「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩――   作:八神 アキト

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第二十三話 蛇姫と七殺編 其ノ三 逃離

第二層・嗔怒獄(しんどごく)は、

もとより「生きるため」に存在する場所ではない。

この地が存在する理由は、ただ一つ――

終わりなき戦争に、出口を与えるため。

空は年中、焼け焦げたような暗紅色をしている。

まるで血液が空中で凝固したかのようだ。

ここに真の昼夜は存在しない。

あるのは、強弱が入れ替わるたびに灯る魔焔と、

戦いのあと、いつまでも消えぬ煙塵だけ。

嗔怒獄の大地は、無数の裂谷と岩脊に覆われている。

裂谷の底からは、ときおり液体が滲み出す――

黒く、褐色で、鉱滓と腐蝕性の不純物を含んだ水。

人界であれば、それは水とすら呼ばれない。

だが魔界では、それが資源を意味する。

すなわち――

誰が生き残れるか、という指標。

今回、夜叉族と修羅族の全面衝突を引き起こしたのも、

まさにそのような一処の水源だった。

幅は狭く、

岩層の奥から滲み出た水脈が、岩壁に沿ってゆっくりと流れ、

浅い窪地を形作っているに過ぎない。

水面は油のような光を帯び、刺激臭を放ち、

不用意に触れれば、皮膚を灼く。

だが――

夜叉族がそれを見つけたとき、

修羅族もまた、同時にそれを見つけていた。

争いは避けられず、

戦いは前触れもなく始まった。

先に動いたのは修羅族だった。

彼らは裂谷の対岸から躍り出る。

重厚な甲冑と骨刃が岩に擦れ、耳を裂く音を立てる。

生来、屈強な肉体を持つ修羅族は正面突破を得意とし、

陣形を組めば、それは移動する城壁と化す。

夜叉族は高所から急降下した。

刃、魔焔、引き裂くような咆哮が交錯し、

嗔怒獄の空気は一瞬で血と殺意に満たされる。

その混乱の只中――

毒魔将の命が下った。

「行け。」

余計な説明はなかった。

五毒弟子は戦場へと押し出される。

援軍としてではない。

消耗品として。

百足が、最初に飛び出した。

ほとんど歓喜を帯びたまま、修羅族の陣へ突っ込んでいく。

魔人化したその身体は膨張し、醜悪に歪み、

節足のような暗紅の紋様が皮膚の下で蠢く。

今にも体を突き破りそうだった。

両腕を振るうたび、濃密な毒霧が広がる。

修羅族の肉体は瞬時に崩れ、腐り、沈んでいく。

悲鳴が重なり合う。

百足は口角を吊り上げ、低く笑った。

――ここは、自分にとって最適の場所だ。

飛壁はその後に続いたが、

彼の戦い方はまったく異なっていた。

岩壁に張り付くように移動し、

その身は影とほとんど同化している。

跳躍の一つ一つが、あらかじめ計算されたかのように正確だった。

伸びた舌鞭が孤立した修羅族を絡め取り、

次の瞬間には、視界から消えている。

一方、赤蝎はすぐには動かなかった。

やや後方に立ち、

戦場全体を流すように見渡している。

まるで、何かを探すかのように。

やがて、その視線が――

辛夷を捉えた。

辛夷は戦線の中程にいた。

深入りもせず、安全圏へ退くこともない。

その動きは、いつも通り抑制的だった。

――素早く仕掛け、即座に離脱する。

――決して纏わらせない。

毒を使うが、派手さは求めない。

求めるのは、結果だけ。

骨刃を振り上げた修羅族の呼吸器に、

すでに毒霧が入り込んでいる。

別の一体は、反応する前に血液が凝固を始めた。

だが、その「無駄のなさ」こそが、

混乱の中で彼女を際立たせていた。

三体の修羅族が、すぐに彼女を標的に定める。

視線を交わし、散開。

一体が正面から圧をかけ、

二体が側面から回り込む。

殺意を察知した瞬間、

辛夷の胸が重く沈んだ。

後退しながら毒液を放ち、

正面の一体を牽制する。

だが、側面からの攻撃は同時に迫っていた。

骨刃が空を裂き、修羅族特有の煞気を纏って、

急所を狙う。

――退路が、断たれた。

岩壁に背を打ちつけ、

足元が滑り、体勢を崩しかける。

その刹那、

視界の端に映ったのは――赤蝎だった。

彼女は、少し離れた場所に立っていた。

見えている。

確かに見ている。

視線は、はっきりと辛夷と交わった。

だが、動かない。

腕をわずかに緩め、

まるで自分とは無関係の演目を眺める観客のように。

その瞬間、

辛夷の心臓が、何かに強く掴まれた。

――やはり、そうか。

修羅族の攻撃が、同時に振り下ろされる。

「――鉄壁!」

低く、切迫した声が背後から響いた。

重厚な防御術式が展開され、

暗色のエネルギー障壁が岩殻のように立ち上がる。

