「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
辛夷は、まだ目を覚ましていなかった。
それは、少しの物音で目を開けてしまうような浅い眠りではない。
本当の意味での、深い眠りだった。
吐息は布団の内に落ち、軽く、そして安定している。
まるで、次の一手を計算し続ける必要が、ようやくなくなったかのように。
障子は朝の光に染められていた。
その光が彼女の横顔に落ちても、彼女を呼び覚ますことはない。
光の中で、その顔はあまりにも静かで、
「警戒」というものさえ、今だけは許されているかのようだった。
阿虫は、戸口に立ったまま、中へは入らなかった。
その感覚は、どこか微妙だった――
ただ一目見ただけで、彼は視線を逸らした。
彼は踵を返し、階下へ降りていく。
一笑楼の朝は、夜よりもさらに空っぽだった。
机と椅子は元の位置に戻され、
床には昨夜の酒を拭き取ったあとの水の跡がまだ残っている。
空気には、木材、酒の染み、そして火を入れる直前の竈の匂いが混じっていた。
阿橙は、すでに前堂にいた。
帳簿が広げられ、筆はまだ書き終えていない頁の上で止まっている。
彼女は顔を上げず、
阿虫の足音が階段の下で止まったのを感じ取ったとき、淡々と問いかけた。
「……あの娘は、まだ眠っているの?」
「うん。」
阿橙は小さく頷いた。
「よほど疲れていたのでしょう。しばらくは、起こさないであげて。」
その言葉は、あまりにも自然だった。
まるで、ごくありふれた事務的判断のように。
だが阿虫には分かっていた――
これは「許可」だ。
彼は一声応じ、机や椅子の片付けに向かった。
だが、前堂の隅で足が止まる。
そこに、人が横たわっていた。
「倒れている」のではない。
「居座っている」と言った方が正しい。
長椅子は体重でわずかに傾き、
外套は無造作に掛けられている。
鉄鎖を鞘とする重剣が椅子の脇に立て掛けられ、
刃はくすんでいるが、緩みは一切なく、
見ただけで百斤は下らぬ重さだと分かる。
呼吸は低い。
だが、確かだった。
酔いつぶれた者のそれではない。
野営地でも、荒野でも、
「横になれる場所があれば眠れる」人間の呼吸だ。
阿虫は、しばらくその男を見下ろしていた。
鼾は大きくない。
だが、耳障りだった。
まるで、自分の場所に当然の顔で寝転がり、
こちらが不快に思うかどうかなど、欠片も気にしていないかのような。
「……おい。」
阿虫は一度、蹴った。
反応なし。
もう一度。
鼾の調子すら変わらない。
阿虫は眉をひそめ、しゃがみ込んだ。
間近でその顔を見る。
無精髭、落ち窪んだ眼。
年齢は測れないが、
ただの酔漢ではないことだけは、はっきりしている。
さらに何かしようとした、その時。
「阿虫、乱暴はやめなさい。」
帳場の奥から、阿橙の声が飛んできた。
阿虫は振り返る。
「昨夜、半夜に来たのよ。」
阿橙は言った。
「二十碗、飲んだわ。」
「……二十?」
阿虫は思わず舌打ちする。
「用のある人しか、一笑楼には居座らないわ。」
阿橙は、付け足すように言った。
その一言で、阿虫の動きが止まった。
彼は、改めて男を見る。
「客」ではない。
――目的を持って、ここに残っている人間だ。
その認識が、胸の奥をわずかに締め付けた。
彼は蹴るのをやめ、立ち上がった。
視線は竈台の方へ向かう。
しばらくして、彼は二本の箸を手に取った。
躊躇はなかった。
阿虫は、その箸を男の鼻孔へと、思い切り突き込んだ。
――
呼吸が、急激に詰まる。
先ほどまで安定していた鼾が途切れ、
胸が大きく上下するが、息を吸い込めない。
男は目を見開き、
勢いのあるくしゃみ一発で箸を鼻から弾き飛ばした。
ゆっくりと上体を起こし、目をこすりながら大きく欠伸をする。
酒気が、そのまま阿虫の顔面にぶつかった。
「若いの。」
男は言った。
「人の起こし方が、なっとらん。」
阿虫は冷たく睨み返す。
「金も払わずにうちで寝ておいて、文句か?」
男は反論しなかった。
ただ立ち上がり、大きく伸びをする。
関節が低く鳴った。
「太史邦(タイシ・ばん)と申す。」
名が告げられた瞬間、空気が一段沈んだ。
阿虫は応えない。
太史邦の視線は、すでに阿虫の全身を一巡していた。
立ち姿、呼吸、気の流れ。
最後に、右頬で止まる。
――その痣。
龍胆の視線は、そこに一瞬留まった。
「蔵龍(ぞうりゅう)は?」
彼は、ふいに問う。
阿虫の喉が、きゅっと締まる。
「……もう、いない。」
「死んだか?」
「……ああ。」
太史邦は、一拍沈黙した。
悲しみではない。
ただの確認だ。
「惜しいな。」
彼は言った。
「蔵龍と呼ばれた一塵殿。
久々に会えると思っていたのだが、
今宵は一献、語り合えると思ったがな。」
阿虫は、思わず顔を上げた。
だが太史邦は、すでに視線を逸らしていた。
その言葉は、もとより返事を求めていなかったかのように。
「小僧、随分と腕を上げたな。」
「……三天の域か。」
その言葉を聞いた瞬間、阿虫の背筋が張り詰める。
「……何の話だ。」
太史邦の視線が、阿虫の懐へ落ちた。
見るのではない。
――“聞いている”。
「何か、面白いものを隠しているようだな。」
