「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
「……三か月前だ」
阿虫は声をぐっと低く落とした。
「……城外の、あの小川のそばでな」
その瞬間、卓を囲む空気が凍りついた。
箸が椀に触れる音すら止み、熊伯はお玉を持ったまま立ち尽くし、猫のように目を光らせている。
西門鼎は口を挟もうとしていたが、阿虫の顔色を見て察したのか、何も言わず、ただ酒杯を指先でくるりと二度回しただけだった。
だが、阿虫はすぐには続けなかった。
卓上に残った、拭ききれずに乾きかけた一滴の汁をじっと見つめる。
それはまるで、喉の奥に引っかかったまま剥がれない古傷のようだった。
あの日の記憶は、決して誇れるものではない――
辛夷と出会ったこと自体ではなく、そのときの自分が、運命に蹴倒されたボロ瓶のように、みっともなく砕け散っていたことが、だ。
「急かすな」
阿虫は眉をひそめ、卓の全員に喧嘩を売るように吐き捨てた。
「聞きたいなら黙って聞け。聞かねぇなら、別にいい」
菖蒲が眉を上げる。
「誰も急かしてないでしょ。ほら、さっさと続けなさい」
阿虫は彼女を睨み、ひとつ深く息を吸った。
そして無理やり、自分を三か月前のあの日へと引き戻す――
その朝、まだ暑さが本気を出す前から、泰城の市はすでに騒がしかった。
野菜売りの呼び声、肉を叩く音、天秤棒を担ぐ足音、値切り合う甲高い声。
それらが一緒くたになって渦を巻き、まるで煮えたぎった鍋のようだった。
空気には、葱や蒜の匂い、土の湿り気、そして血生臭さが混じっている。
暑いが、不快ではない――「皆が生きるために動いている」匂いだ。
阿虫は銭袋を握り、市の入口に立っていた。
指先で袋の口を二度ほど弄ぶ。
金は阿橙から渡されたものだ。
「市場で食材を買ってきて。サボるんじゃないよ」
そう言って、彼女は金を阿虫の手のひらに置いた。
声は落ち着いていたが、その目は、彼の不満をすべて見透かしているようだった。
「新鮮な野菜と魚をね。あと、余計な揉め事は起こさない。いい?」
阿虫はその場で白目を剥いた。
「俺が揉めるかどうかなんて――」
言い終わる前に、阿橙が彼の肩をぐっと押さえた。
「阿虫。私を八つ当たりの相手にしないで」
静かだが、逃げ場のない声。
「暴れたいなら外でやりな。楼の中でやられると迷惑。分かる?」
阿虫は喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込み、声にならない悪態を吐いた。
竹籠を引っ掴み、踵を返して外へ出る。
歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。
――買い物だけ済ませて帰る。それだけだ。
どうせ帰ったところで、誰も俺に期待なんかしていない。
だが、歩けば歩くほど、苛立ちは募った。
苛立ちの正体は「買い物」じゃない。
「阿橙は苦労している」――その言葉だ。
誰が口にしても、針のように胸に刺さる。
市に入ると、まず青物屋へ向かった。
店主の老楊は、若くもなく老いすぎてもいない年頃で、日に焼けた赤い顔をしている。
いつも笑顔で、誰に対しても親戚の子でも見るような調子だ。
阿虫を見るなり、老楊は葱を一把、籠に放り込み、止まらぬ口を開いた。
「おう、阿虫か。お前の姉ちゃん、ここ最近ほんと大変そうだぞ。一笑楼は人の出入りが絶えないし、よう頑張っとる」
阿虫は「ふうん」とだけ返し、顔も上げずに葉をめくり、一番若い菜を選ぶ。
だが老楊は止まらない。
本気で心配しているような口調で続ける。
「お前ももう十六だろ? 阿橙は一人で楼を背負って、相当無理してる。弟なんだから、少しは分かってやって――」
「分かって、何だよ」
阿虫が急に顔を上げた。
老楊は一瞬きょとんとしたが、笑みを崩さず言う。
「だから、いつまでも西門鼎なんかとつるんでないでさ。阿橙はいい姉ちゃんだろ? お前らを養って――」
それは、善意の言葉だった。
だが阿虫の耳には、別の声に聞こえた。
――お前は足手まといだ。
――姉に食わせてもらっているくせに、役立たずだ。
