「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
魔界第四層――
そこは「腐敗獄(ふはいごく)」と呼ばれている。
それは決して一つの“地名”ではない。
むしろ、ある種の状態に近いものだった。
辛夷が初めて本当の意味でここへ足を踏み入れた時、
彼女は理解するまでに長い時間を要した。
いわゆる「獄」とは、単なる監禁や刑罰を指すのではない。
それは、生命を常に崩壊の縁に置き続ける環境そのものなのだ。
空気は、常に湿っている。
雨上がりの湿気ではない。
空間全体がぬるま湯に浸されているかのようで、
地面や岩壁、毒沼から蒸気が音もなく滲み出し、
皮膚にまとわりつき、呼吸器の奥に貼りつく。
息を吸うたび、
溶けきらない熱が肺に流れ込む。
まるで濡れた布を口と鼻に押し当てられているかのようだ。
致命的ではない。
だが、人を苛立たせ、鈍らせ、怒りやすくするには十分だった。
地面は平坦ではない。
腐敗獄の各所には、
異様な色をした池が点在している。
赤、紫、墨緑、
金属光沢を帯びた灰青色――。
一見すれば、
どこかの温泉のようにも見える。
だが近づけばすぐに分かる。
水面では泡がゆっくりと湧き上がり、
弾けるたびに鼻を刺す刺激臭が放たれる。
池の底には、骨なのか腐敗物なのか判別のつかない残骸が
ぼんやりと沈んでいる。
――それは水ではない。
毒だ。
腐敗獄は、
魔界に存在するあらゆる毒物と、
病変した生命の温床である。
ここへ人界で「凶獣」と呼ばれる存在を放り込めば、
香一本が燃え尽きるよりも早く、
毒気と寄生体の侵食によって
腐肉の塊へと変わるだろう。
凶暴であればあるほど、
強靭であればあるほど、
ここでは死が早い。
新陳代謝が活発な分、
吸い込み、触れ、飲み込む“毒”の量も増えるからだ。
この獄層そのものが、
休むことなく稼働し続ける
劇毒の実験場だった。
だからこそ、
ここは魔界において
毒術を修めるのに最も適した場所でもある。
より恐ろしく極端な
寒氷獄(かんぴょうごく)や無間獄(むげんごく)も存在するが、
この第四層ですら、
人型の魔族が「生きていられる」限界なのだ。
辛夷は、
わずかに盛り上がった岩台の上に立っていた。
足元の石は温かく、柔らかい。
まるで、まだ完全に冷えきっていない臓器のようだった。
彼女は視線を伏せ、
呼吸を極限まで抑え、
足下に広がる色鮮やかな毒沼を
見ないようにしていた。
ここで修行を始めて、
すでに何年もの時が流れている。
あまりにも長く――
時折、自分でも分からなくなる。
これは「修行」なのか。
それとも、
自分はすでにこの腐敗の一部と
なってしまっているのか。
腐敗獄の最深部には、
全長数千メートルにも及ぶ
巨大な蛇の骸骨がとぐろを巻く、
比較的“乾いた”区域がある。
そこには毒池はなく、
掘り抜かれ、改造された洞窟と岩廊が連なっている。
空気は依然として重く湿っているが、
腐臭は薄れ、
代わりに鼻を突く薬臭が漂っていた。
数百種の毒材を同時にすり潰し、
煮詰め、蒸発させた後に残る――
そんな匂いだ。
その最奥、
巨大な蛇の頭骨の位置に、
毒魔将の修練場がある。
十二魔将の一柱。
毒魔将(どくましょう)。
地蛇星(ちだせい)。
その称号――
「不丈夫(ふじょうぶ)」。
厳白蟒(ゲン・ハクボウ)。
彼は「威厳」を誇示することは少ない。
だが、そこに存在するだけで、
背骨の奥がひやりと光るような恐怖を与えた。
今は、
巨大な蛇の頭骨の上に盤坐している。
修長な身体。
わずかに前屈した背。
病的なほどに白い皮膚。
首筋から鎖骨の下にかけて、
鱗状の暗い紋様が浮かび、
呼吸に合わせてゆっくりと脈打っていた。
彼の呼吸は重い。
毒蛇が舌を吐くような、
「シィ……」という音を立てる。
口元には、
厳重な特殊マスクが装着されている。
それは毒を防ぐためではない。
――逆だ。
彼の呼気が、
周囲を毒するのを防ぐためのものだった。
細められたその眼。
数多の毒と完全に一体化した彼の瞳は、
蛇の眼そのものだった。
その下、修練場の中央に――
五つの影が立っている。
並んではいない。