「だが、気を付けろ。」
「その宝の戾気(れいき)に、喰われるぞ。」
阿虫の呼吸が、わずかに乱れた。
「……偉そうに言うな。」
太史邦は、彼を一瞥する。
その眼差しは、驚くほど平坦だった。
「煌之泪(コウのなみだ)。」
「……残りは、四回だ。」
――
阿虫の頭が、一瞬、真っ白になる。
何かを、内側から抜き取られたような感覚。
その間に、阿橙が帳簿を閉じた。
彼女の声が、二人の間に落ちる。
「前辈、阿虫にあまり構わないでください。」
太史邦は彼女を見る。
「今夜、ここで人と会う約束がある。」
「一卓、用意してくれ。酒と肴は、一番良いもので。」
阿橙は頷いた。
「承知しました。」
「昼は城をぶらついて、少し身体をほぐしてくる。」
太史邦は重剣を背負い、外へ向かう。
戸口で、一度だけ足を止めた。
「若造。」
「心の戾気は、抑えることを覚えろ。」
扉が開き、光が差し込む。
その背中は朝の光に切り取られ、
すぐに扉が閉まり、消えた。
一笑楼は、再び静寂を取り戻す。
阿虫は、その場に立ち尽くし、拳を握り締めていた。
阿橙は彼を見て、ただ一言だけ告げる。
「……あの方が、前にここへ来たのは、随分昔のことよ。」
阿虫は答えない。
俯き、机と椅子を片付け続ける。
一つ一つの動作が、やけに重い。
一笑楼の外、朝の風は湿り気を帯びて冷たい。
戸を閉め、門閂を下ろした時、
彼の指節は、まだ強張っていた。
楼の中を、振り返らなかった。
――辛夷の眠る床、規則正しい呼吸、
あの一時の安らぎは、
触れれば壊れてしまいそうな、不釣り合いな優しさだった。
砕けそうな感情を胸の奥へ押し込み、
衣を引き締め、菜籠を手に取る。
そして、阿虫は外へ出た。
泰城の朝は、忙しい。
あまりにも忙しい。
まるで、誰もが「生きている」という行為そのもので、
何かに必死に抗っているかのようだった。
街道の両脇には屋台がずらりと並び、
魚の生臭さ、血の匂い、葱・生姜・蒜の辛味、
そして、今まさに鍋から立ち上る熱い汁の香りがぶつかり合う。
足音、呼び声、値段交渉の怒声が幾重にも重なり、
人を包み込む一枚の網のようだった。
阿虫が市場へ足を踏み入れた頃には、
彼の顔にはすでに、いつもの
「誰も近寄るな」という表情が戻っていた。
彼は習慣的に周囲を見渡す。
――買い物のためではない。
ここに「属さないもの」がいないかを確かめるためだ。
屋台の隙間を縫って、風が抜けていく。
そこには、言葉にしがたい冷えが混じっていた。
冬の寒さではない。
それとは別の――
どこかで何かが腐り始めているのに、
まだ誰にも気付かれていないような冷えだった。
阿虫の足取りが、わずかに遅くなる。
彼の「御魂師」としての直感が、動いた。
それは、
「近くに怨がある」という類の感覚ではない。
もっと微細な――
誰かが、耳元で極めて軽く、
一本の釘を打ち込んだような感覚だった。
彼は、その気配を追う。
魚を売る屋台を抜け、
市場の最奥、陰になった一角へ回り込む。
そこは日が当たらず、地面は湿っている。
板の隙間には苔が生え、
壊れた竹籠がいくつも積まれ、
普段なら誰も長居したがらない場所だ。
阿虫は立ち止まった。
片隅に、一匹の猫が横たわっている。
灰白の毛は雨水と汚泥で絡まり、
腹部はわずかに膨らみ、
死ぬ前にもがいた形跡が残っていた。
半開きの眼は焦点を失い、
口元には乾いた血がわずかに残っている。
――花花(ファーファー)。
市場の人間なら、誰もが知っている猫だ。
どの屋台のものでもない。
だが、誰もが餌をやった。
一番忙しい時間になると、人の間を縫って歩き、
尻尾で足首を掠めてくる。
まるで、「忘れずに一口残せ」と言わんばかりに。
だが今は、あまりにも静かだった。
阿虫はしゃがみ込む。
だが、すぐには触れない。
まず、四肢を見る。
そこで、視線が止まった。
――青い斑。
打撲ではない。
腐敗とも違う。
皮膚の下に貼り付いたような色。
水に焼き入れされた銅のように沈み、
その縁は、異様なほどはっきりしている。
まるで、
何かの力で「刻み込まれた」かのように。
阿虫の喉が、きゅっと締まる。
彼は手を伸ばすが、
指先は半寸のところで止まった。
触れるのが怖いのではない。
穢れを恐れているわけでもない。
――その斑点に触れた瞬間、
何かが指先から這い上がってくる、
そんな予感がしたのだ。
彼は一度、深く息を吸い、
それでも、そっと猫の前脚に触れた。
指先に伝わる感触は、冷たい。
だが、その冷たさは異常だった。
それは――
魂を抜き取られた殻が残す、
虚ろな冷えだった。
阿虫は眉をひそめ、手を引く。
そのとき、
猫の腹の下で、かすかな動きがあった。
小さな影が二つ、身を寄せ合い、
糸のように細い声で鳴いている。
弱々しいが、途切れない。
阿虫の目が沈む。
彼は花花の亡骸を、そっとずらした。
二匹の仔猫が姿を現す。
まだ目も開ききらず、
雪が落ちたばかりのような柔らかな毛。
互いに擦り寄り、必死に温もりを探している。
鳴き声は、さらに切迫していった。
阿虫は、じっとそれを見つめる。
そして、見つけた。
――仔猫の脚の付け根にも、青斑。
小さく、淡い。