――生きてるだけで迷惑だ。
頭の奥で、何かが弾けた。
阿虫の目が、刃物のように冷える。
そのくせ口元には、歪んだ笑みが浮かんだ。
「老楊。随分、分かった風な口きくじゃねぇか」
「いや、俺はただ――」
次の瞬間、阿虫の足が動いた。
ガンッ、と音を立て、菜摊の木の脚を蹴り倒す。
「ガラガラッ!」
籠も秤も竹篭も、まとめて泥の上にひっくり返り、青菜が首を折られたみたいに四方へ転がった。
場が、一瞬静まり返る。
「な、何するんだ!」
老楊が慌てて飛びつく。「気でも狂ったか!」
阿虫はその手を振り払い、目に剥き出しの凶気を宿したまま吐き捨てた。
「俺の姉に口出すな! あいつが苦労してるかどうか、てめぇに関係あるかよ! いいこと言ったつもりで長老気取りか?!」
老楊の顔が、赤から白へと変わる。
「……俺は、ただ善意で……」
「善意だぁ?」
阿虫が吠える。
「お前らは皆同じだ。表じゃ『あの子は偉い』って言って、裏じゃ笑ってる。
女一人で楼を支えてるのが、そんなに面白いかよ!」
胸が激しく上下し、言葉が荒くなる。
老楊は口を開いたまま、しばらく言葉を探し、ようやく絞り出した。
「……阿虫、そんなつもりじゃ……」
だが、もう遅い。
阿虫は聞かなかった。
竹籠を引っ掴み、何も買わずに踵を返す。
背後で誰かが叫ぶ。
「ガキが!」
別の誰かが溜息をつく。
「気性の荒い子だ……」
魚屋の老呂が包丁をまな板に叩きつけ、吐き捨てた。
「分かっちゃいねぇ! 阿橙がどれだけ苦労してると思ってんだ。
あんなガキ養って……今夜、老楊と一緒に一笑楼で酒飲んで、きっちり言ってやらにゃならん!」
阿虫は速足で歩いた。
泥を踏む音が、ぶつぶつと鳴る。
まるで自分の胸を踏みつけているみたいだった。
聞こえていた。
全部、聞こえていた。
引き返して殴り合いたかった。
あの口を引き裂いてやりたかった。
だが分かっていた。
やったところで、阿橙はまた噂を聞き、また頭を下げ、また後始末をするだけだ。
考えれば考えるほど、追い詰められる。
だから、逃げた。
市の出口を抜け、二度ほど大きく息を吸い、竹籠を肩に投げる。
「……買い物なんか、やってられるか」
低く吐き捨てる。
「誰が好き好んで」
市の入口にある石造りの牌坊の下で、誰かが阿虫を呼んだ。
「阿虫!」
顔を上げると、西門鼎と鸢だった。
西門鼎は道端に立ち、太い縄を背負い、その先にはまだ血の残る大きな肉塊がぶら下がっている。
まるで誰かの祖墳でも荒らしてきたかのような、得意満面の笑顔だ。
「ははっ! 見たか! 烈猪だ! 今朝、俺一人で仕留めたんだぞ!」
阿虫は白目を剥いた。
「吹くな。烈猪が一人で倒せるかよ。お前をミンチにしなかっただけ慈悲深いわ」
西門鼎はムキになる。
「信じねぇのか? 高く売れたんだぞ! 銀子もしっかり懐だ! 今日は俺が奢って――」
「奢る? 奢ってもらっても食えねぇよ」
阿虫は不機嫌に吐き捨てた。
「お前の奢りなんか、胃が拒否する」
西門鸢はその横に立っていた。
手には弁当箱。衣服はきちんとしていて、眼差しは柔らかいが、どこか疲れも滲んでいる。
彼女は阿虫を一目見ただけで、あの不機嫌の裏にある違和感を察したようだった。
「阿虫……また誰かと喧嘩したの?」
声はとても穏やかだ。
阿虫は即座に強がる。
「誰が? 喧嘩売られたら殺すだけだ」
西門鸢は小さく溜息をつき、それ以上は聞かなかった。ただ弁当箱を少し強く抱き直す。
「私は先に、欧陽枭にお弁当を届けてくるね。
二人とも……騒ぎは起こさないで」
「枭」と聞いた瞬間、西門鼎の眉が跳ね上がった。
「おやおや? また枭捕頭に差し入れか? へぇ〜最近ずいぶん仲がいいじゃないか、妹よ」
西門鸢の頬が赤くなる。
「ち、違うわよ。巡回で忙しいから……たまたま、ついで」
阿虫が横から舌打ちする。
「いいじゃねぇか。枭の方が、お前の百倍マシだ。
少なくとも公職者だし、毎日“泰城の臥虎”とか吹いてる廃物じゃねぇ」
西門鼎が即座に爆発した。
「誰が廃物だ!」
阿虫は一瞥もくれない。
「お前だよ」
西門鼎は歯を食いしばる。
「覚えてろ! 今年の科挙、俺は必ず受かる!