辛夷の全身を、その背後へと包み込んだ。

刃が障壁に叩きつけられ、

鈍い衝撃音を立てるが、突破はできない。

黄蟾の姿が、彼女の傍に現れる。

両掌を地面に押し付け、

額には青筋が浮かび、

凄まじい反震に耐えているのが分かる。

「……っ!」

低く息を吐き、

力を込める声が震えた。

辛夷は、迷わなかった。

障壁に守られた一瞬を使い、

毒霧を反転して放ち、即座に離脱する。

毒が広がり、修羅族は後退を余儀なくされ、

その隙に夜叉族の援軍が殺到した。

戦線は引き離される。

黄蟾は一歩よろめき、

膝をつきかけた。

辛夷が、咄嗟に手を伸ばす。

「……ありがとう。」

低く、短く。

黄蟾は彼女を見ず、

荒い息のまま、首を振った。

「ここで死ぬな。」

それだけだった。

遠くで、赤蝎が立ち尽くしている。

表情は暗く、指先がわずかに強張る。

何も言わない。

だがその眼底に滲む怨毒は、

ほとんど形を持ちそうなほどだった。

戦いは、長く続いた。

屍が裂谷に積み重なり、

血と毒が混じり合い、

裂隙を伝って水脈へと流れ込む。

水面はさらに濁り、

そして同時に、より「安全」になる。

――誰も、近づこうとしなくなったからだ。

やがて、修羅族は撤退した。

夜叉族の、勝利。

歓声はなかった。

あるのは、

疲弊した息遣いと、

次の争奪を予感する沈黙だけ。

誰もが分かっている――

今日、この水のために、

まだ十分には死んでいない。

嗔怒獄の戦争は、

決して「終わり」を迎えない。

ただ、一時停止として、

無数の死体と、新たな理由を残すだけだ。

夜叉族が水源を掌握したその夜も、

岩谷の火は消えなかった。

巡回する夜叉の戦士たちが裂谷を行き交い、

死体を確かめ、止めを刺し、

使えそうな武具を回収する。

空気には、

血、毒、鉱物が焼けた粉塵、

そして消えぬ怨気が混じり合っていた。

辛夷は高岩の陰に腰を下ろし、

冷たい岩肌に背を預けた。

呼吸はすでに整っている。

だが、掌の冷えだけは残っていた。

戦いのせいではない。

――彼女は、はっきりと理解していた。

今日、自分は「覚えられた」。

赤蝎の一瞬の躊躇。

黄蟾の介入。

その二つが重なった意味を、

辛夷は痛いほど分かっていた。

五毒弟子の中で、

自分は再び――

危険な位置へ置き直されたのだ。

「……大丈夫か?」

傍から、黄蟾の声がする。

彼は少し離れた場所に座り、

布で腕の裂傷を簡単に縛っていた。

鉄壁の反震で筋肉が裂けているはずだが、

気にする様子はない。

辛夷は、静かに頷いた。

「問題ない。」

黄蟾は、苦笑して、それ以上は言わなかった。

遠くで、赤蝎が百足と低声で話している。

視線が一瞬こちらに向けられ、

すぐに逸らされた。

――汚れたものを見るように。

辛夷は、それを見ても反応しなかった。

もはや、慣れている。

彼女の意識を捉えたのは、

戦いの後に下された、あの命だった。

「明日、戦闘祭奠を行う。」

夜叉族の決定。

嗔怒獄で幾度となく繰り返されてきた儀式。

大規模な争奪のあと、

必ず行われる――

死者への“慰め”であり、

生者への再選別。

夜叉族の戦士たちの表情は、複雑だった。

昂揚する者。

疲れ切った者。

次を生き残れるか、心中で計算する者。

だが、辛夷にとって――

その四文字は、別の意味を持っていた。

機会。

その夜、

辛夷は再び魔殿の値守へと配置された。

七殺の気配は、夜になると昼よりもいっそう重くなる。

暗紅色の鎧魂萃は石台の中央に静かに横たわり、

まるでいつ脈打ち出してもおかしくない心臓のようだった。

一息吐くたび、それは無形の圧迫となって外へ滲み出し、

人の思考を否応なく焦燥へと引きずり込む。

辛夷は値守の位置に座し、目を閉じていた。

だが、完全に入定してはいない。

――待っている。

足音がした。

とても軽い。

だが、隠そうともしていない。

曼陀羅が、殿外から歩み入ってきた。

昼間よりも表情は硬く、

長袍の裾には、まだ乾ききらぬ血の跡が残っている。

それは彼女自身の血ではない。

戦場に染みついた、残滓の匂いだった。

「今日の戦いは……」

曼陀羅が低く切り出す。

「夜叉族の勝利です」

辛夷は即座に応えた。

曼陀羅は頷き、数歩近づいてから足を止める。

二人は七殺の石台を挟み、しばし沈黙した。

「明日は戦闘祭奠よ」

曼陀羅が言う。

「確認は取れている」

辛夷は目を開いた。

「良い機会です」

そう言った。

感情は、そこにはない。

二人はすでに計画の全てを何度も確認し尽くしている。

言葉そのものが、もはや余剰だった。

