「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
記憶の中で、あの日の西王府は、薄く差し込む冬の日差しに包まれていた。
刺すようでもなく、凍えるほどでもない。
寒さは確かにそこにあったが、柔らかな光がそれを庭の外へと隔てていた。
中庭の石畳は清らかで静かだった。
本来なら冬に眠るはずの数株の花木が、風の中でどこか場違いな生気を帯びている。
枝葉はわずかに伸び、何かを聞いたかのように、あるいは何かを待っているかのように揺れていた。
玉蓮(ギョクレン)は廊下の下に立ち、両手を行儀よく前に垂らしていた。
その視線は、庭の中央に向けられている。
そこには、菫(すみれ)お嬢様が石の腰掛に座っていた。
背筋を伸ばし、両手で一本の竹笛を大切そうに抱えている。
笛は決して高価なものではない。
だが、丁寧に磨かれており、笛孔の縁に落ちる陽光が、柔らかな光の輪を映し出していた。
菫は西王の娘。
今年で十一。玉蓮より四つ年下だ。
けれど、不思議なことに――
彼女が笛を吹くとき、その静けさは年齢というものを忘れさせた。
「……もう一度、いきましょう」
菫は静かにそう言った。
声は高くない。だが、自然と人を従わせる確かさがあり、聞いた者は思わず頷いてしまう。
向かい側で、芙蓉(ふよう)が小さく頷いた。
彼女は古い琴を胸に抱え、指を弦に置き、手首を軽くほぐす。
指先に触れた弦が、短い試し音を立てて震えた。
「はい」
芙蓉はそう答えた。
玉蓮は、その様子を静かに見守っていた。
玉蓮も芙蓉も、西王府の“糟糠(そうこう)”——生涯を通して主と運命を共にする侍女である。
だが、立場は異なる。
玉蓮は、菫様の糟糠。
芙蓉は、天(てん)様の糟糠。
それは、単なる身の回りの世話係ではない。
生涯を通して、主と同じ運命の線に結ばれる存在だ。
幼い頃から、彼女たちはそれを理解していた。
笛の音が立ち上がる。
最初はとても軽く、
冬の始まりに、まだ足場を探している一陣の風のようだった。
音色は鋭くはない。
だが、澄み切っている。
一音一音が、空気の上をゆっくりと広がっていく。
笛は急いで高みに登ろうとはしなかった。
人の心が自然と落ち着く、その場所に、静かに留まり続けていた。
玉蓮は、音楽の理を知らない。
調子の違いも、技巧の巧拙も分からない。
それでも――
彼女には分かった。
その笛の音には、温もりがあった。
熱ではない。
春が、遠くでそっと歩き出そうとしているような、そんな気配。
やがて、芙蓉の琴が重なる。
琴と笛は競うことなく、互いに譲り合うように絡み合った。
琴の音が笛を支え、その柔らかな旋律に、さらに安定を与えていく。
その瞬間、玉蓮は庭の隅にある花枝が、わずかに揺れたのに気づいた。
風によるものではない。
何かに呼び覚まされたかのようだった。
本来なら硬く閉ざされているはずの枝が、笛の音に応えるようにほどけていく。
冬の庭には不釣り合いな、淡い緑の芽が、確かに生まれていた。
玉蓮は、はっと息を呑んだ。
思わず周囲を見回す。
庭には、彼女と芙蓉、そして演奏する菫お嬢様しかいない。
「……気のせい、よね」
心の中で、そう呟く。
深く考えてはいけない。
西王府では、多くのことが“考えてはならないもの”だった。
やがて、笛の音は静かに収束していく。
最後の一音が消えたとき、庭は息を止めたかのように静まり返った。
菫は笛を下ろし、そっと息を吐く。
「今日は……昨日より、ずっと良かったわ」
そう言った。
芙蓉は微笑んだ。
軽やかだが、媚びのない笑み。
「お嬢様の笛は、日に日に上達しています。
もう少しすれば、教坊の楽師たちも顔向けできなくなりますよ」
菫は首を振った。
「でも、父上にはまだ遠いわ。
音は安定してきたけれど……心が、まだ静まりきらない」
玉蓮は口を挟まなかった。
笛を丁寧に整える菫の姿を見つめながら、ふと気づく。
――このお嬢様は、まだ幼いのに、すでに“独りで在る”ことを知っている。
それは、人を安心させ、同時に、どこか不安にさせる気質だった。
やがて、稽古は終わり、時刻も頃合いとなる。
玉蓮は空を見上げ、胸の内で時辰を計った。
「……芙蓉」
静かに声をかける。
芙蓉が顔を上げた。
「どうしました?」
「そろそろ、天様にお茶をお持ちする時間です」
そう言われ、芙蓉は一瞬ためらうような表情を見せた。
「……そう、ですね」
彼女は思わず菫を見てから、庭の外へと視線を向ける。
玉蓮は、その様子を見逃さなかった。
一歩前に出て、廊下に置かれていた茶盆を手に取る。
「今日は、私が行きます」
芙蓉は目を見開いた。
「でも、それは私の――」
「明日は、月に一度のお休みでしょう」
玉蓮は穏やかに、だがはっきりと遮った。
「今日は早めに上がって、準備をなさい」
芙蓉の目が、さらに大きくなる。
「……本当に、いいんですか?」
「ええ。
龍隠村(りゅういんむら)は近いとはいえ、往復すれば半日はかかります。
妹たちに会いに行くのでしょう?」
“妹”という言葉に、芙蓉の表情が一瞬、明るくなった。
深く隠してきた想いが、思わず滲み出たようだった。
「……はい。
二妹の星辰(せいしん)が、手紙で言っていました。
三妹の金釵(きんさい)が、新しい曲を覚えたって。
どうしても、私に聴かせたいみたいで」
そう言って、少し照れたように笑う。
「それなら、ついでにお願い」
玉蓮は少し考えてから言った。
「私の妹たち――白蓮(ハクレン)と華蓮(ファーレン)にも、刺繍を選んできてほしいの」
芙蓉は一瞬きょとんとし、それから心からの笑みを浮かべた。
「はい、喜んで」
少し間を置き、声を潜める。
「……お嬢様のほうは?」
「菫様なら、きっと」
玉蓮の言葉どおりだった。
