「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
夜の闇が完全に降りたとき、
泰城は何かに覆い塞がれたようだった。
静けさではない。
それは、意図的に音を抑え込んだような気配だった——
通りにはまだ人の往来があり、酒楼には灯も残っている。
だが空気の中には、言葉にしがたい湿り気と冷たさが一層加わっていた。
まるで夜のどこかで、何かが待っているかのように。
阿虫は前を歩いていた。
歩調は、いつもより半拍だけ速い。
辛夷はその後ろを歩いている。
呼吸はまだ安定していたが、神識は張り詰めたままで、まったく緩んでいなかった。
彼女の脳裏には、あの青色の斑点の症状のことが、ずっと引っかかっている。
一笑楼の灯籠が、夜風に揺れていた。
正門の前に差しかかったとき、阿虫の足取りがふいに止まった。
辛夷は彼の視線を追って前を見る——
そこに、三人が立っていた。
先頭の女は淡い色の斗篷(クローク)をまとい、背筋を伸ばして立っている。
硬すぎるわけではないが、視線を受けることに慣れていながら、あえて場を占めない立ち方だった。
彼女は門の扁額を見上げ、何かを確かめるように眉根をわずかに寄せている。
その背後には、若い女が二人、左右に分かれて立っていた。
佩剣は腰に沿わせ、半ば護衛の構え。
視線は派手に動かさないが、周囲の環境から一瞬たりとも目を離していない——
それは、問天教の弟子特有の警戒姿勢だった。
阿虫がその顔をはっきりと認識した瞬間、
口元がほとんど反射的に歪んだ。
「……ふん。」
ごく軽い一声だったが、露骨な不機嫌さを帯びている。
斗篷の女もそのとき振り向き、視線が阿虫と正面からぶつかった。
彼女は一瞬、はっきりと怔んだ。
まさか、こんな場所で、こんな時刻に、
昼間あの全身に刺々しい気配をまとっていた少年と再会するとは、思っていなかったのだろう。
「……あなたは——」
彼女が口を開きかけた、その瞬間。
「よぉ。」
阿虫が先に言葉を被せた。声音は冷え切り、棘を含んでいる。
「慕容(ムヨウ)家のお嬢様が、夜中にまで民情視察か?」
彼は「お嬢様」という三文字を、わざと軽く噛んだ。
軽いが、はっきり聞こえる程度に。
背後に立つ背の高い女弟子——草芳(ソウホウ)が眉を沈め、指を剣柄にかけた。
「言葉を慎め。」
声音は冷たく硬い。
「お前の前にいる方は——」
「慕容家のお嬢様、だろ?」
阿虫は横目で振り返り、嘲るように笑った。
「だからこそ、可笑しいんだ。」
辛夷は阿虫の少し後ろに立ち、口を挟まなかった。
彼女の視線は、水仙とその二人の女弟子の間を一巡する。
心の中では、すでに判断がついていた。
揉め事を起こしに来たわけではない。
だが、いつでも斬れる。
しかも相手は魔気感知の内功を修めているらしく、
もし自分に炜菩提がなければ、すでに衝突に発展していてもおかしくなかった。
斗篷の女は、怒った様子を見せなかった。
彼女は静かに阿虫を見つめ、少し間を置いてから、相変わらず穏やかな口調で言った。
「あなた方も、この一笑楼で食事を?」
「なんだよ、ここは俺の家だって言いたいのか?」
阿虫の目つきが、即座に冷えた。
さらに刺し返そうとした、そのとき——
一笑楼の扉が、内側から開いた。
灯りが、外へと流れ出す。
阿橙が戸口に立っていた。
まず阿虫に視線を落とし、次に門外の三人へと向ける。
その一瞥だけで、相手の身分と来意を察したようだった。
「夜は冷えます。」
声は高くないが、自然と場を制する響きがあった。
「ご用向きは、ご食事でしょうか。それともお泊まりですか?」
斗篷の女はわずかに間を置き、うなずいた。
「ここで、人と会う約束が。」
阿橙の目が、ほんの少しだけ動いた。
「太史邦(タイシ・ばん)前輩と、ですか?」
斗篷の女は、名を即座に言い当てられたことに驚いた様子を見せたが、やはりうなずいた。
「はい。」
阿橙は体を横にずらし、入口を空けて、手で中へと促した。
「それでしたら、どうぞ。」
そう言ってから、視線を阿虫に移す。
声を極限まで落とし、彼にだけ聞こえるように。
「阿虫、無礼は控えて。」
阿虫は舌打ちした。
明らかに不満そうだったが、それでも道を譲った。
辛夷が後に続いて中へ入るとき、
二人の問天教の女弟子の視線が、一瞬だけ彼女の上に留まり、すぐに外れた。
覚えはするが、まだ判断は下さない——そんな目だった。
扉が、背後で閉まる。
一笑楼は、再び灯火に包まれた。
だが、先ほど門口に漂っていた不協和な冷気は、完全には消えていなかった。
店内の灯りが落ち着く。
西門鸢(シモン・とび)は前堂で空いた卓を片づけ、
欧陽莺(オウヨウ・おう)は後厨から酒壺を抱えて出てきて、すぐに頭を下げて脇を抜ける。
玉莲(ギョクレン)は後厨で熊伯(くまはく)の手伝いをし、包丁の音は規則正しく響いていた。
見た目だけなら、いつもと何も変わらない。
阿虫は辛夷を後厨の方へ指し示した。
「先に奥へ行け。」
辛夷は反論しなかった。
ただ一度、彼を見てから、踵を返す。
今の自分が表に出れば、余計な厄介事を呼ぶだけだ。
それを、彼女自身がよく分かっていた。
阿虫は阿橙の視線に“押さえ込まれた”ような感覚を覚え、
結局、斗篷の女たち三人を、店の端に用意されていた席へ案内するしかなかった。
態度はひどく不本意で、まるで厄介な死体を引きずっているみたいだった。
二人の女弟子は腰を下ろすなり、店の中をすぐに見回した。
壁際、梁、入口、あらゆる影。
食べに来たというより、刺客を警戒しに来た目だった。
阿虫は雑巾を肩に放り投げ、やけに気だるい声で言う。
「何にする?」
問天教の二人はすぐには答えず、ただ阿虫を見ていた。
この少年がまた口を滑らせるつもりかどうか、確かめているようだった。