曼陀羅は一度、深く息を吸う。

「王宮へ行くわ」

「古樹の方は、祭奠の間、守りが薄くなる」

辛夷は静かに頷いた。

「炜菩提(エイ・ボダイ)は、樹心に」

念を押す。

「分かっている」

曼陀羅は小さく答えた。

一瞬、言葉を切り、

それから、付け足す。

「……もし、祭奠の間に手に入らなかったら」

辛夷は彼女を見た。

その瞬間、

「大丈夫」や「必ず成功する」といった言葉は、口にしなかった。

ただ、平静に言う。

「その時は、改めて考えましょう。

 私たちは、必ず一緒に行く」

夜は、さらに深まっていく。

魔殿の外の火焔は次第に暗くなり、

巡回の足音も疎らになった。

戦闘祭奠の前夜、嗔怒獄全体が、

奇妙な状態に包まれていく――

昂ぶりと、抑圧。

二つが同時に存在する夜。

刃を研ぐ者。

祈る者。

片隅で、声を殺して泣く者。

辛夷は動かなかった。

七殺の殺意が精神を侵食し続ける。

だが彼女は、その衝動をさらに深く、

身体の奥へと沈める術を身につけていた。

――曼陀羅が炜菩提を得て戻る。

その後、計画は次へ進む。

一方、

夜叉族王宮の、さらに奥深く。

この宮殿は、華美ではない。

人界の王宮のように「見せるため」に建てられた装飾はなく、

むしろ岩腹へと食い込む要塞に近い。

低く圧し掛かる巨大な穹頂。

削り出された天然岩壁を魔金で補強した壁。

獣の骨のように太い柱。

すべてが、冷たく、重く、

揺るがぬ存在感を放っている。

そして何より、

ここで最も不快なのは――静けさだった。

嗔怒獄の外は常に喧噪に満ちている。

殺し、怒号、取引、咆哮。

沸騰する釜のような世界。

だが一歩、宮殿の奥へ踏み込めば、

それらの音は断ち切られる。

残るのは、王座前で燃える魔焔の微かな音――

パチ、パチ、と。

まるで、闇の中で誰かが歯を研いでいるかのように。

夜叉王は、王座に座していた。

鎧は着けていない。

深色の長袍を羽織り、その裾は段に垂れ、

動かぬ影のように広がっている。

老いては見えない。

だがその顔には、

幾度も歳月に踏み潰されてきた者特有の疲労があった。

それは弱さではない。

「あまりにも多くを見過ぎ、

 もう何も信じなくなった者の冷淡さ」だ。

王座の下、両脇には衛兵が直立している。

彼らの視線は、どこも見ていない。

ただ前方だけを見つめている。

魔界において、

忠誠は美徳ではない。

それは、訓練された反射に過ぎない。

宮殿の最奥、

岩壁に埋め込まれた小型だが精密な装置があった。

数十の符紋環が重なり合い、

中心には淡く光る晶核。

そこに、影像の波紋が揺らめく。

次の瞬間――

投影が、音もなく展開した。

黒い影が、装置の中央から浮かび上がる。

実体はなく、輪郭も不安定。

だが、その仮面だけは異様なほど鮮明だった。

漆黒の地に、点々と散る星光。

まるで、本物の夜空。

冷たく、冴え渡っている。

夜叉王は投影を見据え、眉一つ動かさない。

「状況はどうなっている」

投影の声は加工され、

性別も年齢も判別できない。

遥か遠くから届くような響きだった。

「人界側の布石は」

投影が言う。

「予定通り進行している。

 次は、そちらが動く番だ」

夜叉王は鼻で笑った。

「次、か」

「そのために、私は最も大切なものを犠牲にする。

 随分と軽く言うものだな」

投影は、急がない。

「私も同じだ。

 それに、私の代価は――君より先に支払っている」

その言葉に、

殿内の魔焔が、わずかに揺れた。

夜叉王の眼光が鋭くなる。

だが、爆発はしない。

彼はゆっくりと手を上げ、

指節で王座の肘掛を一度、軽く叩いた。

「……次だ」

投影は僅かに傾いた。

礼とも、合図とも取れる動き。

「速度を上げろ」

投影が言う。

「“種子”を、発火可能な境界まで押し上げる必要がある」

「境界だと?」

夜叉王は低く言った。

「その境界に、彼女が耐えられる保証はない」

一瞬の沈黙。

「計画を続行しろ」

夜叉王の目尻が、ぴくりと動いた。

刺さる言葉だった。

長い沈黙の後、

彼は低く告げる。

「……次へ進める」

投影は答えず、

星光の仮面だけが魔焔を反射する。

夜叉王の声は、さらに低くなった。

「私は、お前の言う通り多くをしてきた。

 その時が来たら、約束を果たせ。

 神魔通道を、再び開け」

言葉を切り、

感情を押し殺す。

「だが分からない。

 お前は、一体何のために、ここまでやる?」

投影の声は変わらない。

「“理由”を知る必要はない。

 君はただ進め。

 族のため、そして君の大義のために」

夜叉王の眼が、沈む。

