「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩――   作:八神 アキト

27 / 32
第二十六話 蛇姫と七殺編 其ノ六 七殺

百足の姿が、ついに林の奥からはっきりと現れた。

巨大な蜈蚣の影の中に立ち、砕けた小石と枯葉は、蜈蚣が掘り返した泥の中へと踏み込まれている。

その瞬間、風すら止まったかのようだった。

辛夷の瞳が、わずかに縮む。

それは見知らぬ存在への反応ではない。

――あまりにも、馴染み深すぎた。

その気配を、彼女は地獄で何年も嗅ぎ続けてきた。

血の臭い、毒の気配、そして日常のようにまとわりつく殺意。

まるで、とうに腐りきった肉塊が、なおも蠢いているかのような感触。

「……百足」

彼女はその名を低く呟いた。

声は小さいが、歯を噛みしめたような憎悪が滲んでいる。

百足は、すぐには答えなかった。

ゆっくりと視線を上げ、その目を辛夷に向ける。

それは「裏切り者」を見る目ではない。

むしろ――失われ、必ず回収されねばならない“物”を見る眼差しだった。

「ずいぶんと無様だな、辛夷」

低く、引き延ばすような声。

一音一音に、露骨な嘲りが込められている。

「無理に人界へ渡り、今では息すら安定しないか?」

辛夷の呼吸が、一瞬詰まった。

言い返そうとしたが、胸の奥に鋭い痛みが走り、息を吸うことさえ困難になる。

百足は、その様子をはっきりと見ていた。

口角が、わずかに吊り上がる。

「主は、すでに命を下している」

「お前は逃げられない」

淡々とした口調。

だがそれは、結果を告げる宣告に等しかった。

「飛壁、赤蝎も、間もなく人界へ来るだろう」

「炜菩提で気配を隠したつもりか?」

「それで逃げ切れると、本気で思ったのか?」

百足は片足を上げ、地面を軽く踏み鳴らす。

「お前の体内にある索命蛊は、飾りじゃない」

「生きている限り――魔界であろうと人界であろうと、必ず見つかる」

辛夷の指先が、わずかに強張った。

分かっている。

それは毒魔将――厳白蟒が自ら施した蛊毒。

一本の釘のように、彼女の命に打ち込まれている。

「それだけじゃない――」

百足の視線が、冷たく細まる。

「夜叉族の聖物、七殺の鎧魂萃を盗み出した」

空気が、一気に冷え切った。

「さらに、夜叉族の姫――曼陀羅まで連れ去った」

百足は笑った。

低く、ざらついた笑い声。

「辛夷、この二つを合わせたらな……」

「お前は、何度死んでも償いきれんぞ?」

辛夷は歯を食いしばる。

意識が一瞬揺らいだが、頭の中は異様なほど冴えていた。

「……本当に、気にしているの?」

百足が、わずかに眉を動かす。

辛夷は顔を上げた。

その目は、瀕死の者のものとは思えぬほど鋭い。

「夜叉族? 姫?」

「厳白蟒が、いつそんなものを気にした?」

かすれた声。

だが、一語一語ははっきりしている。

「あなたたちが本当に焦っているのは――万毒宝典でしょう」

百足の笑みが、初めて僅かに硬直した。

ほんの一瞬。

だが、辛夷はそれを見逃さなかった。

「私が消えた後で、気づいたんでしょう?」

「魔宮に隠されていた万毒宝典も、なくなっていたことに」

彼女は低く笑う。

自嘲が混じった、疲れ切った笑いだった。

