「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩――   作:八神 アキト

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第二十五話 蛇姫と七殺編 其ノ五 相遇

「……三か月前だ」

阿虫は声をぐっと低く落とした。

「……城外の、あの小川のそばでな」

その瞬間、卓を囲む空気が凍りついた。

箸が椀に触れる音すら止み、熊伯はお玉を持ったまま立ち尽くし、猫のように目を光らせている。

西門鼎は口を挟もうとしていたが、阿虫の顔色を見て察したのか、何も言わず、ただ酒杯を指先でくるりと二度回しただけだった。

だが、阿虫はすぐには続けなかった。

卓上に残った、拭ききれずに乾きかけた一滴の汁をじっと見つめる。

それはまるで、喉の奥に引っかかったまま剥がれない古傷のようだった。

あの日の記憶は、決して誇れるものではない――

辛夷と出会ったこと自体ではなく、そのときの自分が、運命に蹴倒されたボロ瓶のように、みっともなく砕け散っていたことが、だ。

「急かすな」

阿虫は眉をひそめ、卓の全員に喧嘩を売るように吐き捨てた。

「聞きたいなら黙って聞け。聞かねぇなら、別にいい」

菖蒲が眉を上げる。

「誰も急かしてないでしょ。ほら、さっさと続けなさい」

阿虫は彼女を睨み、ひとつ深く息を吸った。

そして無理やり、自分を三か月前のあの日へと引き戻す――

その朝、まだ暑さが本気を出す前から、泰城の市はすでに騒がしかった。

野菜売りの呼び声、肉を叩く音、天秤棒を担ぐ足音、値切り合う甲高い声。

それらが一緒くたになって渦を巻き、まるで煮えたぎった鍋のようだった。

空気には、葱や蒜の匂い、土の湿り気、そして血生臭さが混じっている。

暑いが、不快ではない――「皆が生きるために動いている」匂いだ。

阿虫は銭袋を握り、市の入口に立っていた。

指先で袋の口を二度ほど弄ぶ。

金は阿橙から渡されたものだ。

「市場で食材を買ってきて。サボるんじゃないよ」

そう言って、彼女は金を阿虫の手のひらに置いた。

声は落ち着いていたが、その目は、彼の不満をすべて見透かしているようだった。

「新鮮な野菜と魚をね。あと、余計な揉め事は起こさない。いい?」

阿虫はその場で白目を剥いた。

「俺が揉めるかどうかなんて――」

言い終わる前に、阿橙が彼の肩をぐっと押さえた。

「阿虫。私を八つ当たりの相手にしないで」

静かだが、逃げ場のない声。

「暴れたいなら外でやりな。楼の中でやられると迷惑。分かる?」

阿虫は喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込み、声にならない悪態を吐いた。

竹籠を引っ掴み、踵を返して外へ出る。

歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。

――買い物だけ済ませて帰る。それだけだ。

どうせ帰ったところで、誰も俺に期待なんかしていない。

だが、歩けば歩くほど、苛立ちは募った。

苛立ちの正体は「買い物」じゃない。

「阿橙は苦労している」――その言葉だ。

誰が口にしても、針のように胸に刺さる。

市に入ると、まず青物屋へ向かった。

店主の老楊は、若くもなく老いすぎてもいない年頃で、日に焼けた赤い顔をしている。

いつも笑顔で、誰に対しても親戚の子でも見るような調子だ。

阿虫を見るなり、老楊は葱を一把、籠に放り込み、止まらぬ口を開いた。

「おう、阿虫か。お前の姉ちゃん、ここ最近ほんと大変そうだぞ。一笑楼は人の出入りが絶えないし、よう頑張っとる」

阿虫は「ふうん」とだけ返し、顔も上げずに葉をめくり、一番若い菜を選ぶ。

だが老楊は止まらない。

本気で心配しているような口調で続ける。

「お前ももう十六だろ? 阿橙は一人で楼を背負って、相当無理してる。弟なんだから、少しは分かってやって――」

「分かって、何だよ」

阿虫が急に顔を上げた。

老楊は一瞬きょとんとしたが、笑みを崩さず言う。

「だから、いつまでも西門鼎なんかとつるんでないでさ。阿橙はいい姉ちゃんだろ? お前らを養って――」

それは、善意の言葉だった。

だが阿虫の耳には、別の声に聞こえた。

