「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
「……はぁ……はぁ……」
切り立った山道は、まるで誰かが無理やり手で引き裂いたかのようだった。
ぬかるんだ泥が足裏にまとわりつき、一歩踏み出すたびに体力を吸い取られていく。密林の湿気が肌に貼りつき、冷えた衣のように離れない。高度を上げるにつれ、風は次第に鋭さを増し、刃物のように木々の隙間を縫って吹き抜けてきた。
少年の胸は激しく上下し、喉はひりつくように渇いている。
どれほど歩いたのか、もはや分からなかった――夜明け前に城を出てから、いつの間にか馬にも乗せてもらえなくなり、無理やり下馬して歩かされている。最初は父が狩りを教えてくれるのだと思い、初めて城の外へ出る高揚感に胸を躍らせていた。だが半日が過ぎても道の果ては見えず、あるのは延々と続く登り坂と、次第に骨身に染みる風だけだった。
前を行く男の足取りは、安定していて、焦りがない。
質素な装いながら、自然と気品が漂う。背筋はまっすぐで、裾に泥が付いても少しもみすぼらしく見えなかった。どれほど険しい地形でも、足元が乱れることはなく、まるで山に打ち込まれた一本の杭のようだった。
「天児(てんじ)、早く来い」
その声は穏やかだが、逆らう余地はなかった。
少年は歯を食いしばり、足を滑らせ、思わず膝をつきかけた。
手を泥地につき、指の隙間から冷たい土が染み込む。体は力を失い、今にも崩れ落ちそうだった。
「……父上……もう、歩けません……」
震える息の合間にそう漏らす。目の奥が熱くなり、頭に浮かぶのは、母の体温のある胸の中だった。ただ帰りたかった。甘えて、姉と遊んで、今日の出来事を誰も口にしない夢のような一日にしてしまいたかった。
男は、ついに立ち止まった。
振り返って少年の前に来ると、しゃがみ込み、そっと頭を撫でた。
その手は驚くほど落ち着いていて、掌の温もりが乱れた髪越しに伝わり、少年は今にも泣き出しそうになる。
「天児」
低く、静かな声。
「お前は司馬家の子だ。それほどの忍耐でどうする」
胸がいっぱいになった少年は、意地になり、そのまま地面に座り込んだ。
泥水が裾に跳ねても構わなかった。
「朝からずっと歩き通しで、休みもなかったじゃないですか!」
息を切らしながら叫ぶ。
「もう無理です……父上、背負ってください!」
拗ねた声の奥には、試すような甘えがあった。
父は普段、自分を甘やかしてくれる。強く駄々をこねれば、きっと少しは譲ってくれる――そう思っていた。
だが男は、すぐには怒らなかった。
ただ、黙って少年を見つめる。
その一瞬、少年は父の瞳にあるものを見た。
冷酷さではない。
深く沈んだ、揺るぎない真剣さ。
山のように動かず、しかし確実に人を押し潰す重さ。
「天児、ふざけるな」
声はなおも静かだった。
「早く立て。もう少しだ。すぐ着く」
「嫌だ!」
少年はさらに強く首を振り、声はかすれていた。
「どうして父上と二人きりで、こんな荒れ山に来なきゃいけないんですか!
母上に会いたい……姉上と遊びたい!」
「天児」
父の声が、ふっと低くなる。
刃の背で石を叩くような、鈍く、重い響き。
少年は顔を上げ、その視線とぶつかった。
いつも優しい父は、もう譲らない。
その眼差しに、少年は悟る――これは、甘えでやり過ごせる話ではない。
唇を噛み、ゆっくりと立ち上がる。
不満を顔いっぱいに浮かべながらも、結局は父の後を追った。
さらに長い時間が過ぎた。
山道には次第に氷晶が現れ、最初は薄く霜が降りた程度だったものが、やがて本格的な雪へと変わっていく。足を踏み出すたびに、きしりと小さな音がした。雪塊の隙間を抜ける風が腕を刺し、少年は思わず腕を擦り、身震いする。
父は相変わらず前を行く。
足並みは乱れず、息も上がらない。
この道が、彼にとってはただの長い回廊に過ぎないかのようだった。
「……父上……」
ついに我慢できず、震えた苛立ちを含んだ声が漏れる。
「一体、どこへ行くんですか」
男は振り返らず、淡く笑った。
「信じなさい。父は約束する。無駄足にはならない」
少年は言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
ただ肩をすくめて歩き続ける。
父の背中が風を遮り、そのわずかな温もりだけが頼りだった。
どれほど経っただろう――
視界が、突然開けた。
二人は、ついに山崖の頂に立っていた。
雲海が足元に広がり、ゆっくりとうねりながら流れている。
空気は透き通るほど澄み、雲の裂け目から射す陽光が七色の光を落とす。まるで虹を砕いて大地に撒いたかのようだった。
父は崖際で立ち止まり、山下を指さす。
「天児、見てみろ」
少年は息を呑んだ。
雲と同じ高さに、自分が立っている――その事実に初めて気づく。
遠くまで連なる山々、密林は緑の絨毯のように見え、幼い頃から「途方もなく大きい」と思っていた城――煌涙城は、掌に収まる玩具のように小さかった。
「父上……!」
少年の目が、一気に輝く。
「ここから城が見える!