俺が大官になれば、一人得道して鶏犬昇天だ!
お前も、妹も、阿橙も、こんな所で苦労しなくて済む!
阿橙だって、一笑楼を必死で切り盛りしなくてよくなる!」
「阿橙」の名が出た瞬間、阿虫の目が冷えた。
「俺の姉を言い訳に使うな。
あいつはお前のその安っぽい虚栄心なんか、これっぽっちも欲しがってねぇ」
西門鼎は言葉に詰まる。
「……それは、権勢を知らないからだ! 俺が――」
「まず賭場の借金を片付けてから言え」
阿虫が遮った。
西門鼎の顔が一瞬固まり、すぐに乾いた笑いで誤魔化す。
「は、はは……あれは小銭だ! 小銭!
……で? 菜は買ったのか? 籠が空だが――」
阿虫の機嫌はさらに悪くなる。
「買うかよ、そんなもん」
西門鸢が慌てて割って入る。
「もう、二人とも。市の入口で恥さらさないで。
阿虫、帰ったら阿橙姐を心配させないで。
お兄ちゃんも……」
そこまで言って、彼女は一度言葉を止め、軽く唇を結んだ。
「……いいや。どうせ、聞かないものね」
西門鼎がまだ何か言おうとしたが、西門鸢はもう背を向けていた。
歩みは軽いが、迷いがない。
その背中を見つめながら、阿虫は低く呟いた。
「……あいつが枭とうまくいくなら、それでいい。
少なくとも、お前みたいな廃物に足引っ張られずに済む」
西門鼎の表情が変わる。
罵ろうとして、結局言葉を飲み込んだ。
「……縁起でもねぇこと言うな。
枭みたいな男が……あいつを選ぶわけねぇ」
阿虫は冷笑した。
「誰もお前みたいに顔と虚栄心しか見てねぇと思うな。
枭の目には、少なくとも“規矩”がある」
「規矩?」
西門鼎は鼻で笑う。
「規矩で飯が食えるか?
俺が大官になるのが正道だ!
その時は全員、俺を“西門様”と呼べ!」
阿虫は堪えきれず、鼻で笑った。
「いいね、西門様。
じゃあ今すぐその“西門様”が、俺の買い物代を補填してくれよ。
このまま帰ったら、俺は叱られる」
西門鼎は胸を叩く。
「小事だ! 行こう!
今日は烈猪の金がある、まずは――」
彼はぐっと近づき、声を潜め、目を輝かせた。
「賭場だ。今日は絶対にツイてる」
阿虫は眉をひそめ、本能的に断ろうとした。
だが胸に燻る苛立ちは、まだ消えていない。
今は、一笑楼に戻って阿橙の視線を受けたくなかった。
叱られなくても――あの目の方が、ずっと堪える。
彼は歯を食いしばる。
「……一回だけだ」
西門鼎は狐のように笑った。
「一回だけ! 誓う!」
二人はまだ二つも通りを抜けないうちに、曲がり角で黄毛(ホアンマオ)たちと鉢合わせた。
黄毛は上半身裸で、汗が背中を伝って流れている。
臭玉(チョウダン)、斜眼(シャガン)、歪嘴(ワイヅイ)、赤佬(チーラオ)といった仲間たちを指図しながら、米袋を積んだ荷車を押していた。
米袋は高く積まれ、連中は蟻のように群がり、罵り合いながら忙しなく動いている。
西門鼎は黄毛を見るなり、調子づいた。
「おっ! 黄毛! 力仕事か?
さぁさぁ、賭場で二、三本どうだ!」
黄毛は汗を拭い、白目を剥く。
「馬鹿か。これ運び終わらなきゃ、母ちゃんに殺される」
だが阿虫の視線は、荷車の別の包みに留まっていた。
それは米袋ではない。
油紙で丁寧に包まれ、淡い文様が印刷され、角には細い紐。
明らかに、庶民向けじゃない。
「……それ、何だ?」
阿虫が何気なく聞く。
黄毛は口を歪め、少し誇らしげに笑った。
「杏花楼の菓子だ。妹に買ってやった」
西門鼎が即座に笑う。
「郁金香が食いたいなら、自分で買わせりゃいいだろ?
どうせ働いてないんだし」
黄毛は即座に睨み返した。
「分かってねぇな。女の子の心は繊細なんだよ」
彼は臭玉たちを指差し、怒鳴る。
「こいつらに並ばせて買わせたら、戻ってきた時にはもう何個か食いやがってた!