先に口を開いたのは斗篷の女だった。
「野菜料理はありますか?」
語り口は自然だった。
「少しでいいので。」
阿虫の眉が、ほとんど反射的に寄った。
横を向いて「チッ」と舌打ちする。
面倒事を聞かされたみたいな顔で。
「野菜料理?」
「ほんっと、手間が多いな。」
斗篷の女を見上げ、口元に露骨な嘲りを浮かべる。
「肉を食わなきゃ偉く見えるのか?」
「血に触れなきゃ、心まで綺麗になるとでも?」
その瞬間、草芳の気配が明らかに沈んだ。
もう一人の護衛役、香菱(コウリョウ)は椅子を擦る音を立てて半身を起こす。
「無礼だ。」草芳が冷たく言う。
「その言い方は、お嬢様に——」
「お嬢様お嬢様。」阿虫は手を振った。蝿でも払うみたいに。
「お前らのお嬢様は、肉を食わなきゃ、この世に死人がいないことにできるのか?」
言葉は速い。
溜め込んでいた悪意を一気に吐き出すみたいに。
「だったら、こうしろよ。」
「お前らには、あんまんでも二籠出してやる。」
語調がふっと変わり、悪意じみた軽薄さが混じる。
「甘くて柔らかいぞ。」
「食い終わったら、今よりもっと膨らむだろ。」
言い終えた瞬間、空気が裂けた。
香菱が「カン」と勢いよく立ち上がり、もう剣柄に手を置いている。
殺気を隠す気もない。
「お前——!」
草芳は香菱よりさらに早く、すでに完全に立ち上がっていた。
視線は氷みたいに冷たい。
「もう一言でも言えば、その場で舌を切り落とす。」
阿虫は、逆に笑った。
愉快さの笑いではない。
追い詰められた末の、反撃の笑いだ。
「やってみろよ?」
「問天教ってのは、斬妖除魔(ざんようじょま)を掲げてるんだろ?」
「今度は言葉のせいで人殺しか? こわ〜い。」
畳みかけるように言葉を重ねる。
「どうした?」
「それとも、お前らの剣は、後ろ盾のない相手にしか向けられねぇのか?」
そのとき、阿虫の肩に手が置かれた。
重くはない。
けれど、揺るがない。
阿橙が、いつの間にか背後に立っていた。
草芳も香菱も見ない。
視線は、ただ阿虫にだけ落ちている。
「阿虫。」
たった二文字。
それだけで、阿虫の肩がはっきりと強張った。
すぐには言い返さない。
だが、すぐに頭を下げることもしない。
阿橙はそこでようやく斗篷の女へ向き直った。
表情は、完全に別の“分寸”へ切り替わっている。
「失礼いたしました。大変申し訳ありません。」
「阿虫は口が悪く……私のしつけが行き届いておりません。」
斗篷の女の視線がわずかに動く。
阿橙と目が合っただけで、どこかで合意が成立したようだった。
阿橙は続けた。
「お料理は何でもお作りできます。」
「野菜料理も、お菓子も、温かい汁物も、熱いお茶もございます。」
斗篷の女は少し黙った。何かを量るように。
それから、微かに笑う。
「では、お菓子と野菜料理を少し。」
「それと熱いお茶を一壺、お願いします。」
阿虫の言葉には触れない。
自分を弁解することもない。
“刺を飲み込む”ようなその抑制が、
かえって草芳と香菱を戸惑わせた。
阿橙は頷き、後厨へ向かった。
去り際、低い声で阿虫に付け足す。
「少しは抑えなさい。」
それは警告だった。
阿虫は口元を引きつらせ、結局それ以上は言わなかった。
背を向けるとき、わざと嫌味たっぷりに言い放つ。
「慕容家のお嬢様が、こんな寒酸たる店にご来店とは、さぞご不快でしょうねぇ。」
「こんな汚い場所じゃ、裙角も汚れちまう。」
「お茶でも持ってきて、埃でも洗い流して差し上げますよ。」
斗篷の女は振り返らなかった。
ただ端正に座ったまま、卓上に置いた両手の指先を、ほんの一瞬だけ強く握りしめる。
それは屈辱の怒りではない。
現実へ無理やり引き戻されたときの、刺すような痛みだった。
ほどなく、お菓子と野菜料理が運ばれてきた。
淡い味だが、整っている。
この卓だけが浮いて見えないよう、意図して用意された品だった。
阿虫は別の客に呼ばれて酒の注文を取りに行っていたが、
戻ってくると、斗篷の女が相変わらず背筋を伸ばして座り、
茶碗に視線を落としたまま、口をつけていないことに気づいた。
何かを待っているみたいだった。
「あなた、阿虫っていうのよね?」
声をかけたタイミングが妙に正確だった。
阿虫が背を向けて去ろうとした、その瞬間を狙ったように。
阿虫は足を止め、振り返る。眉を吊り上げる。
「何か御用ですか、お嬢様。」
「俺みたいな賤民の名前、口にしたら汚れますよ?」
女は刺されない。
斗篷を脱ぎ、真の姿を見せた。
雪みたいに白い肌、瑕のない赤い瞳で阿虫を見据え、真面目に名乗る。
「水仙(すいせん)と申します。」
「慕容水仙(ムヨウ・すいせん)です。」
今回は侍従に代弁させない。肩書きも付けない。
ただ、名前だけ。
阿虫は彼女を見つめ、少ししてから笑った。
「へぇ。」
「それが“水仙”か——今の東皇の妹君、帝国の皇女殿下ってわけだ。」
声は強くない。
だが距離ははっきりしている。
水仙はその隔たりを気に留めず、言葉を継ぐ。
「昼間の猫のこと……見ていました。」
阿虫の目が即座に冷える。
彼は卓に寄りかかり、片手で縁を支える。
気だるい姿勢だが、いつ噛みついてもおかしくない。
「見たから何だ?」
「代わりに公道でも求めに来たのか?」
水仙は首を振る。
「責めに来たのではありません。」
少し間を置く。言葉を選ぶみたいに。
「ただ……あなたのやり方には賛同できないと思っただけです。」
阿虫の笑みが消える。
「賛同できない?」
「だから何だ?」
声は低いが、言葉のひとつひとつに棘がある。
「子猫は今夜を越えられなかった。」
「少しでも苦しまないようにした。それの何が悪い?」
水仙は目を逸らさない。
「長くない命だとは、私も分かっています。」
「けれど、命を終わらせる選択をするなら、他人が代わりに決めるべきではないと思います。」