――お前は足手まといだ。

――姉に食わせてもらっているくせに、役立たずだ。

――生きてるだけで迷惑だ。

頭の奥で、何かが弾けた。

阿虫の目が、刃物のように冷える。

そのくせ口元には、歪んだ笑みが浮かんだ。

「老楊。随分、分かった風な口きくじゃねぇか」

「いや、俺はただ――」

次の瞬間、阿虫の足が動いた。

ガンッ、と音を立て、菜摊の木の脚を蹴り倒す。

「ガラガラッ!」

籠も秤も竹篭も、まとめて泥の上にひっくり返り、青菜が首を折られたみたいに四方へ転がった。

場が、一瞬静まり返る。

「な、何するんだ!」

老楊が慌てて飛びつく。「気でも狂ったか!」

阿虫はその手を振り払い、目に剥き出しの凶気を宿したまま吐き捨てた。

「俺の姉に口出すな! あいつが苦労してるかどうか、てめぇに関係あるかよ! いいこと言ったつもりで長老気取りか?!」

老楊の顔が、赤から白へと変わる。

「……俺は、ただ善意で……」

「善意だぁ?」

阿虫が吠える。

「お前らは皆同じだ。表じゃ『あの子は偉い』って言って、裏じゃ笑ってる。

女一人で楼を支えてるのが、そんなに面白いかよ!」

胸が激しく上下し、言葉が荒くなる。

老楊は口を開いたまま、しばらく言葉を探し、ようやく絞り出した。

「……阿虫、そんなつもりじゃ……」

だが、もう遅い。

阿虫は聞かなかった。

竹籠を引っ掴み、何も買わずに踵を返す。

背後で誰かが叫ぶ。

「ガキが!」

別の誰かが溜息をつく。

「気性の荒い子だ……」

魚屋の老呂が包丁をまな板に叩きつけ、吐き捨てた。

「分かっちゃいねぇ! 阿橙がどれだけ苦労してると思ってんだ。

あんなガキ養って……今夜、老楊と一緒に一笑楼で酒飲んで、きっちり言ってやらにゃならん!」

阿虫は速足で歩いた。

泥を踏む音が、ぶつぶつと鳴る。

まるで自分の胸を踏みつけているみたいだった。

聞こえていた。

全部、聞こえていた。

引き返して殴り合いたかった。

あの口を引き裂いてやりたかった。

だが分かっていた。

やったところで、阿橙はまた噂を聞き、また頭を下げ、また後始末をするだけだ。

考えれば考えるほど、追い詰められる。

だから、逃げた。

市の出口を抜け、二度ほど大きく息を吸い、竹籠を肩に投げる。

「……買い物なんか、やってられるか」

低く吐き捨てる。

「誰が好き好んで」

市の入口にある石造りの牌坊の下で、誰かが阿虫を呼んだ。

「阿虫!」

顔を上げると、西門鼎と鸢だった。

西門鼎は道端に立ち、太い縄を背負い、その先にはまだ血の残る大きな肉塊がぶら下がっている。

まるで誰かの祖墳でも荒らしてきたかのような、得意満面の笑顔だ。

「ははっ! 見たか! 烈猪だ! 今朝、俺一人で仕留めたんだぞ!」

阿虫は白目を剥いた。

「吹くな。烈猪が一人で倒せるかよ。お前をミンチにしなかっただけ慈悲深いわ」

西門鼎はムキになる。

「信じねぇのか? 高く売れたんだぞ! 銀子もしっかり懐だ! 今日は俺が奢って――」

「奢る? 奢ってもらっても食えねぇよ」

阿虫は不機嫌に吐き捨てた。

「お前の奢りなんか、胃が拒否する」

西門鸢はその横に立っていた。

手には弁当箱。衣服はきちんとしていて、眼差しは柔らかいが、どこか疲れも滲んでいる。

彼女は阿虫を一目見ただけで、あの不機嫌の裏にある違和感を察したようだった。

「阿虫……また誰かと喧嘩したの?」

声はとても穏やかだ。

阿虫は即座に強がる。

「誰が? 喧嘩売られたら殺すだけだ」

西門鸢は小さく溜息をつき、それ以上は聞かなかった。ただ弁当箱を少し強く抱き直す。

「私は先に、欧陽枭にお弁当を届けてくるね。

二人とも……騒ぎは起こさないで」

「枭」と聞いた瞬間、西門鼎の眉が跳ね上がった。

「おやおや? また枭捕頭に差し入れか? へぇ〜最近ずいぶん仲がいいじゃないか、妹よ」

西門鸢の頬が赤くなる。

「ち、違うわよ。巡回で忙しいから……たまたま、ついで」

阿虫が横から舌打ちする。

「いいじゃねぇか。枭の方が、お前の百倍マシだ。

少なくとも公職者だし、毎日“泰城の臥虎”とか吹いてる廃物じゃねぇ」

西門鼎が即座に爆発した。

「誰が廃物だ!」

阿虫は一瞥もくれない。

「お前だよ」

西門鼎は歯を食いしばる。

「覚えてろ! 今年の科挙、俺は必ず受かる!