煌涙城って、あんなに大きいと思ってたのに……こんなに小さい!
手を伸ばせば、掴めそうだ!」
振り仰ぐ顔は、光に満ちていた。
父はその姿を見つめ、厳しさを宿していた眼差しが、ゆっくりと和らいでいく。
氷が陽に溶けるように。
「天児」
父は問いかける。
「なぜ、お前に『天』という名を付けたか、分かるか」
少年は少し考え、探るように答えた。
「立派な……頂天立地の男になるためですか?」
父は声を立てて笑った。
その笑いは、雲海の上に柔らかく広がる。
「それも一つだ」
少年の肩に手を置く。
「だが、父が本当に望んだのは――
この果てしない空のように、大地を覆い、民のために“天”を支える者になることだ」
その言葉が胸に落ち、少年の内側で何かが燃え上がった。
足元の山河を見下ろし、胸が熱く膨らむ。
思い出したように、彼は尋ねる。
「父上……龍神は、ずっと天に潜んで、僕たちを見ているって聞きました。
本当ですか?」
父は一瞬、沈黙した。
風の音に耳を澄ませているようでもあり、言葉を選んでいるようでもあった。
「……そうかもしれない」
ようやく口を開く。
「父も、龍神は本当に存在すると、うっすら感じている」
彼は大地を指さす。
「よく見るんだ、天児。
この土地は、司馬家が代々守ってきたものだ。
いつかお前が父に代わり、これを、そして民を守る」
少年は力強く頷き、ほとんど叫ぶように言った。
「できます! 天児は、必ず!」
父は微笑みながらも、その瞳には喜びと、さらに深い何か――
憂いと決意が同時に宿っていた。
「そうか」
父は静かに続ける。
「だが、その責を負うには、学び、鍛えねばならぬことが山ほどある。
お前が大人になり、優れた指導者となった時――
司馬家が代々守ってきた秘密と、真の使命を伝えよう」
「秘密?」
少年の好奇心が一気に膨らむ。
「父上! 今すぐ知りたいです!」
父は首を振った。
「今のお前には、まだ早い。
だが、いつか必ず話す日が来る」
「父上、ずるい!」
少年はいつものように甘え、腕にすがりつく。
父は堪えきれず、突然少年を抱き上げ、軽く放り上げてから肩に乗せた。
少年は声を上げ、次の瞬間には大笑いする。
高みを渡る風に包まれ、本当に空に乗っているようだった。
「天児」
父は雲と光を仰ぎながら語る。
「お前が生まれた日、空は七色の光で大地を照らしていた。
まるで、その誕生を迎えるために」
少年は父の横顔を見下ろす。
“子を語る時”のその眼には、無条件の喜びと愛があった。
「その瞬間、神州の大地が、お前のために歌っているようだった」
父は続ける。
「父は、龍神の視線さえ感じた……
お前は選ばれた存在だ。
この世界が、父に与えてくれた、何よりの宝だ」
少年の喉が詰まり、鼻の奥が熱くなる。
この期待を、何としても掴み取りたい――そう思った。
父の声が、さらに低く、真剣になる。
「覚えておけ、天児。
司馬家がこの地を治めるのは、力や恐怖によってではない」
言葉を、骨に刻み込むように、一拍置く。
「人の心と感情を尊び、仁徳をもって世を治める。
それこそが、人心の帰する道だ。
統治者とは、幸福と喜び、そして愛を民に渡す者――
そうして初めて、民は真心を託す」
少年は震える声で、力強く頷いた。
「はい!