草芳はわずかに眉を寄せた。
草芳も香菱も問天教の弟子になるまで、幾つもの苦難を越えてきた。
もし失敗していれば、帝国の名もなき民に過ぎなかったはずだ。
“選択”というものが、自分たちの人生にあったのか——
そう考えると、簡単には答えが出ない。
香菱は冷たい声で言った。
「お嬢様、この世の多くは身動きが取れないものです。」
「ましてや、数匹の子猫など……」
阿虫が冷笑する。
「聞いたか?」
「お前のそばの奴の方が、よっぽど分かってる。」
だが水仙は二人を振り返らない。
阿虫を見つめたまま、声は静かだが芯がある。
「現実が残酷だからこそ、私は“選択”が大切だと思うのです。」
阿虫がふいに背筋を伸ばす。
その瞬間、気配がはっきり変わった。
「選択?」
「俺に、選択を語るのか?」
水仙を睨み、声を落とす。
「俺が子供の頃、どれだけ多くの人間が、選べずに死んだと思ってる?」
空気が一気に張り詰めた。
草芳が反射的に一歩前へ出る。
だが水仙が手を上げて制した。
数息の沈黙。
「あなたの過去は知りません。」
水仙は率直に認める。
「理解したふりをするつもりもありません。」
一拍置いて続けた。
「けれど、人と人とが理解を試みる余地がある限り、
暴力に頼らずに済む可能性は残ると、私は信じています。」
香菱が眉をひそめる。
「お嬢様、この世は——」
「分かっています。」
水仙は遮るが、苛立ちはない。
「分かっているからこそ、私はそう考えるのです。」
阿虫を見るその目に初めて、
同情ではない、“真剣に向き合う重さ”が宿った。
「もし“理解”を放棄すれば、残るのは、もっと速い崩壊だけです。」
阿虫はすぐには言い返さない。
水仙を見つめ、ほんの一瞬、複雑な色が浮かぶ。
説得されたわけではない。
ただ、触れられたくなかった場所に触れられただけだ。
そしてもしかすると、目の前の皇女殿下は、自分が想像していたほど単純ではないのかもしれない。
阿虫は舌打ちし、視線を逸らす。
「皇女殿下は、綺麗な言葉がお上手だ。」
「だがな。」
「この世は、綺麗事じゃ持たねぇ。」
水仙の卓の空気が、まだ完全に緩みきらないうちに、
前堂の反対側から別の客が手を挙げた。
「おい、店員。」
阿虫は呼ばれ、注文を取りに向かう。
ひとまずこの卓を離れることになった。
水仙は、このときになって初めて、
本当にこの店そのものへと視線を落とした。
見るところは細かい。
擦り減った敷居の跡、古びた卓や椅子、壁の隅に当てられた補修の痕、
かまどの匂いに混じる、ほのかな酒の香り。
そして——
そこにいる一人一人の顔に刻まれた、「生きるのが大変だ」という痕跡。
草芳は怒りを抑え、低い声で言った。
「お嬢様、なぜあのような賤民と、あれほど言葉を交わされるのですか。
昼間の件でも無礼でしたし、夜にはあそこまで侮辱して……
本来なら、とっくに——」
香菱も眉をひそめる。
「あの口ぶり、舌を切られても文句は言えません。」
水仙は、静かに首を振った。
「あなたたちが気にしているのは、彼の“無礼”。」
「私が気になっているのは、彼の“戾り”よ。」
草芳が、わずかに目を見開いた。
水仙は、阿虫が去っていった方角を見やり、さらに声を落とす。
「あの少年が、理由もなく、あんな目をするはずがない。」
「あの怒りは、虚勢のためじゃない……
たくさんの冤屈や悲しみを背負っているように見えた。」
香菱は理解できない、という顔をした。
「ですが、それが……お嬢様と何の関係が?」
水仙は茶碗を手に取り、指先で縁をゆっくりとなぞる。
「今回、私は問天教での修行を終えて下山(げざん)したけれど、
わざと儀仗も使わず、官道も通らず、宿駅にも泊まらなかった。」
少し間を置き、言葉を選ぶ。
「百鳳帝国の平民たちが、
本当はどんな日常を生きているのか、それを見たかったの。」
「宮廷では、常に誰かが私を見ている。」
「歩く方向一つ、決められている。」
「それなのに、民がどう生きているかも知らずに、
どうして“世界を良くする”なんて言えるのかしら。」
草芳と香菱は、思わず視線を交わした。
二人はそのとき初めて気づいた。
長公主の“優しさ”は、弱さではない。
むしろ、ほとんど頑固と言えるほどの信念なのだと。
草芳は低く言う。
「……お嬢様は、お優しすぎます。」
水仙は彼女を見上げ、かすかに笑った。
「優しさじゃないわ。」
「私は信じているの。
人と人の間には、どれほど身分が隔たっていても、
理解に至る道があると。」
「もし理解がなく、残るのが剣と命令だけなら、
帝国の未来は、きっと今より悪くなる。」
香菱の胸が、わずかに震えた。
問天教の教義——
「斬妖除魔」。
師門で何度も、“妖”と“悪”を同一視してきた記憶。
そのとき初めて思う。
教義は剣だ。
だが、剣を振るう者には、判断する心がなければならないのではないか。
水仙は二人を見て、穏やかに言った。
「ここまで同行してくれて、ありがとう。」
「大変だったでしょう。」
草芳と香菱は、すぐに立ち上がり、礼を取った。
「お嬢様をお守りできるのは、私たちの誇りです。」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、
草芳の腰の剣が、かすかに震えた。
風ではない。
剣そのものが、震えたのだ。
香菱も即座に察し、剣柄に手を置く。
目が鋭くなる。
「……魔気です。」
二人は同時に声を落とし、
梁、入口、窓辺、あらゆる角を探る。
一笑楼の客たちは、まだ飲み食いを続けている。
誰一人、その“匂い”に気づいていない。
水仙の眉が、わずかに寄った。
だが、動じない。
「他のお客を驚かせないで。」
その直後、草芳の視線が、料理を運んでくる欧陽莺に突き刺さった。