その時――

殿外から、足音。

迷いはない。

一直線に、王座へ向かってくる。

衛兵は動かない。

誰なのか、すでに分かっている。

夜叉王は指先をわずかに動かした。

投影は瞬時に収束し、

星光の仮面が一度だけ閃いて、消えた。

装置は沈黙を取り戻す。

次の瞬間、

曼陀羅が殿内へと入ってくる。

彼女は礼をした。

「父上」

夜叉王の表情は、

いつもの冷淡さに戻っている。

「来たか」

曼陀羅は殿内を一瞥した。

異変は見えない。

だが空気に、わずかな異物感が残っている。

――外来者の痕跡。

彼女は、問わなかった。

魔界では、

問うべきでないことを問うのは罪だ。

夜叉王は、心のざわめきを押し殺すように、

別の装置を起動した。

王座脇の石壁に嵌め込まれた、八稜鏡。

回音石(かいおんせき)を内包した、

かつて人界から持ち帰った記念品。

曼陀羅は、それを何度も見ている。

武器でも、術具でもない。

魔界ではひどく贅沢なもの――

音を再生する装置。

魔界に音楽はない。

少なくとも、人を静かにする音楽は。

それでも、夜叉王はこれを残していた。

八稜鏡が光り、

旋律が、水のように流れ出す。

澄んで、長く、

遠い光を帯びた音。

曼陀羅の呼吸が、

知らず、わずかに遅くなる。

――分かっている。

人界の伝説の歌姫、

司馬葵(シバ・あおい)の歌。

歌声が殿内に満ちると、

荒々しい岩壁は、どこか柔らぎ、

魔焔の爆ぜる音も抑えられた。

空間に、細い裂け目が生じる。

裂け目の向こうは――

別の世界。

夜叉王は目を閉じ、

数呼吸、音に身を委ねた。

肩の力が、僅かに抜ける。

曼陀羅が、

ほとんど見たことのない姿だった。

「父上……」

彼女は思わず尋ねる。

「なぜ、これを?」

夜叉王は、すぐには答えない。

少しして、淡々と告げる。

「これを聴いている時だけ、

 “静”を感じられる」

曼陀羅の指先が、わずかに強張る。

初めて気づいた。

幼い頃から見上げてきた父が、

何かを必要として、ようやく息をつける瞬間があることに。

彼女は感情を抑え、話を戻す。

「明日は、戦闘祭奠です」

「分かっている」

「父上、一つ聞きたいことがあります」

声を整え、

曼陀羅は言った。

「夜叉、修羅、羅刹……

 本当に、共に生きる道はないのですか?」

夜叉王は目を開け、彼女を見る。

その瞬間、

曼陀羅は錯覚した。

――老いた獣の眼だ。

そこにあるのは、

優しさではなく、

経験と判断だけ。

「ない」

一言。

曼陀羅は退かない。

「なぜですか?」

「資源が限られていることは分かります。

 でも、せめて無意味な殺しを減らす規則を――」

「規則だと?」

夜叉王は冷笑した。

「規則は、強者が書くものだ」

「なら、あなたが書けます!」

曼陀羅は思わず言った。

夜叉王の視線が、刃のように鋭くなる。

「……書いた」

曼陀羅は息を呑む。

「お前の母――

 幽邃女王(ユウスイ・クイーン)も、書いた」

背筋が、凍る。

「母が……?」

夜叉王の指が、

王座の肘掛をなぞる。

撫でるというより、

古傷を数えるように。

「お前より天真だった。

 そして、お前より狠かった」

「三族に誓約を結ばせ、

 “共存”で安定を得ようとした」

曼陀羅の瞳が、わずかに輝く。

「それなら……」

「失敗した」

二文字が、鉄のように落ちた。

「なぜ?」

「修羅族ですか? 羅刹族ですか?」

夜叉王は、淡々と答える。

「魔界だ」

曼陀羅は言葉を失う。

「魔界は“和平”を認めない。

 認めるのは一つだけ――

 誰が、誰に恐れられているか」

「誓約は、人々に思わせた。

 恐れなくてもいい、と」

曼陀羅の指先が冷える。

「それで……?」

夜叉王の目が、わずかに暗くなる。

「威厳を失った」

「威厳を失えば、噛み殺される」

「理解した彼女は、去った」

「去った……?」

「どこへ?」

夜叉王は答えない。

ただ、再び歌声に耳を傾ける。

その旋律は、

切れかけた何かを、

一時的に縫い止める糸のようだった。

曼陀羅は父の横顔を見つめ、

悟る。

父は“静”を欲していないわけではない。

ただ――

魔界の静けさは、

 より大きな殺戮でしか得られないことを、

 誰よりも知っているのだ。

彼女は歯を噛み、話題を変えた。

「父上……

 若い頃、本当に人界へ行ったのですか?」

夜叉王は目を開き、彼女を見る。

その眼に、

一瞬の迷いが宿る。

歌声が、

彼を遠い場所へ引き戻している。

「行った」

曼陀羅の鼓動が速まる。

「人界は……

 本当に存在するのですか?