「当然、私が持っていると思うわよね」

「普段、厳白蟒に最も近侍していたのは――私なんだから」

百足は、反論しなかった。

その沈黙こそが、答えだった。

辛夷は冷たい地面に身体を預け、荒く息をつく。

長くはもたない。

それは、自分自身が一番よく分かっている。

それでも、彼女は言った。

「百足」

「あなたは、もう人界に来ている」

苦しげに顔を上げ、周囲を見渡す。

湿り気を帯びた林の風。

静かに揺れる木々。

澄んだ水音を立てて流れる小川。

「見て」

「空気も、風も、水も……」

「毒霧も、腐敗も、ここにはない」

声は次第に低くなるが、その意志は異様なほど強かった。

「私は万毒宝典を持っている」

「時間さえあれば、索命蛊を解く方法を見つけられる」

「あなたも同じ」

「ここに、残れる」

百足は、一瞬だけ呆けたように見え――

次の瞬間、爆笑した。

笑い声が木々を震わせ、蜈蚣すら主の感情に呼応してざわめく。

「辛夷よ、辛夷」

目元を拭う仕草をしながら、嘲りを隠そうともしない。

「お前は一番賢いと思っていたが――」

「どうやら、一番愚かだったらしい」

その眼差しが、急激に冷えた。

「魔族がなぜ地獄に生きているか、忘れたか?」

「理由は一つ――人間だ」

「抑圧、追放、狩り」

「人界の清らかな空気は、我らの死骸の上に成り立っている」

百足は、ゆっくりと両腕を広げる。

「魔族の身で、ここに生きようだと?」

「これ以上ない、笑い話だ」

自分の手を見下ろす。

指先が、興奮でわずかに震えている。

「それに――一つ、勘違いしている」

百足の笑みは、残忍なものへと変わった。

「俺が生きる理由は、殺戮だ」

「肉が裂ける感触」

「相手が死ぬ直前に見せる恐怖――」

「それが、俺の血に刻まれた本能だ」

「殺しのない世界など、一分たりとも耐えられん」

言葉が落ちた瞬間、空気が沈む。

辛夷の胸が、ひやりとした。

気を巡らせようとする――

だが、何かに塞がれたように、まったく通らない。

百足は即座に察した。

口角が、再び上がる。

「やっと気づいたか?」

「強行穿界の代償だ」

「お前の身体は、すでに限界に来ている」

一歩、また一歩と距離を詰める。

「今のお前は、魔人化すらできない」

「だが、俺と飛壁、赤蝎は違う」

百足の目に、剥き出しの優越が宿る。

「主の助力を受け、許されて人界へ来ている」

「負担も、消耗もない」

そして、低く言い切った。

「俺にとって、今のお前は――」

「ただ、屠られる虫だ」

辛夷は歯を食いしばり、力を振り絞って腕を上げた。

袖口から、濃密な毒霧が噴き出す。

鼻を突く刺激臭が、瞬く間に林を覆う。

百足は、避けなかった。

魔人化と同時に肉体が膨張し、皮膚の下に暗色の紋様が浮かび上がる。

毒霧は岩にぶつかるかのように弾き返され、無理やり散らされた。

「こんなもの、俺には効かん」

次の瞬間、毒蛇が袖から飛び出す。

鋭い破空音。

百足は、それを掴み取った。

五指が閉じる。

「――バキッ」

蛇の胴が砕け、力なく垂れ下がる。

辛夷の心が、底へと沈んだ。

その時、彼女ははっきりと感じた。

懐の中で、七殺の鎧魂萃が激しく共鳴している。

急かすように。

呼びかけるように。

――使えるの?