自然に距離を取り合っていた。
長年刷り込まれ、
骨の奥まで刻まれた
序列感覚によって。
五人の弟子。
同時に、五人の奴隷。
魔界において、
「弟子」と「奴隷」の境界は曖昧だ。
弱者が強者に支配されるのは当然の法則。
そして「選ばれて」力を授けられるということは、
より深い支配を意味する。
厳白蟒は、
その事実を一切隠さない。
五人の弟子は、
それぞれ異なる毒術と功法を修めている。
——蜈蚣(むかで)
——毒蛇(どくへび)
——蝎子(さそり)
——蜥蜴(とかげ)
——蟾蛙(せんあ)
彼らは魔界で、
「五毒(ごどく)弟子」と呼ばれていた。
そしてその五毒の中で、
“毒蛇”を象徴する者――
それが、辛夷だった。
彼女はやや後方に立っている。
力が劣るからではない。
――そうするのが、習慣だからだ。
辛夷の背は高くない。
だが均整が取れ、
四肢は長く、
動きは柔らかく見えても、
内に収束した危険を帯びている。
他の弟子たちとは違う気配。
外に放たれる凶暴さはなく、
静かで、内向的。
影に潜む蛇のようだった。
派手ではない。
騒がない。
だが――
いつでも致命になり得る。
彼女の異名は「蛇姫(じゃき)」。
元は褒め言葉ではなかった。
軽蔑と、曖昧な含み、
そして「美しく危険」という評価を込めた
戯れの呼び名。
だがいつしか、
それは彼女の代名詞となった。
辛夷自身は気にしない。
魔界では、
名前など価値を持たない。
重要なのは――
生き残れるかどうかだ。
厳白蟒の視線が、
五人の弟子を一人ずつなぞる。
称賛はない。
激励もない。
ただ、
実験材料を選別する目。
「準備しろ。」
低い声。
だが、修練場を満たす毒気のうなりを
はっきりと押し伏せた。
五毒弟子が同時に動く。
今回も例によって――
互いの比試だ。
切磋琢磨のためではない。
成長のためでもない。
証明するためだ。
――誰が、より「価値があるか」を。
修炼場の中央に、最初に進み出たのは二人の兄弟子だった。
蜈蚣――百足(ひゃくそく)。
蜥蜴――飛壁(ひへき)。
百足は背が高く、筋肉の輪郭が異様なほど際立っていた。露出した皮膚には暗紅色の紋様がびっしりと走り、まるで無数の細かな節足が蠢いているかのようだ。呼吸は荒く、気配は外へと漏れ出し、そこに立っているだけで凶器そのもののような威圧感を放っている。
対して、飛壁はまったくの正反対だった。
痩せ細り、どこか枯れた印象さえある体つき。四肢は人のものとは思えないほど長く、定位置に立ったときも、つま先は地面に完全にはつかず、岩壁の縁に触れるようにして身体を前傾させている。その姿は、いつでも垂直な壁へと貼りつけるような構えだった。
「始めろ」
厳白蟒が再び声を発する。
その瞬間、百足と飛壁は同時に魔人化を完了させた。
次の瞬間、先に動いたのは百足だった。
牽制はない。
一歩踏み出した瞬間、地面が炸裂する。
全身が節足を広げた巨大な百足のように躍り、両腕は残像と化し、百に及ぶ毒手が同時に叩き込まれた。
空気が引き裂かれる。
それは比喩ではない。毒気と純粋な力が重なり合い、実際に起きた現象だった。
その一撃一撃には、肉体を瞬時に侵食するほどの猛毒が宿っている。皮膚をかすめるだけでも、傷口は即座に爛れ、崩れていく。
だが、飛壁は正面から受けなかった。
身体が重さを失ったかのように岩壁へと貼りつき、指先、つま先、背中のすべてで力を分散させながら、ほぼ垂直な岩面を横方向へと滑る。動きは走るというより、何かが這っているかのように不気味だった。
百足の攻撃は空を切る。
毒手が岩面を叩き、瞬時に腐食が広がり、黒い穴がいくつも穿たれた。
飛壁が反撃に転じる。
岩壁の上で急反転した瞬間、魔人化の特徴が一気に露わになった。下顎が裂け、舌が信じがたい長さで弾き出される。粘つく毒液をまとったそれは、しなやかで致命的な鞭のようだった。
同時に、彼が飼う毒物――巨蜥が岩窟の陰から飛び出し、口を開くなり、腥臭い毒霧を吐き出した。
百足は低く唸り、毒霧をその身で受け止める。
両腕を横に振るい、巨蜥を押し退けると、今度は自らの毒物である蜈蚣が毒坑から這い出し、巨蜥と激しく絡み合った。