事情を簡単に伝えると、菫は芙蓉を一瞥し、すぐに頷いた。
「行ってきなさい。道中、気をつけて」
その瞬間、芙蓉は思わず目頭が熱くなった。
西王府で、このような“許し”は、決して当たり前ではない。
「若様は、私がいないと拗ねるかもしれません。
どうか、少し気にかけてあげてください。
村で何か美味しい菓子があれば、聞いておきます」
去り際に、芙蓉はそう言い残した。
「任せて。大丈夫よ」
玉蓮は、院を出ていく芙蓉の背を見送った。
その背中を見つめながら、ふと理解する。
――この穏やかさも、この温もりも、永遠ではない。
冬の庭で、笛に呼び覚まされた花のように。
優しく咲くほど、その終わりは、静かなのだ。
玉蓮は茶盆を抱え、書房へと向かった。
長い廊下に、足音が静かに響く。
その時の玉蓮は、まだ知らなかった。
この記憶が、
やがて幾度も、幾度も思い返されることになるということを。
――もう二度と戻ることのできない、
「かつて」として。
庭から書房へ向かうには、二つの長い廊下を通らねばならない。
西王府の廊は長く、あまりにも長い。
まるで、人の心までも縛りつける一本の縄のようだった。
玉蓮は茶盆を抱え、歩を進める。
速すぎず、遅すぎず。
一歩一歩が規矩の内に収まっている。
その途中、遠くから読書の声が聞こえてきた。
幼さは感じさせないが、少年特有の切迫した響きがある。
書に記された一字一句を呑み込み、
そのまま世界ごと呑み込もうとするような声だった。
書房の外には、二人の護衛が立っている。
玉蓮の姿を認めると、彼らはただ軽く頷いた。
制止はない。
玉蓮も視線を上げることなく、
ただ茶盆をより安定させ、
決められた位置で静かに立ち止まった。
そして――
中から聞こえてくる声が、はっきりと耳に届いた。
「……天児、もう一度聞く。
百鳳帝国(ひゃくほうていこく)の四大家族とは、どの四家だ?」
西王の声だった。
厳格だが、冷たくはない。
一語一語が、よく研がれた刀の背のようだ。
切れはしないが、確かな重みがある。
すぐに、天様の声が続く。
わずかな反発と、負けん気を含んだ調子。
「北部の夏侯(カコウ)家。
南部の南宮(ナンキュウ)家。
東部の慕容(ボヨウ)家。
そして、西部の――私たち司馬家です」
西王は頷き、問いを重ねる。
「では、四大家族の由来は?」
天様は一瞬考え、答えた。
「四大家族の始祖は、霊帝(レイテイ)に仕えた四大将軍。
神魔との戦において霊帝を補佐し、魔族を退け、天下統一に功を立てました。
その後、霊帝より東西南北を治める四王として封じられました」
現西王・司馬登(シバ・のぼる)は、
自らの後継者に、帝国と四大家族の歴史を直接教えている。
それは、王たる者が必ず身につけねばならぬ基礎だった。
「では、霊帝が堕ちた理由は?」
「史書によれば――
天下を統一した霊帝は、四邪神の一柱・熬殇に惑わされ、
民に対し暴政を敷いたとされています。
その後、慕容家が他の三家とともに霊帝を討ち、
東皇として立ち、現在の百鳳帝国を建国しました」
「――では、天児」
西王は書を置いた。
視線は穏やかだが、逃げを許さぬ重さを帯びている。
「百鳳帝国は、なぜ『百鳳』と名付けられたのだ?」
天児は背筋をわずかに伸ばし、
一瞬思考してから、真剣な声で答えた。
「鳳は、伝説に語られる霊獣です」
「死しても滅びず、涅槃して蘇るとされ、
永続と不朽の象徴です」
「百鳳の名は、慕容家の守護象徴であると同時に、
帝国が天下に示す誓い――
百鳳帝国は、永く滅びず、栄光を失わぬ、という意味を持ちます」
西王は、静かに頷いた。
「よい」
「では、百鳳帝国は、いかなる形で天下を治めている?」
天様はほとんど迷わなかった。
「四大家族が、それぞれ一方の領域を統治します」
「霊帝の時代より独立した治権を持ち、
各家の王が自族と封地を治めます」
「東皇陛下を除き、
他家が勝手に他領の内政に干渉することは許されていません」
「よろしい」
西王の声には、わずかな満足が滲んだが、
緊張は解かれない。
「続けよ」
「上古四邪神とは、何を指す?」
天様は一度息を吸い、
明瞭かつ慎重に言葉を紡いだ。
「怠惰、混乱、疫病を司る――辱浊(ジョクジョク)」
「怒り、凶悪、残忍を象徴する――霄戮(ショウリク)」
「貪欲、欲望、野心を司る――孽馋(ゲツタン)」
「そして、邪悪、背信、蠱惑を司る――熬殇(ゴウショウ)」
一拍置き、さらに付け加える。
「加えて、復讐と苦痛を司る疤蛮(ハバン)、
死と闇を司る孤弧(ココ)、
滅びと憎悪を象徴する魔神――劫(コウ)」
「以上を総じて、上古七魔(じょうこしちま)と呼びます」
書房の中が、静まり返った。
西王はゆっくりと頷く。
「よく答えた」
「では――」
その視線が、わずかに沈む。
「四大家族は、それぞれどの邪神の封印を守護している?」
天児は反射的に答えた。
「司馬家は、熬殇の封印を守っています」
「夏侯家は、霄戮の――」
「天児」
西王の声が、わずかに変わる。
叱責ではない。
だが、聞いた者の背筋を正させる響き。
「違う」
天様は一瞬きょとんとし、
無意識に頭を掻いた。
そして慌てて言い直す。
「すみません、父上」
「夏侯家は、孽馋の封印を守護しています」
「慕容家は霄戮」
「南宮家は辱浊、です」
「……うむ」
今回の頷きは、先ほどよりも緩やかだった。
「よく覚えておけ」
「我が司馬一族は、
熬殇の封印を守るだけではない」
声が、わずかに低くなる。
「もう一つの使命を負っている」
「――帝王秘境(テイオウ・ヒキョウ)だ」
天様は目を見開いた。
「帝王……秘境?」
西王の視線は、書房の奥へと向けられた。
壁を越え、時間を越えるような眼差し。
「それは、百鳳帝国建国の折、