だから今、利息代わりに運ばせてる!」
臭玉はまだ半分菓子を口に入れたまま、もごもご言う。
「毛兄貴……ちょっと味見を……」
黄毛は殴ろうと手を上げ、臭玉は即座に頭を抱えた。
「や、やります! 運びます!」
「分かってねぇな」と言われたのが堪えたのか、西門鼎が噛みつく。
「お前が分かってるって?
じゃあ何でまだ荷車押してる?
情聖にでもなれよ!」
黄毛は冷笑し、矛先を彼に向けた。
「お前が阿橙に振られる理由なら分かる。
口だけ達者で、中身は空っぽ。
妹が枭に近づいてるのも気づかねぇで、科挙だの何だの笑わせる」
西门鼎は顔を赤くする。
「適当なこと言うな! 妹は――」
「“妹は”じゃねぇ」
黄毛が鼻で笑う。
「臥虎先生よ。
家の中で誰が誰を想ってるかも分からねぇ奴が、大官だと?」
阿虫は横で、思わず笑いそうになり、追い打ちをかけた。
「その通り。
まず賭場の借金を清算してから夢見ろ」
西門鼎は怒りで顔を歪める。
「お前ら……今年こそ――」
黄毛は相手にせず、手を振った。
「はいはい、賭けに行け。
ただし阿虫を連れてくな。
お前と一緒だと、必ずろくなことにならん」
「縁起でもねぇ!」
西門鼎が叫ぶ。
黄毛は荷車を押しながら、ぽつりと残した。
「経験談だ」
阿虫は彼らを見送った。
だが視線は、あの杏花楼の菓子に吸い寄せられていた。
油紙の淡い文様が、なぜか「もっと良くなりたい」という執念を思い出させる。
それが、黄毛の妹――郁金香に対する、彼の印象だった。
胸の奥に、言葉にならない居心地の悪さが芽生えた、その瞬間――
西門鼎が乱暴に彼の腕を掴んだ。
「行くぞ! 賭場!」
阿虫はその手を振り払い、余計な感情を切り捨てるように言った。
「……行く」
賭場は泰城西街の突き当たりにある。
間口は大きくないが、いつも騒がしい。入口には油灯が二つ掛けられ、昼間でも火が点いている。揺れる灯火は、白昼堂々とした影を嘲笑うかのようだった。
中からは音が隙間なく溢れ出してくる。
賽子を振る音、銅銭の乾いた響き、男たちの荒い笑い声、女の低い罵り声――
それらが混じり合い、頭を熱くさせる“匂い”のようになって漂っている。
西門鼎は中へ入るや否や、まるで自分の家に帰ったかのように肩を揺らし、袖を払って誰よりも大声で叫んだ。
「さあさあ! 席を空けろ!
今日は俺様がツキを開く日だ!」
阿虫はその後ろについて入ったが、顔は泥でも飲み込んだように不機嫌だった。
彼はただ“火を冷ます”つもりだったのに、一歩賭場へ足を踏み入れた瞬間、その喧騒が鉤のように心の苛立ちを引きずり出し、尖らせていく。
ここが好きではない。
だが同時に、ここが――
自分が誰なのか、誰に何を欠いているのか、何を恐れているのかを、一時だけ忘れさせてくれる場所だということも、否定できなかった。
西門鼎は一番熱気のある卓へ割り込み、手慣れた様子で叫ぶ。
「大だ! 大に張れ!
だから言ったろ、今日は必ず大だって!」
周囲の誰かが彼を見て鼻で笑う。
「おや、またお前か、“臥虎”さん」
西門鼎は胸を張った。
「臥虎がどうした?
臥せてても虎は虎だ!
今年科挙に受かれば――」
阿虫が背中の襟を掴んで引き戻した。
「吹くな。先に張れ」
西門鼎はよろけながらも、にやりと笑い、阿虫の耳元に顔を寄せて囁く。
「焦るな。今日は“筋”がある」
阿虫は眉をひそめた。
「……どんな筋だ」
西門鼎は瞬きし、袖口から巧妙に隠した薄片をちらりと見せる。
「分かるだろ?
ちょっとした道具だ。ほんの少し。天にも地にも害はねぇ」
阿虫の目が一段冷える。
「……またイカサマか」
西門鼎は胸を叩いた。
「これは“技術”だ。怖がるな。俺がいる――」
「怖がってるんじゃねぇ」
阿虫は低く言った。
「手を切り落とされたくねぇだけだ」
西門鼎はますます卑猥に笑う。
「手? そんな簡単に切られねぇよ。
賭場が切るなら、値打ちのある手だ。お前のは――」
阿虫を上から下まで見て、
「まだ資格がねぇ」
阿虫は拳を上げかけた。
西門鼎は慌てて両手を上げる。
「分かった分かった、殴るな!