戦いは一気に激化する。
正面からの圧殺と、絡め取るような遊撃。
力と身法の衝突。
毒術と毒物の交錯。
修炼場の中では毒気が渦巻き、岩壁は腐食によって次々と剥がれ落ちる。空気には鋭い裂音と、骨が擦れ合う鈍い音が満ちていた。
辛夷は後方に立ち、静かにそれを見つめていた。
その眼差しは冷静で、驚きは微塵もない。
――この光景を、彼女は何度も見てきた。
やがて、二人はほぼ同時に後退した。
百足の腕には爛れた傷がいくつも増え、飛壁の肩背は毒手にかすめられ、不自然な灰白色へと変色している。
引き分けだった。
厳白蟒は高みから二人を見下ろす。
「百足」
彼は言った。「急ぎすぎだ」
百足は頭を垂れ、反論しない。
「飛壁」
厳白蟒の視線が移る。「逃げてばかりいるな」
飛壁もまた、無言で頭を下げた。
それだけで評価は決まった。
褒美はない。
慰めもない。
毒魔将にとって、それはただ――「まだ足りぬ」という結果にすぎない。
辛夷はわずかに視線を落とした。
次が、自分の番だと分かっていた。
修炼场の毒気はなおも翻り続けている。
百足と飛壁が退いた後も、地面には腐食によって穿たれた穴が残り、その縁からは小さな泡が滲み出ていた。まるで傷口が膿んでいるかのようだ。
巨蜥は重たい尾を引きずり、再び陰へと戻っていく。
蜈蚣の毒物は岩の隙間で丸まり、節足同士を擦り合わせ、「沙沙」という不快な音を立てていた。
厳白蟒はなお高座に座したままだ。
「次」とは言わない。
半眼の視線で、場に残るすべての痕跡をなぞる。
毒の拡散速度、腐食の進行、圧迫下での弟子たちの反応――それらを値踏みするように。
ここは決して「闘技場」ではない。
彼の培養皿だ。
「第二戦」
ようやく口を開いたその声は、名を呼ぶように淡々としていた。
「赤蝎(せきかつ)。蛇姫」
その言葉が落ちた瞬間、修炼场の空気が、さらに一段重くなった。
辛夷はわずかに目を上げ、ためらうことなく場へと歩み出る。
足取りは軽く、着地の音はほとんどしない。それは意図的な軽さではなく、長年、毒沼と湿った岩壁を歩き続けてきた末に身についた本能だった――接触を減らし、振動を抑え、存在を晒さない。
赤蝎は、まったく異なる雰囲気で現れた。
一歩踏み出すなり、手首を振り、何か粘つくものを振り払うような仕草を見せる。指の関節には小さな鉤爪があり、爪は長く、凝固した血のように濃い色をしていた。豊かな体つきだが、内包する力は明らかで、腰と胴の線には一瞬で飛びかかれそうな爆発力が宿っている。
彼女は辛夷を見ると、口角をわずかに吊り上げた。
そこに善意はない。あるのは、染みついた挑発だけだ。
「蛇姫……」
赤蝎はその名を引き伸ばし、わざと噛み砕くように言った。
「新しい芸、見せてみなさいよ」
辛夷は答えない。
ただ立ち止まり、袖口を整える。その動きは静かで、緩やかだった。急ぐ様子もなく、まるで感情を袖の奥へと収めるかのように。
赤蝎は、その態度が何よりも気に入らなかった。
応じないことは、罵倒よりも強い侮蔑になる。
「気取ってんじゃないわよ」
赤蝎は低く笑い、視線をさらに冷たくする。
「あとで喋りたくなっても、言葉すら吐けなくしてあげる」
高みから、厳白蟒の声が落ちる。
「始めろ」
二人は魔人化へと入った。
赤蝎が先に動く。
腕を振ると、液体が扇状の軌跡を描いて宙を裂いた。水ではない。毒術によって活性化された強酸だ。
地面に落ちた瞬間、「ジジジ」と音を立て、即座に陥没を生む。蒸気が立ち上り、目を刺す。
辛夷は半歩退き、飛沫を避ける。
動きは速くないが、正確だった。あらかじめ落下地点を読んでいたかのようで、速度で競う必要すらない。
赤蝎の第二撃が続く。
魔人化の特徴が現れ、肩背の皮膚が盛り上がり、暗紅色の甲殻が背から腕へと伸びる。腕の外側からは「カチ」と音を立て、鋏状の刃が二本飛び出した。剃刀のように鋭く、細かな鋸歯が並び、動くたびに金属が擦れるような音を立てる。
距離を詰め、横薙ぎに刈り取る。
「――死ね!」
空気が切断され、毒気が二筋に圧縮された。
辛夷はなお、正面から受けない。
身を捻り、腰を落とし、蛇が爪を避けるようにかわす。鋏刃は肋をかすめて通り過ぎ、風を残した。数本の髪が断たれ、地面に落ちた瞬間、残留する酸霧によって灰へと変わる。