天児は、きっと父上より立派になります!」
父は優しく腿を叩いた。
慰めるようで、祝福するようで。
「その時」
父は遠くの山河を見据え、誓いのように言った。
「司馬家の秘密を、すべてお前に託そう」
そして、静かに告げる。
「――お前は、王となる」
「王」という言葉が落ちた瞬間、
少年の胸に、言いようのない恐怖が芽生えた。
王であることではない。
父の声が、避けられぬ運命を差し出すように響いたからだ。
思わず手を伸ばし、父の顔に触れようとする――
だが、指先に触れたのは、空だった。
「……父上?」
見下ろすと、父の身体が薄れていく。
風に溶ける墨のように。
さっきまで笑っていた顔が、雲一枚隔てた彼方へ遠ざかる。
「父上?!」
掴もうとしても、掴めるのは霧だけ。
山崖も、雲海も、七色の光も、崩れ落ち、白く滲み、誰かに一気に拭い去られていく。
視界は瞬く間に闇に飲み込まれた。
底のない井戸のような、檻のような、終わりのない夜。
孤独が四方から押し寄せ、息が詰まる。
「父上……天児を置いていかないで!」
必死に叫ぶ声が、闇に反響するだけで、応えはない。
「父上――!!」
叫ぼうとしても、喉を塞がれたように声が出ない。
胸が強く締めつけられ、息が吸えず、もがくほど沈んでいく。
その闇に呑み込まれる寸前――
阿虫は、はっと目を覚ました。
障子越しの朝光が、一笑楼の奥間の寝床に落ちている。
台所では火が入り、薪がぱちぱちと弾け、油煙と湯気の匂いが流れ込んでくる。
否応なく突きつけられる、“生きている”という現実の気配。
阿虫は荒く二度息を吸い、背中が冷汗で濡れていることに気づいた。
衣が肌に貼りつく。
小さく悪態をつき、身体を起こす。
――ぐう。
腹が鳴った。
夢より、よほど現実だった。
「……腹減ったな、くそ」
適当に上着を引っかけ、草履を突っかけ、厨房へ向かう。
方家堡の戦い、そして剣蘭の血毒呪を抑えるための消耗――
真気も神識も底を突き、ようやく昨夜ひと息つけたばかりだった。
台所では、熊伯(くまはく)が大鍋から饅頭を掬い上げていた。
白い湯気が立ちこめ、顔の輪郭さえ見えない。
「熊伯!」
阿虫は声をかけながら近寄り、反射的に手を伸ばす。
「熱っ!」
熊伯は木杓子で、ぱしっと阿虫の手の甲を叩いた。
「起き抜けから奪う気か。まるで狼だな、このガキは」
阿虫は顔を歪めて牙を剥くように笑う。
「狼だって腹は減るんだ。昨夜はほとんど食ってねぇ」
熊伯は鼻を鳴らし、一つ饅頭を挟んで渡した。
「食え。うちの竈で喉詰まらせて死なれたら縁起が悪い」
阿虫は受け取ると、すぐさま大きく齧りついた。
湯気が口の中を焼き、思わず息を吸い込むが、構わず咀嚼を止めない。
饅頭の甘みが広がり、夢の中に残っていた陰の冷たさが、竈の火で押し出されるように薄れていく。
「そうだ」
熊伯が顎で脇に積まれた皿を示す。
「来たついでだ、運ぶの手伝え。表で料理が待ってる」
阿虫は口いっぱいに詰めたまま、もごもごと返事する。
「うい」
咀嚼しながら皿を抱え上げた。
高く積まれた皿を急いで持ち上げた瞬間、足元が滑る――
「ガシャーン!」
皿が床に落ち、派手な音を立てて砕け散った。
台所が、半拍静まり返る。
熊伯の顔が、油を絞れそうなほど黒くなる。
「……阿虫……!」
阿虫は半分齧った饅頭を口に咥えたまま、凍りついた。
鶏を盗んだところを現行犯で捕まったような気分だ。
「……こ、ここが滑りやすくて……」
熊伯は木杓子を持ち上げ、今にもそのまま阿虫の頭も叩き割りそうな勢い。
その時、隣で野菜籠を片付けていた西門鸢が顔を上げ、静かに溜息をついた。
しゃがみ込み、割れた皿を拾い始める。
「もういいですよ、熊伯。わざとじゃありませんし」
阿虫は、この“庇われる口調”が一番苦手だった。
優しさに聞こえて、実際には自分を「厄介者」に固定される感覚。
彼は顔を背け、黙り込む。
西門鸢は欠片を箒塵取りに集めながら、何気ない調子で言った。
「そういえば、剣蘭の毒は昨夜で完全に抑えられました。阿橙さんにも伝えてあります」
阿虫の咀嚼が、一瞬止まる。
「……ふぅん」
まるで興味がないように相槌を打つが、視線は無意識に逸れていた。
それを見て、西門鸢は小さく笑う。
「無理しなくていいですよ。ここ数日、走り回ってたの、みんな知ってますから」
阿虫はすぐ眉をひそめ、口を尖らせる。
「誰が走り回ってたって? 俺はただ……あの肥えた――
……ちっ、縁起でもねぇ。あいつの話はやめだ」