だが、確かにそこにある。
それは、
今まさに現れたばかりの兆し。
運命に突き刺さった、一本の針。
阿虫の呼吸が、ゆっくりと沈んでいく。
これは「病」ではない。
病は、こんなにも整ってはいない。
病は、色を符号のように刻み込んだりしない。
彼の脳裏に、一つの言葉が浮かぶ。
――烙印。
何かが、標を付けている。
標しているのは肉体ではない。
魂だ。
阿虫は菜籠を脇に置き、
袖を捲り、掌を静かに持ち上げた。
胸の奥に、ためらいがないわけではない。
だが、今の判断では――
彼は、この二つの小さな命に
御魂術・抚魂(ぶこん)を施すことを選んだ。
痛みを、これ以上感じさせないために。
本来、抚魂は温和な術だ。
鎮め、導き、魂を静へと還す。
だが今、阿虫の掌に集まる気は、
抑えきれない鋭さを帯びていた。
彼は安らげようとしているのではない。
自分の内から溢れ出そうとする「戾」を、
必死で押さえ込んでいるのだ。
仔猫は鳴き続ける。
その声は、次第に細くなっていく。
彼らは、
命を知らない。
救いを知らない。
ただ、生きたいと訴えているだけだ。
阿虫の指先が、わずかに震えた。
唇が動き、
何かを言おうとして、
そのまま飲み込む。
掌を下ろそうとした、その瞬間――
背後から、声がした。
とても静かで、
春の水が石に落ちるような声。
「……どうされたのですか?」
阿虫の手が、空中で止まる。
すぐには振り返らなかった。
その声には、
驚きも、好奇も、
市井の人間特有の野次馬根性もない。
それは――
長く守られてきたからこそ保たれた、
欠けのない優しさだった。
彼は、ゆっくりと振り返る。
光の中に、ひとりの女性が立っていた。
素朴な装い。
斗篷を纏い、髪はきちんとまとめられ、
額には布が垂れ、眉心を隠している。
徹底して控えめな装い。
だが、それでも隠しきれない
「群衆とは異なる」気配。
その眼は澄み切っていた。
純潔なる魂のみが宿す、
宝石のような赤い瞳。
私欲を交えぬ、
無垢の憐憫がそこにある。
阿虫は彼女を見つめ、
視線を冷やしていった。
女性はさらに二歩近づき、しゃがみ込む。
花花を見、仔猫を見る。
眉が、わずかに寄った。
「……まだ、生きています。」
低く、そう呟く。
阿虫は答えない。
女性は掌を上げ、
仔猫へと近づけ、指先で印を結んだ。
次の瞬間、
彼女の指間に、極めて柔らかな光が灯る。
蝶が羽ばたく際に落とす粉のような光。
空気に、淡い香りが満ちた。
花のようで、夢のような匂い。
「蝶夢回仙(ちょうむ・かいせん)。」
阿虫の眼が、一気に冷える。
九天玄術(きゅうてん・げんじゅつ)――蝶夢回仙の治癒術。
その気息は安定している。
修為が浅くない証だ。
「修復」と「回帰」の境界。
彼女は、その線を熟知している。
阿虫の指節が、きしむ。
光の中で、
彼女の髪が淡い紫を帯びて見えた。
立ち上がる際の所作もまた、
作られた品位ではない。
骨の奥から滲み出るものだ。
――慕容(ムヨウ)。
阿虫は、そう結論づけた。
その姓は、
鈍い刃となって、彼の喉を削る。
女性はなおも術を続ける。
蝶の光が仔猫を覆い、
その「精」を修復しようとする。
鳴き声は確かに弱まった。
呼吸も、わずかに整ったように見える。
女性の瞳に、希望が灯る。
だが次の瞬間――
青斑は消えなかった。
むしろ、
わずかに、はっきりと浮かび上がった。
まるで、
彼女の努力を嘲笑うかのように。
女性の指先が、震える。
信じられず、
さらに気を込めた。
蝶の光は増し、
仔猫の身体を包み込むほどになる。
阿虫は、それを見て、
低く、短く笑った。
刺のある笑い。
「……無駄だ。」
女性が顔を上げる。
一瞬、怒気が走るが、
すぐに温和さで抑え込む。
「なぜ、そんなことを言うのです。
試してみなければ、分からないでしょう。」
「九天玄術の治癒はな。」
阿虫はゆっくり言葉を刻む。
「自らの神識をもって、
対象の『精』を修復する術だ。」
「最終的には、
“元の形”へと戻す。」
女性は、はっとする。
彼女は理解した。
根を突かれたのだ。
「最上位の治癒は、
ほとんど“改命”に等しい。」
「本来死ぬはずの者を、
無理やり命の線へ引き戻す。」
女性の瞳が、わずかに輝く。
自らの誇りに触れられたからだ。
だが、次の一言が、
その光を叩き潰した。
「だが、これは命線の問題じゃない。」
阿虫は青斑を指す。
「魂の傷だ。」
女性の顔色が変わる。
阿虫は冷たく続ける。
「お前の術がどれほど精妙でも、
修復できるのは精だけだ。」
「魂までは、届かない。」
女性は唇を噛み締める。
再び、仔猫を見る。
鳴き声は、再び弱まり始めていた。
それは痛みではない。
――魂が、散り始めている音だ。
指先が、震え出す。
「……そんな……」
それは反論ではない。
初めて現実に打ち砕かれた、
茫然だった。
阿虫は、容赦しなかった。
「九天玄術の治癒は、
肉体の次元では、確かに起死回生だ。」
「だが魂の傷は――」
彼は、ほんの一瞬、言葉を区切る。
「一度刻まれたら、戻らない。」
女性が、はっと顔を上げる。
「あなたは――」
阿虫の視線が、それを封じた。
「その目で俺を見るな。」