慕容家歴代皇帝が、
我が司馬家に託した最重要の責務だ」
「少しでも誤れば、天下は乱れる」
天様は、思わず問いを重ねた。
「父上……その秘境の中には、
いったい何が……?」
そのとき。
西王は、すぐには答えなかった。
一瞬だけ、
門外に立つ玉蓮の方へ視線を走らせる。
確かめるように。
あるいは、避けるように。
そして、再び天様を見る。
「今のお前に最も必要なのは、学と修行だ」
「帝王秘境の秘密は、
司馬家の王が、代々口伝で継ぐもの」
「お前が西王の位を継ぐその日――」
「その時、父がすべてを教えよう」
一拍置き、付け加える。
「その時には、
お前の姉である菫にもな」
門外の玉蓮は、わずかに息を呑んだ。
一方、天様は明らかに不満そうに頬を膨らませる。
「ええー……またそれですか」
「いつも大事なところで話してくれない」
「ずるいですよ、父上!」
書房の中に、珍しく小さな笑いが漏れた。
室内が、しばし静まる。
玉蓮の胸も、同時に締め付けられる。
彼女には、
「帝国」や「家族」や「封地」の重さは分からない。
だが――
こうした問いが、
この屋敷では決して軽いものではないことだけは、理解していた。
西王は、淡々と語り続ける。
「天児、覚えておけ。
帝国は、自然に立ち上がったものではない」
「『帝国』という二文字は、
掛け声で支えられるものではない」
一息置き、言葉を空気に沈ませる。
「神魔の戦の後、人族はかろうじて生き延びたに過ぎん。
魔族は、決して滅びてはいない。
必ず、再び現れる」
「四大家族とは、
霊帝の時代に残された四本の柱だ」
「帝国は屋。
四大家族は柱。
柱が揺らげば、屋は崩れる」
声は、さらに低くなる。
「四大家族は、同気連枝(ドウキ・レンシ)でなければならぬ。
心を一つにできなければ、帝国は揺らぐ」
「王の最大の責務とは、
その揺らぎを制御することだ」
天様はしばらく沈黙した。
言葉を噛みしめるように。
「……では、王はどうすればいいのですか?」
この「王」という言葉は、
軽くはなかった。
天様が、
避けてきた未来を、ついに口にした響きだった。
西王は、ゆっくりと答える。
「王とは、
柱の間に挟まる衝撃を受け止める者であり、
柱同士を結ぶ“帯”だ」
「揺れに耐え、
どんな震動にも耐えられるよう、
結び目を固く締める存在だ」
門外で、玉蓮の指先が冷たくなる。
この教えは、
書に書かれた文字ではない。
生きた規律。
血を流し、
無数の死を踏み越えてなお回り続ける、
現実の仕組みだった。
天様の声が、再び響く。
先ほどよりも、低く、重い。
「……帯、結ぶ……
まだ、よく分かりません」
「帯とは、人心をつなぐものだ」
西王は言う。
「結ぶとは、
人の心を、同じ方向と願いへ導くこと」
一息置き、さらに続けた。
「覚えておけ。
王とは、決して『最強』の者ではない」
「王とは、
すべての欲、思惑、結果を、
帝国という屋の中に収め、
なお均衡を保てる者だ」
玉蓮は、身の内が痺れるのを感じた。
すべては理解できない。
だが、その一言一言が告げている。
――この屋敷の静けさは、仮初めだ。
本当の流れは、
言葉の裏に、血に、姓に、潜んでいる。
やがて、書房の中からページをめくる音が響く。
冬の空気の中で、紙の擦れる音がやけに鮮明だった。
天様は低く読み上げる。
それは、四大家族歴代の王たちの功績。
名は、冷たい呪の列のように続く。
玉蓮は背筋を強張らせながらも、
耳を澄ませていた。
それらの名は、
伝説のように遠い。
だが、西王の口から語られると、
まるで――本当に存在し、
再び現れるかのようだった。
再び、西王の声。
「これを覚えるのは、誇るためではない」
「覚えるのは、
王が追い詰められた時、
何をなすべきかを知るためだ」
「城壁の上に立つ時、
王座に座る時、
これを忘れれば、
平和を当然と思うようになる」
天様の声は、さらに低くなる。
「……はい、父上。
肝に銘じます」
玉蓮は、扉の外でそっと息を吸った。
言葉にできない感覚が、胸の奥に残っていた。
この天様は――
まだこれほど若いというのに、
多くの人が一生をかけても向き合いたがらないものを、
すでに頭の中へ無理やり押し込まれている。
ふと、芙蓉がいつも口にしていた言葉を思い出す。
――天様は、夜になると悪夢を見る。
――突然飛び起きて、冷や汗をかき、
――誰にも分からない名前を口にする。
玉蓮は、以前はそれを
「子どもが暗がりを怖がっているだけ」だと思っていた。
だが今、
この“四大家族”の歴史を聞いてしまったあとでは、
はっきり分かる。
天様が恐れているのは、闇ではない。
彼が恐れているのは――未来だ。
読書の声が止んだ。
西王が、天様に一息入れるよう促したのだろう。
玉蓮は、そのタイミングで、軽く扉を叩いた。
「入れ」
西王の声は、簡潔で力があった。
玉蓮は扉を開け、まず礼をし、
それから茶盆を抱えて机へ進む。
書房には炭火が焚かれていたが、暑くはない。
壁には数幅の書画が掛けられ、
机の上には書巻が積まれている。
墨と紙の匂いが混じり合い、
目に見えぬ圧迫感となって漂っていた。
天様は机に向かって座り、
まだ書を手にしている。
その眉間には、かすかな苛立ちが宿っていた。
――天様の身には、重すぎるものを、
ついさきほど呑み込まされた顔だった。
玉蓮は、音を立てぬよう茶を置いた。
天様が顔を上げ、最初に口にした言葉は――
「……どうして、君なんだ?」
玉蓮は一瞬だけ息を詰め、
すぐに視線を伏せて答えた。
「天様、芙蓉は明日が休みでございます。
本日は、わたくしが代わりにお茶をお持ちいたしました。
龍隠村へ帰り、ご家族に会う支度をするためです」
天様の指が、きゅっと強ばった。
その瞬間、