俺が大官になれば、一人得道して鶏犬昇天だ!

お前も、妹も、阿橙も、こんな所で苦労しなくて済む!

阿橙だって、一笑楼を必死で切り盛りしなくてよくなる!」

「阿橙」の名が出た瞬間、阿虫の目が冷えた。

「俺の姉を言い訳に使うな。

あいつはお前のその安っぽい虚栄心なんか、これっぽっちも欲しがってねぇ」

西門鼎は言葉に詰まる。

「……それは、権勢を知らないからだ! 俺が――」

「まず賭場の借金を片付けてから言え」

阿虫が遮った。

西門鼎の顔が一瞬固まり、すぐに乾いた笑いで誤魔化す。

「は、はは……あれは小銭だ! 小銭!

……で? 菜は買ったのか? 籠が空だが――」

阿虫の機嫌はさらに悪くなる。

「買うかよ、そんなもん」

西門鸢が慌てて割って入る。

「もう、二人とも。市の入口で恥さらさないで。

阿虫、帰ったら阿橙姐を心配させないで。

お兄ちゃんも……」

そこまで言って、彼女は一度言葉を止め、軽く唇を結んだ。

「……いいや。どうせ、聞かないものね」

西門鼎がまだ何か言おうとしたが、西門鸢はもう背を向けていた。

歩みは軽いが、迷いがない。

その背中を見つめながら、阿虫は低く呟いた。

「……あいつが枭とうまくいくなら、それでいい。

少なくとも、お前みたいな廃物に足引っ張られずに済む」

西門鼎の表情が変わる。

罵ろうとして、結局言葉を飲み込んだ。

「……縁起でもねぇこと言うな。

枭みたいな男が……あいつを選ぶわけねぇ」

阿虫は冷笑した。

「誰もお前みたいに顔と虚栄心しか見てねぇと思うな。

枭の目には、少なくとも“規矩”がある」

「規矩?」

西門鼎は鼻で笑う。

「規矩で飯が食えるか?

俺が大官になるのが正道だ!

その時は全員、俺を“西門様”と呼べ!」

阿虫は堪えきれず、鼻で笑った。

「いいね、西門様。

じゃあ今すぐその“西門様”が、俺の買い物代を補填してくれよ。

このまま帰ったら、俺は叱られる」

西門鼎は胸を叩く。

「小事だ! 行こう!

今日は烈猪の金がある、まずは――」

彼はぐっと近づき、声を潜め、目を輝かせた。

「賭場だ。今日は絶対にツイてる」

阿虫は眉をひそめ、本能的に断ろうとした。

だが胸に燻る苛立ちは、まだ消えていない。

今は、一笑楼に戻って阿橙の視線を受けたくなかった。

叱られなくても――あの目の方が、ずっと堪える。

彼は歯を食いしばる。

「……一回だけだ」

西門鼎は狐のように笑った。

「一回だけ! 誓う!」

二人はまだ二つも通りを抜けないうちに、曲がり角で黄毛(ホアンマオ)たちと鉢合わせた。

黄毛は上半身裸で、汗が背中を伝って流れている。

臭玉(チョウダン)、斜眼(シャガン)、歪嘴(ワイヅイ)、赤佬(チーラオ)といった仲間たちを指図しながら、米袋を積んだ荷車を押していた。

米袋は高く積まれ、連中は蟻のように群がり、罵り合いながら忙しなく動いている。

西門鼎は黄毛を見るなり、調子づいた。

「おっ! 黄毛! 力仕事か?

さぁさぁ、賭場で二、三本どうだ!」

黄毛は汗を拭い、白目を剥く。

「馬鹿か。これ運び終わらなきゃ、母ちゃんに殺される」

だが阿虫の視線は、荷車の別の包みに留まっていた。

それは米袋ではない。

油紙で丁寧に包まれ、淡い文様が印刷され、角には細い紐。

明らかに、庶民向けじゃない。

「……それ、何だ?」

阿虫が何気なく聞く。

黄毛は口を歪め、少し誇らしげに笑った。

「杏花楼の菓子だ。妹に買ってやった」

西門鼎が即座に笑う。

「郁金香が食いたいなら、自分で買わせりゃいいだろ?

どうせ働いてないんだし」

黄毛は即座に睨み返した。

「分かってねぇな。女の子の心は繊細なんだよ」

彼は臭玉たちを指差し、怒鳴る。

「こいつらに並ばせて買わせたら、戻ってきた時にはもう何個か食いやがってた!