「お前は、救っているつもりだろう。」
「だが実際は、
数呼吸分、命を引き延ばしているだけだ。」
「魂の痛みは、止まらない。」
女性の顔から、血の気が引く。
それでも、彼女は印を結ぼうとした。
だが――
阿虫の掌が、すでに術を成していた。
彼は、もう説明しない。
ただ、一つのことをする。
掌を下ろす。
――抚魂。
光はない。
蝶も舞わない。
優しい幻も存在しない。
あるのは、
ただ純粋な「収束」。
散りかけた糸を、
一本一本、静かに巻き取るような。
仔猫の鳴き声は、
その瞬間、止んだ。
殺されたのではない。
――苦しみが、終わったのだ。
空気が、
凍り付いたように静まり返る。
女性は、立ち尽くした。
掌は半ば宙に浮いたまま。
指先には、まだ蝶光の温もりが残っていた。
阿虫は、仔猫をそっと花花の傍らへ戻した。
それから立ち上がり、隣の屋台へ行って古い布を一枚取ってくる。
動作は早かった。
花花と仔猫を一緒に包み、結び、持ち上げる。
ようやく我に返った女が、声を強張らせて言った。
「……何をするつもりですか?」
阿虫は振り返らない。
「処理だ。」
布包みを提げたまま、彼は脇の路地へ入っていく。
女は二歩ほど追いかけた。
「それでも……せめて——」
阿虫は足を止め、振り返った。
その眼に、忍耐はなかった。
「どうしろって言うんだ?」
彼は問い返す。
「抱いて泣けと?」
「碑でも立てろと?」
「それとも、あのまま市場の隅で腐らせて——」
布包みを軽く持ち上げ、声を落とす。
「これを、もっと多くの生き物に撒けって?」
女は言葉を失った。
阿虫は向き直り、地面を掘る。
火打ち石を擦る。
火が上がった瞬間、路地には別の匂いが満ちた。
布と毛と肉が焦げる匂い。
湿った冷気と混じり合い、一気に広がる。
女は路地の入口に立ち尽くし、顔色を失っていた。
炎に呑まれていくその「命」を見つめる。
それは、
誰かが“継続”を最も直接的な方法で断ち切る光景だった。
阿虫は火を見つめていた。
炎は彼の瞳に映るが、そこに温度はない。
「お前たち、上に立つ人間はな……」
彼は唐突に口を開いた。
火に向かって話すように。
「涙を二滴落とせば、自分が善人だと思える。」
女の身体が、びくりと震える。
阿虫の声はさらに低くなる。
何かを押さえ込むように。
「だが西国を屠ったとき——
慈悲なんて、見たことがなかった……」
言葉は、そこで途切れた。
刃が、鞘から滑り出そうとして止まったように。
喉仏が上下し、
後半の言葉を無理やり飲み込む。
だが、女は確かに聞いてしまった。
「……屠殺?」
彼女は呆然とした。
「西国……と、今……?」
阿虫が目を上げる。
その眼底に、一瞬、凶暴な色が走った。
血海の因縁を、
その場で叩きつけてしまいそうになる。
だが、その直後——
遠くから足音がした。
二つの気配が素早く近づき、
前後に分かれて立ち、
ほとんど反射的に女を守る位置につく。
問天教の弟子の装いだった。
女弟子。
衣は清潔で、腰には剣。
気息は抑えられているが、決して弱くない。
「お嬢様。」
そのうちの一人が低く言う。
「どうか、お一人で動かれませんよう。」
女ははっとして、
自分が取り乱していたことに気付いたようだった。
「草芳(ソウホウ)、香菱(コウリョウ)……私は、ただ——」
彼女は説明しようとする。
だが阿虫は、すでに火を踏み消していた。
灰が舞い上がり、
細かな青灰となって地に落ちる。
彼は彼女たちを見ない。
菜籠を持ち上げ、
刃の背で擦るような平坦な声で言った。
「そのお嬢様を、ちゃんと見てろ。」
「こんな汚い場所じゃ、
足が穢れる。」
草芳の目が冷え、
剣柄に手がかかる。
だが香菱は、
まず地面の灰を見、
次に阿虫の背を見た。
眉がわずかに寄る。
何かがおかしいと感じている。
だが、言葉にできない。
女はその場に立ち尽くし、
唇が白くなっていた。
視線は阿虫の背を追う。
呼び止めたいのに、
何と呼べばいいのか分からない。
結局、こぼれたのは、
とても小さな一言だった。
「……私は、ただ救いたかっただけです。」
阿虫は振り返らない。
彼の足取りは市場の喧騒に紛れ、
一塊の氷のように、人波に呑まれていく。
だが彼自身は、よく分かっていた。
猫の死は、単なる死ではない。
これは、生き物の魂が剥ぎ取られる兆しだ。
青い兆。
それが、
次は人の世界へ這い上がってくる可能性もある。
辛夷が目を覚ましたとき、
すでに昼時を過ぎていた。
軒先に削られた光が、
障子越しに静かに床へ落ちている。
その光の中で、微細な塵がゆっくりと舞っていた。
彼女は、すぐには動かない。
呼吸は浅い。
――自分が、本当に生きているのか。
それを確かめるように。
鎖はない。
毒の香もない。
命令の声もない。
あるのは、
少し古いが清潔な寝具と、
昨夜の笛の余韻が溶けた、淡い温もりだけ。
指先が、わずかに丸まる。
張り詰め続けていた何かが、
その瞬間、ようやく緩んだ。
「……起きたか?」
声が、入口から聞こえた。
阿虫が立っている。
手には湯の入った碗。
口調はいつも通り、気怠げで、
特別なことではないかのようだった。
辛夷は顔を向ける。
彼女の視線は、