欧陽莺は皿を安定して持っていたが、
その視線は針のように刺さる。
足が止まり、顔を上げ、即座に警戒の色が宿る。
「カン」という音とともに、草芳が剣を抜いた。
切っ先は、欧陽莺の喉元を正確に捉えている。
「お客様……」
欧陽莺は声を抑えた。
「いきなり、何を?」
草芳の声は冷たい。
「お前から、妖族の気配がする。」
「お嬢様に近づいた。刺客か?」
店内の空気が一変した。
驚いた客が器を鳴らし、緊張が走る。
欧陽莺の目が冷える。
尾骨の奥で妖力が反発しそうになるが、
必死に押さえ込む。
皿を置き、声をさらに低くする。
「誤解です。ただ、料理を……」
香菱も立ち上がり、剣を半ば抜く。
「問答無用。」
「妖は妖。問天教の弟子として、妖を見れば——」
欧陽莺は、もはや本能を抑えきれなくなりかけていた。
瞳が徐々に、妖狐のそれへと変わっていく。
脅威に対する、種族としての警戒反応だ。
「やめなさい。」
水仙の一言が落ちる。
声は大きくない。
だが、剣先に冷水を浴びせたように、場を制した。
草芳の剣は、なお欧陽莺を指している。
だが、その手が、ほんのわずかに止まる。
「お嬢様、しかし——」
水仙は立ち上がり、剣先のすぐ脇へ歩み出た。
避けることもなく、欧陽莺を真正面から見据える。
「あなたの名前は?」
欧陽莺は一瞬、戸惑う。
「……欧陽莺です。」
水仙は頷いた。
「欧陽さん。」
「怖がらなくていいわ。
彼女たちは、あなた個人ではなく、魔気に反応しただけ。」
そう言ってから、草芳と香菱に向き直る。
声は穏やかだが、退く余地はない。
「剣を収めなさい。」
「そして、彼女に謝りなさい。」
草芳は歯を食いしばる。
「お嬢様、彼女は妖——」
水仙の眼差しが、初めて沈んだ。
「生まれは本質を決めない。」
「問天教の教義は斬妖除魔。
でも、血筋だけで善悪を断じるなら、それは迂腐よ。」
香菱の指が強くなる。
やがて、剣を収めた。
草芳も一拍遅れて剣を戻し、硬い声で言う。
「……失礼しました。」
欧陽莺は二人を見つめ、冷笑しかけた。
「問天教は人を怪物扱いするのが得意だ」と言い返しかけて——
だが、水仙の澄んだ眼差しに、言葉を飲み込んだ。
その目には、侮蔑がない。
あるのは、ほとんど無防備なほどの真剣さだけだった。
喉が詰まる。
料理を卓に置き、欧陽莺は小さく言った。
「……ありがとうございます。」
水仙も、静かに頷く。
「こちらこそ。
先ほどは、失礼しました。」
その瞬間、草芳と香菱の胸に、言いようのない違和感が生まれた。
“斬妖除魔”という立場のまま、
初めて“妖”という言葉を見つめ直さざるを得なくなったのだ。
だが、魔気の震えは消えていない。
むしろ、近づいている。
阿虫は水仙の卓から視線を戻す。
さきほどのやり取りは、すべて見ていた。
本当は、さらに皮肉を投げるつもりだった。
だが、水仙が本当に言行一致の人間だと分かり、
それ以上、口を挟む気になれなかった。
阿虫は別の卓へと歩いていった。
顔にはすでに、いつものあの軽薄で気だるい表情が戻っている。
その卓には、深灰色の斗篷をまとった二人の客が座っていた。
水仙たちより少し遅れて入店してきた連中だ。
斗篷は深く被られ、兜帽が顔の大半を覆っている。
露わになっているのは、顎の輪郭だけ。
一人は背が高く、一人は細身。
どちらも、どこか落ち着かない座り方をしており、
むしろ意図的に影へと身体を寄せているようだった。
阿虫は一目見た瞬間、胸の奥が「ぐっ」と鳴った。
——おかしい。
普通の江湖者とは違う。
それは、いつでも動けることに慣れきった身体の在り方だった。
阿虫は表情に出さなかったが、内心では警戒を最大まで引き上げていた。
例の“殴りたくなる”笑みを貼り付け、
相変わらずの軽い口調で声をかける。
「お二人さん、何にします?」
「酒も肉もあるし——あ、いや、野菜料理も少しならありますよ。」
背の高い方は、すぐには答えなかった。
細身の方が、わずかに顔を傾ける。
何かを聞いているようでもあり、
周囲の位置関係を確かめているようでもあった。
阿虫の視線が、さりげなく二人の足元へと落ちる。
……綺麗だ。
泥も、水の跡もない。
つい今しがた、街路から入ってきた人間の足ではない。
胸のざわめきが、一気に膨らんだ。
そのとき、水仙の卓の方で、草芳がふと視線を上げた。
眉根が、ほんのわずかに寄る。
——魔気の位置を、探っている。
阿虫は、その変化を見逃さなかった。
ほとんど即座に、確信する。
この二人は、
問天教の剣修ですら、すぐには捉えきれなかった存在だ。
危険だ。
それも、相当。
阿虫は迷わなかった。
「ごゆっくり考えてください。」
「先にお茶、入れてきますから。」
茶壺を持って背を向けた瞬間、
口の奥で、ごく短く、ごく軽い音を鳴らす。
「チッ。」
猫を呼ぶような、あの合図。
堂内のざわめきに完全に紛れた。
だが、後厨の入口にいた欧陽莺の手が、はっきりと止まる。
卓を拭いていた西門鸢の動きも、半拍だけ遅れた。
阿虫は何事もなかったように歩き続ける。
欧陽莺の横を通り過ぎるとき、低く言い捨てた。
「あとで騒ぎになったら、先に客を逃がして。」
欧陽莺は顔を上げ、彼を見る。
理由は聞かない。
ただ、静かに頷いた。
阿虫はさらに帳場の方へと目をやる。
阿橙は帳面を見下ろしていたが、
阿虫の視線を感じた瞬間、顔を上げ、目が合った。
言葉はない。
だが、それで十分だった。
——後口は、任せろ。
阿虫はそれを確認してから、再び斗篷の二人の卓へ戻る。
茶壺を置き、先ほどより少しだけ声を落とした。
「お二人、決まりましたか?」
背の高い斗篷の客が、ようやく顔を上げた。
兜帽の下、異様に光る眼。
酔っているわけじゃない。
抑え込まれた、飢えたような高揚感。
「注文は——」