だから今、利息代わりに運ばせてる!」

臭玉はまだ半分菓子を口に入れたまま、もごもご言う。

「毛兄貴……ちょっと味見を……」

黄毛は殴ろうと手を上げ、臭玉は即座に頭を抱えた。

「や、やります! 運びます!」

「分かってねぇな」と言われたのが堪えたのか、西門鼎が噛みつく。

「お前が分かってるって?

じゃあ何でまだ荷車押してる?

情聖にでもなれよ!」

黄毛は冷笑し、矛先を彼に向けた。

「お前が阿橙に振られる理由なら分かる。

口だけ達者で、中身は空っぽ。

妹が枭に近づいてるのも気づかねぇで、科挙だの何だの笑わせる」

西门鼎は顔を赤くする。

「適当なこと言うな! 妹は――」

「“妹は”じゃねぇ」

黄毛が鼻で笑う。

「臥虎先生よ。

家の中で誰が誰を想ってるかも分からねぇ奴が、大官だと?」

阿虫は横で、思わず笑いそうになり、追い打ちをかけた。

「その通り。

まず賭場の借金を清算してから夢見ろ」

西門鼎は怒りで顔を歪める。

「お前ら……今年こそ――」

黄毛は相手にせず、手を振った。

「はいはい、賭けに行け。

ただし阿虫を連れてくな。

お前と一緒だと、必ずろくなことにならん」

「縁起でもねぇ!」

西門鼎が叫ぶ。

黄毛は荷車を押しながら、ぽつりと残した。

「経験談だ」

阿虫は彼らを見送った。

だが視線は、あの杏花楼の菓子に吸い寄せられていた。

油紙の淡い文様が、なぜか「もっと良くなりたい」という執念を思い出させる。

それが、黄毛の妹――郁金香に対する、彼の印象だった。

胸の奥に、言葉にならない居心地の悪さが芽生えた、その瞬間――

西門鼎が乱暴に彼の腕を掴んだ。

「行くぞ! 賭場!」

阿虫はその手を振り払い、余計な感情を切り捨てるように言った。

「……行く」

賭場は泰城西街の突き当たりにある。

間口は大きくないが、いつも騒がしい。入口には油灯が二つ掛けられ、昼間でも火が点いている。揺れる灯火は、白昼堂々とした影を嘲笑うかのようだった。

中からは音が隙間なく溢れ出してくる。

賽子を振る音、銅銭の乾いた響き、男たちの荒い笑い声、女の低い罵り声――

それらが混じり合い、頭を熱くさせる“匂い”のようになって漂っている。

西門鼎は中へ入るや否や、まるで自分の家に帰ったかのように肩を揺らし、袖を払って誰よりも大声で叫んだ。

「さあさあ! 席を空けろ!

今日は俺様がツキを開く日だ!」

阿虫はその後ろについて入ったが、顔は泥でも飲み込んだように不機嫌だった。

彼はただ“火を冷ます”つもりだったのに、一歩賭場へ足を踏み入れた瞬間、その喧騒が鉤のように心の苛立ちを引きずり出し、尖らせていく。

ここが好きではない。

だが同時に、ここが――

自分が誰なのか、誰に何を欠いているのか、何を恐れているのかを、一時だけ忘れさせてくれる場所だということも、否定できなかった。

西門鼎は一番熱気のある卓へ割り込み、手慣れた様子で叫ぶ。

「大だ! 大に張れ!

だから言ったろ、今日は必ず大だって!」

周囲の誰かが彼を見て鼻で笑う。

「おや、またお前か、“臥虎”さん」

西門鼎は胸を張った。

「臥虎がどうした?

臥せてても虎は虎だ!

今年科挙に受かれば――」

阿虫が背中の襟を掴んで引き戻した。

「吹くな。先に張れ」

西門鼎はよろけながらも、にやりと笑い、阿虫の耳元に顔を寄せて囁く。

「焦るな。今日は“筋”がある」

阿虫は眉をひそめた。

「……どんな筋だ」

西門鼎は瞬きし、袖口から巧妙に隠した薄片をちらりと見せる。

「分かるだろ?

ちょっとした道具だ。ほんの少し。天にも地にも害はねぇ」

阿虫の目が一段冷える。

「……またイカサマか」

西門鼎は胸を叩いた。

「これは“技術”だ。怖がるな。俺がいる――」

「怖がってるんじゃねぇ」

阿虫は低く言った。

「手を切り落とされたくねぇだけだ」

西門鼎はますます卑猥に笑う。

「手? そんな簡単に切られねぇよ。

賭場が切るなら、値打ちのある手だ。お前のは――」

阿虫を上から下まで見て、

「まだ資格がねぇ」

阿虫は拳を上げかけた。

西門鼎は慌てて両手を上げる。

「分かった分かった、殴るな!