西門鸢はそれ以上突っ込まず、塵取りを持って立ち去った。
阿虫は残りの饅頭を一気に口へ押し込み、少し荒く飲み下す。
喉仏が上下し、認めたくない言葉まで一緒に飲み込んだかのようだった。
――少なくとも、この数日は無駄じゃなかった。
そう思いながらも、その気持ちは決して口に出さない。
台所の入口から、阿橙の声が飛んでくる。
「阿虫――!」
顔を上げると、袖をまくった阿橙が立っていた。
「食べ終わったら、黄鶴(こうかく)おばさんの穀物屋に行って。粉を注文してきて。今夜は卓を立てるから」
阿虫は最後の一口を飲み込み、
「分かった」
阿橙は念を押す。
「余計なことしないでよ。聞こえた?」
阿虫は白目を剥く。
「俺が厄介を起こす? 俺がいない方が、厄介が寄ってくるんだろ」
阿橙は相手にせず、
「さっさと行きなさい」
阿虫は竹籠を掴み、外へ出た。
雲の切れ間から射す陽光が街に落ちる。暖かくはないが、澄んでいる。
人々が行き交い、露店が声を張り、酒楼の木札が風に揺れる。
夢の中の闇が、ずいぶん遠くへ隔てられた気がした。
だが歩くうちに、胸の奥に妙なざわめきが浮かぶ。
――誰かに、遠くから見られているような。
阿虫は首を振り、それを夢の後味だと片付けた。
「行くか。粉買いにな」
通りは人も埃も多い。
一笑楼のある一帯は、賑やかな下町だ。
油屋、布屋、薬屋が軒を連ね、騒がしさは煮え立つ鍋のよう。
阿虫は籠を肩に放り上げ、歩き方はだらしないが、視線は鋭く動く。
辻、軒下の影、人波の隙間――無意識に確認している。
曲がり角に差し掛かった時、
鉄靴が地を踏む音と、梟を真似た口笛が聞こえた。
規則正しく、安定した、巡回のリズム。
阿虫が顔を上げると、そこに欧陽枭(オウヨウ・きょう)がいた。
執勤用の甲衣、腰の佩刀、肩に掛けた薄い外套。
その姿は街に打ち込まれた一本の杭のようで、
市井がどれほど騒がしくとも、彼の前では自然と声が落ちる。
欧陽枭も阿虫に気づき、足を止める。
一瞬、視線が交わる。
阿虫が先に笑った。
能天気そのものの笑みで。
「よう、枭(フクロウ)兄。巡回か?」
欧陽枭は眉を寄せる。
「誰が兄だ」
「はいはい、枭捕頭」
阿虫は即座に言い直すが、口調は相変わらず軽い。
「この前は……妹さんと一緒に、危ない橋渡ってくれたろ。覚えてる」
欧陽枭は彼の顔をじっと見て、
口先か本気かを測るように間を置いた後、淡々と言った。
「覚えるな。阿橙に頼まれただけだ」
阿虫は肩をすくめる。
「それでも、借りは借りだ」
欧陽枭は冷ややかに言う。
「ふん。お前は元から借りだらけだ」
阿虫は舌打ちする。
「なら、いつでも取り立てに来いよ」
欧陽枭はその強がりを無視し、
「どこへ行く」
「黄毛(ホアンマオ)の家の穀物屋。粉を注文に」
籠を少し持ち上げる。
「阿橙の命令だ」
欧陽枭は頷き、さらに言った。
「賭場の辺りをうろつくな。前に西門鼎とやらかした件、彪哥はまだ忘れてない」
阿虫の胸がひくりと跳ねるが、表情は崩さない。
「賭場? 俺がそんな人間に見えるか?」
欧陽枭の眼光が刃のように細くなる。
「見える。顔に書いてある。“殴られ待ち”ってな」
阿虫は言葉に詰まり、言い返そうとして、
助けられた事実を思い出し、結局ぼそっと言う。
「……分かった分かった。巡回頑張れよ、捕頭」
欧陽枭は去っていく阿虫の背に、低く言葉を投げた。
「口を刃物みたいに使うな。
切れ味が良すぎると、自分を斬る」
阿虫は一瞬、足を止めたが、振り返らない。
「俺の刃がどうだろうと、お前に言われる筋合いはねぇ」
そのまま歩き去る。
だが胸の奥に、何かが引っかかった。
あの言葉は忠告ではなく、
まるで先に結末を置かれたような響きだった。
黄毛の家の穀物屋は、通りの端にあった。
店構えは小さいが、よく手入れされている。
入口には干した穀穂が吊られ、風に揺れて、さらさらと音を立てていた。
阿虫が足を踏み入れた瞬間、米と粉の匂いが鼻を満たす。
一笑楼の油煙よりも澄んでいて、素朴で――
“暮らし”そのものの匂いだった。
帳台の向こうで、中年の女が勘定をしている。
浅黒い肌、帝国では珍しい橙色の髪、高い眉骨、鋭い目。
粗末な布衣を着ていても、どこか“よそ者”の気配が抜けない。
足音に気づき、顔を上げる。
阿虫を見ると、一瞬きょとんとし、すぐに丁寧な笑みに変わった。
「阿虫かい」
訛りの残る硬い口調。
「粉を買いに来たのかい?」
「黄鶴おばさん」