一拍、間を置く。
口角が、ゆっくりと吊り上がった。
「人、一人。」
阿虫の目が、その瞬間、完全に冷えた。
だが、聞き取れなかったふりをして、首を傾げる。
「一人?」
「ニン、って言ったか?エビチリの二人前? それとも杏仁(あんにん)?」
細身の斗篷の男が、低く笑った。
その笑い声は、壁に貼りつくように這う。
「人だよ。」
「——辛夷。」
阿虫は、すっと背筋を伸ばした。
もう迷いはない。
錯覚じゃない。
この二人の意識は、入店した時からずっと、
後厨の方角を離れていなかった。
頭の中で、瞬時に整理する。
——辛夷。
——狙いは明確。
——偶然じゃない。
阿虫は、足を上げた。
動きは大きくない。
だが、あまりにも唐突だった。
「ドン。」
斗篷が蹴り飛ばされる。
灯りが、その顔を完全に照らす。
百足の口元が裂け、
最初から隠す気などなかった、あの凶悪な笑みが露わになる。
「またてめぇかよ、小僧。」
反対側で、細身の斗篷の男も、ゆっくりと顔を上げる。
舌先が唇を舐めた。
壁に張りつく影のような視線。
飛壁だ。
堂内の空気が、この瞬間、がらりと変わった。
まだ状況を理解していない客もいる。
ただ、背中を冷たいものが撫でたような感覚だけが残る。
阿虫は二人の前に立ち、
かえって声を落ち着かせた。
「莺、今だ!」
振り返らない。
「客を出せ!」
西門鸢は即座に通路へ出て、客の誘導を始める。
阿橙も後口へ向かい、
はっきりと、落ち着いた声で告げた。
「皆さま、店内で少々問題が起きました。申し訳ありません。」
「お代は結構です。こちらからお進みください。」
「ゆっくり、慌てずに。」
その指示は、まるで荷を運ぶかのように冷静で、
人は無意識のうちに従ってしまう。
玉莲も後厨から飛び出し、熊伯とともに人を後口へ誘導する。
西門鸢はさらに早く、椅子を二脚掴んで通路脇に置き、
転倒や将棋倒しを防いだ。
そのときになって、草芳と香菱ははっきり理解した。
さきほど剣が震えた理由。
感知していた魔気は、欧陽莺ではない。
——この二体の魔族だ。
二人は同時に立ち上がる。
「魔族……!」
香菱が歯を食いしばり、剣を抜く音が灯りの下で鋭く響いた。
草芳は即座に立ち位置を変え、
香菱と交差する形で前後に並ぶ。
一瞬で、気が重なる。
「結陣!」
剣の音が消えきる前に、二人は踏み出していた。
条件反射のように完成する配置。
問天教剣修の基礎にして、最も堅実な合撃陣——
九天合璧・起式(きゅうてんがっぺき・きしき)。
水仙が立ち上がろうとした瞬間、
阿虫が彼女の手首を掴み、そのまま壁際へ引きずった。
「真ん中に立つな!」
低く吐き捨てる。
「的になるつもりか!」
水仙は一瞬、言葉を失った。
阿虫はすでに彼女を柱の陰へ押し込み、
戦場の中心を草芳と香菱に譲っている。
その横顔を見て、水仙は初めて気づいた。
この少年は口は悪い。
だが、判断は速く、
そして——死を恐れていない。
阿虫は二人の魔族へと向き直る。
「辛夷を注文したいって?」
冷笑が浮かぶ。
「なら、まずは——」
「——この店に聞け。」
「許すかどうかをな。」
飛壁が歯を剥いて笑った。
「前に百足の邪魔をした小僧だな?」
「今夜は、まず舌を引き抜いてから、辛夷を連れていく。」
阿虫も笑う。
もっと腹立たしい笑みで。
「その長い舌、しまっとけよ。」
「雑巾代わりに引きちぎられたくなきゃな。」
「死ね!」
飛壁の姿がぶれ、
壁に貼りつくように跳ね上がり、梁の影へと溶け込む。
草芳は正面で百足を捉え、剣先を向ける。
香菱は後方で気を沈め、
飛壁の気配を捕らえ、即座に補位できる態勢に入る。
迷いはない。
相手の魔気は、もはや“可能性”ではなかった。
——確定した、狩りの対象。
剣光が、ほぼ同時に走る。
速く、正確で、容赦がない。
無数の斬妖を経て身につけた、
問天教弟子の呼吸そのものだ。
百足は腕を上げ、真正面から受け止めた。
金属がぶつかるような衝撃音。
刃は肉を裂いた。
だが、厚い甲を斬ったかのように、
暗赤色の血が散るだけ。
致命傷には程遠い。
むしろ——
何かを、完全に怒らせた。
百足の瞳が、ぎらりと収縮する。
次の瞬間、笑みが歪みきった。
「……それだけか?」
低く唸る。
魔気が、体内から爆発するように噴き上がった。
床板が悲鳴を上げ、
卓や椅子が衝撃で跳ね飛ぶ。
草芳と香菱の陣形が、強引に半歩押し崩された。
——その、半歩。
百足の身体が、変質を始める。
骨が「バキバキ」と音を立て、
肩と背が盛り上がる。
皮膚の下で、何かが蠢く。
暗色の魔紋が、節をなして浮かび上がり、
蜈蚣の外殻のように全身を覆っていく。
——魔人化。
制御された変化ではない。
引き返す気など、最初からない。
草芳と香菱の顔色が、はっきりと変わった。
二人はようやく理解した。
これは、ただの下級魔族ではない。
仿制型聖鎧に匹敵する凶物だ。
「香菱——合神の準備を!」
二人は同時に懐へ手を伸ばす。
掌の中で、白い結晶——鎧魂萃が淡く光った。
だが、気と神を巡らせる暇はなかった。
「ドン——!!」
足元の床が爆ぜる。
轟音とともに、
巨大な白い影が地中から突き破って現れた。
——白い大蛇。
自然に存在する妖獣ではない。
鱗は不自然な冷光を帯び、
胴体は前堂の一角を埋め尽くすほど太い。
蛇の瞳には感情がない。
あるのは、命じられた殺意だけ。
毒魔将が、百足と飛壁に与えた任務用の魔物だった。
草芳は反応する間もなかった。
白蛇の胴が一気に振るわれ、
そのまま彼女を巻き取る。
「ガキッ——!」
耳を刺すような骨の軋む音。
草芳の顔から血の気が引き、
喉から押し殺した呻きが漏れる。
鎧魂萃が、力なく掌から滑り落ちた。
香菱は、ほとんど反射的に飛び出した。
「草芳——!!」
瞳孔が一気に縮む。
