「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
夜風が林を裂くように吹き抜け、枝葉が震えた。
蒼白い狐火が闇を照らし、その中心に一騎の影が疾走する。
銀狐(ぎんこ)は三尾の霊狐に跨り、面の奥から鋭い眼差しで前方の黒影――阿虫(あむし)を睨みつけていた。
「逃げ足だけは……一人前ね」
霊狐が跳躍する。
三本の尾が同時に振り下ろされ、蒼い狐火が三条の斬光となって闇を裂いた。
阿虫は林の影を縫うように走り、落ち葉一枚踏み鳴らすことなく地を滑る。
鍛えられた技によるものではない。
ただ――生き残るための本能がそうさせているだけだ。
飛来する狐火が炸裂し、木々が弾けた。
――ドンッ!
火光が夜空に咲き、阿虫は転がるようにして再び影へと消える。
「隠れたつもり?」
銀狐は冷たく笑う。
「ならば――暴き出すまでよ」
右手をそっと持ち上げる。
澄んだ光が掌に集まり、無数の粒子となって空気へ溶けていった。
次の瞬間。
光の粒が舞い散り、数万の蝶となって林に広がった。
半透明の羽――魂に触れるようなざわめき。
万花蝶(まんかちょう)。
「探しなさい」
蝶たちは風とともに木々の隙間へと溶け込み、周囲の“神”の波を探知していく。
精は根、気は力、神は識。
術を扱うには“神”を触れさせる必要がある。
万花蝶は術者の神識を写し取った存在――
空気に触れるだけで生命の精神波を捉える。
阿虫は枝葉の影に身を潜めながら、空気がぞわりと逆立つ感覚を覚えた。
「……やっかいだな」
その直後、霊狐の三尾が同時に振り上げられた。
――轟ッ!
狐火が網のように広がり、木々を焼き穿つ。
阿虫は炙り出され、地面を転がりながら別の影へと逃げ込む。
「よく動くわね。なら――もっと追い詰めてあげる」
阿虫は高木へ跳び移り、銀狐を見下ろしてニヤリと笑った。
「おい銀面。そんなに俺のこと気に入ったのか?」
「……はあ?」
霊狐の尾火がさらに燃え上がる。
阿虫は肩をすくめる。
「いや、だってさ。全然俺を捕まえられないし?」
「……言ったわね」
銀狐も高枝へ跳躍し、対峙する。
「――万花蝶」
再び蝶の群れが炸裂し、夜空へと舞い上がった。
その光景を、阿虫は焦る様子もなく見つめる。
手のひらに青い火が灯る。
深淵の色をした、冷たい火。
「魂網(こんもう)」
阿虫の周囲に迫った万花蝶は、触れた瞬間に青い糸に絡め取られた。
火の糸は生き物のようにうねり、蝶を絡め、凍らせ、砕く。
そして――
その糸は蝶の源へと逆流する。
「――っ!」
銀狐の身体に青い火糸が絡みつき、腕、腰、脚を拘束した。
「なっ……!? この冷たさ……っ」
霊魂を媒介とする青い火は、見た目こそ炎だが、触れれば刺すような冷気が走る。
「動くな」
阿虫は軽やかに地へ降りた。
「ちょっとしたお仕置きだ。俺たちの邪魔をした罰、な?」
「あなた……っ! 離しなさい!!」
「へえ? そのままでもいいぞ? それ、触れてるだけでどんどん冷えるから」
銀狐の呼吸が乱れる。
阿虫が歩み寄る。
その声音にはからかいよりも、どこか危うい優しさが混じっていた。
「大人しくしてろ。別に傷つける気はねぇからさ」
「う、うるさい……!」
その瞬間――
轟ッ!!
霊狐が暴発するように突進した。
三尾が一斉に阿虫を狙う。
無茶な攻撃。
このままでは銀狐自身も巻き込まれる。
「お前……馬鹿かよ!!」
阿虫は魂網を即座に解除し、拘束の反動でぐらついた銀狐を抱きしめるように引き寄せ、そのまま木々の影へ飛び込んだ。
二人は高所から転がり落ちる。
阿虫は銀狐を庇う形で地面に叩きつけられ、息を飲んだ。
銀狐は目を見開き、阿虫の顔と至近距離で向き合った。
――呼吸。
――体温。
――心音。
面具が外れ、白い頬が露わになる。
阿虫は一瞬、言葉を失った。
銀狐もまた動けない。
なぜか胸がざわつく。
初めて見るはずの顔なのに、どこか……懐かしい。
「……ど、どきなさい……! 重い……っ」
銀狐が赤い耳を隠しながら押し返す。
阿虫も慌てて体を起こした。
「いやお前、さっき自分ごと焼かれるとこだっただろ! 助けただけだ!」
「助けろなんて言ってない!!」
「放っといたら死んでただろ!」
「余計なことを……っ!!」
二人が同時に顔を背けた瞬間――
……ドズン。
地面が震えた。
直後。
林を薙ぎ払うような咆哮が響く。
巨影が闇を割って姿を現した。
暴雉獣(ぼうちじゅう)。
巨岩のような胴体に鋼鉄めいた羽毛。
頭部は猛禽のような険しい形をしており、退化した翼を叩けば空気そのものが震える。
四肢は太く、踏みしめる度に地面が沈む。
その瞳には――怒りしかなかった。
阿虫が顔を引きつらせる。
「……最悪だ」
銀狐も青ざめる。
「な、なんでこんな獣が……!?」
阿虫は顎で示す。
暴雉獣の背後――
粉々になった巣と、赤黒い殻の破片。
「……お前の狐火が、巣の卵を焼いたらしいぞ」
「――――っ!!」
銀狐の顔色が最悪の意味で変わった。
暴雉獣が咆哮する。
その足が持ち上がり――
大地が砕けるように、振り下ろされた。