赤蝎はさらに詰め寄る。
辛夷が逃げ続けられるとは信じていない。
二度目の剪断に入ろうとした、その瞬間――
辛夷が手を上げ、指先を軽く弾いた。
一滴の毒液が飛ぶ。
露ほどの小さな滴。
だが、それが赤蝎の鋏刃に触れた瞬間、刃の表面に細かな白泡が浮かび、金属の光沢が瞬時に喰われていった。
赤蝎の眼が変わる。
慌てて腕を引いた。
「……よくも――!」
辛夷はなおも無言だった。
その手を袖へと戻す。まるで埃を払っただけのように。
赤蝎の怒りが一気に噴き上がる。
彼女が最も忌み嫌うのは、辛夷のこのやり方だった。最小の動きで、相手に“本気”を強いる。
低く唸り、地を蹴る。
強酸が再び撒き散らされ、同時に背後の陰から黒い影が跳び出した。
――魔蝎。
異様な大きさの蝎。
黒光りする甲殻、高く反り上がった尾針。その先端の毒嚢は膨れ、内部では紫紅色の光が脈打っている。姿を現しただけで、場の毒気が一段濃くなった。
魔蝎の尾が揺れ、毒針が雨のように放たれる。
鋭い破空音が辛夷の退路を塞ぐ。
辛夷の動きが、ようやく速くなる。
身を翻し、袖からより太い黒影が滑り出た。
――大蟒蛇。
厳白蟒から与えられた毒物。
常の蛇を遥かに超える体躯。黒ずんだ鱗、冷光を帯びた腹鱗、二点の灯のような蛇眼。
姿を現した瞬間、主の鼓動を聞いたかのように、ためらいなく魔蝎へと襲いかかる。
巻き付いた瞬間、「どん」と鈍い音が響いた。
衝突ではない。甲殻と筋肉が押し潰し合う音だ。
魔蝎の尾針が狂ったように鱗の隙間へ突き立てられる。
だが、蟒蛇はさらに締め上げ、節足を地面へと押し込み、甲殻が軋む甲高い音を引き出す。
赤蝎は毒物を救おうと、再び鋏刃を振り下ろした――
その瞬間、辛夷が顔を上げ、初めて口を開いた。
声は低く、しかしはっきりとしている。
「切れば、蛇の体内の毒が一気に爆ぜる。あなたも、その毒物も、助からない」
赤蝎は動きを止めた。
辛夷の指先には、すでに第二の毒液が凝集している。
ほとんど無色透明だが、空気に溶ける甘い腥さがある。赤蝎はそれをわずかに嗅いだだけで、舌の奥が痺れた。
「……今のは、何よ」
赤蝎は歯を食いしばる。
辛夷は静かに見返す。
「あなたが求めた“演目”」
その一言が、赤蝎の最も触れられたくないところを刺した。
呼吸が荒くなる。
納得できない。
「勝ったつもり?!」
赤蝎は怒りに笑い、半歩退くと両腕を広げた。
強酸が雨のように降り注ぐ。
「ここを全部溶かしてやるわ! それでも立つ場所があるの?!」
白煙が一面に立ち上る。
辛夷の足取りは、なおも安定していた。
強酸と正面から競わず、蟒蛇に魔蝎をさらに締め上げさせ、尾針を封じる。同時に、袖から二本の小瓶が滑り出る。蓋が開き、毒液が霧となって散った。
腐食の毒ではない。
抑制の毒だ。
毒と毒は、単純に重ならない。
中和するもの、抑え込むもの、そして――反噬するものがある。
辛夷の才は、そこにあった。
体術で最強でもなく、身法が最も鬼魅なわけでもない。だが、毒の流れを読む感覚は、生まれつき骨血に刻まれている。相手の毒性の向かう先を瞬時に見極め、別の毒でその要を噛み止める。
本来なら拡散するはずの強酸は、淡い霧に触れた途端、腐食の速度を落とした。白煙は薄れ、粘つくように停滞する。まるで、見えない網に絡め取られたかのように。
赤蝎の眼が、真っ赤に染まる。
「……そんな……!」
辛夷は、止めを刺さなかった。
一歩踏み出し、指先をわずかに引く。
蟒蛇が一気に締め上げる。
魔蝎の甲殻が、耳を刺すような音を立てて軋んだ。
赤蝎の顔色が変わり、即座に叫ぶ。
「……もういい!」
辛夷は指を上げる。
蟒蛇は締め付けを止め、圧制だけを維持した。
退路は残した。
――点到為止。
だが、赤蝎の表情は、敗北以上に歪んでいた。
彼女には分かっている。
辛夷は毒物を殺せた。流れで、自分自身も殺せた。
だが、そうしなかった。
――勝てるが、する価値もない。
その態度こそが、最も屈辱的だった。
赤蝎の胸が大きく上下し、鋏刃が引き込まれる。歯が、ぎりぎりと鳴った。
高みから、厳白蟒が低く笑った。