二、三回付き合え。勝ったらすぐ帰る」

阿虫は歯を食いしばり、席に着いた。

賽子が振られる。

その音は神経を直接叩くようだった。

西門鼎の動きは蛇のように速い。

手首が返り、薄片が一瞬貼り付き、すっと抜かれる。

賽子の目は、まるで彼の言うことを聞くかのように揃った。

一回目、勝ち。

二回目、また勝ち。

卓を囲む者たちの視線が変わる。

笑顔は引きつり、空気が重くなる。

阿虫は本来、関わるつもりはなかった。

だが卓に積み上がる銀子を見ているうちに、胸の火は少しずつ鎮まり、その代わりに――

“勝っている”という感覚が、心を満たし始めた。

まるで運命と殴り合い、少しだけ面子を取り戻したような感覚。

「見ただろ?」

西門鼎は舞い上がっていた。

「だから言った! 今日はツイてる!」

阿虫は冷ややかに言う。

「二回勝ったら帰る」

西門鼎は口先だけで応じる。

「帰る帰る。次勝ったらな」

三回目、勝ち。

四回目――また勝ち。

卓の笑い声は消え、代わりに息を殺した沈黙が広がる。

何人かは席を立ち、入口の方を窺った。

西門鼎を見る目は、噛みつく鼠を見るそれだった。

阿虫の直感が、この瞬間、張り詰めた。

幼い頃から、それで生き延びてきた。

どこが危険か、誰に見られているか、いつ逃げるべきか。

視界の端で、賭場の用心棒たちの足取りが、規則的になっているのが見えた。

ゆっくりと、包囲するように。

「……もういい」

阿虫は声を落とした。

「行くぞ」

だが西門鼎は銀子しか見えていなかった。

「もう一回!

この一回で――」

その言葉は、途中で止まった。

「……パシッ」

重くない音。

だが、場の喧騒を一瞬で押し潰した音。

卓を囲む者たちが一斉に静まる。

賽子を振っていた胴元の手すら止まった。

阿虫が顔を上げる。

そこに立っていたのは、屈強な男だった。

肩幅は扉板のように広く、顔には眉骨から口元へ斜めに走る古傷。

笑うと裂け目のように見える。

そして何より目立つのは、首に掛けられた太い黒珠の数珠。

装飾ではない――「近づくな」という標だ。

覇彪(ハーヒョウ)。

ヒョウ様。

泰城賭場の実力者の一人であり、この通りで最も関わりたくない男。

阿虫の腹が、ずしりと沈んだ。

西門鼎の顔も一瞬強張ったが、すぐに媚びた笑いを浮かべ、立ち上がる。

「ひ、ヒョウ様……今日はどうして――」

覇彪はその笑顔を見なかった。

卓に積まれた銀子を見、次に西門鼎の袖口を見る。

刃物のような目。

「……器用な手だな」

淡々とした一言。

西門鼎の喉仏が動く。

「ヒョウ様……誤解です、誤解で――」

覇彪が手を上げ、背を払った。

「パァン!」

乾いた音。

西門鼎の顔は半分歪み、その場の全員が理解した。

――ここは道理を語る場所ではない。

西門鼎は頬を押さえ、唇を震わせる。

「ヒョウ様……俺が悪かった……」

阿虫の拳が、ゆっくりと握り締められる。

だが動けない。

動けば、ここでは済まない。

覇彪はようやく阿虫を見る。

その視線は秤のようだった。

――このガキ、殺す価値があるか。

阿虫は退かず、睨み返した。

勝とうとはしない。ただ――噛むという意志だけを、眼に宿して。

覇彪は二呼吸見つめ、ふっと笑った。

「……お前が阿虫か」

阿虫は答えず、冷たく一度だけ頷く。

「聞いてる。口が悪くて、命が硬い」

阿虫の目が、さらに冷えた。

覇彪はそれ以上彼を見ず、西門鼎に向き直る。

「西門鼎」

「は、はい!」

覇彪の声は低いが、逆らえない。

「お前の借金、本来なら手を落とす規矩だ。

今日イカサマして、しかも勝ち逃げを狙った……規矩通りなら」

一拍置く。

「両手だ」

西門鼎の顔色が一気に抜け、脚が震える。

「ヒョウ様……命だけは!