二、三回付き合え。勝ったらすぐ帰る」
阿虫は歯を食いしばり、席に着いた。
賽子が振られる。
その音は神経を直接叩くようだった。
西門鼎の動きは蛇のように速い。
手首が返り、薄片が一瞬貼り付き、すっと抜かれる。
賽子の目は、まるで彼の言うことを聞くかのように揃った。
一回目、勝ち。
二回目、また勝ち。
卓を囲む者たちの視線が変わる。
笑顔は引きつり、空気が重くなる。
阿虫は本来、関わるつもりはなかった。
だが卓に積み上がる銀子を見ているうちに、胸の火は少しずつ鎮まり、その代わりに――
“勝っている”という感覚が、心を満たし始めた。
まるで運命と殴り合い、少しだけ面子を取り戻したような感覚。
「見ただろ?」
西門鼎は舞い上がっていた。
「だから言った! 今日はツイてる!」
阿虫は冷ややかに言う。
「二回勝ったら帰る」
西門鼎は口先だけで応じる。
「帰る帰る。次勝ったらな」
三回目、勝ち。
四回目――また勝ち。
卓の笑い声は消え、代わりに息を殺した沈黙が広がる。
何人かは席を立ち、入口の方を窺った。
西門鼎を見る目は、噛みつく鼠を見るそれだった。
阿虫の直感が、この瞬間、張り詰めた。
幼い頃から、それで生き延びてきた。
どこが危険か、誰に見られているか、いつ逃げるべきか。
視界の端で、賭場の用心棒たちの足取りが、規則的になっているのが見えた。
ゆっくりと、包囲するように。
「……もういい」
阿虫は声を落とした。
「行くぞ」
だが西門鼎は銀子しか見えていなかった。
「もう一回!
この一回で――」
その言葉は、途中で止まった。
「……パシッ」
重くない音。
だが、場の喧騒を一瞬で押し潰した音。
卓を囲む者たちが一斉に静まる。
賽子を振っていた胴元の手すら止まった。
阿虫が顔を上げる。
そこに立っていたのは、屈強な男だった。
肩幅は扉板のように広く、顔には眉骨から口元へ斜めに走る古傷。
笑うと裂け目のように見える。
そして何より目立つのは、首に掛けられた太い黒珠の数珠。
装飾ではない――「近づくな」という標だ。
覇彪(ハーヒョウ)。
ヒョウ様。
泰城賭場の実力者の一人であり、この通りで最も関わりたくない男。
阿虫の腹が、ずしりと沈んだ。
西門鼎の顔も一瞬強張ったが、すぐに媚びた笑いを浮かべ、立ち上がる。
「ひ、ヒョウ様……今日はどうして――」
覇彪はその笑顔を見なかった。
卓に積まれた銀子を見、次に西門鼎の袖口を見る。
刃物のような目。
「……器用な手だな」
淡々とした一言。
西門鼎の喉仏が動く。
「ヒョウ様……誤解です、誤解で――」
覇彪が手を上げ、背を払った。
「パァン!」
乾いた音。
西門鼎の顔は半分歪み、その場の全員が理解した。
――ここは道理を語る場所ではない。
西門鼎は頬を押さえ、唇を震わせる。
「ヒョウ様……俺が悪かった……」
阿虫の拳が、ゆっくりと握り締められる。
だが動けない。
動けば、ここでは済まない。
覇彪はようやく阿虫を見る。
その視線は秤のようだった。
――このガキ、殺す価値があるか。
阿虫は退かず、睨み返した。
勝とうとはしない。ただ――噛むという意志だけを、眼に宿して。
覇彪は二呼吸見つめ、ふっと笑った。
「……お前が阿虫か」
阿虫は答えず、冷たく一度だけ頷く。
「聞いてる。口が悪くて、命が硬い」
阿虫の目が、さらに冷えた。
覇彪はそれ以上彼を見ず、西門鼎に向き直る。
「西門鼎」
「は、はい!」
覇彪の声は低いが、逆らえない。
「お前の借金、本来なら手を落とす規矩だ。
今日イカサマして、しかも勝ち逃げを狙った……規矩通りなら」
一拍置く。
「両手だ」
西門鼎の顔色が一気に抜け、脚が震える。
「ヒョウ様……命だけは!