それは賞賛ではない。
むしろ、満足。
「蛇姫」
彼は言った。
「悪くない」
たった二言。
だが、その場の空気を一瞬で凍らせるには十分だった。
五毒弟子は皆知っている。
毒魔将の口から語られる「悪くない」が、何を意味するのかを。
――今夜、呼ばれる。
辛夷の指先が、袖の中でわずかに強張った。
彼女は視線を落とし、心にもない言葉を低く口にする。
「……主の御称賛、ありがたく存じます」
赤蝎はその場に立ち尽くし、指が白くなるほど握り締めていた。
瞳に宿るのは、単なる憎悪ではない。
嫉妬だ。
辛夷の才への嫉妬。
選ばれたことへの嫉妬。
そして何より――
――あれほど壊され、引き裂かれてなお、
戦場であの冷静さを保てる、その在り方への嫉妬だった。
修行は終わった。
五毒弟子たちは、次々と場を後にする。
腐敗獄の湿熱は、離れてもなお彼らにまとわりついた。
振り払えない汗と毒のように。
だが第四層を抜け、第二層――嗔怒獄(しんどごく)、夜叉族の領域へと戻った途端、空気は目に見えて「生きられるもの」へと変わる。
少なくとも、ここでは風が直接肺を灼くことはない。
少なくとも、足元から突然毒沼が噴き出すこともない。
嗔怒獄は依然として陰鬱だが、そこは「城」に近かった。
夜叉(やしゃ)、修羅(しゅら)、羅刹(らせつ)の三族が限られた資源を奪い合い、争いは絶えない。
通りには傷を負った魔族が溢れ、巡回の武器音、取引の呼び声、怒号と罵声が絡み合い、まるで眠ることのない戦場のようだった。
辛夷は、最後尾を歩いていた。
足取りは変わらず安定している。
だが、掌はすでに冷え切っていた。
――呼ばれる。
厳白蟒が、自分を呼ぶことを、彼女は分かっていた。
果たして。
五毒弟子の仮住まいとなっている岩屋に戻って間もなく、侍従のような風体の魔族が戸口に現れた。
頭を垂れ、声は恭しいが感情は一切ない。
「毒魔将様がお呼びだ。蛇姫、洞窟へ」
室内にいた赤蝎は、その言葉を聞いた瞬間、視線を沈めた。
辛夷は「承知しました」とは言わなかった。
ただ立ち上がり、衣を整える。
その動きは静かで、淡々としていた。
毒魔将の“褒美”を受け取りに行く――ただそれだけのことのように。
何をされるかなど、とうに分かっている。
そして、その「分かっている」という感覚にも、すでに飽きていた。
それでも、彼女は外へ出る。
選択肢は、ない。
洞窟の奥は、外よりもさらに熱かった。
空気には薬香、血の匂い、そして言葉にし難い甘さが混じっている。
毒花が咲き切り、腐り落ちた後のような匂いだ。
岩壁には発光する鉱石が埋め込まれ、黄昏色の光が人の肌を油で塗ったかのように照らしていた。
厳白蟒は、洞窟の中央に座していた。
甲冑は着けていない。
薄い黒衣を纏うだけで、襟元は緩み、鎖骨の下にある鱗紋の暗痕が覗いている。
彼はなお口罩を着けたまま、辛夷が入ってくるのを見た。
その視線は、人ではなく、使い慣れた器具に向けるものだった。
「来い」
辛夷は歩み寄る。
足音は軽いまま。
彼の前に立ち、視線を伏せる。
指先が強く握られ、そして、ゆっくりと解かれる。
彼女は、抵抗しなかったわけではない。
だが、抵抗するたびに返ってくるのは、より長く、より細かく、より正確な折檻だった。
厳白蟒は手を伸ばし、彼女の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「今日は、よくやった」
そう言われ、辛夷の睫毛がわずかに震えたが、返事はない。
「褒美だ、辛夷」
本名を呼ぶ声は柔らかく、まるで本当に褒めているかのようだった。
だが、彼女の腹の底が冷える。
――この“褒美”の正体を、彼女は知っている。
それは、ただの性行為ではない。
身体から意志に至るまでをねじ切るための、支配であり、虐待だ。
厳白蟒の指が、彼女の首筋をなぞり、鎖骨で止まる。
脈を探すように。
「動くな。今日は、新しいのを試す」
辛夷の呼吸が、一瞬詰まった。
次の瞬間、指先が肌に触れる。
ひやりとした感触の直後、細かな刺痛が走った。
無数の針が、同時に血脈へと突き立てられるような感覚。
――毒。
致死量ではない。