感情が爆発したわけではない。
だが、喉元に石を詰め込まれたような沈黙があった。
「……行っちゃうのか」
「休暇ですので、
明晩か、遅くとも明後日には戻ります」
玉蓮はそう補足した。
だが、その説明で、
天様の胸が軽くなることはなかった。
彼は西王を見た。
否定してほしい。
あるいは、
「そこまでせずともよい」と言ってほしい。
だが西王は、筆を置き、
ただ天様に視線を向けるだけだった。
その目は厳しくはない。
だが、天様は反射的に背筋を伸ばした。
「人には、休む時が必要だ」
西王は言う。
「芙蓉は、お前の所有物ではない」
天様の唇がわずかに動いた。
反論したい気持ちはあった。
だが、言葉にならなかった。
彼は俯き、
書頁の縁を指先でなぞりながら、
くぐもった声で言った。
「……分かっています」
西王は、それ以上追及しなかった。
代わりに、
あの“厳しく、しかし温かな”口調で、
一つの教えを授ける。
「お前が王となるなら、
最初に学ぶべきは剣ではない」
「策でもない」
「人心だ」
「疲れとは何か、
執着とは何か、
そして――
『離れることは、裏切りではない』ということを、
理解せねばならぬ」
天様の肩が、わずかに強ばった。
玉蓮は、はっきりとそれを見ていた。
天様の依存は、あまりに重い。
芙蓉の休暇という小事ですら、
心を大きく揺らしてしまうほどに。
だがその依存も、理由なきものではない。
この屋敷で、
彼が“子どもでいられる”場所は、
おそらく芙蓉の前だけなのだ。
西王は玉蓮に視線を向けた。
「玉蓮」
「この二日、芙蓉の役目を代行せよ。
天児に必要があれば、できる限り支えてやれ」
玉蓮は即座に礼をする。
「かしこまりました」
顔を上げたとき、
彼女は天少爺の眼底にある
かすかな不安を見た。
声をかけたかった。
だが、何と言えばよいか分からなかった。
そのとき――
ふと視線が、壁へと流れた。
そして、止まる。
書房の左側に、一幅の肖像画が掛けられていた。
横向きに立つ一人の女性。
衣は風を孕み、
黒髪は流れるように描かれている。
その眼差しには、光がある。
だが同時に、
言葉にできぬ哀しみも宿っていた。
笑っているようで、
泣いているようでもある。
玉蓮の呼吸が、
一瞬、止まった。
――初めて見る絵ではない。
それでも、
見るたびに“初めて”のように感じる。
なぜなら、
そこに描かれた美しさは、
人の世に属するものではないからだ。
歌が形を得たような、
あるいは、
ひとつの時代そのものの夢。
――司馬葵(シバ・あおい)。
西王の妹。
すでにこの世にいない、
絶代の歌姫。
玉蓮は、しばし我を忘れた。
茶盆も、規矩も、
視線を伏せるべき身分も忘れ、
ただ、その絵に引き寄せられていた。
そのとき――
西王の声が、先ほどよりも静かに響いた。
「玉蓮、茶を」
玉蓮は、はっとして我に返り、
胸が強く締めつけられる。
すぐに視線を落とし、
天様の茶を注いだ。
「……失礼いたしました」
西王は、叱責しなかった。
ただ彼もまた、
その肖像へと目を向ける。
その眼底をよぎったのは、
怒りでも、
露骨な追憶でもない。
それは――
すでに喪失に慣れてしまった者の、
静かな沈黙だった。
天様も一度だけ肖像を見たが、
すぐに視線を逸らした。
その重さに触れたくないように。
「……ひと刻、休め」
西王は言った。
「その後、剣の稽古だ」
天様は低く応じる。
玉蓮は空になった茶盆を抱え、
扉の方へ下がった。
書房を出ると、
冬の風が正面から吹きつけてきた。
刺すような冷たさ。
だが、
彼女の胸の内は、それ以上に冷えていた。
なぜなら――
彼女は悟ってしまったからだ。
この府にある温もりも、
笛の音も、
花のほころびも、
すべては仮初め。
この屋敷を本当に支えているのは、
音楽ではない。
血であり、
規矩であり、
そして――
失われた人々なのだ。
玉蓮は茶盆を強く抱きしめ、
歩みを止めなかった。
彼女は戻らねばならない。
菫のもとへ。
笛の音が、
冬に花を咲かせる、
あの小さな世界へ。
たとえ――
その世界が、
いつか必ず砕け散ると知っていても。
灯心が、
「パチッ」と小さく弾けた。
ごく微かな音だった。
だが、ほとんど凝固したかのような静けさの部屋では、
その音がやけに鮮明に響いた。
玉蓮は、はっと目を開けた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
視界に揺れるのは、揺らめく光と影だけ。
水に浸されたようでもあり、
深い底から無理やり引き上げられたようでもある。
反射的に立ち上がろうとしたが、
脚に感覚がない。
身体が前につんのめり、
彼女はとっさに寝台の縁に手を伸ばした。
力を込めた指先が、白くなる。
寝台の上では、
独孤翊翃(ドクゴ・よくこう)が、変わらず横たわっていた。
呼吸は浅い。
だが、確かに続いている。
玉蓮は、彼の胸元をじっと見つめた。
その上下のわずかな動きが途切れていないことを確認してから、
ようやく、ゆっくりと息を吐いた。
その吐息は、
長く溜め込まれていたもののようで、
わずかに震えを含んでいた。
そのとき、彼女は気づく。
――眠っていたのだ。
「うたた寝」などではない。
意識を完全に失うほどの眠りだった。
額に手を当てると、
掌はひどく冷えている。
それに対して、背中の衣は湿り気を帯びていた。
肩も首も、内側からねじられたかのように強張り、
首を回すだけで、動きが鈍る。
玉蓮は、寝台の縁に置いた自分の手を見下ろした。
指の関節は赤く、
爪の隙間には、薬の跡が残っている。
何度、薬を替えただろう。
何度、汗を拭っただろう。
もはや数えることすらできない。
ここでは、時間が意味を失っていた。