心の中で、試す。

……反応はない。

鎧魂萃は、彼女に応えなかった。

次の瞬間、百足の攻撃が来た。

目で追えないほど速い、二撃。

辛夷は辛うじて躱したが、地面がひっくり返り、衝撃の余波に弾き飛ばされる。

身体が地面に叩きつけられ、視界が一気に暗転した。

その拍子に――

七殺の鎧魂萃が懐から弾き出され、小川脇の石積みへと転がっていった。

その一部始終を、少し離れた場所から阿虫は見ていた。

百足の歩みは止まらない。

辛夷へと向かい、一歩一歩、確実に踏みしめる。

まるで獲物と自分との距離を測っているかのようだった。

その時――

「……ゴホン、ゴホン」

意図的に抑えた、だが妙に耳に残る咳払いが横から響く。

百足の眉が、ほんのわずかに動いた。

彼は首を巡らせる。

そこには、少し離れた木のそばに立つ阿虫の姿があった。

全身を強張らせながらも、必死に媚びた笑みを浮かべている。

「えっと、その……」

阿虫は頭を掻きながら、極限まで気を遣った声で言った。

「兄貴……」

百足の視線が、阿虫に落ちる。

それは観察ですらなかった。

まるで靴元に落ちた埃を目にするような眼差し。

「……人間の屑か?」

阿虫は即座に、異様な勢いで頷いた。

「は、はい……兄貴、実は俺……」

「いや、急ぎじゃないです!」

「兄貴は兄貴で先に用事を済ませてください、俺はその……」

彼は辛夷を指し、次に自分の手首を指した。

「これ、噛まれまして」

「蛇毒です」

「まだ死んでないのは、たまたま運がいいだけで」

言葉は異様な速さで続く。

遮られる前に、全部吐き出そうとするかのように。

「だからですね、兄貴が彼女を殺すのは兄貴の自由です!」

「俺は一切止めません!」

「ただ、その前に解毒薬だけ、もらえませんか?」

「俺、死ぬのはちょっと怖くて……」

百足は、阿虫を見た。

一息分、じっと。

そして――

笑った。

低く、胸の奥から転がるような笑い声。

露骨な苛立ちが滲んでいる。

「……人間」

その二文字を、吐き捨てるように呟く。

次の瞬間。

百足は腕を振った。

狙いは辛夷ではない。

あまりにも雑で、まるで蝿を払うかのような動き。

拳風が空気を裂き、鈍い轟音を残す。

阿虫は、目を見開くのが精一杯だった。

「――っ、くそ!」

身体はすでに宙を舞っていた。

布切れのように灌木をなぎ倒し、小川沿いの石場へと叩きつけられる。

水飛沫が派手に上がった。

激痛が背骨を貫く。

阿虫は地面を二度転がり、喉から形にならない悲鳴を漏らした。

「うわあああ!! 殺さないで!!」

叫びながら、四肢を使って這い起きる。

顔色は真っ青で、そこに尊厳の欠片もない。

「俺が悪かった!! 何も見てません!!」

「続けてください! どうぞ続けて!!」

あまりにも卑屈な姿に、もう一瞥する価値すらない。

百足は、案の定それ以上目を向けなかった。

恐怖で壊れた人間など、もはや存在価値はない。

彼は手を上げる。

命令を理解したかのように、蜈蚣が巨大な身体をうねらせ、辛夷を丸ごと締め上げた。

節足が食い込む。

骨が軋む、かすかな音。

辛夷の喉から、抑えきれない呻きが漏れ、視界が一気に暗転する。

「焦るな」

百足は低く言った。

「連れ帰ってから、ゆっくり片付けてやる」

その時――

再び、阿虫の方から咳払いが聞こえた。

「……ゴホン、ゴホン」

百足のこめかみが、ぴくりと跳ねる。

振り返らぬまま、冷たく言い放つ。

「……まだ行かないのか?」

阿虫は小川のそばで腰を折り、腹を押さえていた。

今にも吐きそうな顔だ。

「い、行きますよ」

「ただ……足が、ちょっと震えてて」

顔を上げ、泣き笑いのような表情を作る。

「さっきの一撃、効きまして……」

「でもすぐ消えます、すぐに!」

そう言いながら、よろよろと林の外へと移動する。

「本当に邪魔しません」

「今日のことは、一言も言いませんから」

百足は、ようやく振り返った。

眼差しは、陰鬱に沈んでいる。

「……失せろ」

阿虫は狂ったように頷いた。

「はい! 失せます! 今すぐ!」

ほとんど転がるように、林の奥へと逃げ込んでいく。

その背を向けた一瞬――

阿虫の手が、驚くほど素早く衣の内側へと滑り込んだ。

指先に、冷たい感触。

暗紅色の、重く冷えた存在。

七殺の鎧魂萃を、彼は密かに握り込んでいた。

それは、生きているかのように、掌の中で微かに震える。

阿虫の鼓動が、一瞬だけ不規則に跳ねた。

だが、阿虫は止まらない。

表情すら変えなかった。

泣き叫びながら逃げ続け、

その姿はやがて、完全に林の中へと消えた。

百足は振り返った。

「目障りなものだ」

そう言って、彼は俯き、蜈蚣に締め上げられてほとんど呼吸もできなくなっている辛夷を見下ろした。

「黄蟾も愚かな奴だ」

その言葉は、棘のように辛夷の意識へ突き刺さる。

「お前みたいなもののために、無駄死にしやがって」

百足の声に、微塵の悔恨もなかった。

「その上、俺から良い相手まで奪ってくれた」

蜈蚣の節足が、再び締め上げる。

内臓が軋むような圧迫感に、辛夷の意識は痛みの中で揺らいだ。

黄蟾の顔が、脳裏に浮かぶ。

いつも寡黙で、それでも鍛錬の時だけは狂ったように己を追い込んでいた男。

――まだ人界がどんな場所かも、ちゃんと見ていないのに。

そんな思いが、ふと胸をよぎる。

可笑しい、と感じた。

(……本当に、馬鹿ね)