厳白蟒の投与量の管理は、残酷なほど正確だ。
殺しはしない。
だが、決して楽にもさせない。
辛夷の背が強張る。
痛みが皮膚から内側へと滲み込み、血管を灼く火のように巡り、同時に、氷の虫が骨髄を這うようだった。
歯を食いしばり、喉から微かな吐息が漏れるが、すぐに押し殺す。
厳白蟒は、それを観察している。
反応の良い実験体を見る目で。
「いい」
低く言う。
「よく耐える」
折檻は、さらに深められる。
施虐しながら、観察する。
指先は震え、掌は汗ばみ、額の冷汗がこめかみを伝って落ちる。
視界が滲み、耳の奥の音は水越しのようになり、洞窟の光も揺れ始めた。
初めてではない。
毎回、同じだ。
前半は、意志で持ちこたえられる。
――耐えろ、と自分に言い聞かせる。
後半になると、毒と痛みが意識を引き裂き、身体は操られるだけの殻になる。
厳白蟒は、決して早く昏倒させない。
限界に近づいたところで、あえて緩め、意識を少し戻させてから、また続ける。
――人の皮を、何度も剥ぐように。
やがて、辛夷の視界が完全に暗転する直前、低い声だけが届いた。
「忘れるな。お前のすべては、私が与えたものだ」
そこで、意識が断ち切れる。
身体は支えを失い、無様に床へと崩れ落ちた。
洞窟の床は温かく、まるで血のようだった。
骨を抜かれた蛇のように、彼女はそこに横たわる。
どれほどの時間が経ったのか。
刺痛と薬の匂いの中で、ようやく目を覚ます。
毒の反応による痺れが残り、筋肉は引き裂かれて縫い直されたかのように痛む。
かろうじて身を起こし、指先が床に触れたとき、血と体液が混じった酸臭にまみれていることを知った。
彼女は泣かない。
魔界では、涙は水分と体力の無駄だ。
ただ顔を上げ、洞窟の外にある一点の弱い光を見つめる。
永遠に辿り着けない出口を見るように。
そのとき。
少し離れた陰で、赤蝎の影が一瞬、揺れた。
彼女は洞窟には入っていない。
だが、辛夷が出てくる姿を見ていた。
あの憔悴。
あの狼狽。
折檻の後に残る、空白。
赤蝎の瞳に、憐憫はない。
あるのは、さらに濃くなった嫉妬と怨嗟だけだ。
――なぜ、呼ばれたのが彼女なのか。
――なぜ、折られたのも彼女なのか。
――それでも、なぜ、戦場で勝てるのか。
赤蝎は歯を食いしばり、鉤爪が掌に食い込み、血が滲んだ。
低く呪詛を吐く。
その声は、毒のように粘ついている。
「……いつか必ず……
私の前を、這わせてやる」
辛夷は、それを聞いていない。
あるいは、聞こえていても、振り返らなかっただろう。
岩壁に手をつき、一歩一歩、五毒弟子の仮住まいへと戻っていく。
足取りは、なお軽い。
だが、その一歩一歩が、自分の骨を踏みしめているようだった。
そして、彼女は分かっている。
今日終わったのは、ただの「修行」だ。
――本当の獄は、まだ終わっていない。
夜叉族の魔殿は、嗔怒獄の最深部に連なる岩脊の下に鎮座していた。
それは決して壮麗な宮殿ではない。
むしろ、地下に伏せた巨大な獣に近い。
入口は細く長く、岩壁は内へと収束し、奥へ進むほど空間は逆に広がっていく。
殿内には年中、暗紅色の魔焔が灯されており、光は明るすぎず暗すぎず、影を払うことも、完全に迷わせることもない。
ここは夜叉族にとって、最も重要な場所のひとつだった。
族の秘宝が納められているから――それだけではない。
魔族七邪鎧の一つ、
「七殺」が、ここに安置されている。
辛夷が魔殿へ足を踏み入れたとき、その歩みは普段よりも一層静かだった。
次にここを守る役目が、彼女に回ってきている。
身体の痕跡はすでに簡単に処理してある。
薬で、毒魔将の残した反応も抑えていた。
だが、それは表面にすぎない。
本当の痛みは、骨の奥に、血の中に、そして呼吸の隙間に残っている。
魔殿の中は、静寂に包まれていた。
魔焔が燃える微かな「ぱちり」という音さえ聞こえ、胸腔に響く自分の鼓動までもが、はっきりと分かるほどだ。
七殺の鎧魂萃は、魔殿中央の石台に置かれている。
それは完成した鎧ではない。
中核となる結晶体だ。
暗紅色に染まった結晶の表面には、無数の裂け目のような筋が走っている。
だが、砕けてはいない。
裂紋の奥では、かすかな光が脈打つように流れている。