阿虫は籠を置き、声の調子を少し落とす。
「阿橙に頼まれて。粉と米を。黄毛は?」
黄鶴の笑みが、わずかに薄れる。
「あの子? また西門鼎とどこかで遊び歩いてるんだろ。
家に寄りつかないところまで、父親そっくりさ」
“父親”という言葉に、押し殺した酸味が滲んだ。
阿虫は何も言わない。
この通りの誰もが知っている。
黄鶴は“黄金大陸”から来た外来人――陰では“蛮人”と呼ばれている。
郁偉と結婚した時も、皆「居場所が欲しかっただけだ」と噂した。
そして郁偉が東国へ商いに出て数年、便り一つなくなると、
噂はさらに醜くなった――
死んだか、妻子を捨てたか、厄介事を置いて逃げたのだと。
阿虫は、そういう“皆が当然だと思っている話”が嫌いだった。
だが、誰かを弁護することもしない。
同情は、いつも胸の奥に隠す。
「粉二十斤、米十斤」
阿虫は財布を出す。
「勘定は?」
黄鶴は手を振った。
「現金でいいよ。量が多いし、腰も悪くてね。
裏の倉に行って、自分で選んでおくれ」
そう言って腰を押さえる。
眉間の皺は深く、長年の痛みを物語っていた。
阿虫は頷く。
「分かった」
支払いを済ませ、裏口へ回る。
扉を開けた瞬間、穀倉の匂いが押し寄せた。
乾いた粉の匂い、稲のほのかな甘み、
古い木板の黴臭さが混ざり合い、
くしゃみが出そうになるほど濃い。
一歩踏み入れたところで、阿虫は足を止めた。
――音楽が、聞こえた。
とても軽く、澄んでいて、
木板の隙間から水が漏れるような音。
聞き覚えがある。
司馬葵の歌。
人界の伝説の歌姫。
この通りにも、この貧しい店にも似つかわしくない旋律が、
なぜかここで鳴っていた。
灰の中に、咲いてはいけない花のように。
阿虫は音を辿って、さらに奥へ進んだ。
穀倉の奥には、ぽっかりと空いた一角があった。
小麦粉袋が壁のように積まれ、数枚の木板で即席の小さな台が組まれている。
その台の奥には、古い布が一枚垂らされ、荒い模様が描かれていた。
まるで、舞台の幕のようだった。
その幕の前で――
一人の少女が、踊っていた。
動きは洗練されているとは言えず、どこかぎこちない。
それでも、彼女はひどく真剣だった。
一つ一つの回転が、粉袋の山から自分を捻り出そうとするかのようで、
泥の中から光を引き抜くような必死さがあった。
木板を踏むたび、かすかに揺れ、
粉袋の縁から細かな粉塵が舞い落ちる。
雪のように。
――郁金香(ユージンシャン)。
黄毛の妹だ。
簡素な稽古着を身にまとい、髪は結い上げられている。
細く伸びた首筋が露わになり、
顔立ちにはまだ幼さが残っているが、
その眼差しは硬い。
市井の娘が見せるような、
人に好かれようとする目ではない。
――歯を食いしばって言っているような目だ。
「私は、私しか頼れない」と。
阿虫は影の中で、二拍ほど立ち止まった。
本来なら、ここで嘲笑っていたはずだ。
彼は、誰かが真剣である時の“美しさ”を、決して認めない男だった。
だが、その瞬間――
口の中が、ふっと空になった。
胸のどこかが、わずかに動いた。
泥の中でもがきながら、それでも顔を上げる小さな獣を見たような感覚。
郁金香は一つ回って動きを止め、息を吐いた。
そして、ふいにこちらを振り向く。
「……見物は、もう十分?」
阿虫は完全に見つかっていたが、
顔には一切の気まずさを出さず、だらりと笑う。
「それで踊りのつもりか?
ネズミでも踏んだみたいだな」
郁金香は顎を少し上げた。
「じゃあ、講評して。
どこが似てて、どこが違う?」
阿虫は影から出て、木板の縁に足をかける。
「俺は粉を取りに来ただけだ。
袋を何個か探せ。運ぶ」
郁金香は動かない。
「自分で探せば?
手がないわけでもないでしょ」
阿虫は鼻で笑う。
「兄貴は不在、母親は腰を痛めてる。
お前はここで“立派な踊り”か? 手伝う気はねぇのか」
郁金香の目が、冷えた。
「私の踊りは、壊れてない」
一拍置いて、
「壊れてるのは――
口だけで生きてる人」
阿虫は目を細める。
「ほう。歯が立つじゃねぇか。
ガキが“生きる”って何を知ってる?」
郁金香は一歩も退かない。
「知ってる。
生きるってのは、他人の施しに縋らないこと」
胸の奥で、何かが弾けた。
阿虫が最も嫌う言葉――
「施し」。
それは、ここ数日の自分の奔走すら、
滑稽な善意に貶められるような響きを持っていた。
「施し?」
阿虫は、さらに意地悪く笑う。
「じゃあ誰のために踊ってる?
粉袋か?