だが、彼女が踏み出した瞬間、
梁の上の影が動いた。
飛壁の長い舌が、鞭のように叩き落とされる。
狙いは身体ではない。
——香菱の剣。
——そして、彼女が掴んだ鎧魂萃。
「パァン!」
剣が弾き飛ばされる。
香菱が理解するより早く、
百足が目の前に現れていた。
無駄な動作はない。
ただ——拳。
重さだけで叩き潰す、一撃。
「ドンッ——!!」
香菱の身体が吹き飛び、
壁に激突する。
悲鳴を上げる暇すらなく、
口と鼻から血が溢れ出た。
身体は壁を伝ってずり落ち、
床に叩きつけられる。
一度、びくりと痙攣して——
内臓が潰れたことは、誰の目にも明らかだった。
柱の陰にいた水仙の顔が、瞬時に真っ白になる。
彼女は、はっきりと感じていた。
——香菱の気息が、
あの一撃で、ほとんど断たれた。
草芳は白蛇に締め上げられ、
骨はなおも圧迫され続け、
呼吸が乱れ始めている。
必死の局面。
技量の問題ではない。
力の階層が、完全に違う。
百足は砕けた床の中央に立ち、
翻る魔気の中で、捕らえた二人を見下ろした。
獲物の状態を確認するかのように。
飛壁は高所の壁に張りつき、
舌先をゆっくりと引き戻す。
冷たい視線。
「……もう終わりか?」
「もう少し遊べると思ってたんだがな。」
低い声。
水仙は、ほとんど無意識に一歩踏み出した。
分かっている。
今、あと一息遅れれば——
二人とも死ぬ。
だが、飛び出そうとした瞬間。
一只の手が、彼女の前に差し出された。
阿虫の手。
強くはない。
だが、迷いがない。
「動くな。」
水仙ははっと顔を上げた。
「今助けなければ——!」
「分かってる。」
阿虫の声は低く、感情がないほど冷静だった。
「だからこそ、今のお前は出るな。」
水仙は言葉を失う。
阿虫は百足と飛壁を睨み据え、
声をさらに落とす。
「さっきの状況、見ただろ。」
「お前が姿を出したら、死ぬのは二人じゃ済まない。」
水仙の呼吸が、一瞬乱れた。
この少年は、感情で止めているのではない。
冷酷でもない。
——生き残る確率を、計算している。
阿虫は彼女を見なかった。
ただ、低く付け足す。
「俺があいつらを引きつける。」
「隙を作る。その間に二人を助ける。」
水仙は阿虫を見つめた。
初めて、本当に理解した気がした。
彼は慈悲を知らないのではない。
救える場所にしか、慈悲を使わないだけだ。
その瞬間、水仙の中で、
彼が子猫に下した“判断”の意味が、
一段深く腑に落ちた。
水仙は自分を落ち着かせ、頷く。
「……分かった。」
阿虫は欧陽莺に低く声を投げる。
「合図、聞け。」
欧陽莺は歯を食いしばり、
瞳の奥で狐火のような妖光を揺らした。
「了解。」
百足が足を上げる。
とどめのためではない。
——踏み潰すためだ。
床に横たわり、動かない香菱を見下ろし、
どこから壊すかを選ぶように。
その瞬間——
足首に、異変。
触感ではない。
魂を引きずられるような、重い滞り。
百足が眉をひそめ、反射的に足元を見る。
そこには、
いつの間にか広がっていた、
ほとんど見えないほど淡い魂網。
魂糸は細い。
だが、異様なほどしなやかで、強い。
「……またてめぇか?」
百足の声が、驚きから怒りへと変わる。
「前も、これで——!」
「そうだよ。」
阿虫の声が、横合いから響いた。
隠しもしない嘲り。
「よく覚えてるじゃん。」
彼は白蛇の側後方に立ち、
魂網の陣眼を踏み、
手には小さな磁器瓶をいくつも握っている。
武器ではない。
——胡椒(こしょう)の調味瓶だ。
「ただしな。」
阿虫は肩をすくめる。
「今回は、ちょっと学習した。」
百足は怒号とともに力任せに魂網を引き剥がそうとする。
その瞬間、理解した。
——この網は、完全に縛るためのものじゃない。
力を出す“間”を、ずらすためのものだ。
その、ほんの一拍。
阿虫の腕が上がる。
「シュッ——!」
複数の胡椒の瓶が同時に弾けた。
粉末が内力に包まれ、
正確に白蛇の頭部と舌へと叩きつけられる。
「ギシャアア——!!」
胡椒の煙が一気に広がり、
百足と飛壁の視界を遮った。
白蛇は激しくのたうち、
舌を振り回し、
草芳を締める力が緩む。
草芳の身体が拘束を失い、
そのまま床へと落ちる。
「今だ!!」
阿虫が叫んだ。
声が落ちた瞬間、
灰色の影が飛び出す。
——欧陽莺。
半歩の間に、身体が変化する。
尾骨が伸び、
背後に妖狐の虚影が炸裂する。
四肢が床に着地した瞬間、
床板がひび割れた。
——妖狐・獣化。
速度は、もはや視線が追えない。
草芳を背負い、
さらに香菱を口で咥え、
空中で無理やり身体を捻り、
白蛇の尾影をかすめて角へと撤退する。
水仙は即座に膝をつき、
両手で印を結ぶ。
蝶夢回仙の柔光が、
蝶の羽のように舞い降り、
二人の胸元を覆った。
淡い光が落ちた瞬間、
二人の気息が、辛うじて安定する。
香菱の呼吸が、まず一線戻る。
草芳の骨折は深刻だが、
悪化は止まった。
水仙の額に、冷たい汗が滲む。
これは普通の治療ではない。
魔気侵蝕と内臓破壊の縁で、
無理やり命を引き戻している。
梁の上で飛壁の眼が細くなる。
迷いはない。
長い舌が、鋭い角度で振り下ろされる。
狙いは——水仙の後頸。
治療を断つ一撃。
だが、舌先が触れる寸前、
急激に止まった。
「ゴン。」
見えない壁にぶつかったような衝撃。
舌が弾き返され、
痺れが走る。
飛壁は一瞬呆け、
すぐに何かを察し、首を振った。
阿虫が、角の外側に立っている。
片手を地に置き、
小さいが完全な結界が、
すでに展開されていた。
すべてを防ぐためではない。
この一角だけを守るための結界。
「悪いな。」
阿虫は飛壁を見上げ、
軽く言った。
「今日、この角は貸し切りだ。」
飛壁の顔色が、完全に沈む。
「……小僧が。」
彼は、ようやく理解した。
この少年は、