俺、今年科挙が――」
「科挙?」
覇彪は鼻で笑った。
「その根性で?」
西門鼎は黙った。
覇彪はゆっくり身を屈め、犬に話しかけるように言う。
「だが今日は気分がいい。
道をやる」
西門鼎の目が光る。
「ヒョウ様! おっしゃってください!」
覇彪は二本の指で卓を軽く叩いた。
「数か月後、北境の近くへ行け。
俺の荷を運ぶ」
「……北境?」
その言葉に、阿虫の眉も僅かに動いた。
北境――泰城から遠く、境界線に近い地。
盗賊が跋扈し、得体の知れないものが出ると噂される場所。
しかも、覇彪の“荷”が、まともなものであるはずがない。
西門鼎も理解し、唇が乾く。
「な、何を運ぶんです……?」
覇彪の笑みが深くなる。
「知る必要はない」
彼は西門鼎の頬を叩いた。
褒めるように。
「上手くやれば、借金は帳消し。
さらに報酬も出す」
一拍。
「失敗すれば――」
冗談のように軽く言う。
「一生、字を書かなくて済む」
西門鼎の喉が鳴った。
拒めば今死ぬ。
値切る資格もない。
彼は必死に笑顔を作り、何度も頷いた。
「ヒョウ様ご安心を!
必ずやり遂げます!」
覇彪はようやく身を起こす。
「散れ。続けろ」
彼が去ると、用心棒たちも影のように従った。
賭場の喧騒は、ゆっくり戻ってくる。
だが、その“賑やかさ”は、もう別物だった。
鍋に毒粉を撒かれたような、嫌な熱。
西門鼎は椅子に座り込み、背中は汗でびっしょり。
半分腫れた顔で、阿虫を見る。
「……な?
今日は……ツイてるだろ?」
阿虫は冷たく言った。
「ツイてねぇ。
命を売っただけだ」
西門鼎は強がる。
「命? 大袈裟だ。
北境で荷を運ぶだけ――」
阿虫は立ち上がり、竹籠を手に取る。
「勝手にやれ。
俺を巻き込むな」
西門鼎は慌てて掴もうとする。
「おい! 阿虫!
お前がいないと――」
阿虫は振り払う。
「自分で蒔いた種だ。
自分で背負え」
西門鼎は口を開いたが、もう掴まなかった。
阿虫が本気で怒れば、自分も無事では済まない。
何より、頭の中は“北境の荷”で一杯だった。
阿虫は賭場を出た。
風が吹き、ようやく顔の熱が引く。
空を見上げる。
まだ明るいが、どこか灰色に覆われている。
彼は気づいた。
今日という一日は、菜摊を蹴り倒した瞬間から、
何かに押されるように、同じ方向へ進まされていた。
一歩、また一歩。
息が詰まるほどに。
一笑楼へは戻りたくない。
阿橙の視線も、
「また問題を起こしたのか」という夜の告げ口も。
だから彼は竹籠を肩に担ぎ、
城の外へ向かって歩き出した。
城外れの小川は、それほど遠くない。
荒れた草坡を一つ越えれば、すぐに見えてくる。
そこは普段、誰も来ない場所だった。
危険だからではない。ただ――行く理由がないからだ。
泰城の人間は皆、生きるのに忙しい。わざわざ城外まで水の流れを見に来る暇などない。
だが、阿虫はこの小川が好きだった。
六年以上前、ここへ流れ着いたばかりの頃から、
気持ちが荒れるたびにここへ来て、小石を拾って水切りをした。
石が水面で何度か跳ねるたび、胸に溜まった火が少しずつ水に飲み込まれていくような気がした。
跳ねる回数が多いほど、まだ何かを自分で掴めている気がした。
今日は、足が自然と速くなった。
川辺に着き、しゃがみ込み、平たい石を拾う。
手首をひねって――
「……パシッ」
石は一度も跳ねず、そのまま沈んだ。
阿虫は一瞬、間抜け面で固まった。
まるで真正面から笑われたようだった。
眉をひそめ、今度はもっと薄い石を拾って投げる。
「……ボチャン」
また沈む。
三つ目。沈む。
四つ目。やはり沈む。
苛立ちが爆発し、彼は石を次々と水へ叩きつけた。
水しぶきが乱れ飛び、まるで水と喧嘩しているかのようだった。
――いや、運命と喧嘩しているのかもしれない。
だが、水は応じない。
水はただ、冷たく流れるだけだ。
阿虫は荒く息を吐き、歪んだ笑いを漏らした。
「……水にすら、言うこと聞かれねぇかよ」
もう一つ投げようとした、その時――
耳が、違和感のある音を捉えた。
かすかだ。
草が擦れる音のようで、同時に誰かが息を潜めているようでもある。