それとも……消えた父親にでも?」
その言葉は、刃だった。
郁金香の顔が一瞬、白くなる。
だが、すぐにそれを押し戻し、
視線はむしろ鋭くなった。
「あなたも、無理してる」
彼女は阿虫を見据える。
「口が汚いのは、
本当は気にしてるって知られたくないから」
阿虫の笑みが、凍りつく。
「自分も痛いってこと、
他人に知られるのが怖い。
だから先に噛みついて、
相手をズタズタにする」
一撃で、急所を突かれた。
阿虫は胸の奥の締め付けを押し殺し、
低く言う。
「……分かった。
手伝わねぇならそれでいい。
黄毛が帰ってきたら、自分で一笑楼に届けさせろ」
踵を返しながら、吐き捨てる。
「お前は、好きに夢でも踊ってろ」
郁金香は引き止めない。
ただ、淡々と告げた。
「本気で私が夢見てるだけだと思うなら――
さっき、あんなに長く見てない」
阿虫の指が、きゅっと縮む。
最も苛立つのは、
“見抜かれる”ことだった。
彼は口元を歪め、
「……見苦しいな」
そう吐き捨てて、背を向ける。
だが、出口に差し掛かった時――
背中に、声が落ちてきた。
軽くもなく、重くもない。
だが、確実に逃げ場を塞ぐ位置で。
「阿虫。
あなたが私を嫌うのは――
私を見て、自分を見るから」
阿虫の足が止まる。
「逃げたい。
でも、逃げられない自分を」
振り返って罵倒したかった。
その言葉を叩き返したかった。
だが、振り返らなかった。
ただ、耳の奥で――
あの歌声が、さらに澄んで響いた。
まるで誰かが、指先で心臓を削っているように。
阿虫は足早に穀倉を出た。
用を足すためだと、自分に言い訳をしながら。
裏手の厠は狭く、
木戸を押すと軋んだ音が鳴る。
悪臭に眉をしかめ、悪態をつきながらしゃがみ込んだその時、
壁際の小さな穴が目に入った。
大きくはない。
意図的に穿たれたような、覗き穴。
――正面は、あの穀倉の一角。
最初の思考は「誰だ、こんな下衆な真似をしたのは」。
だが次の瞬間、
身体はすでに、無意識に近づいていた。
覗くと、そこに――
郁金香の“小さな舞台”が見えた。
彼女は踊りを再開する気配もなく、
稽古着を片付け始めている。
背中を向け、動きはゆっくりで、
誰かに見られることを、まるで気にしていない。
阿虫の胸が、きゅっと縮む。
呼吸が、わずかに重くなる。
その瞬間、理解した。
――知っている。
この穴の存在を。
そして、自分が見る可能性を。
「覗いているつもりが、
見せられている」
その感覚が、
針のように阿虫の自尊心を突き刺した。
目を逸らそうとする。
「引っかかるな」と自分に言い聞かせる。
だが、視線は縫い止められたように動かない。
郁金香は、ゆっくりと手を上げ、帯を解いた。
布が少し滑り落ち、肩から背にかけての線が露わになる。
まだ少女の青さを残した身体。
だがそこには、
確かに“形になりつつある刃”があった。
――誘惑の刃ではない。
「成長している」という刃。
喉が渇く。
阿虫は心の中で、激しく罵る。
「何を見てる。
お前は何様だ」
だが彼は――
十六歳の、正直な衝動を持つ少年だった。
ほんの、二度。
本当に、二度だけ。
――確かめるように。
「こいつは、本当にやる気だ」と。
郁金香の動きが、ふっと止まる。
わずかに首を傾ける。
振り返らないまま、
小さく、笑った。
その笑い声は木板を抜け、
薄く、鋭く、
刃のように頬を撫でた。
阿虫は、弾かれたように目を逸らす。
尻尾を掴まれた犬のような感覚。
気まずさ、苛立ち、
そして――言葉にできない羞恥。
用を済ませ、荒々しく扉を押し開ける。
顔色は、最悪だった。
店に戻ると、
帳台で帳簿を整理していた黄鶴が顔を上げる。
「粉は?」
阿虫は強張った声で言う。
「……急用を思い出した。
黄毛が帰ったら、一笑楼に届けさせてくれ」
黄鶴は何か言いかけ、
結局、小さく溜息をついた。
「……あの子は」
阿虫は籠を掴み、逃げるように店を出た。
歩く速度は速く、
街角に出る頃には、心臓がやけに騒いでいる。
速く歩くほど、苛立ちが増し、
苛立つほど、罵りたくなる。
――嫌だ。
自分が、あの少女の挑発を気にしていること。
さっきの視線。
そして、何よりも――
“彼女の方が、覚悟がある”という事実。
「……くそ」
低く吐き捨てる。
「踊り……
踊りだと……」
阿虫は、そのまま一笑楼へ戻るつもりだった。
だが、途中で肩をぐいと掴まれる。
「おっ、阿虫! 奇遇じゃねぇか!」
割れた銅鑼みたいな声。
西門鼎だ。
「行こう行こう、賭場で二、三本だ!
今日は手がノってる!」
引きずられそうになり、阿虫はよろけて振り返る。
「行かねぇ」
西門鼎は狐みたいに笑う。
「行かねぇ?
じゃあその顔の赤さは何だ?
どっかで誰かに煽られて、ムラムラしてきたんじゃねぇのか?」
「来いって。二、三本賭けりゃ、火も下がる」
阿虫は振り払おうと腕を上げたが、
西門鼎の力は思いのほか強く、
半ば引きずられる形で賭場の方へ連れていかれる。
「グズグズすんな!」
西門鼎は喋り続ける。
「お前、自分で言ってたろ? 命が硬ぇって。
命が硬ぇ奴は賭けるもんだ」
「勝てば天命。
負けても……命がちょっと折れるだけだ」
阿虫はこの手の詭弁が大嫌いだった。
だが、心の中が荒れていたのも事実だ。
――どこかで、この苛立ちを叩きつけたかった。
賭場は、人が自分を忘れるのに一番手っ取り早い場所だった。
歯を食いしばる。
「……二本だけだ」
西門鼎は胸を叩く。
「二本! 誓って二本!」
賭場の中は、煙と油の匂いが立ち込め、
酒と汗が混じった空気が重く垂れ込めていた。
薄暗い灯りの下、
骰子の音、笑い声、罵声が波のように押し寄せ、
頭の中を熱くかき乱す。
西門鼎は中に入るなり、
まるで自分の家に帰ってきたかのように人波を割る。
「おらおら! 席あけろ!」
阿虫は立って見ているつもりだったが、
西門鼎が無理やり肩を押して座らせる。
「座らねぇで何しに来た?