その光は温もりを持たない。
凶暴で、獰猛で――
いつ目を覚ましてもおかしくない獣のようだった。
辛夷は、値守のたびに長くそれを直視しない。
七殺の「殺意」は、あまりにも強すぎる。
近くに立つだけで心は乱れ、血流は早まり、衝動的な攻撃欲さえ湧き上がる。
夜叉族にとっては象徴。
だが、辛夷のような賤奴にとっては、絶え間ない精神的圧迫でしかない。
所定の位置に向かい、いつものように座して調息しようとした、その時――
背後から、足音が聞こえた。
聞き覚えのある歩調。
急がず、重くもなく、むしろ意識的に音を抑えている。
辛夷は振り返らなかった。
「何の用?」
淡々と告げる。
「交代までは、私が守る」
足音が止まる。
少し間を置いて、ためらいが混じった声がした。
「……先輩」
辛夷はそこで初めて振り向いた。
殿口に立っていたのは、黄蟾(こうせん)だった。
他の五毒弟子よりややがっしりした体格で、百足や飛壁ほどの凶気はない。
彼の修めるのは蟾蛙の毒――精神、麻痺、遅滞に特化した術で、防御を得意とする。
そのため、値守や支援に回されることが多い。
辛夷を見るなり、彼は眉をひそめた。
評価ではない。
心配だ。
「顔色が悪い」
辛夷は一瞬だけ彼を見ると、すぐに視線を逸らす。
「修行の消耗よ」
声は平坦だった。
黄蟾は納得していない。
二歩ほど前に出かけて、七殺の石台の手前で止まる。
鎧魂萃に近づくのを、無意識に避けているようだった。
低く言う。
「代わる。……休んでくれ」
辛夷の指先が、わずかに止まった。
その言葉を、彼が口にするのは初めてではない。
好意であることも分かっている。
そして、その好意が魔界で何を意味するかも。
――厄介。
――注目。
――利用。
「これは私の役目」
辛夷は言う。
「あなたには関係ない」
黄蟾は口を開きかけた。
言いたいのは、役目の話だけではない。
分かっている。
辛夷の気配は明らかにおかしい。
単なる疲労ではない。
無理やり押さえ込まれた後の脆さ――
張り詰めた糸のようで、いつ切れてもおかしくない。
「ご主人様が……」
そう言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
辛夷の視線が、一気に冷える。
見上げたその眼には、威圧はない。
だが、はっきりとした境界があった。
「彼のことを口にするべきじゃない」
黄蟾の拳が、ゆっくりと握り締められる。
「分かってる」
少し早口になる。
「助けられないことも、必要とされてないことも……でも、せめて――」
「せめて、何?」
辛夷は遮った。
一歩近づき、声を低くする。
「私に、借りを作らせる?」
黄蟾は言葉を失った。
辛夷の視線は彼を捉えながら、どこか遠くを見ている。
「魔界で、借りは必ず返される」
静かに言う。
「今日、あなたが代われば、次は? 一度庇う? 一度罪を被る? それとも――死ぬ?」
喉が詰まる。
「……そういう意味じゃ……」
「結果は同じ」
淡々と、辛夷は告げた。
「だから、だめ」
半歩退き、距離を取る。
それは拒絶ではない。
意図的な線引きだった。
「戻って」
「もう、来ないで」
黄蟾はその場に立ち尽くし、長い沈黙の末、低く応えた。
「……分かった」
背を向けたまま、振り返ることなく去っていく。
辛夷は、その背中が殿口から消えるまで見届け、ゆっくりと指を解いた。
無感情なわけではない。
彼の善意を知っているからこそ、受け取れない。
魔界では、善意こそが最も鋭い刃になる。
再び座り、岩壁に背を預け、目を閉じる。
七殺の気配が、周囲で渦を巻く。
殺意、躁動、嗜血の衝動。
鎧魂萃との共鳴によって、それらが感覚へと滲み込んでくる。
だが、辛夷はすでに慣れていた。
彼女にとって、七殺よりも息苦しいのは――
毒魔将の洞窟の空気だ。
調息の途中、再び足音が聞こえた。
今度は、軽い。
だが、迷いはない。
辛夷は目を開く。
夜叉族の正装に身を包んだ女性が立っていた。
淡灰色の長衣は魔焔に照らされ、暗紅の縁光を帯びている。
歩みは落ち着いており、戦場の焦りも、宮廷の虚飾もない。
曼陀羅(マンダラ)。
夜叉王の娘。