阿虫の動きが止まる。
路地で育った彼は、危険な音を聞き分けるのが得意だった。
ゆっくりと首を回し、小川の少し先にある草むらを見る。
草は密生しており、風に揺れて葉同士が擦れ合っている。
普通なら、何も見えない。
だが――
阿虫の目が細くなる。
草の奥に、衣の裾が見えた。
色が妙だった。
泰城でよく見る粗布でもないし、庶民が着られる絹でもない。
どこか異国的で、暗く滑らかで、この土地に属さない気配を帯びている。
阿虫は立ち上がり、足音を殺して近づいた。
刀は持っていない。
だが右手は自然と拳を握り、指の節が白くなる。
――いつでも殴れるように。
近づくほど、匂いが濃くなる。
血でも、腐臭でもない。
奇妙な香りだ。
濃厚だが下品ではない。
花のようであり、薬草のようでもある。
胸の奥が、きゅっと締め付けられるような甘さ。
阿虫は眉をひそめ、草をかき分けた。
そして――
彼女を見た。
一人の女――いや、少女。
肌は褐色で、自然な艶を帯びている。
衣装はさらに異様で、蛇の鱗のような文様が刻まれた布が身体に巻き付いていた。
目を閉じ、呼吸は浅い。
今にも途切れそうだ。
阿虫の最初の感想は、「美しい」ではなかった。
――妙だ。
泰城の人間ではない。
これまで見たどんな旅人とも違う。
頭に浮かんだ言葉は、一つ。
厄介事だ。
本能的に、引こうとした。
だが、その瞬間――
彼女の指先が、わずかに震えた。
……生きている。
阿虫は小さく舌打ちした。
「……ついてねぇ」
しゃがみ込み、手を伸ばす。
一瞬ためらい、それから顔を横に向けた。
少女の身体の横に身を支え、
そっと耳を彼女の胸元へ近づける。
確認したいのは、一つだけ。
――生きているかどうか。
その瞬間だった。
香りが、鼻腔に流れ込んできた。
血の匂いでも、草の匂いでもない。
潰れた花から溢れ出すような、濃密で、甘い香気。
阿虫は一瞬、意識が揺らぐ。
この匂いは、阿橙の使う白粉とはまるで違う。
――近すぎる。
近すぎて、頭がぼやける。
「……生きてるな」
心音を確認し、身を起こそうとした、その時――
「……シュッ」
極めて小さな音。
蛇が舌を吐く、その一瞬の音。
阿虫が反応する間もなく、
冷たい感触が手首に絡みついた。
「――あ゛!!」
激痛が炸裂する。
暗色の毒蛇が、少女の衣の中から飛び出し、
鋭い牙を深く食い込ませていた。
「痛ぇ!! 痛い痛い痛い!!」
反射的に腕を振り回すが、触れる勇気はない。
ただ必死に振り払うしかなかった。
「離れろ!! 離れろこの畜生!!」
蛇は弾き飛ばされ、草むらへ落ち、
次の瞬間には何事もなかったかのように、再び少女の衣の中へ潜り込む。
阿虫は荒く息を吐き、手首を見る。
暗紫色の筋が、すでに浮かび上がっていた。
「……やべぇ」
痺れが、傷口から一気に広がる。
視界が揺れる。
「毒……か……」
一歩下がろうとした瞬間、
膝が崩れ、地面に叩きつけられた。
意識が落ちる直前、彼が見たもの――
本来、倒れていたはずの少女が、
立ち上がっていた。
動きは落ち着いており、
先ほどまでの“死体”とはまるで別人。
毒蛇は、まるで愛玩動物のように彼女の腕に絡みついている。
少女は地に伏した阿虫を見下ろし、
口元に冷淡で危険な笑みを浮かべた。
「……ほんと、バカね」
小さく、そう言った。
阿虫は罵ろうとしたが、声が出ない。
身体が、もう言うことを聞かなかった。
闇に沈む直前、
彼女の声が、かすかに続いた。
「でも、ちょうどいい」
「……人界を歩く案内役が、欲しかったところ」
――
意識が、ゆっくりと浮上する。
阿虫が目を覚ました時、最初に感じたのは痛みではなかった。
動けない。
頭は重く、意識だけが水から引き上げられたように揺れている。
起き上がろうとするが、四肢は麻痺したように動かず、指一本すら言うことを聞かない。
「……くそ」
喉から絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
視界が次第に焦点を結ぶ。
逆光の中、