俺、今年科挙が――」

「科挙?」

覇彪は鼻で笑った。

「その根性で?」

西門鼎は黙った。

覇彪はゆっくり身を屈め、犬に話しかけるように言う。

「だが今日は気分がいい。

道をやる」

西門鼎の目が光る。

「ヒョウ様! おっしゃってください!」

覇彪は二本の指で卓を軽く叩いた。

「数か月後、北境の近くへ行け。

俺の荷を運ぶ」

「……北境?」

その言葉に、阿虫の眉も僅かに動いた。

北境――泰城から遠く、境界線に近い地。

盗賊が跋扈し、得体の知れないものが出ると噂される場所。

しかも、覇彪の“荷”が、まともなものであるはずがない。

西門鼎も理解し、唇が乾く。

「な、何を運ぶんです……?」

覇彪の笑みが深くなる。

「知る必要はない」

彼は西門鼎の頬を叩いた。

褒めるように。

「上手くやれば、借金は帳消し。

さらに報酬も出す」

一拍。

「失敗すれば――」

冗談のように軽く言う。

「一生、字を書かなくて済む」

西門鼎の喉が鳴った。

拒めば今死ぬ。

値切る資格もない。

彼は必死に笑顔を作り、何度も頷いた。

「ヒョウ様ご安心を!

必ずやり遂げます!」

覇彪はようやく身を起こす。

「散れ。続けろ」

彼が去ると、用心棒たちも影のように従った。

賭場の喧騒は、ゆっくり戻ってくる。

だが、その“賑やかさ”は、もう別物だった。

鍋に毒粉を撒かれたような、嫌な熱。

西門鼎は椅子に座り込み、背中は汗でびっしょり。

半分腫れた顔で、阿虫を見る。

「……な?

今日は……ツイてるだろ?」

阿虫は冷たく言った。

「ツイてねぇ。

命を売っただけだ」

西門鼎は強がる。

「命? 大袈裟だ。

北境で荷を運ぶだけ――」

阿虫は立ち上がり、竹籠を手に取る。

「勝手にやれ。

俺を巻き込むな」

西門鼎は慌てて掴もうとする。

「おい! 阿虫!