ただ、同じ動作を、何度も何度も繰り返すだけ。
そのとき――
蝶番が、かすかに鳴った。
玉蓮は、条件反射のように顔を上げた。
扉のところに、阿橙(あだい)が立っていた。
すぐには中へ入らず、
まず寝台へ視線を落とし、
それから、ゆっくりと玉蓮へ目を向ける。
鋭い視線ではない。
だが、その一瞥に、
玉蓮は思わず背筋を正した。
「……お嬢様」
玉蓮が口を開く。
声は、少しかすれていた。
阿橙は答えず、
中へ入ってきて、静かに扉を閉めた。
外の音が遮られ、
部屋には、蝋燭の微かな燃焼音と、
独孤翊翃の、ほとんど聞こえぬ呼吸だけが残る。
阿橙は寝台の傍に立ち、
しばらく彼を見下ろした。
「具合は?」
短く、そう問う。
「悪化はしていません」
玉蓮は即答した。
まるで、この返答を何度も心の中で用意していたかのように。
「呼吸も、脈も、先ほどまでと変わりありません」
阿橙は頷き、
独孤翊翃の脈を取った。
その動作は慣れたもので、
迷いがない。
しばらくして、手を引く。
「……いつから守っている?」
ふいに、そう尋ねた。
玉蓮は、言葉に詰まった。
その問いに対する答えを、
彼女は用意していなかった。
「少しだけです」と言おうとして、
その三文字が喉の奥で止まる。
阿橙が、彼女を見た。
「正直に」
玉蓮は、視線を落とした。
「……分かりません」
それは、嘘ではなかった。
ある時点から、
昼と夜の境が失われた。
灯りが消え、また灯り、
薬を替え、水を運び、捨てる。
その繰り返しだけが残っている。
阿橙は、それ以上追及しなかった。
ただ、横から椅子を引き寄せ、
寝台のそばに腰を下ろす。
「私が代わる」
そう言った。
玉蓮は、すぐに首を振る。
「いえ、まだ……」
「聞いていない」
阿橙が遮る。
声は強くない。
だが、退路はなかった。
「今のあなたが外に出たら、
階段すらまともに降りられない」
玉蓮は、言葉を失った。
反論しようとして、
その力すら残っていないことに気づく。
その瞬間、
はっきりと理解した。
――自分は“踏ん張っている”のではない。
――すでに、使い果たされている。
「でも……店の方が……」
それでも、低く言った。
「この数日、何も手伝えていません」
阿橙は、横目で彼女を見る。
その視線は静かだったが、
玉蓮の胸に、言いようのない羞恥を呼び起こす。
「一笑楼は、あなた一人欠けたくらいで潰れる?」
阿橙は問う。
玉蓮は唇を噛んだ。
「……ただ……」
「いないのは、怠慢だと思っている」
阿橙が言葉を継ぐ。
「違う?」
玉蓮は答えなかった。
沈黙が、答えだった。
阿橙は立ち上がり、
玉蓮の前に立つ。
目線を合わせる。
「覚えておきなさい」
「あなたは、消耗されるためにいるんじゃない」
玉蓮の指先が、わずかに震えた。
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、
身構える暇すら与えなかった。
「彼には、世話が必要」
阿橙は続ける。
「でも、それであなたまで一緒に倒れる理由はない」
一拍、間を置く。
「あなたが倒れたら、
彼が目を覚ましたとき、
最初に見るのは――空の寝台よ」
玉蓮の呼吸が、乱れた。
「倒れない」と言いたかった。
だが、その言葉は、
自分自身すら納得させられない。
阿橙は寝台に戻り、腰を下ろす。
「何か食べて」
「それから、眠りなさい」
「ここは、私が見る」
玉蓮は、すぐには動かなかった。
寝台の独孤翊翃を見、
それから阿橙を見る。
「……ありがとうございます、お嬢様」
その声には、
隠しきれぬ疲労が滲んでいた。
阿橙は、その礼に応えなかった。
ただ、手を軽く振り、
行くよう促した。
玉蓮は扉へ向かう。
扉に手を掛けたところで、
一瞬、止まった。
振り返らなかった。
――もう一度見たら、
きっと、出て行けなくなるから。
扉が、静かに閉じる。
室内は、再び静寂に包まれた。
阿橙は寝台の傍で、
独孤翊翃の被角を整える。
その眼差しは、静かだった。
一方、廊下では、
玉蓮が壁に寄りかかり、
しばらく動けずにいた。
やがて、ゆっくりと歩き出す。
一歩一歩が、
何かを、自分の身から
無理やり剥ぎ取るようだった。
――
一笑楼には、まだ酒の匂いが残っていた。
賑わいの余韻ではない。
夜にかき回された、
木と古酒の混じる、重たい匂い。
卓や椅子は整えられ、
器も片付けられている。
だが、空気には、
言葉にできぬ沈鬱さが漂っていた。
阿虫は、奥の席で柱にもたれて座っていた。
杯はとっくに置かれている。
だが、誰もそれに触れない。
「……だいたい、そんなところだ」
彼の声は平坦だった。
まるで、自分とはもう関係のない昔話を
整理しているかのように。
だが、卓を囲む者たちは、すぐには応じなかった。
剣蘭は眉を寄せ、
無意識に卓を指で叩いている。
一度、また一度。
菖蒲は、座っていなかった。
彼女は立ったまま、
阿虫ではなく、
店内全体に視線を巡らせていた。
梁、柱、卓の脚、
そして――帳場の縁。
やがて、彼女は足を止める。
「……ここ」
菖蒲は帳場の脇にしゃがみ込んだ。
床は拭かれている。
だが、木目の間には、
不自然な凹みが残っていた。
割れではない。
何か重いものが、
何度も叩きつけられたような痕。
彼女が指で触れる。
指先に、わずかな沈みが伝わる。
「日常の摩耗じゃない」
剣蘭も歩み寄り、一目で表情を曇らせた。
「……戦闘の痕ね」
彼女は顔を上げ、阿虫を見る。
「しかも、一度きりじゃない」
阿虫の視線が、
その凹みに落ちた。
すぐには口を開かなかった。
その瞬間、
押し潰していた記憶の奥から、
何かが無理やり引きずり出される。
「……よく見てるな」
彼は低く言った。
菖蒲は立ち上がり、
掌の木屑を払う。