一瞬、彼の顔に留まる。
――そこにいるか。
それを確かめてから、
ゆっくりと身を起こした。
「どれくらい、寝てた?」
「半日以上だな。」
阿虫は碗を卓に置く。
「相当深かったぞ。雷でも起きなかっただろ。」
辛夷は、少し目を見開いた。
半日。
魔界では、
これほど眠ったことは、もう何年もなかった。
彼女は自分の手を見、
次に、身の下の床を見る。
「寝ている間に、縛るか、
外に捨てると思ってた。」
声は淡々としていた。
ごく自然な可能性を述べるように。
阿虫は一瞬、間抜けた顔をし、
すぐに鼻で笑った。
「俺の評価、高すぎだろ。」
眉を上げる。
「売る気なら、昨夜のうちにやってる。」
辛夷は反論しなかった。
ただ、軽く「……うん」と言った。
その声には、
警戒も、依存もない。
ただ、受け入れがあった。
阿虫は一瞥し、視線を逸らす。
「姉と玉蓮は、今夜の仕込みだ。」
「俺が、お前を連れて外を歩けってさ。」
彼は彼女を上から下まで見て、続ける。
「ついでに——
外に出られる服も買う。」
辛夷は、自分の格好を見る。
仮に借りた布衣。
袖は長く、肩も合わず、色も地味だ。
室内ならともかく、街に出れば異物になる。
「……迷惑じゃない?」
阿虫は、すでに背を向けて歩き出していた。
「見られるのが平気なら、
俺は別に構わん。」
泰城の街市は、
辛夷が想像していたより、ずっと賑やかだった。
魔界のような誇示的な喧騒でもなく、
軍営の騒音でもない。
それは、途切れることのない、
「生きている人間」の音だった。
露店商の呼び声、
子どもたちの笑い声、
器物が触れ合うかすかな音。
幾重にも重なり合いながら、耳障りではない。
辛夷は通りを歩きながら、
無意識のうちに歩調を落とした。
視線は、
一つひとつの店先に留まる。
飴細工が銅の匙で鳥の形に引き延ばされ、
布地は陽光の下で細かな織り目を浮かび上がらせ、
香辛料は口を開けた木箱に盛られ、
風が吹くたびに香りが広がる。
そのすべてが、
彼女の胸を締め付けた。
恐怖ではない。
溢れ出しそうな、
未知の感覚だった。
「……あなたたち人界は、」
彼女は低く言った。
「毎日、こんなふうなの?」
阿虫は彼女の半歩前を歩き、振り返らない。
「まさか。」
彼は言う。
「今見てるのは、城の中の“きれいな部分”だけだ。」
辛夷は唇を結んだ。
分かっている。
分かっているからこそ、胸が苦しくなる。
彼女は感じていた。
周囲の視線を。
すべてではないが、十分な数の視線が、
彼女の上にわずかに長く留まり、
すぐに逸らされる。
そこには、
値踏み、探り、
そして隠しきれていない排斥があった。
肌の色。
佇まい。
歩き方。
彼女は、ここに馴染まない。
背筋が、少しずつ張り詰めていく。
阿虫はそれに気づいた。
足を止め、横目で彼女を見る。
「俯くな。」
そう言った。
辛夷は一瞬、息を詰める。
「俯いて歩けば、」
阿虫は淡々と続ける。
「“いじめてもいい”って思われるだけだ。」
「気に食わないなら、
こっちも相手に合わせる必要はない。」
辛夷は顔を上げた。
その瞬間、
彼女の視線に、
わずかな鋭さが戻った。
二人は、一軒の衣料店の前で立ち止まる。
店は大きくはないが清潔で、
仕立ての良い外套が数着掛けられている。
派手ではないが、
素材の良さが分かる品だった。
阿虫が入ろうとした、その時——
店主がすでに顔を上げていた。
視線が辛夷に落ちた瞬間、
明らかに一拍、間が空く。
「何をお探しで?」
店主は、冷たくも温かくもない声で問う。
阿虫が口を開く前に、
辛夷が一歩、前に出た。
「服を見せてほしいのですが。」
店主の目が、彼女を一巡する。
眉が、ゆっくりと寄った。
「……うちは、蛮人には売らない。」
空気が、一瞬止まった。
辛夷はその場に立ったまま、
表情は変えない。
だが指先が、わずかに強張る。
阿虫が、店主を見る。
「今、何て言った?」
その視線に、店主はわずかにたじろぐが、
それでも言い切った。
「差別じゃない。
だが、その格好じゃ……
払えるようには見えない。」
阿虫が口を開きかけた、その時——
「おや?」
やや朗らかな声が割り込んだ。
「阿虫じゃないか。」
阿虫は顔を向ける。
街角から、男女が歩いてくる。
西門鼎と西門鳶だった。
西門鼎は狩弓を背負い、
肩にはまだ卸しきれていない獣皮。
妹の西門鸢は、動きやすい装いで、
瞳が明るい。
「こんな所で何してる?」
西門鼎は阿虫を見、
それから辛夷を見る。
眉を上げる。
「おや? こちらは?」
「友人だ。」
阿虫は短く答える。
西門鼎は、それ以上踏み込まない。
代わりに店主を見る。
口調は軽いが、圧は明確だった。
「この店の貂皮、
ずっと俺が卸してるよな?」
店主の顔色が変わる。
「西門様……は、はい。」
「さっき、
彼女には売らないって言ったな?」
西門鼎は辛夷を指す。
「本気か?」
店主の額に汗が浮く。
「そ、そういう意味では……」
西門鼎は笑った。
凶暴ではない。
だが、胸が詰まる笑みだった。
「売らないなら、それでもいい。」
「来月の分は、他に回す。」
店主は慌てて手を振る。
「売ります! もちろん売ります!
