
部屋は再び半明半暗の静けさに戻る。
炉の火が、ぱちぱちと鳴る。
菖蒲は椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
長い話を聞く覚悟の姿勢だ。
辛夷は、わざと軽い調子で言う。
「三か月前。」
「私は人界に来た。」
剣蘭は目を見開く。
「……三か月?」
「そう。」
辛夷は続ける。
「あなたたちが後で見ることになる鎧。」
「今、阿虫が持ってる“七殺”。」
「それも、私が関わってる。」
剣蘭の目が鋭くなる。
「……何ですって?」
辛夷は冷ややかに笑う。
「そんな目で見ないで。」
「七殺の鎧が、空から降ってきたとでも思った?」
菖蒲の呼吸が、わずかに詰まる。
辛夷は小さな蛇を木箱に戻す。
長く閉ざしていた蓋を、
ようやく開けるような仕草だった。
声の調子が、静かに沈む。
「どうして私がここにいるのか。」
「どうして血毒呪の解法を知っているのか。」
「なぜ七殺と関わったのか。」
一拍。
視線が、暗く沈む。
「それを知りたいなら――」
「魔界にいた頃の話から。」
「その頃の私は。」
「毒魔将の下にいた、名前も残らない奴隷だった。」
部屋の蛇が、動きを止めた。
まるで、耳を澄ませているかのように。
辛夷は窓の外を見つめる。
二度と戻りたくない過去を、
そこに重ねるように。
「……すべては、そこから始まった。」