貧乏人が見物か? 座れ!」
阿虫は悪態をつきながら、
小さな銀を取り出し、卓に叩きつける。
「……張る」
骰子盃が振られる。
その音は、神経を直接叩くようだった。
阿虫の胸の奥の苛立ちは、その音に引きずられ、
誰かに首根っこを掴まれて前に引っ張られるように高まっていく。
賭けは、どんどん速く、荒くなる。
――一局目、負け。
――二局目、また負け。
西門鼎が卓を叩く。
「大丈夫だ!
手が温まってきたら勝つ!」
――三局目、また負け。
阿虫の顔から、血の気が引いていく。
「……お前、手がノってるんじゃなかったのか?」
西門鼎はまだ強がる。
「ノってる!
本番はこれからだ!」
阿虫は歯を食いしばり、さらに張る。
結果――
さらに綺麗に、持っていかれた。
最後の骰子が止まった瞬間、
西門鼎の笑顔も完全に固まった。
「も、もう一局で――」
言い切る前に、
賭場の用心棒が西門鼎の襟を掴み上げる。
「またお前らか」
冷えた声。
「前の借りも残ってるのに、よく来たな」
西門鼎は即座に笑顔を作る。
「兄貴兄貴、誤解だ誤解――」
阿虫が立ち上がろうとした瞬間、
別の用心棒の足が、膝裏に突き刺さる。
「出てけ」
「次に踏み倒したら、手を落とす」
二人は引きずられ、
そのまま賭場の外へ放り出された。
夕陽が斜めに差し込む。
通りには人が行き交い、
笑う者、嘲る者、
汚いものを避けるように遠回りする者。
まるで、
臭い塊でも避けるかのように。
阿虫は地面に伏し、
口の中いっぱいに土の味を感じていた。
西門鼎は起き上がり、腰をさすりながら咳き込み、
懐から自前の煙管を取り出して火をつける。
「……今日は、ちょっとツキがなかったな」
阿虫は首を捻り、
人を殺しかねない目で睨む。
西門鼎は乾いた笑い。
「そんな目で見るなよ。
人生ってのは――」
最後まで言わせなかった。
阿虫の拳が、西門鼎の顔を打ち抜く。
煙管が宙を舞い、地面に落ちた。
「ぐぁっ!
何すんだよ!」
「最初から俺は機嫌が悪かったんだ!」
阿虫は怒鳴る。
「そこへ来て、お前が引っ張り込んで全部スった!
消えろ!」
西門鼎は頬を押さえながら、まだ粘る。
「お、おい落ち着けって……
帰りに一杯――」
「飲むかよ、バカ」
阿虫は立ち上がり、身体についた土を払う。
「一笑楼に戻る」
陽はすでに傾き、
街は黄金色に染まっていた。
まるで、すべての恥を
柔らかく包み隠すかのように。
だが、阿虫には少しも優しく感じられなかった。
――むしろ、余計に腹が立つ。
風さえ、嘲っているようだった。
一笑楼には、もう灯りが入っている。
阿虫が戸を押して入ると、
まだ賭場の埃の匂いが身体に残っていた。
遠くから熊伯が顔をしかめる。
「お前、またどこで転がってきた?」
阿虫は答えず、奥へ向かう。
だが、広間に差し掛かったところで、
足が止まった。
――剣蘭と、菖蒲がいる。
剣蘭は背筋を伸ばして座り、
顔色はまだ少し青いが、目には光が戻っていた。
菖蒲は隣で茶を飲みながら笑っている。
数日の騒動など、
彼女の鋭さを少しも削っていないようだった。
阿橙が料理を持って出てきて、
ちらりと阿虫を見る。
「粉は?」
阿虫はぶっきらぼうに答える。
「黄毛がいなかった。
後で届けさせる」
阿橙は目を細める。
「阿虫、また――」
「揉めてねぇ」
即座に遮る。
阿橙は鼻で笑った。
「揉めなくても、揉め事の方から寄ってくるんでしょ。
座りな。先に食べる」
卓には滋養のある料理が並んでいた。
湯気が立ち上り、
部屋に「生きている」匂いが満ちる。
剣蘭は阿虫を見ると、少し戸惑い、
それから立ち上がって丁寧に一礼した。
「阿虫……
その……ありがとう」
阿虫は、こういう礼が一番苦手だった。
罵られる方がいい。
殴られる方がいい。
「実はいいことをした」
そんな言葉で縛られる場所が、
彼にはなかった。
口を開いた瞬間、悪癖が出る。
「礼なんかいらねぇ」
わざと軽く、投げやりに。
「本気で感謝するなら、
もう人に迷惑かけんな」
「身代わりになるなんて、
次やったらただのバカだ」
剣蘭の顔が、固まる。
菖蒲が眉を吊り上げる。
「剣蘭はあんたのために毒を――」
言い終わる前に、
剣蘭の目が赤くなった。
唇を噛み、必死に堪えている。
だが、涙は――
一滴。
二滴。
静かに落ちるその涙は、