お前がいないと――」

阿虫は振り払う。

「自分で蒔いた種だ。

自分で背負え」

西門鼎は口を開いたが、もう掴まなかった。

阿虫が本気で怒れば、自分も無事では済まない。

何より、頭の中は“北境の荷”で一杯だった。

阿虫は賭場を出た。

風が吹き、ようやく顔の熱が引く。

空を見上げる。

まだ明るいが、どこか灰色に覆われている。

彼は気づいた。

今日という一日は、菜摊を蹴り倒した瞬間から、

何かに押されるように、同じ方向へ進まされていた。

一歩、また一歩。

息が詰まるほどに。

一笑楼へは戻りたくない。

阿橙の視線も、

「また問題を起こしたのか」という夜の告げ口も。

だから彼は竹籠を肩に担ぎ、

城の外へ向かって歩き出した。

城外れの小川は、それほど遠くない。

荒れた草坡を一つ越えれば、すぐに見えてくる。

そこは普段、誰も来ない場所だった。

危険だからではない。ただ――行く理由がないからだ。

泰城の人間は皆、生きるのに忙しい。わざわざ城外まで水の流れを見に来る暇などない。

だが、阿虫はこの小川が好きだった。

六年以上前、ここへ流れ着いたばかりの頃から、

気持ちが荒れるたびにここへ来て、小石を拾って水切りをした。

石が水面で何度か跳ねるたび、胸に溜まった火が少しずつ水に飲み込まれていくような気がした。

跳ねる回数が多いほど、まだ何かを自分で掴めている気がした。

今日は、足が自然と速くなった。

川辺に着き、しゃがみ込み、平たい石を拾う。

手首をひねって――

「……パシッ」

石は一度も跳ねず、そのまま沈んだ。

阿虫は一瞬、間抜け面で固まった。

まるで真正面から笑われたようだった。

眉をひそめ、今度はもっと薄い石を拾って投げる。

「……ボチャン」

また沈む。

三つ目。沈む。

四つ目。やはり沈む。

苛立ちが爆発し、彼は石を次々と水へ叩きつけた。

水しぶきが乱れ飛び、まるで水と喧嘩しているかのようだった。

――いや、運命と喧嘩しているのかもしれない。

だが、水は応じない。

水はただ、冷たく流れるだけだ。

阿虫は荒く息を吐き、歪んだ笑いを漏らした。

「……水にすら、言うこと聞かれねぇかよ」

もう一つ投げようとした、その時――

耳が、違和感のある音を捉えた。

かすかだ。

草が擦れる音のようで、同時に誰かが息を潜めているようでもある。

阿虫の動きが止まる。

路地で育った彼は、危険な音を聞き分けるのが得意だった。

ゆっくりと首を回し、小川の少し先にある草むらを見る。

草は密生しており、風に揺れて葉同士が擦れ合っている。

普通なら、何も見えない。

だが――

阿虫の目が細くなる。

草の奥に、衣の裾が見えた。

色が妙だった。

泰城でよく見る粗布でもないし、庶民が着られる絹でもない。

どこか異国的で、暗く滑らかで、この土地に属さない気配を帯びている。

阿虫は立ち上がり、足音を殺して近づいた。

刀は持っていない。

だが右手は自然と拳を握り、指の節が白くなる。

――いつでも殴れるように。

近づくほど、匂いが濃くなる。

血でも、腐臭でもない。

奇妙な香りだ。

濃厚だが下品ではない。

花のようであり、薬草のようでもある。

胸の奥が、きゅっと締め付けられるような甘さ。

阿虫は眉をひそめ、草をかき分けた。

そして――

彼女を見た。

一人の女――いや、少女。

肌は褐色で、自然な艶を帯びている。

衣装はさらに異様で、蛇の鱗のような文様が刻まれた布が身体に巻き付いていた。

目を閉じ、呼吸は浅い。

今にも途切れそうだ。

阿虫の最初の感想は、「美しい」ではなかった。

――妙だ。

泰城の人間ではない。

これまで見たどんな旅人とも違う。

頭に浮かんだ言葉は、一つ。

厄介事だ。

本能的に、引こうとした。

だが、その瞬間――

彼女の指先が、わずかに震えた。

……生きている。

阿虫は小さく舌打ちした。

「……ついてねぇ」

しゃがみ込み、手を伸ばす。

一瞬ためらい、それから顔を横に向けた。

少女の身体の横に身を支え、

そっと耳を彼女の胸元へ近づける。

確認したいのは、一つだけ。

――生きているかどうか。

その瞬間だった。

香りが、鼻腔に流れ込んできた。

血の匂いでも、草の匂いでもない。

潰れた花から溢れ出すような、濃密で、甘い香気。

阿虫は一瞬、意識が揺らぐ。

この匂いは、阿橙の使う白粉とはまるで違う。

――近すぎる。

近すぎて、頭がぼやける。

「……生きてるな」

心音を確認し、身を起こそうとした、その時――

「……シュッ」

極めて小さな音。

蛇が舌を吐く、その一瞬の音。

阿虫が反応する間もなく、

冷たい感触が手首に絡みついた。

「――あ゛!!」

激痛が炸裂する。

暗色の毒蛇が、少女の衣の中から飛び出し、

鋭い牙を深く食い込ませていた。

「痛ぇ!! 痛い痛い痛い!!」

反射的に腕を振り回すが、触れる勇気はない。

ただ必死に振り払うしかなかった。

「離れろ!! 離れろこの畜生!!」

蛇は弾き飛ばされ、草むらへ落ち、

次の瞬間には何事もなかったかのように、再び少女の衣の中へ潜り込む。

阿虫は荒く息を吐き、手首を見る。

暗紫色の筋が、すでに浮かび上がっていた。

「……やべぇ」

痺れが、傷口から一気に広がる。

視界が揺れる。

「毒……か……」

一歩下がろうとした瞬間、

膝が崩れ、地面に叩きつけられた。

意識が落ちる直前、彼が見たもの――