「つまり、さっきの話――
続きがあるんでしょ?」
阿虫は彼女を見る。
「後は、面倒だ。
大体、そんなもんだろ」
剣蘭は何も言わず、
ただ待った。
その沈黙は、
問い詰めるよりも重い。
阿虫は、結局、溜息をついた。
菖蒲に、この程度の誤魔化しが通じないことは、
分かっている。
彼は手を伸ばし、
脇に置いてあった杯を、少し遠ざけた。
「……続けるか」
菖蒲が、低く言う。
阿虫は目を開き、
二人を見る。
「分かったよ。
じゃあ、続きだ」
「――俺が、あいつを背負って城に入れた、その後だ」
あの時は、もう完全に夜だった。
夕暮れの名残がまだ温度を残しているような暗さではない。
夜が、本当に降りてきた後の闇だ。
城門の火盆に火が入れられ、
風に煽られた炎が細長い影を引き伸ばす。
城壁に映るその影は、
歪んだ骨が並んでいるようにも見えた。
阿虫は、辛夷を背負い、
入城用の石畳を進んでいた。
彼女は、静かだった。
異様なほどに。
昏睡しているときの、
意識が完全に途切れた静けさではない。
――目は覚めている。
だが、呼吸さえ極限まで抑え込んでいる、
そんな静けさだ。
阿虫は、彼女の重さを感じていた。
身体の重量ではない。
背中に貼り付くような“存在感”だ。
辛夷の手は、
彼の肩に軽く掛かっているだけで、
力はほとんど入っていない。
まるで、いつでも離れてしまいそうだった。
「……もうすぐだ」
阿虫は低く言った。
慰めではない。
確認に近い。
辛夷は応えなかった。
だが、彼の肩口で、
呼吸がかすかに動いた。
――それで十分だった。
城門前では、巡回隊がちょうど交代していた。
鉄靴が石地を踏む音が、
一歩ごとに響く。
やけに耳障りだ。
阿虫は、無意識に歩調を落とした。
そのとき、
火光の中から、一つの影が前に出た。
欧陽枭(オウヨウ・きょう)。
夜巡りの外套を羽織り、
腰の武器が炎を反射して冷たく光っている。
飾りではない。
実際に使われ続けてきた刃で、
縁には細かな摩耗が刻まれていた。
彼の視線は、まず阿虫の顔に落ちた。
そして、止まる。
視線が下がり、
阿虫の背中へ。
欧陽枭の歩みは、完全には止まらなかった。
ただ、ほんのわずかに遅くなる。
その一瞬で、
彼は「違和感」を嗅ぎ取っていた。
血の匂いではない。
もっと微妙なもの。
何かに無理やり押さえ込まれているのに、
それでも隙間から滲み出てくる気配。
「……こんな時間に?
城外で何をしていた」
口調は平坦だった。
巡回としての、形式的な問い。
阿虫は顔を上げる。
「少し、戻りが遅くなった」
短い返答。
欧陽枭の視線は、動かない。
「背負っているのは?」
「道で会った」
阿虫は即答した。
「怪我人だ」
欧陽枭は、すぐには追及しなかった。
一歩、距離を詰める。
火光が、
辛夷の横顔を照らした。
その瞬間、
欧陽枭の眉間が、ほんのわずかに動く。
――人ではない。
その判断は、ほとんど反射だった。
さらに近づけば、
次の瞬間には噛みつかれてもおかしくない。
それほどの警戒心を、
彼は感じ取っていた。
だが、彼女は耐えている。
おそらく――阿虫の存在ゆえに。
必死に、押さえ込んでいる。
欧陽枭は、再び阿虫を見る。
「最近、城内は取り締まりが厳しい」
「外から来た者は、全て登録が必要だ」
阿虫は頷いた。
「分かってる」
感情はない。
最初から、この場面を想定していたかのような言い方だった。
欧陽枭は、半拍、沈黙した。
その間に、彼が量っていたのは
「捕らえるか否か」ではない。
――どこまで踏み込むか。
ここで一歩踏み出せば、
それは「巡回」ではなく、「介入」になる。
やがて、彼はマントを解いた。
動作は素早いが、不自然ではない。
外套を、阿虫の前に差し出す。
「……先に、これを」
阿虫は一瞬、目を見開いた。
その間に、
欧陽枭は身体をずらし、
後方の巡回兵の視線を遮っていた。
「裏道を使え」
声を低くする。
「大通りをうろつくな」
「……枭(フクロウ)?」
阿虫が、思わず呼んだ。
欧陽枭は、振り返らない。
「後で、登録は必ず済ませろ」
「名簿に、“素性不明”が残るのは嫌だ」
その言い方は、
さきほどよりも低かった。
警告ではない。
――最後に示された、線引きだった。
阿虫はマントを受け取る。
指が布地に触れたとき、
そこに、かすかな体温が残っていることに気づいた。
「最近は、物騒だ」
欧陽枭は最後に言った。
「用心しろ」
声は軽い。
だが、それは忠告ではない。
――確認だ。
言い終えると、
彼はすでに背を向け、巡回隊と共に歩き出していた。
鉄靴の音が再び響き、
やがて夜に溶けて消える。
阿虫は、すぐには動かなかった。
マントを広げ、
辛夷の身体を包む。
布が落ちた瞬間、
彼女の呼吸が、明らかに乱れた。
「……その格好じゃ、城では目立つ」
「少し、我慢しろ」
辛夷が、口を開いた。
声は、風にさらえば消えてしまいそうなほど小さい。
「……怖くないの?」
阿虫は、再び歩き出す。
「怖いさ」
「だから、目的地まで静かにしとけ。
面倒は起こすな」
辛夷は、それ以上何も言わなかった。
マントの下で、
彼女の指が、静かに握り締められる。
城門が、背後で閉じた。
鈍い音が、
彼らをひとまず城内に隔てる。
阿虫は振り返らない。
欧陽枭に示された方向へ曲がり、
暗い小道を抜けて、一笑楼へ向かった。
灯りは、背後に置き去りにされる。
一笑楼の裏口は、
いつも正面より静かだ。
迎客の笑い声もなく、
酒の最も濃い喧騒もない。
残っているのは、
消えきらない竈火の温もり、
捨てきれなかった洗い水の湿った匂い、
そして、
年を経て軋む木戸の音だけ。
阿虫が扉を押し開けたとき、
肩に、わずかな重みが増した。
――辛夷が重くなったわけじゃない。