一つの影が彼の前に立っている。
――あの少女だ。
彼女は見下ろすように彼を見ていた。
そこに困惑も、慈悲もない。
あるのは、冷ややかな侮蔑だけ。
阿虫の脳裏に、一気に記憶が蘇る。
――蛇。
「……そうだ」
胸が冷える。
「……俺、噛まれた……」
次の瞬間。
重みが、胸に落ちた。
「ぐぁっ!!」
少女の足が、容赦なく彼の胸を踏み抜く。
息が強引に吐き出され、視界が暗転する。
「てめぇ……!!」
「言葉に気をつけなさい、役立たず」
冷たい声。
足の力が、さらに増す。
「痛い痛い痛い!! 分かった! 分かったから!!」
阿虫は即座に屈服した。
「姉御! 美人さん! 俺が悪かった! 許してくれ!!」
無様そのもの。
少女は二呼吸ほど彼を見つめ、
ふん、と鼻を鳴らして足を退けた。
阿虫は地面にへたり込み、荒く息を吐く。
――この女、本気だ。
「よく聞け、役立たず」
少女が言う。
「私が聞く。お前は答える。
ここはどこ?」
阿虫は反射的に反論しそうになったが、
身体を起こす力すらなく、歯を食いしばる。
「……先に、お前が誰だよ……」
「質問で質問に答えるな」
彼女が袖を上げると、毒蛇が頭を出し、
白い牙が光を反射した。
阿虫は即座に白旗を上げた。
「言う言う言う!!」
「ここは泰城の外れ! 小川のある森だ!!」
「泰城?」
少女は目を細める。
「城に、食べ物はある?」
「ある!! 山ほどある!!
飯屋も麺屋も屋台も!!」
少女の表情が、わずかに和らぐ。
「……いい」
彼女は懐から小さな磁器瓶を取り出し、栓を抜いた。
鼻を突く、強烈で異質な薬の匂いが広がる。
「お前、今は私の毒に侵されている」
阿虫の背筋が凍る。
「この毒はね、優秀なの」
彼女は淡々と続ける。
「一日では死なない。でも、一定時間解毒薬を飲まなければ、
まず手足が使えなくなり、最後は心臓が止まる」
阿虫の顔色が変わった。
「生きたい?」
彼女が遮る。
阿虫は喉を鳴らした。
「……生きたい」
「なら、従え」
薬丸が口に押し込まれる。
反射的に飲み込むと、強烈な苦味の後、
暖かさが身体を巡り、痺れが引いていく。
阿虫は起き上がったが、
心はすでに冷え切っていた。
「覚えておきなさい」
少女が言う。
「この薬、効くのは一日」
「今から、お前は私の向導」
「逆らえば、薬はやらない」
「逃げれば、殺す」
彼女は見下ろし、冷笑した。
「分かった?」
阿虫は拳を握り、ゆっくりと開いた。
「……分かった」
「名前」
突然、少女が言った。
「名前?」
「“役立たず”と呼び続けるのは面倒」
阿虫は歯を食いしばる。
「……阿虫」
少女は一瞬呆け、
次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「阿虫!?」
「はははは!! 本当に似合ってる!!」
阿虫の顔は真っ黒だ。
笑いが収まると、少女は姿勢を正す。
「覚えなさい」
「私は、辛夷」
「さあ、城へ案内しなさい」
彼女は阿虫の尻を蹴った。
「早くしなさい、向導」
阿虫はよろめきながら立ち上がり、
“辛夷”という名を、心に刻み込んだ。
――毒が解けたら、絶対に殺す。
二人が小川沿いを少し歩いた、その時――
地面が、揺れた。
風でも、水でもない。
――地下を這うものの振動。
辛夷が足を止め、眼光が鋭くなる。
次の瞬間、
地面が盛り上がり――
轟ッ!!
暗赤色の巨大な躯体が地を破って現れた。
無数の脚が地面を打ち、
腐臭と毒の気配が一気に広がる。
――巨大な蜈蚣。
阿虫の顔から血の気が引いた。
「……なんだよ、これ……」
蜈蚣がうねる中、
影の中から、一人の男が姿を現す。
背は高く、気配は冷たく、
立っているだけで息が詰まる。
彼は蜈蚣の傍に立ち、
辛夷を見据え、低く告げた。
「辛夷」
「主の命だ。大人しく戻れ」
――百足。
辛夷を追って、五毒の他の弟子たちも、
すでに人界へと足を踏み入れていた。
林を抜ける風が、冷たく吹く。
阿虫は二人の間に立ち、
はっきりと悟った。
――自分はもう、
人界だけの厄介事では済まない場所へ踏み込んでしまったのだ。