 空があり、光があり、清らかな空気があり、

 豊かな資源が……」

長い沈黙。

司馬葵の歌は、止まらない。

やがて、夜叉王は低く言った。

「お前の想像より、美しい」

曼陀羅の瞳が、わずかに輝く。

だが、すぐに続く。

「そして、想像より汚れている」

夜叉王は語る。

「そこにも戦争がある。

 裏切りがあり、弱肉強食がある」

「ただ――」

言葉を探し、

一拍置く。

「選択がある」

「水を飲むために、

 必ず誰かを殺さなくていい」

「生き方の可能性が、

 魔界より遥かに多い」

曼陀羅の指が震える。

「……私も、行けますか?」

夜叉王は、すぐには答えない。

測るように、

あるいは避けるように、彼女を見る。

やがて、静かに告げた。

「人界にどんな欠点があろうと――」

一拍。

「魔界より、

 千倍、万倍、ましだ」

曼陀羅の胸に、重い衝撃が走る。

辛夷の言葉が、脳裏をよぎる。

――

「たとえ半分でも、本当なら、試す価値はある」

父の口から、

それ以上に厳しい結論を聞いた瞬間。

彼女の中で、

長く押し殺してきた何かが、完全に定まった。

夜叉王は、ふと思い出したように言う。

「明日の戦闘祭奠、

 挑戦場には近づくな」

「なぜですか?」

夜叉王の視線が、釘のように突き刺さる。

「挑戦者を引き裂く時、

 血をお前に浴びせたくない」

それは、優しさではない。

命令だった。

だが曼陀羅には、十分だった。

父は言っているのだ。

明日、見せてはならないものが起きる。

曼陀羅は頭を下げた。

「……分かりました」

夜叉王は再び目を閉じ、

歌に身を委ねる。

その音の中でしか、

彼は思考を止められない。

曼陀羅は背筋を伸ばし、

殿を後にした。

振り返らない。

振り返れば、

父の一瞬の“静”を見てしまう。

それは、

決意を鈍らせる。

殿門を出た瞬間、

嗔怒獄の風が吹き付ける。

血と火焔の熱。

暗紅の空を仰ぎ、

曼陀羅の胸に残ったのは、一つの思いだけ。

――明日。

――祭奠が始まる。

そして明日、

彼女は“継承者”から“叛逃者”へと変わる。

翌日、祭奠が始まろうとしていた。

嗔怒獄全体は、完全に煮え立った鍋のような様相を呈していた。

夜明け前だというのに、岩脊のあちこちにはすでに夜叉族の群衆がひしめき合っていた。

戦闘祭奠――

それは嗔怒獄において最も古く、そして最も残酷な伝統である。

名目上は「戦死者に捧げる儀式」。

だがその実態は、公然たる選別に他ならない。

――誰が生きるに値するのか。

――誰がこの地に立ち続ける資格を持つのか。

祭奠の場は、巨大な裂谷の上に設けられていた。

谷底では暗紅色の魔焔が渦を巻き、底の見えない深淵のように蠢いている。

裂谷の両側には、削り平らされた岩台が幾重にも連なり、数千に及ぶ魔族を収容できるほどの規模を誇っていた。

そして中央――

最も広く開けた石台こそが、今日の戦場である。

勝者は、すべての族人の前で栄光を得る。

さらに最終的な勝者は――

夜叉王へ挑む資格すら与えられる。

それこそが、夜叉王の権威が維持され続けてきた理由の一つだった。

百を超える挑戦の中で、

彼を真に打ち倒した者は、ただの一人も存在しなかったのだから。

群衆は叫び、咆哮し、

敗北と死を、一種の娯楽のように消費していた。

魔界において、

他者が流す血を眺めること自体が、一種の発散なのだ。

曼陀羅は、祭奠の中心には近づかなかった。

彼女は夜叉族の正式な祭装を身にまとい、高所の奥まった回廊に立っていた。

まるで傍観者のように。

その顔に表情はなく、

視線だけが群衆を越え、王宮のさらに奥へと向けられていた。

そこに――

一本の古樹がある。

それはただの植物ではない。

鉄のように黒い幹。

天然に刻まれた無数の符紋。

疎らな枝葉は、常にかすかな光を帯びている。

夜叉族の聖物の一つ――

炜菩提。

その種子は魔族の気配を覆い隠し、異界において短時間「無害な存在」として偽装させることができる。

さらに、瀕死の状態で服用すれば、起死回生の効果すらあると言われている。

だが代償も大きい。

炜菩提は、その生涯において、

ごくわずかな数の果実しか実らせない。

そして今――

その樹には、二つの果実が吊るされていた。

曼陀羅は、深く息を吸った。

彼女は戦闘祭奠を振り返らなかった。

父上の王座も、見なかった。

一度でも視線を向ければ、

心が揺らぐことを、彼女自身がよく知っていたからだ。

彼女は踵を返し、

見慣れてはいるが、ほとんど踏み入れたことのない側廊を進んでいった。