私の見誤りです!」
西门鸢はすでに辛夷の手を取り、店内へ引いた。
「阿虫のお友達?」
彼女は笑顔で言う。
「異邦の方みたいね。
一緒に選びましょう。」
辛夷は引かれながら、
まだ少し戸惑っていた。
だが、一着目の服を手に取った瞬間——
呼吸が、自然と軽くなった。
柔らかな布。
合ったサイズ。
鏡の中の自分は、
もう“逃亡者”には見えない。
西門鸢は横で比べながら、目を輝かせる。
「これ、いいわ。」
「色が、あなたに似合う。」
辛夷は鏡の自分を見る。
口元が、
抑えきれそうになった。
それは——
強く笑うことを、
怖れている喜び。
奪われるのが怖い、
そんな笑み。
阿虫は少し離れた所で、黙って見ていた。
西門鼎が寄ってきて、肩で軽く突く。
「いつの間に、
こんな異国の美人を?」
声を落として笑う。
「見る目あるじゃないか。」
阿虫は眉を寄せる。
「適当言うな。」
「それと——
もしこの人と似た肌の色で、
異国の装いの女を見たら、
知らせてくれ。」
「この人が泰城で逸れた仲間だ。」
「了解了解。」
西門鼎は手を振る。
「気にしておく。」
「見つけたら一笑楼に連れてきてもいい。
“友人が待ってる”って言えば分かる。」
「分かった。」
西門鼎は即答する。
「また賭場、行くか?」
「行かん。」
「つれないな。」
服を選び、支払いを済ませる。
店を出たとき、
陽光が辛夷の肩に落ちた。
彼女は裾を指でなぞる。
「……ありがとう。」
声は、とても小さい。
西門兄妹ではない。
この世界に、
ほんの一瞬、居場所をくれたことへの礼だった。
阿虫は答えない。
ただ、空を見上げる。
なぜか、
胸の奥の不安は消えなかった。
むしろ、
はっきりと形を持ち始めていた。
鼎と鳶と別れたあと、
阿虫は辛夷に、
本当の“上等な飯”を食わせてやろうと考えた。
異邦の美人に、
少しは世間を見せてやるつもりだった。
そうして二人は、
城東の富裕層区画にある——
雲仙楼(うんせんろう)へ向かう。
雲仙楼の敷居は、
他の店より半寸だけ高い。
埃を防ぐためではない。
人を分けるためだ。
阿虫が一歩踏み上がった瞬間、
足裏が、わずかに止まった。
躓いたわけではない。
「お前は、ここに属していない場所へ踏み込もうとしている」
そう告げられたような感覚だった。
中は、明るい。
眩しさではない。
だが、どこにも隠れ場のない明るさだ。
一つひとつの卓、
一つひとつの灯、
盛り付けの角度に至るまで、
すべてが計算されている。
ここは、
「食事をする場所」ではない。
座ることを“許された”場所だ。
辛夷は、
彼の背後で立ち止まった。
すぐには中へ入らない。
足は、
光と影の境目で止まっている。
彼女の視線は、
ゆっくりと広間をなぞった。
身なりの整った人々、
低く声を落とし、わずかに前屈みになる姿勢、
意図的に抑えられた、
それでも隠しきれない優越の笑み。
肩が、
ほとんど分からないほど、強張る。
「どうした?」
阿虫が振り返る。
「……ここ、」
彼女はとても小さく言った。
「“誰でも”のための場所じゃない。」
阿虫は、
彼女の視線の先を一度だけ見る。
「元からそうだ。」
そう答えた。
辛夷は、少しだけ目を見開く。
だが、彼はすでに彼女の手首を掴み、
一歩、中へ引き寄せていた。
引っ張るのではない。
迷う余地を与えない、
断定的な動きだった。
「今日は俺と食えばいい。」
「他のことは考えるな。」
帳場の奥にいた給仕が、
すでに二人に気づいていた。
正確には——
阿虫に、だ。
その視線は、
初対面のそれではない。
「……まだ来るのか」という、
露骨な嫌悪。
「おやぁ。」
給仕は声を伸ばす。
「これは……阿虫じゃないか。」
阿虫は目を剥き、
金袋を帳場に置いた。
銀が木に当たる音は鈍い。
だが、確かだった。
「友達を連れてきただけだ。」
給仕の視線が、
一瞬で落ちる。
次の瞬間、
口角が上がった。
「どうぞどうぞ、こちらへ。」
「窓際のお席が空いております。」
声色が変わる。
態度が変わる。
腰の角度まで、変わる。
辛夷は、
その一部始終を見ていた。
何も言わない。
ただ、この光景を、
しっかりと心に刻む。
二人は窓際へ案内された。
窓の外は内庭の水盤。
灯りが水面に落ち、
まったく揺れない。
何度も磨かれた鏡のようだった。
「何を食べる?」
阿虫が問う。
辛夷は、
献立に目を落とす。
文字は読める。
魔族と人界の文字は、本質的に同じだ。
だが、意味が繋がらない。
「……あなたが決めて。」
彼女は献立を押し戻した。
阿虫は頷く。
「雲仙ワンタン麺、二つ。」