中に、灯りがあった。
街灯のような明るさでもなく、
酒楼の前堂の賑やかな光でもない。
油紙で覆われた、
抑えられた柔らかな灯。
一枚の顔、
一つの卓、
ひとつの呼吸だけを照らすための光。
最初に気づいたのは、玉蓮だった。
裏厨房から出てきたところで、
手には温水の入った桶を持っていた。
本来は、二階へ運ぶつもりだったのだろう。
入口で、足が止まる。
彼女はすぐには言葉を発しなかった。
ただ、阿虫を見て、
その背の人影を見る。
その視線は、細かかった。
詮索でも、疑念でもない。
――長く人を看てきた者が、
本能で判断する視線。
「……阿虫?」
彼女は、低く呼んだ。
「途中で会った」
阿虫が言う。
「かなり、やられてる」
玉蓮は頷いた。
「どうして会ったのか」
「何者なのか」
そうした問いは、ひとつも口にしない。
彼女は桶を置き、
二歩、近づいた。
近づいた瞬間、
彼女は匂いを嗅ぎ取った。
血ではない。
人界とは、どこか噛み合わない、
極めて淡い匂い。
薬のようでもあり、
花のようでもある。
玉蓮の手が、一瞬止まる。
だが、何も言わない。
「先に下ろして」
「ずっと背負ってるものじゃない」
阿虫はしゃがみ込む。
辛夷の足が地についた瞬間、
膝が崩れた。
玉蓮は、反射的に動いた。
辛夷の腕を、しっかりと支える。
その一瞬、
辛夷の身体が、はっきりと強張った。
拒絶ではない。
――長い間、
こうして受け止められたことがない者の反応。
「大丈夫」
玉蓮は低く言う。
「ゆっくりでいい」
辛夷は応えなかった。
彼女の視線が、室内を巡る。
梁、卓、椅子、
年季の入った屏風、
壁に掛かる酒幟。
そして、
前堂から微かに届く、
抑えられた笑い声。
それらすべてが、
彼女には、現実味のないものだった。
牢でもない。
罠でもない。
――魔界でもない。
「……中へ」
阿虫が言う。
「入口に立つな」
そのとき、辛夷は気づいた。
自分が風の通り道に立っていたことに。
小さく頷き、
玉蓮に支えられて歩き出す。
玉蓮の手は、安定していた。
過剰に気を遣う安定ではない。
人を長く世話してきた者だけが持つ、
相手に余計な負担をかけない安定。
室内の温もりが、
少しずつ、辛夷を包み込んでいった。
辛夷の呼吸は、
この瞬間になって、ようやく乱れた。
「お嬢様」
玉蓮は、二階に向かって小さく声をかけた。
ほどなくして、階段を下りてくる足音が聞こえた。
急いだ様子ではないが、一定のリズムを持った足取りだった。
阿橙が降りてきた時、
彼女の手にはまだ笛が握られていた。
辛夷が現れなければ、
彼女はすでに店内で演奏を始めていたはずだった。
辛夷を見た瞬間、
阿橙は驚かなかった。
ただ、眉間がわずかに寄った。
それは警戒ではない。
――傷ついた者に対して、あまりにも慣れている者の表情だった。
「……この方は?」
阿橙は阿虫を見て尋ねた。
「俺が連れてきた」
阿虫はそう答えた。
その言葉は、ひどく平坦だった。
阿橙はすぐに追及しなかった。
彼女は二歩ほど近づき、
辛夷の手首、首筋、
外套の下から覗く擦り傷へと視線を走らせた。
「奥へ」
阿橙は言った。
「玉蓮、まず座らせて」
玉蓮はうなずいた。
辛夷が腰を下ろした瞬間、
彼女の身体から、はっきりと緊張が抜けた。
それは肉体のものではなく、
心の方だった。
「まずは、何か食べさせて」
阿橙は振り返って指示した。
「他のことは、聞かなくていい」
やがて、
湯気を立てる肉饅頭が運ばれてきた。
白い蒸気が、室内に広がる。
――その匂いに、
辛夷は動きを止めた。
食べ物を知らないわけではない。
だが、
こんな匂いが存在することを、
彼女は知らなかった。
空腹を満たすためでもなく、
力を回復するためでもない。
ただ――
生きたいと思わせる匂いだった。
「……これは?」
辛夷は低く尋ねた。
「饅頭だ」
阿虫が答えた。
「人が食うものだ」
その一言は、
余計なようでいて、
しかし決定的だった。
辛夷は手を伸ばした。
指先が包子に触れた瞬間、
反射的に引っ込めた。
熱かった。
その熱は、
あまりにも現実的で、
胸の奥をざわつかせた。
「ゆっくりでいい」
玉蓮が言った。
「急がなくていい」
辛夷は一瞬、玉蓮を見た。
短い視線だった。
だが、そこには
言葉にならない感情があった。
彼女は、小さく一口かじった。
次の瞬間、
身体が固まった。
泣かなかった。
声も出さなかった。
ただ、その一口を口に含んだまま、
動けなくなった。
阿虫が視線を外した瞬間、
辛夷は勢いよく俯いた。
一口。
そして、もう一口。
動きは早く、
どこか必死で、
少しみっともないほどだった。
「……おい」
阿虫が低く言った。
「誰も取らねえ」
辛夷は応じなかった。
一つ目を食べ終えた後、
阿虫は無言で二つ目を差し出した。
何も言わなかった。
辛夷は彼を見上げた。
その視線には、
一瞬の戸惑いがあった。
すぐに顔を背けた。
「……もし、近くで」
彼女は低く言った。
「私と似た格好をした女を見かけたら……」
「分かってる」
阿虫が遮った。
「気にしておく」
それ以上、彼女は尋ねなかった。
阿橙は、その様子を黙って見ていた。
何も言わず、
辛夷が半分ほど食べ終えた頃、
笛を持ち上げた。
音が鳴った瞬間、
空気が変わった。
唐突な旋律ではなかった。
まるで、
もともとそこにあった音が、
今ようやく聞こえ始めたかのようだった。
穏やかで、
抑えられていて、
しかし、ゆっくりと染み込んでくる音。
辛夷の動きは、
自然と遅くなった。
肩が、
ほんのわずかに下がった。
それは――
毒もなく、命令もなく、取引もない状態で、
彼女が初めて味わう“安らぎ”だった。
玉蓮は薬を塗り始めた。
その動きは、ほとんど音を立てなかった。