夜叉族が公認する後継者。
「辛夷」
近づきながら、親しみを含んだ声で言う。
「今日は、あなたの値守だと聞いた」
辛夷は立ち上がり、礼をとる。
「姫殿下」
曼陀羅は手を振った。
「礼はいい。ここには、私たちしかいない」
辛夷の顔を見て、わずかに言葉を止める。
「……あまり、良くなさそうね」
否定はしない。
「少し、疲れているだけです」
曼陀羅は七殺の石台を挟んで腰を下ろす。
暗紅の光が二人の間を流れ、影を長く引き延ばした。
「また……修行のせい?」
「はい」
「厳白蟒は?」
一瞬の沈黙。
「……います」
曼陀羅は、それ以上聞かなかった。
答えが返らない問いもあることを、知っている。
殿の天井に走る幾重もの岩紋を見上げる。
永遠に覆い被さる空を見ているかのように。
「ここが、嫌い……」
ふいに、そう漏らした。
辛夷はわずかに目を見開く。
「魔殿が、じゃない」
曼陀羅は静かに続ける。
「全部よ」
声には疲労が滲んでいた。
「夜叉、修羅、羅刹……毎日、殺し合っている」
「土地と資源のために、同じ争いを繰り返す」
「父は、それが魔族の生き方だと言うけれど……」
指先で石台を軽く叩く。
「私には、終わりのない虐殺にしか見えない」
辛夷は黙って聞いていた。
「いずれ、私が継ぐことになる」
曼陀羅の声が低くなる。
「その時は、私が命じなければならない」
「族人に、殺せと。
もっと多くの者を、死なせろと」
辛夷を見る。
その瞳に、初めてはっきりとした恐怖が宿っていた。
「……分からないの」
「どうして修羅や羅刹と、共に生きる道を探せないのか……」
喉が詰まる。
慰めの言葉は、あまりにも空虚だと分かっていた。
「ねえ、知ってる?」
曼陀羅は、唐突に話題を変えた。
「父から、人界の話を聞いたことがある」
辛夷は目を上げる。
「若い頃、父は人界に行ったことがあるそうよ」
「魔界みたいな過酷な環境はなくて、
殺さなければ生きられない場所でもないって」
夢を語るような声。
「本当の空があって、
清らかな空気があって、
豊かな資源と、幻みたいな景色と……
本当の光があるって」
胸の奥が、かすかに震えた。
人界。
それは魔界において、現実ではない。
誘惑だ。
命を賭してでも、掴みたくなる誘惑。
「……信じる?」
曼陀羅が低く問う。
長い沈黙の後、辛夷は答えた。
「本当かどうかは、分かりません」
七殺の暗紅の光を見る。
「でも」
「ここが、本当の地獄だということは、分かります」
曼陀羅の呼吸が止まる。
辛夷の声は静かだったが、初めて方向を持っていた。
「人界が、父上の言った半分でも良い場所なら」
「……賭ける価値はある」
曼陀羅は、はっと辛夷を見る。
「辛夷……何を言っているの?」
心臓が早鐘を打つ。
言えば、戻れない。
それでも、もう耐えられなかった。
「考えているんです……」
「魔界を、離れられないかって」
魔殿が、凍りついたように静まり返る。
七殺の鎧魂萃が、かすかに震えた。
暗紅の光が速く流れ、危険な思考に応えるかのように。
曼陀羅の瞳孔が、わずかに縮む。
「……正気じゃない」
低く言う。
「かもしれません」
辛夷は認めた。
彼女は曼陀羅を見る。
もはやただの賤奴ではない。
明確な意志を持つ者として。
「でも」
「ここに残って、この日々を耐え続けるよりは……」
曼陀羅の指が、ゆっくりと握られる。
理性は告げている。
不可能だ。
自殺行為だ。
裏切りだ。
それでも。
「人界」という言葉に、心が強く揺れた。
「……分かっている?」
「それが、何を意味するか」
低く問う。
「分かっています」
辛夷は即答した。
毒魔将の洞窟。
腐敗獄の毒沼。
終わりのない修行と、折檻。
すべてが脳裏をよぎる。
「命を賭けるということです」
曼陀羅は目を閉じた。
長い時間。
やがて、目を開く。
そこにあるのは、恐怖だけではなかった。
長く押し殺してきた、微かな渇望。
「……計画は?」
辛夷の口元が、かすかに緩む。
「完全なものではありません」
そう言って、視線を七殺の鎧魂萃へ向けた。
「でも」
「機会は、ここにあります」
暗紅の光が、呼吸するように脈打つ。
――魔界を離れる種は、
この瞬間、確かに蒔かれた。