守衛は、彼女を止めなかった。

彼女は夜叉王の娘。

この王宮において、命令以上の通行権を持つ存在だった。

炜菩提の古樹の前。

空気は、異様なほど静まり返っていた。

曼陀羅は足を止め、

荒れた樹皮にそっと手を触れた。

冷たい感触。

だが指先の奥には、ゆっくりとした脈動が伝わってくる。

まるで――

心臓の鼓動のように。

彼女は小さく呟いた。

「……ごめんなさい」

その後、短剣で掌を切り、

流れ出た血を符紋の刻まれた樹皮へと塗り広げた。

符紋が光を放つ。

二つの炜菩提の果実が、

ゆっくりと枝から離れ、彼女の掌へと落ちてきた。

果実は大きくはない。

耳飾りのペンダントのような形をしており、表面には細かな紋様が刻まれている。

触れれば、温かい。

まるで、今も生きているかのように。

曼陀羅はそれらを胸元に収め、踵を返した。

振り返らなかった。

なぜなら彼女は知っていたからだ。

――これが、

――「夜叉族の王女」として、

――一族の聖物を手にする、最初で最後の瞬間であることを。

ほぼ同時刻。

魔殿の内部。

辛夷は、依然として値守に立っていた。

七殺の鎧魂萃は、石台の上に静かに浮かび、

暗紅の光を明滅させている。

それは、

誰のものでもない心臓のようだった。

辛夷の状態は、決して良くなかった。

外見上は落ち着いており、呼吸も安定している。

だが、彼女自身だけが知っている。

体内に残された毒が、

今なお、ゆっくりと巡り続けていることを。

それは即死させる毒ではない。

「お前は、まだ支配下にある」

そう告げ続けるためだけの毒だった。

彼女は目を閉じていたが、完全に入定してはいない。

――待っていた。

どれほど待つことになるかは分からない。

ただ一つだけ、確かなことがある。

今日、この機会を逃せば、

二度と同じ好機は訪れない。

殿外で、足音がした。

軽い。

だが、迷いはない。

辛夷は目を開いた。

曼陀羅が、殿内へと入ってきた。

二人の視線が交わる。

挨拶はなかった。

確認も、不要だった。

互いに――

やるべきことを、すでに果たしたと分かっていたからだ。

曼陀羅は懐から炜菩提を取り出し、辛夷へ差し出した。

「……二つ」

小さな声だった。

辛夷はそのうち一つを受け取り、

指先に、わずかな力がこもる。

「ありがとう」

そう告げて、

次の瞬間、彼女は石台へと向き直った。

迷いはなかった。

七殺の鎧魂萃は、彼女が近づいた途端、

暗紅の光を激しく放ち、殺意の奔流を解き放つ。

意識が引き裂かれそうになる。

辛夷は歯を食いしばり、

手を伸ばした。

指先が鎧魂萃に触れた瞬間、

魔殿全体の空気が震えた。

それは七殺が「引き剥がされる」ことへの、本能的な拒絶だった。

曼陀羅は、息を詰める。

辛夷は鎧魂萃を引き抜き、

即座に用意していた封印器へと収めた。

その瞬間――

殿門の方から、声が響いた。

「……先輩?」

二人は同時に、はっと息を呑んだ。

黄蟾が、殿口に立っていた。

どうやら急遽、値守に回されたらしい。

顔には、まだ拭いきれていない疲労の色が残っている。

だが、彼の視線が――

空になった石台へと落ちた瞬間。

その疲れは、一瞬で驚愕に置き換わった。

「……何をしている?」

声が、低く沈む。

辛夷は、すぐには答えなかった。

彼女は振り返り、黄蟾を見た。

この瞬間、

彼女は逃げなかった。

嘘も、作らなかった。

「私は、離れるつもりよ」

静かに、しかしはっきりと告げる。

「人界へ行く」

黄蟾は、言葉を失った。

「……離れる?」

反射的に問い返す。

「お前が持ち出したものが、何か分かっているのか?

それは七殺だぞ――!」

「分かってる」

辛夷は、彼の言葉を遮った。

声は落ち着いていたが、

そこに命令の色はなかった。

「誰よりも、分かってる」

黄蟾の拳が、ゆっくりと握り締められる。

「……戻せ」

懇願に近い声音だった。

「今なら、まだ間に合う。

俺は、何も見なかったことにできる」

辛夷は彼を見つめ、

一瞬、沈黙した。

そして、口を開く。

「黄蟾……

私は、もうこんな生き方はできない」

その言葉は、とても静かだった。

だが――

どんな説明よりも、重かった。

黄蟾の喉が、何かに詰まったように動かなくなる。

「……もう少しだけ耐えれば……」

かすれた声で言う。

「あと少し……もう少しだけ――」

「いつまで?」

辛夷は問い返した。

一歩前へ出て、

初めて、真正面から彼の目を見据える。

「厳白蟒に、完全に壊されるまで?