辛夷は心の中で、そう呟いた。

その時――

百足の足元が、わずかに滑った。

ごく軽微。

だが、確かに「何か」があった。

彼は即座に体勢を立て直し、足元を見下ろす。

泥。砕けた石。落ち葉。

何もない。

「……?」

百足は眉をひそめた。

次の瞬間、刺すような冷気が、足の裏から一気に這い上がってくる。

それは温度ではない。

直接“魂”に作用する感覚だった。

百足の瞳孔が、ぎゅっと収縮する。

「何!?」

見れば、いつの間にか半透明の網が彼の両足を絡め取り、同時に蜈蚣の巨体までも縛り上げていた。

蜈蚣が悲鳴じみた嘶きを上げる。

節足が激しくもがき、魂網の冷たさに耐えきれず、辛夷への拘束を本能的に緩めた。

辛夷は地面に崩れ落ち、激しく咳き込む。

茫然と顔を上げる。

「……誰……?」

百足の顔色が、完全に沈んだ。

彼は力を爆発させ、暗色の紋様が全身を覆うように広がる。

魂網が引き裂かれ、不吉な音を立てた。

「誰だ、邪魔をするのは!!」

その怒号が林に響いた、その瞬間――

林の奥から、足音がした。

軽いものではない。

重く、確実な足取り。

一歩。

また一歩。

ほとんど聞こえないが、皮膚が粟立つような低い唸りが混じる。

喉の奥に押し殺された、魔犬の咆哮のような音。

いつの間にか、空は暗くなっていた。

だがその林は、暗紅色の光に、ゆっくりと照らされ始める。

火でも、夕陽でもない。

純粋に凝縮された――殺意。

辛夷の呼吸が、一瞬止まった。

百足の動きも、凍りつく。

二人は同時に理解した。

――あれは、百足に向けられたものだ。

足音が止まる。

暗紅の光の中から、一つの影が林を抜けて現れた。

全身を覆う重厚な鎧。

その紋様は生き物のように、緩やかに脈打っている。

七殺。

合神を終えた、七殺の鎧。

彼はそこに立ち、何も語らない。

だが、空気はもはや元の世界のものではなかった。

林は完全に静まり返る。

風が止んだのではない。

――風が、吹くことを許されなかった。

暗紅色の光が、樹影の奥からじわじわと広がっていく。

落ち葉も、草の茎も、樹皮の細かな筋さえも、その光の中で異様なほど鮮明に浮かび上がる。

まるで、すべてが迫り来る死を直視させられているかのように。

百足は、魂網の残した冷気の中で、初めて不安を覚えた。

相手が強いからではない。

――その殺意が、あまりにも“澄み切って”いたからだ。

怒りも、狂気も、誇示もない。

ただ「斬る」ためだけに存在する器。

「……貴様、何者だ」

百足は低く問いかけた。

自分でも気づかぬほど、声は抑えられていた。

七殺は答えない。

暗紅の鎧がわずかに脈打ち、七殺魄が肩、背、腕甲を巡って流れる。

呼吸するかのような律動が、魂を凍えさせる重みを伴っていた。

百足の視線が、その鎧をなぞり、瞳孔が跳ねる。

「七殺……?」

その名は、歯の隙間から絞り出されるように零れた。

夜叉族の聖物。

七邪鎧の一つ――七殺。

その真の合神形態が、目の前にある。

「……冗談じゃねぇ」

百足は歯を食いしばり、胸に芽生えた躊躇を無理やり押し潰す。

「行け!」

命令が発せられた瞬間、魔物が動いた。

巨大な蜈蚣が身を持ち上げ、口器を開く。

高圧で噴射された毒液が、空気を腐食させ、歪んだ軌跡を描く。

七殺は腕を上げた。

七殺魄が一瞬で形を変える。

暗紅の光が折り重なり、凝縮され――

重厚な盾となって、彼の前に現れる。

「ジュッ――」

毒液が盾にぶつかり、耳障りな腐食音を立てるが、ひび一つ入らない。

百足の表情が、完全に歪んだ。

七殺は止まらない。

盾の縁が歪み、引き伸ばされ、七殺魄は彼の意思に従って再構築される。

次の瞬間――

薙刀。

長柄は重く、刃は低く垂れた。

七殺が一歩踏み出す。

地面が、鈍い音を立てて砕ける。

蜈蚣が嘶き、土砂と砕石を巻き上げながら突進する。

七殺は薙刀を振るった。

斬撃ではない。

――押し潰す。