「蜜汁(みつじゅう)チャーシュー。」
「酒醸湯円(しゅじょうたんえん)。」
自然な口調だった。
給仕は応じ、去っていく。
辛夷が彼を見る。
「詳しいのね。」
「料理だけな。」
阿虫は言う。
「店は詳しくない。」
「いつ来たの?」
「去年。」
「十五の成人礼で、
姉に連れてこられた。」
彼女は、少し言葉を失う。
「十五……?」
「そう。」
それ以上、聞かなかった。
彼女にとって十五とは、
“失敗の許されない命令”を
初めて与えられる年齢だった。
先に、ワンタン麺が運ばれてきた。
湯気が立ち上る瞬間、
辛夷の呼吸が乱れる。
彼女はまず、
汁を一口、啜る。
——止まる。
言葉が見つからない。
だが、感覚はひどく単純だった。
「……おいしい。」
彼女はもう一口飲む。
「これ……」
真剣な顔で言う。
「とても、いい。」
阿虫は、少し笑った。
「ゆっくり食え。」
ワンタンは、問題なく食べられた。
だが、
麺を見たとき、彼女は止まる。
箸を見る。
挟む。
滑る。
もう一度。
やはり、滑る。
数秒、
未知の生物を見るように、麺を見つめる。
「……この木の棒、」
彼女は眉を寄せる。
「言うことを聞かない。」
阿虫は、
危うく吹き出しかけた。
「教える。」
彼は少し近づく。
後ろから、
彼女の手を覆う。
指が触れた瞬間、
辛夷の身体が、固まる。
触れられたからではない。
防備せずに、
こんな距離を許したのが、
久しぶりすぎたからだ。
「力を抜け。」
阿虫は低く言う。
「流すんだ。」
彼女は、
その動きに従う。
箸が、
麺を捉えた。
彼女は顔を上げる。
「……こう?」
「そう。」
——その瞬間。
感じた。
聞こえたのでも、
見えたのでもない。
“見られている”感覚。
どこかの卓から、
低い笑い声。
「……おい。」
「見ろよ、あっち。」
「異族か?」
辛夷の動きが止まる。
手は、宙に浮いたまま。
「……見てる。」
彼女は小声で言う。
阿虫は視線を巡らせる。
目は、逸らされない。
むしろ、
興味を孕んでいる。
「見させとけ。」
「食え。」
彼女は頷く。
だが、その時——
「——ふざけるな!!」
卓を叩く音が炸裂した。
男が立ち上がる。
酒気、怒気、
長く溜め込まれた不満が、
一気に噴き出す。
「一杯で一両だと!?」
「誰に食わせる気だ!」
給仕が慌てて近づく。
「当店は材料に——」
「黙れ!!」
男が腕を振り、
碗を床に叩き落とす。
「こんな高値をつけて、
平民を見下してるんだろ!」
声が、人を引き寄せる。
不満が、
火種のように広がる。
「そうだ!」
「高すぎる!」
「俺たちは踏みつけか!」
空気が、
層を成して膨れ上がる。
阿虫は、
静かに立ち上がった。
給仕も、
店主も、見ない。
男を見る。
「食えないのは、」
阿虫は言う。
「お前の問題だ。」
声は低い。
だが、はっきりしていた。
広間が、
一瞬、静まる。
男が振り向く。
「何だと!?」
「金がないなら、」
阿虫は続ける。
「行ける店に行け。」
「貧しさを理由に、
物を壊すな。」
空気が、張り詰める。
「何様だ!」
「若造が!」
阿虫の目が、冷える。
「人は比べる。」
「層はできる。」
「それは事実だ。」
「だが、」
「踏まれるべきなのは、
行いであって、出自じゃない。」
「お前は今、
無能を他人に押し付けてるだけだ。」
——その直後。
男が悲鳴を上げた。
腕を抱え、
床に崩れ落ちる。
皮膚に、
青い斑が、
内側から浮き上がるように広がっていく。
辛夷の瞳孔が、収縮する。
「……これは……」
阿虫は、理解した。
あの斑。
菜市の猫と、
まったく同じ。
恐怖は、考える猶予を与えない。
阿虫の席が近かったこと、
異邦の肌色。
矛先は、すぐに決まった。
「魔女だ!」
「こいつだ!」
「異族の呪いだ!」
言葉が、
石のように投げつけられる。
「違う、私は——」
阿虫は説明しない。
彼女の手首を掴む。
「行く。」
相談ではない。
後門が開く。
冷たい風が、流れ込む。
灯り、
麺、
未払いの勘定、
食べ残し——
すべて、背後に捨てられる。
扉が閉まった瞬間、
喧騒は止まらなかった。
むしろ——
木戸の内側に押し込められ、
震え続ける。
叫び、
破壊音、
泣き声、
罵声。
すべてが混ざり合い、
曖昧で、持続する騒音になる。
何かが、
中で腐り始めている音。
阿虫は止まらない。
彼は辛夷の腕を引き、
ほとんど引きずるように、
路地へと駆け込んだ。
冷たい風が正面から吹きつけてきた。
だが、頭は冴えない。
むしろ、体温を少しずつ奪われていくようだった。
「……待って。」