それとも、いつか修行場で

“事故”として死ぬまで?」

黄蟾の呼吸が、止まった。

「あなたは知らない……」

辛夷は続ける。

「私が毎朝目を覚まして、

最初にすることが何か」

彼女の声に、涙はない。

だが、刃のように鋭かった。

「今日も生きているのか、

それとも、もう廃棄物として処理されたのか――

それを確かめることよ」

「私は、生きたくないわけじゃない」

辛夷は言う。

「ただ……

こんな世界で、生き続けたくないだけ」

「だから、行く。人界へ」

「たとえ、すべてを失うことになっても」

黄蟾の目が、わずかに赤くなる。

口を開こうとして――

結局、何も言えなかった。

彼には分かっていた。

彼女が、嘘を言っていないことを。

「私は、もう戻らない」

辛夷は最後に言った。

「だから……

あなたが私を止めるなら、命を懸けて止めるしかない。

それができないなら――」

彼女は、言葉を続けなかった。

黄蟾は、理解した。

沈黙が、魔殿に長く引き伸ばされる。

やがて、黄蟾はゆっくりと目を閉じ――

そして、開いた。

「……分かった。

俺が、案内する」

その声は小さい。

だが、迷いはなかった。

辛夷の指先が、はっきりと震えた。

「……無理をしなくていい」

喉が詰まり、それ以上言葉が続かない。

「分かってる」

黄蟾は、被せるように言った。

「自分が何をしてるかくらい、分かってる」

少し間を置き、

彼は低く続けた。

「ただ……

もう、見なかったことにはできないだけだ」

そう言って、背を向ける。

二人に続くよう、

静かに手で合図した。

三人が魔殿を離れたとき――

誰も気づかなかった。

回廊の反対側、

影の中で、一つの気配が静かに退いたことを。

赤蝎。

彼女の口元が、ゆっくりと吊り上がる。

それは冷笑ではない。

――ようやく掴んだ、とでも言うような、

歪んだ高揚だった。

「……なるほどね」

小さく呟く。

次の瞬間、

彼女は踵を返し、毒魔将のもとへと駆け出していった。

黄蟾は二人を連れ、

嗔怒獄の最も辺鄙な岩道を進んでいく。

それは通常の通路ではない。

廃棄され、封じられ、

意図的に忘れ去られた裂け目だった。

岩壁は異様なほど近く、

湿熱の空気が、重い皮膚のように呼吸を包み込む。

「ここは、昔の通路だ」

歩きながら、黄蟾が低く語る。

「神魔通道が閉じられてから、

ほとんどは使われなくなった」

「今でも使うのは……

魔将くらいだ」

曼陀罗の鼓動が、速くなる。

奥へ進むほど、

空気の圧迫感が強まっていくのが分かる。

毒でも、熱でもない。

――異界そのものが、拒絶している感覚。

まるで、

二つの世界が互いを押し返しているようだった。

辛夷は、何も言わなかった。

意識のすべてを、

手にした封印器へ向けている。

中の七殺の鎧魂萃は、

激しく不安定だった。

暗紅の光が、心臓の鼓動のように封印を打ち続ける。

その一つ一つが、

彼女に告げていた。

――これは、本来お前のものではない。

だからこそ、

彼女は、決して手放せなかった。

岩道の先で、空間が一気に開けた。

ほぼ円形の洞窟。

中央には、古く複雑な法陣が刻まれている。

陣紋は完全ではなく、

一部は強引に剥がされ、

無理矢理継ぎ足された痕跡があった。

周囲の岩壁には、

腐食、灼焼、引き裂かれた無数の痕。

「ここだ」

黄蟾が足を止める。

辛夷を見て、

いつになく真剣な目で言った。

「先に、伝えておくことがある」

辛夷は視線を上げる。

「術で人界を越えるのは、

すべての魔族に耐えられるものじゃない」

黄蟾は続ける。

「少なくとも、魔将級の強度がなければ、

肉体は持たない」

曼陀罗の顔色が、わずかに青ざめる。

「じゃあ……私たちは――」

「お前たちは違う」

黄蟾は遮った。

「炜菩提を持っている。

それが、魔界の排斥を一時的に遮ってくれる」

少し間を置く。

「……それでも、

楽な道にはならない」

辛夷は、静かに頷いた。

「分かってる」

「始めて」

黄蟾は深く息を吸い、

法陣の縁に手を置いた。

符紋が光を放つ。

空気が、急激に沈み込む。

洞窟内の温度が、

一瞬で不安定になる。

冷と熱が交互に押し寄せ、

向こう側から何かが強く引いているようだった。

曼陀罗の指先が、震える。

辛夷は手を伸ばし、

彼女の手を握った。

「……離さないで」

低く囁く。

曼陀罗は強く握り返す。

指節が白くなるほどに。

その瞬間――

説明もなく、

極寒の気配が降りてきた。

辛夷の瞳孔が、鋭く縮む。

――知っている。