本来、倒れていたはずの少女が、

立ち上がっていた。

動きは落ち着いており、

先ほどまでの“死体”とはまるで別人。

毒蛇は、まるで愛玩動物のように彼女の腕に絡みついている。

少女は地に伏した阿虫を見下ろし、

口元に冷淡で危険な笑みを浮かべた。

「……ほんと、バカね」

小さく、そう言った。

阿虫は罵ろうとしたが、声が出ない。

身体が、もう言うことを聞かなかった。

闇に沈む直前、

彼女の声が、かすかに続いた。

「でも、ちょうどいい」

「……人界を歩く案内役が、欲しかったところ」

――

意識が、ゆっくりと浮上する。

阿虫が目を覚ました時、最初に感じたのは痛みではなかった。

動けない。

頭は重く、意識だけが水から引き上げられたように揺れている。

起き上がろうとするが、四肢は麻痺したように動かず、指一本すら言うことを聞かない。

「……くそ」

喉から絞り出した声は、情けないほど掠れていた。

視界が次第に焦点を結ぶ。

逆光の中、

一つの影が彼の前に立っている。

――あの少女だ。

彼女は見下ろすように彼を見ていた。

そこに困惑も、慈悲もない。

あるのは、冷ややかな侮蔑だけ。

阿虫の脳裏に、一気に記憶が蘇る。

――蛇。

「……そうだ」

胸が冷える。

「……俺、噛まれた……」

次の瞬間。

重みが、胸に落ちた。

「ぐぁっ!!」

少女の足が、容赦なく彼の胸を踏み抜く。

息が強引に吐き出され、視界が暗転する。

「てめぇ……!!」

「言葉に気をつけなさい、役立たず」

冷たい声。

足の力が、さらに増す。

「痛い痛い痛い!! 分かった! 分かったから!!」

阿虫は即座に屈服した。

「姉御! 美人さん! 俺が悪かった! 許してくれ!!」

無様そのもの。

少女は二呼吸ほど彼を見つめ、

ふん、と鼻を鳴らして足を退けた。

阿虫は地面にへたり込み、荒く息を吐く。

――この女、本気だ。

「よく聞け、役立たず」

少女が言う。

「私が聞く。お前は答える。

ここはどこ?」

阿虫は反射的に反論しそうになったが、

身体を起こす力すらなく、歯を食いしばる。

「……先に、お前が誰だよ……」

「質問で質問に答えるな」

彼女が袖を上げると、毒蛇が頭を出し、

白い牙が光を反射した。

阿虫は即座に白旗を上げた。

「言う言う言う!!」

「ここは泰城の外れ! 小川のある森だ!!」

「泰城?」

少女は目を細める。

「城に、食べ物はある?」

「ある!! 山ほどある!!

飯屋も麺屋も屋台も!!」

少女の表情が、わずかに和らぐ。

「……いい」

彼女は懐から小さな磁器瓶を取り出し、栓を抜いた。

鼻を突く、強烈で異質な薬の匂いが広がる。

「お前、今は私の毒に侵されている」

阿虫の背筋が凍る。

「この毒はね、優秀なの」

彼女は淡々と続ける。

「一日では死なない。でも、一定時間解毒薬を飲まなければ、

まず手足が使えなくなり、最後は心臓が止まる」

阿虫の顔色が変わった。

「生きたい?」

彼女が遮る。

阿虫は喉を鳴らした。

「……生きたい」

「なら、従え」

薬丸が口に押し込まれる。

反射的に飲み込むと、強烈な苦味の後、

暖かさが身体を巡り、痺れが引いていく。

阿虫は起き上がったが、

心はすでに冷え切っていた。

「覚えておきなさい」

少女が言う。

「この薬、効くのは一日」

「今から、お前は私の向導」

「逆らえば、薬はやらない」

「逃げれば、殺す」

彼女は見下ろし、冷笑した。

「分かった?」

阿虫は拳を握り、ゆっくりと開いた。

「……分かった」

「名前」

突然、少女が言った。

「名前?」

「“役立たず”と呼び続けるのは面倒」

阿虫は歯を食いしばる。

「……阿虫」

少女は一瞬呆け、

次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。

「阿虫!?」

「はははは!! 本当に似合ってる!!」

阿虫の顔は真っ黒だ。

笑いが収まると、少女は姿勢を正す。

「覚えなさい」

「私は、辛夷」

「さあ、城へ案内しなさい」

彼女は阿虫の尻を蹴った。

「早くしなさい、向導」

阿虫はよろめきながら立ち上がり、

“辛夷”という名を、心に刻み込んだ。

――毒が解けたら、絶対に殺す。

二人が小川沿いを少し歩いた、その時――

地面が、揺れた。

風でも、水でもない。

――地下を這うものの振動。

辛夷が足を止め、眼光が鋭くなる。

次の瞬間、

地面が盛り上がり――

轟ッ!!

暗赤色の巨大な躯体が地を破って現れた。

無数の脚が地面を打ち、

腐臭と毒の気配が一気に広がる。

――巨大な蜈蚣。

阿虫の顔から血の気が引いた。

「……なんだよ、これ……」

蜈蚣がうねる中、

影の中から、一人の男が姿を現す。

背は高く、気配は冷たく、

立っているだけで息が詰まる。

彼は蜈蚣の傍に立ち、

辛夷を見据え、低く告げた。

「辛夷」

「主の命だ。大人しく戻れ」

――百足。

辛夷を追って、五毒の他の弟子たちも、

すでに人界へと足を踏み入れていた。

林を抜ける風が、冷たく吹く。

阿虫は二人の間に立ち、

はっきりと悟った。

――自分はもう、

人界だけの厄介事では済まない場所へ踏み込んでしまったのだ。

 

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