その場しのぎで動いていたわけじゃない。
——最初から、この瞬間のために準備していた。
百足が、ついに魂網を引き千切る。
魔気が荒れ狂い、
理性は完全に崩壊していた。
「殺す——!!」
彼は阿虫へと突進する。
白蛇も体勢を立て直し、
蛇瞳が角を捉える。
状況は、決して好転していない。
ただ一つ。
——救う時間だけは、奪い返した。
水仙は歯を食いしばり、
術式を維持する。
指先は、すでに白くなっていた。
阿虫は水仙を一瞥し、
さらに距離を詰め直してくる二体の魔人と魔物へ視線を移した。
胸の奥で、
長いあいだ無理やり押し殺してきた思考が、
再び顔を出す。
——合神。
まだ、準備はできていない。
だが戦場は、これ以上の逡巡を許してくれなかった。
飛壁の視線が、結界の外で一瞬止まる。
迷いではない。
再計算だ。
「……なるほど。」
低く笑い、舌をゆっくりと引き戻して唇の端を舐める。
「一点を守れば、時間を稼げると思ったか?」
言い終わるより早く、彼は腕を振った。
攻撃ではない。
床へと投げ落とされたのは、
地面とほとんど見分けのつかない、
色の薄い液体。
「ぽたり。」
音は小さい。
だが次の瞬間、
液体は一気に広がり、
床板の隙間を這うように浸透し、
肉眼ではほとんど確認できない霧を立ち上らせた。
阿虫の瞳孔が、きゅっと縮む。
「……毒気(どっき)!」
即効性の毒ではない。
吸えば倒れる類でもない。
神識を蝕む、遅効性の毒。
命は奪わない。
生きたまま、判断力を削っていく。
最初に異変を感じ取ったのは、水仙だった。
蝶夢回仙の術式は保たれている。
だが、その“蝶の翼”の光が、
ごくわずかに震え始めている。
術が乱れたのではない。
——神識が、噛まれている。
呼吸が、ほんの一拍、乱れた。
草芳と香菱の気息も、再び揺らぐ。
水仙は歯を食いしばり、印を崩さない。
「……大丈夫。」
誰に言うでもなく、
自分自身へ言い聞かせるように。
「まだ、耐えられる。」
だが、額を伝う冷たい汗は、
こめかみを越えて落ちていった。
阿虫はそれに気づいた。
振り返り、声を極限まで落とす。
「無理すんな。」
水仙は振り向かない。
「私が止めたら……二人は死ぬ。」
判断ではない。
事実だ。
毒霧は、なおも広がる。
欧陽莺は、すでに軽い眩暈を覚え、
妖力の巡りが鈍り始めていた。
歯を食いしばり、
正面からは離れ、
さらに奥の陰へと身を引く。
飛壁は高所からその様子を見下ろし、
愉快そうに口角を上げた。
「続けろよ。」
「救ってみろ。」
「どっちが先に潰れるか、見ててやる。」
水仙の呼吸が、明らかに浅くなり始めた、その時。
一只の手が、
そっと彼女の背に触れた。
治療術ではない。
安定した、温かく、
それでいて驚くほど芯のある神識。
水仙は、はっとする。
「……?」
背後にいたのは、阿橙だった。
片膝をつき、
掌を水仙の背中へと当てている。
顔色は、誰よりも青白い。
恐怖ではない。
——自らの神識を、差し出している。
「集中して。」
阿橙の声は落ち着いているが、
かすかに震えを含んでいた。
「私の神を合わせれば……まだ持つはず。」
水仙は言葉を失いかける。
危険すぎる。
そう言おうとした、その瞬間——
蝶夢回仙の光が、
再び安定した。
今にも折れそうだった神識に、
一本の梁が架けられたようだった。
香菱の呼吸が、完全に整う。
草芳の骨の損傷も、
ようやく本格的な回復段階へと入る。
阿虫はそれを見て、
胸が強く締め付けられた。
阿橙は、専門の修行者ではない。
——これは、命を賭けた時間稼ぎだ。
百足も角の変化に気づいた。
苛立った低吼を漏らし、
再び踏み込もうとした、その時。
側門の陰から、
一つの影が現れる。
「……もういい。」
声は大きくない。
だが、はっきりと通った。
その瞬間、
全員の動きが、ほんの一拍止まる。
辛夷だった。
顔色は冴えない。
だが、足取りは確かだ。
毒霧は、彼女の周囲で
見えない円を描くように、弾かれている。
彼女は小瓶を取り出し、
床に円を描くように液体を撒いた。
飛壁の毒は、瞬時に中和され、
水仙と阿橙の負担も一気に軽くなる。
辛夷は百足を見、
次いで飛壁を見る。
「……狙いは、私でしょう。」
百足の瞳が、ぎょっと見開かれる。
飛壁は、ゆっくりと笑った。
「やっと出てきたか、蛇姫。」
辛夷は前堂へ歩み出る。
倒れた卓、砕けた床、
そして角で治療を受ける二人の剣修。
それらを一瞥し、声を落とす。
「これ以上、無関係な人間を巻き込まないで。」
阿虫が横目で彼女を見る。
「今出てくるか? 面倒増やしてどうすんだ。」
辛夷は歯を食いしばる。
「無辜を巻き込みたくない。」
阿虫は鼻で笑った。
「今お前が巻き込んでるのは無辜じゃねぇ。
俺の店の机と床だ。」
「修理代、十年雑用しても足りねぇぞ。」
辛夷の目尻がぴくりと動く。
「……なら、生き延びてから請求しなさい。」
二人は言い合いながら、
互いに恐慌を押し殺していた。
辛夷は声を落とす。
「魔人化を取り戻せれば……一体は相手できる。
でも、身体がまだ——」
阿虫の視線が鋭くなる。
「じゃあ、時間を稼げ。」
辛夷は深く息を吸い、
一歩前に出る。
百足と飛壁を正面に据え、
声を冷静に整えた。
「万毒宝典が欲しいのでしょう。」
「渡すわ。」
「その代わり——退いて。」
飛壁は嗤った。
「時間稼ぎか? 俺を舐めるな。」
彼は目を細め、腕を振る。
「ドンッ——!!」
正面の窓が、
凄まじい力で打ち破られた。
腐臭を帯びた湿気とともに、
巨大な蜥蜴が飛び込んでくる。
床板が、その重みで陥没する。
——飛壁の魔物。
二体の魔物。
二人の魔人。
一笑楼は、一気に狭くなった。
殺意を無理やり詰め込んだ、
檻のように。
阿虫は、なおも軽口を叩く。
「お、ペット同伴か?