どんな号泣よりも胸に刺さった。
阿虫の身体が、完全に固まる。
正面から殴られたような衝撃。
それも、一番柔らかいところを。
――毒に苦しみ、震えていた夜。
――全身の気を使って、彼女の命の線を繋いだ感覚。
――冷たい身体の感触。
そして、
思い出してしまった名前。
――芙蓉。
「気にするな」
そう言い聞かせてきた全てが、
その一滴で崩れた。
「……おい」
声が、思ったより低くなった。
「なんで、泣くんだ」
剣蘭は涙を拭おうとするが、
拭くほどに溢れてくる。
「わ、私は……
あなたが口が悪いのは分かってるけど……」
言葉が詰まる。
「その日……
抱きかかえられて……
私、裸で……」
続けられなかった。
顔は真っ赤になり、
涙だけが増えていく。
阿虫の耳が、一気に熱くなる。
怒鳴りたかった。
「言うな」と。
だが、怒鳴れば、
彼女はもっと泣くだろう。
彼は、人を慰める術を知らない。
殴ること。
罵ること。
感情を棘に変えること。
それしか、できなかった。
それでも――
今回は、殴られる方を選びたかった。
「……分かった、分かった」
追い詰められた声。
「全部、俺が悪い。
だから……泣くな」
剣蘭は一瞬、涙を止めた。
信じられない、という顔。
阿虫は歯を食いしばる。
「口も悪いし、性格も最悪だ。
俺はろくな奴じゃねぇ」
「だから……
泣くな」
菖蒲は罵るつもりで口を開き、
そのまま固まる。
そして、吹き出した。
「……へぇ。
あんたにも、こんな日が来るんだ」
「笑うな!」
阿橙は椀を置き、ため息をつく。
剣蘭の背を撫でた。
「もういいよ。
泣くと身体に障る」
西門鸢も帕子を差し出す。
「剣蘭、気にしないで。
あの人の口は毒だけど、
女の子が泣くのは、何より苦手なの」
剣蘭は涙を拭きながら、かすかに頷く。
「……責めたいわけじゃないんです。
ただ……
自分が、すごく恥ずかしくて……」
その言葉が、
阿虫の胸に突き刺さる。
言いたかった。
「恥ずかしいもんか」と。
「誰が笑う」と。
だが、それはただの虚勢になる。
彼は顔を背け、低く言う。
「……恥でも何でもいい。
生きてりゃ、それでいい」
声は、ひどく小さかった。
剣蘭の泣き声は、ようやく収まる。
赤い目で阿虫を見るその視線には、
感謝とも羞恥とも違う、
初めて“彼をそのまま見る”色があった。
阿虫は居心地悪そうに箸を動かす。
「食え」
ぶっきらぼうに。
「また泣いたら……
もう面倒見ねぇ」
菖蒲が呆れる。
「誰があんたに頼むか」
卓の空気は、少しずつ緩んでいった。
料理の湯気が、
先ほどの刺を溶かしていく。
外からは、街の音。
叫び、足音、器の音。
――全部、続いている。
阿橙は剣蘭に料理を取り分け、
熊伯も肉皿を持ってくる。
「食え食え。
若いんだから、身体が資本だ」
会話は流れ、また戻る。
菖蒲がふと思い出したように言う。
「そういえば、辛夷のこと。
今日、少し聞いたけど……
あっちから来るのに払った代償、相当だね」
剣蘭も顔を上げる。
「私も……知りたい。
どうやって、阿虫と出会ったんですか?」
阿虫の箸が止まる。
その記憶は、
喉に刺さった棘だった。
抜けば血が出る。
抜かねば、ずっと痛む。
「聞くな」
低く言う。
「食ってろ」
西門鸢が、にやりとする。
「そう言わずにさ。
普段は口が止まらないのに、
本気の話になると黙るんだね」
どこからか、欧陽莺が現れ、
卓に身を乗り出す。
「阿虫お兄ちゃん、話して。
あの時のあなた、すごく格好よかったんだから」
視線が、集中する。
阿虫は本気で卓をひっくり返したくなった。
だが――
剣蘭の赤い目。
阿橙の、黙った視線。
「話してもいい」
そう言われている気がした。
歯を噛みしめ、箸を置く。
「……三ヶ月前だ」
声は、いつもより低い。
「城外の、あの小川で――」
卓が、静まり返る。
熊伯さえ、手を止めた。
阿虫は指で卓を軽く叩く。
記憶の順を、整えるように。
「その日、俺は西門鼎と――」
西門鼎が即座に手を挙げる。
「言っとくけど、その日は俺、ハメてねぇからな!」
「黙れ」
阿虫は睨む。
深く息を吸う。
「……買い物代を全部スって、
一人で川に行った」
炎の向こうに、
辛夷の影が、立ち上がる。
その先を語る前に、
扉の外から風が吹き込み、
灯りが揺れた。
――この話は、
まだ、始まったばかりだった。