嫌というほど、知っている感覚だ。

「……まずい」

低く呟いた。

黄蟾が、はっと振り返る。

洞窟の入口。

空気が、毒に侵されたように歪んでいる。

そこから、

細長い影が、ゆっくりと姿を現した。

毒魔将――

厳白蟒。

修行場で感じたよりも、

さらに冷たく、抑え込まれた気配。

それは爆発寸前の凶性ではない。

――すでに、処理方法を決めた者の静けさ。

その背後に、

三つの気配が現れる。

百足。

飛壁。

赤蝎。

散開しながら、

自然と包囲の形を取っていた。

赤蝎は、最前列に立つ。

視線を辛夷に向け、

何かを確かめるように眇め――

ゆっくりと、口角を上げた。

「……やっぱり、逃げるつもりだったのね」

辛夷は、彼女を見なかった。

意識はすべて、

毒魔将に向けられていた。

厳白蟒の視線が、

法陣、炜菩提、

そして最後に、辛夷へ落ちる。

そこに、怒りはない。

あるのは――

「やはりそうか」という、納得だけだった。

「……失望した」

その一言に、

辛夷の心臓が、強く脈打つ。

言葉そのものではない。

――自分が、まだそれを気にしていると気づいたことが、

何よりも苦しかった。

「……最初から、あなたのものじゃない」

辛夷は、低く言った。

毒魔将は、小さく笑った。

「お前のすべては、私が与えた」

「今、そこに立っていられることもな」

辛夷の爪が、掌に食い込む。

その瞬間――

黄蟾が一歩踏み出し、二人の間に立った。

「……ここまでだ」

声は大きくない。

だが、異様な安定感があった。

厳白蟒の視線が、

初めて、真正面から黄蟾に向けられる。

「何をしている」

厳白蟒が問う。

黄蟾は退かない。

「見ての通りだ」

「蛇姫は自分で決めた。……俺もだ」

百足が、鼻で笑った。

「選択?」

「その程度の力で、何を選ぶつもりだ?」

黄蟾は答えない。

ただ、両手で印を結び、

魔人化と同時に、体内の力をすべて解放した。

それは、攻撃ではない。

――純粋な、防御。

岩壁が、低く唸る。

半透明の障壁が、

黄蟾の前に展開し、

厳白蟒と二人を完全に隔てた。

「行け!」

振り返らずに叫ぶ。

「俺は、もう長くは持たない!」

辛夷の胸が、引き裂かれる。

「黄蟾――!」

「行け!!」

怒鳴るように遮る。

「俺の死を、無駄にするな!!」

その言葉は、

釘のように、辛夷の意識に打ち込まれた。

曼陀罗は、辛夷に引かれるように、

法陣の中央へ転がり込む。

符紋が、目を焼くほどの光を放つ。

赤蝎が、甲高く笑った。

「それで逃げられると思った?」

毒術を放ちかけ――

だが、

すべて、鉄壁に弾かれた。

百足と飛壁が同時に動く。

毒気、毒物、肉体の衝撃。

すべてが、障壁へ叩きつけられる。

鉄壁が、激しく震える。

黄蟾の口元から、血が溢れる。

それでも、彼は退かなかった。

両脚は地に縫い止められたように動かず、

全身の力を、防御に注ぎ込む。

「……なるほど」

厳白蟒が、低く呟く。

彼は手を上げた。

術式はない。

――毒だけだ。

存在そのものが、侵食である毒。

その瞬間、

鉄壁が、耳障りな音を立てて砕け始める。

黄蟾の身体が、大きく揺れた。

「もういい」

厳白蟒は淡々と言う。

「終わらせよう」

毒手が、現れる。

それは、

これまで幾度となく、他者の意志を砕いてきた手。

今、その手が、

黄蟾の頭へと伸びた。

視界が、暗くなる。

その最後の瞬間――

黄蟾は、辛夷を見た。

唇が、動く。

声はない。

だが、辛夷には分かった。

――生きろ。

毒手が、収縮する。

乾いた、はっきりとした破砕音が、洞窟に響いた。

障壁は、消えた。

同時に、

法陣の光が、爆発的に解き放たれる。

空間が、歪む。

辛夷の世界は、

抗えない力で、引き裂かれた。

彼女は、必死に曼陀罗の手を掴む。

だが、次の瞬間――

圧力が、跳ね上がる。

骨が、悲鳴を上げる。

血が、逆流する。

曼陀罗の荒い息が聞こえ、

自分の心臓が、胸を叩き割る音が聞こえた。

「……離すな――!」

掠れた叫び。

だが、

その瞬間、指先の感覚が失われる。

曼陀罗の手が、

掌から、滑り落ちた。

「――っ!!」

視界が、白光に呑まれる。

最後に残った感覚は、

自分が、完全に未知の場所へ投げ出されているということ。

まるで――

世界そのものに、捨てられたかのように。

血流の逆転で、視界は闇に覆われ、

そのまま、意識は途切れた。

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