辛夷が低く言った。
足取りが、わずかに乱れる。
阿虫はそこでようやく止まった。
すぐに手を放したわけではない。
彼女がきちんと立て直したのを確認してから、
力を緩めた。
辛夷は壁にもたれかかる。
背中に触れる煉瓦は、氷のように冷たい。
呼吸が荒い。
走ったからではない。
——
ついさっき、
あの人々が本気で自分を引き裂こうとしていたのだと、
理解してしまったからだ。
「……私じゃない。」
辛夷は言った。
これは、弁解ではなかった。
——
“確認”だった。
阿虫は彼女を見る。
路地は暗い。
灯りは軒に切り刻まれ、
彼女の顔は、半分が光に、半分が影に沈んでいる。
「分かってる。」
阿虫は言った。
それでも、彼女はすぐに緩まなかった。
「……あの斑点。」
辛夷は続ける。
「毒も、蛊も、呪いも見てきた。
でも、あれはどれでもない。」
「まるで——」
言葉を止める。
どう表現すればいいのか、分からなかった。
阿虫が引き取る。
「刻まれたみたいなやつだ。」
「病気じゃない。」
「刻印に近い。」
「魂の層にある。」
辛夷の瞳孔が、きゅっと縮む。
「……見たことが?」
「今朝だ。」
阿虫は言った。
「菜市の隅で死んでた猫も、同じだった。」
彼女は、勢いよく顔を上げる。
「……死んだの?」
「もう死んでた。」
あまりにも平坦な言い方だった。
平坦すぎて、
辛夷は一瞬、どう返していいのか分からなくなる。
その時、
彼女は一つのことに気づいた。
——この男は、
自分が思っていた以上に
“死を処理すること”に慣れている。
路地が、静まる。
それは、安全な沈黙ではない。
——
二人とも、それぞれの思考の底へ沈んでいく沈黙だった。
「……さっきの言い方、よくなかった。」
不意に、辛夷が言う。
阿虫は眉を上げる。
「どれ?」
「“貧しさ”の話。」
「あなた、あの場の全員を踏みつけた。」
阿虫は、小さく笑った。
嘲りではない。
疲れを含んだ笑いだ。
「連中は、ずっと他人を踏んでた。」
「俺は、それを表に出しただけだ。」
「でも、彼らは覚えていない。」
辛夷は言う。
「あなたが言った“行い”のことなんて。」
「覚えるのは——
あなたが“向こう側に立った”ってことだけ。」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が、明らかに重くなった。
阿虫は反論しない。
——彼女の言う通りだからだ。
「……怖くないの?」
辛夷は、今度は彼の目を見て訊いた。
責めではない。
本気の問いだった。
「怖い。」
阿虫は即答した。
彼女は、わずかに目を見開く。
「じゃあ、どうして言ったの?」
阿虫は、数息黙った。
それから、言う。
「言わなかったら、
自分の方がもっと気持ち悪くなる。」
辛夷は、すぐには返さない。
視線を落とし、
自分の手を見る。
少し前まで、
“魔女”と指さされていた手だ。
その時、
彼女は気づく。
——これ、初めてじゃない。
違うのは、
今までは“指す側”だったこと。
そして今回は、
“指される側”に立ったことだけだ。
「連中は、
お前が“ここに属してない”と感じた。」
阿虫は言う。
「だから、恐れた。」
彼女は顔を上げる。
「……じゃあ、あなたは?」
「あなたは、属してるの?」
阿虫は笑った。
今度の笑いは、短い。
「俺?」
「俺の居場所なんて、
とっくに消えてる。」
辛夷は、言葉を失う。
阿虫は説明しない。
ただ、
夕暮れに沈みゆく空を見上げた。
雲が風に裂かれ、
星が一つ、また一つと現れ、
残った夕陽の温度を押し退けていく。
「さっき、お前は言ったな。」
「“私じゃない”って。」
「でも、あいつらに真実は要らない。」
「必要なのは——
恐怖を正当化できる“理由”だ。」
少し、間を置いて。
「そして、お前は
ちょうどよかった。」
辛夷の指先が、冷える。
人界への憧れに、
初めて、はっきりとした亀裂が入った。
「……さっき倒れた人の症状、
原因は何なの。」
辛夷が低く言う。
「裏に、もっとある気がする。」
「今は考えきれない。」
阿虫は答えた。
「だが、確かに——」
「嫌な兆しだ。」
路地の奥で、
人影が一瞬、揺れた。
追跡かどうかは分からない。
阿虫はすでに背を伸ばしている。
「行くぞ。」
「一笑楼に戻る。」
辛夷は、それ以上問わなかった。
彼女は彼について行く。
夜の中、
二つの影が長く引き伸ばされる。
二人が路地の闇に溶け込んだ、その瞬間——
壁と影に擬態していた巨大な蜥蜴が、
音もなく姿を現した。
飛壁の魔物。
二人の行動は、
すでに監視されていた。