阿橙の笛は止まらなかった。
感情の高まりを避けるように、
ただ一定の速度で寄り添っていた。
その瞬間、
辛夷の世界には、魔界はなかった。
追手も、
蛊も、
命を縛る契約もなかった。
あるのは、
軒下の灯り、
笛の音、
そして人間の温かな呼吸だけだった。
辛夷は目を閉じた。
人界の夜で、
初めて――
「逃げる」ことを考えなかった。
一笑楼の裏路地はとても狭い。
昼間は空の酒甕や木箱、洗い待ちの竹籠が積まれているが、
夜になるとほとんどが片付けられ、
灯りによって半分に切り取られたような通路だけが残る。
壁は斑に剥げ、
煉瓦の隙間には名も知らぬ草が生え、
夜風に揺れていた。
阿虫が屋台を組み立て終えた頃には、
すでに少し眠気がきていた。
御魂師の屋台と言っても、
古い木机一つ、灯り一つ、
生者には文字が見えない木札一枚だけだ。
机の脚は歪んでおり、
足で少し調整してようやく安定した。
今夜は、客が来そうにない。
風は弱く、
月は薄雲に隠れ、
通りを歩く人影もまばらだった。
いつも裏路地に入り込んで酒を盗み飲みする酔漢すら、
今夜はいなかった。
阿虫は顎を支え、あくびをした。
本当は、
こんな時間に仕事をする必要はなかった。
だが、
何かしていないと、眠れないのだ。
灯りが、わずかに揺れた。
阿虫は顔を上げ、裏口を見た。
扉は開いていない。
だが、
彼女がそこにいることは分かっていた。
木の扉一枚隔てた、
薄くも厚くもない距離の向こう側に。
阿虫は木札を整えた。
「……今夜も客が来なかったら」
彼は独り言のように言った。
「早めに畳むか」
その直後。
内側から、
ごく小さな物音がした。
板を踏んだような音。
阿虫の動きが止まった。
彼はすぐには振り向かなかった。
何事もないように、
灯火を見つめ続けた。
そして――
「……阿虫」
とても低い声が、
扉越しに聞こえた。
何かを驚かせるのを恐れるような声だった。
阿虫はため息をついた。
「寝ないで出てくるなよ」
扉が、ぎい、と少しだけ開いた。
辛夷が立っていた。
すでに布衣に着替えており、
色は淡く、目立たない。
少し大きめの服で、
袖口がわずかに長かったが、
そのせいで彼女は昼間よりも柔らかく見えた。
彼女は外へ出なかった。
ただ、
扉の内側の影に立っていた。
「……ありがとう」
その文字は、
とても軽く、
風にさらわれそうだった。
阿虫は彼女を見なかった。
「もし出会ってなかったら……」
「今日、私は生きられなかったかもしれない」
夜が、一瞬静まり返った。
阿虫は舌打ちした。
「大げさだ」
「俺はいまもお前の毒にかかってる。状況がそうさせただけだ」
辛夷は小さく笑った。
「あなた、本当に死が怖いの?」
阿虫は眉を上げた。
「当たり前だ」
「でも、あなたのしたことは」
彼女は言った。
「死を恐れる人の行動には見えない」
阿虫は答えなかった。
椅子に寄りかかり、空を見上げた。
裏路地の空は、
屋根によって細長く切り取られている。
それでも星は明るかった。
「……で、何しに来た」
話題を変えるように阿虫は言った。
辛夷は一歩だけ前に出た。
だが、
光と影の境界線は越えなかった。
「私は、借りを作るのが嫌い」
そう言って、
袖から小さな暗色の丸薬を取り出した。
とても小さいが、
見覚えのある匂いがした。
彼女は扉越しに、それを軽く投げた。
阿虫は手を伸ばして受け取った。
「解毒薬」
辛夷は言った。
「全部分」
阿虫はそれを見た。
「一日一粒じゃなかったのか」
「あなたを縛るための量だった」
彼女ははっきり言った。
「今は、もう必要ない」
阿虫は眉をひそめた。
「俺が売らないって保証は?」
「怖いに決まってる」
辛夷は答えた。
「だが、お前はやらない」
「どうして分かる」
「さっき、あなたは私を“駒”として扱わなかった」
その言葉に、
阿虫は一瞬黙った。
彼は丸薬を口に放り込んだ。
迷いはなかった。
苦味が舌の奥で弾けた。
「……不味い」
辛夷は鼻で笑った。
「もっと不味いのもある」
夜風が吹いた。
楼内から、
笛の音が流れてくる。
旋律は高ぶらず、
ただ静かに、夜に溶け込んでいく。
阿虫が口を開いた。
「……それ、返すか?」
彼女の視線は、
阿虫の懐へと落ちた。
衣の奥で、
暗紅色の存在感が、かすかに脈打っている。
「今の私には使えない」
少し間を置いて、彼女は言った。
「あなたが持っていて」
阿虫は鼻で笑った。
「よく信用するな」
「あなたが持っていた方が」
辛夷は言った。
「それは、ずっと意味がある」
阿虫は言葉を返さなかった。
辛夷は空を見上げた。
「……人界の夜は」
低く言った。
「本当に、静か」
「静かすぎるなら帰れ」
阿虫はぶっきらぼうに言った。
辛夷は怒らなかった。
首を小さく振った。
「向こうは、静かじゃない」
「命令を待つ時間しかない」
彼女は星空を見上げた。
「それに……今の私は、帰る場所がない」
その表情は、
初めて夜を見る少女のようだった。
「もし……」
彼女は小さく言った。
「もし、ずっとこうなら」
阿虫は彼女を見た。
嘲笑もせず、
肯定もせず。
「考えすぎるな」
「ここも、いい場所じゃない」
辛夷は笑った。
それは皮肉ではなかった。
ほんの少し、
希望を覚えた笑顔だった。
「でも今は」
彼女は言った。
「ここにいたい」
笛の音が、
その言葉に合わせるように、
やさしく尾を引いた。
阿虫は椅子に寄りかかり、
再び夜空を見上げた。
答えはしなかった。
だが、否定もしなかった。
この夜、
誓いはなかった。
決断もなかった。
あるのは、
裏路地の灯り、
屋内の笛の音、
そして同じ星空の下にいるはずのなかった二人だけ。
そして、
もっと遠くで――
運命は、静かにその糸を締め始めていた。