刃の背が叩きつけられ、蜈蚣の頭部を地面へと縫い留めた。

「ドンッ!!」

衝撃が拡散し、地面が陥没する。

蜈蚣はもがくが、起き上がることすら許されない。

七殺は、余計な動きを一切しなかった。

刃が光る。

暗紅の線が、蜈蚣の身体をなぞる。

一太刀。

二太刀。

三太刀。

巨体は整然と解体され、断片となって散らばった。

悲鳴すら、まともに上がらない。

百足の呼吸が、詰まる。

――消えた。

彼が長い年月を費やして育てた魔物は、跡形もなく消えた。

怒りが、体内で爆発する。

「うおおおおお――!!」

百足は完全に魔人化した。

暗色の紋様が全身を覆い、筋肉が膨張し、殺意と毒性が狂乱の嵐となって噴き上がる。

地面を砕き、正面から七殺へ突進。

これが、彼の得意とする間合い。

肉体。

力。

速度。

「死ねぇ!!」

七殺は退かない。

薙刀が再び形を変える。

七殺魄が流動し、折り重なり、一本の細長い剣となる。

剣先が、静かに下がる。

次の瞬間――

彼は消えた。

加速ではない。

“切り取られた”。

百足の視界が残像を捉えた、その刹那――

胸に、冷たい貫通感が走る。

「――!!」

七殺は、彼の背後に立っていた。

長剣は、すでに収められている。

百足の胸元から、暗い血が、ゆっくりと滲み出した。

奥義・魔破直衝。

純粋。

直線。

抗う余地なし。

百足はよろめき、魔人化の紋様が制御不能に崩れ始める。

「……くそ……」

歯を食いしばり、辛うじて体勢を保つ。

このまま戦えば――

死ぬ。

その判断は、異様なほど明確だった。

百足は跳び退き、爆散する魔気を利用して距離を取る。

その身は、林外の影へと落ちた。

「……この借りは、必ず返す」

怨毒を孕んだ声。

言い終わる前に、気配は急速に遠ざかる。

七殺は、追わなかった。

暗紅の光が、ゆっくりと薄れていく。

鎧の紋様は静まり、七殺魄は収束した。

殺意が、退く。

――

その時、辛夷の意識は、ついに限界を迎えた。

張り詰めていた神経が解け、視界が白く滲む。

ぼんやりと、七殺がそこに立っているのが見える。

熱の残る兵器のような姿。

やがて――

その姿が崩れ始める。

暗紅の鎧が、影のように霧散し。

そして――

見えた。

彼女の前に立っていたのは、阿虫だった。

顔色は青白く、呼吸は乱れ、額には冷や汗。

それでも、必死に立っている。

辛夷はかろうじて目を開き、冷笑した。

「……何見てんの」

阿虫は、思わず苦笑する。

「死んでないか、確認しに戻ったんだよ」

「お前が死んだら、俺の毒どうすんだ」

辛夷は罵ろうとしたが、力が出ず、顔を背けた。

阿虫は彼女の視線に気づき、自分の胸元を見る。

布の下で、暗紅の光が、かすかに瞬いていた。

彼は反射的に手で覆う。

「変なこと考えるな」

「何も取ってねぇ」

辛夷は追及しなかった。

ただ、心の中で冷笑する。

――やっぱり。

彼女は一度目を閉じ、再び開いた。

「……腹減った」

唐突な一言。

阿虫は固まる。

「は?」

次の瞬間、間の悪い音が、辛夷の腹から鳴った。

空気が、一瞬凍る。

阿虫は吹き出し、すぐに顔を引き締めた。

「この状況で、飯かよ」

辛夷は冷たく睨む。

「黙れ」

「背負え」

阿虫は目を剥く。

「俺を何だと思ってんだ」

辛夷は目を細めた。

「向導」

阿虫は悪態をつきながら、結局背を向けてしゃがみ込む。

「今回だけだぞ」

辛夷が背に手を回す。

その重みがかかった瞬間、阿虫は小さく呻いたが、踏ん張った。

二人は口論しながら林を抜け、泰城へと歩き出す。

夕陽の残光が、長い影を地面に引き伸ばしていた。

誰も振り返らない。

だが二人とも、理解していた。

――今日から、何かが確実に動き出した。

そして七殺は、

その最初の反響に過ぎない。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。