それ、追加料金な。」
だが、身体は動かない。
視線が、辛夷、水仙、阿橙、百足、飛壁を行き交う。
天秤は、静かに、確実に傾いていく。
——これ以上引き延ばせば、水仙が先に潰れる。
——今出れば、合神は失敗するかもしれない。
——合神しなければ、誰も百足と飛壁は止められない。
指が、ゆっくりと握り締められる。
懐の奥、
七殺の鎧魂萃に触れる。
暗紅色の光が、
心臓の鼓動と同期し、
静かな殺意を響かせた。
暴走ではない。
——命令待ち。
百足の魔気が床の裂け目を這い、
白蛇が再び身を盤ねる。
蛇の瞳は、辛夷を捉えていた。
飛壁は高所から、
結界に守られた角の一点を、
一瞬たりとも見逃さない。
戦場は、
限界まで引き絞られていた。
その瞬間だった——
場違いにも思える音が、入口から響いた。
「ガシャン。」
酒壺が、門枠にぶつかったような音。
続いて、少し酔いの混じった溜息。
「……やれやれ。」
足音が、堂内へと踏み入ってくる。
速くもなく、遅くもない。
どこか気の抜けた、気ままな歩調。
巨大な重剣を背負った中年の男が、
ふらりと一笑楼へ入ってきた。
酒の匂いが、先に広がる。
鼻を突くほどではない。
だが異様に濃い。
——刃物のような何かを酒に漬け込み、
それでも決して鈍らせない匂い。
水仙が、はっと顔を上げた。
希望を見たかのように。
「……龍胆(りゅうたん)、師叔(ししゅく)?」
太史邦。
伝説に名高い問天七聖の一人、
酒聖——龍胆。
彼は一瞥した。
砕けた床。
倒れた卓。
角で瀕死から引き戻された二人の問天教弟子。
そして、中央に渦巻く、隠そうともしない魔気。
「慕容家の嬢ちゃん、悪いな。遅れた。」
「まさか、魔族まで顔を出すとは思わなかったが。」
百足は、その姿を見た瞬間、
理屈より先に身体が強張った。
——こいつは、危険だ。
飛壁の瞳孔も、一瞬で縮む。
彼は嗅ぎ取った。
気勢ではない。
威圧でもない。
放たれずとも存在する、圧力。
「……貴様、何者だ。」
百足が低く唸る。
太史邦は答えなかった。
背負っていた重剣を、
そのまま地面へ突き立てる。
「ドン。」
剣先が床に触れた瞬間、
堂内に鈍い響きが走る。
揺れではない。
——何かを、打ち止めた感触。
その剣は、
粗い鉄鎖で幾重にも巻かれていた。
まるで、
容易に抜かせぬための“枷”のように。
太史邦が、一歩踏み出す。
ただ、それだけ。
百足の魔気が、
見えない何かに押し潰されたように沈んだ。
飛壁の表情が、完全に変わる。
「……こいつ……。」
太史邦は、ようやく彼に視線を向けた。
「せっかくだ。」
「少し、身体をほぐさせてもらう。」
懐から、
黄色の鎧魂萃を取り出す。
儀式はない。
詠唱もない。
ただ、低く、はっきりとした一言。
「——合神。」
その瞬間。
空気が、裂けた。
獅子の咆哮のような衝撃が、
太史邦の内側から爆発する。
音ではない。
気だ。
義だ。
重く、正しく、避けようのない圧。
荊棘のような戦紋が、
腕から肩、背、そして顔へと走る。
黄色の光が凝縮し、
鎧としてその身を覆う。
鎧魂萃の気は、
万丈の雄獅と化し、太史邦と一体となった。
肩と腕の装甲は獅子の鬣のように展開し、
眩しくはないが、魔気を引き裂く凶相を帯びる。
七聖鎧の一つ。
義を司る地の辟邪(へきじゃ)。
迸る剣意は、鋭さではない。
——圧制。
その瞬間、
剣を縛っていた鉄鎖が、音を立てて崩れ落ちた。
「ガラガラ——!」
百斤を超える重剣を、
太史邦は片手で掴み取る。
剣身が真の姿を現した刹那、
百足でさえ、半歩、後退した。
装飾ではない。
巨大な魔族を斬るためだけに存在する武器。
——魔斬(まざん)。
白い大蛇と巨蜥が、同時に動いた。
前後から。
命令されたかのように。
「いいぞ。」
太史邦が低く呟く。
避けない。
溜めない。
重剣を、ただ横に構え——
振り下ろした。
「九天剣法・斬(ざん)——奥義。」
淡々と告げる声は、
まるで判決だった。
「九天屠魔(きゅうてんとま)。」
剣が落ちた瞬間、
空気が無理やり裂かれ、扇状の衝撃波となる。
白蛇の首は、
一撃で断ち切られた。
巨蜥は、呻き声を上げる暇すらなく、
次の瞬間、胴を横一文字に断たれる。
二体の魔物は、ほぼ同時に崩れ落ちた。
抵抗なし。
遅延なし。
——存在してはならないものとして、処理された。
場が、静まり返る。
阿虫は、無意識に喉を鳴らした。
これが——
屠魔のためだけに研ぎ澄まされた剣。
技ではない。
思想だ。
「義」を名にした殺し。
断つべきものを、躊躇なく断つ。
百足の瞳が、激しく揺れる。
魔人化は続いている。
だが、初めて——迷いが生じた。
「百足、無理に行くな!」
飛壁が低く叫ぶ。
「こいつは——」
遅かった。
百足は咆哮し、
魔人化をさらに歪める。
両腕から、
蜈蚣の節のような延伸骨が伸び、
太史邦の腕を絡め取ろうとする。
飛壁も同時に舌を吐き、
梁の上から左右より締め上げにかかる。
太史邦は、振り向かない。
辟邪鎧の腕部で、
獅子の爪が展開する。
低い獅吼が、
鎧の内側で炸裂した。
気の波が、先に走る。
攻撃は、触れる前に速度を奪われる。
爪が、振り抜かれた。
「ズバッ——!」
絡みつく節骨と舌が、
無理やり引き裂かれ、血を噴く。
百足は吼え、なお突進する。
「うおおお——!!」
次の瞬間。
太史邦の剣が、横薙ぎに走った。
「ガキン!」
百足の両腕が、同時に断ち落とされる。
魔血が噴き上がり、
前堂を染める。
その一瞬、
あまりにも静かだった。
飛壁の表情が、完全に沈む。
——この男の修為は、
師である毒魔将をも超えている可能性がある。
彼は太史邦を見、
次に、腕を失ってなお吼える百足を見る。
判断は、一瞬だった。
「撤退。」
飛壁は百足の残骸を掴み、
二つの影は窓を破って夜へ消えた。
魔気が散る。
一笑楼の前堂に、
ようやく現実が戻る。
砕けた木片。
魔物の死骸。
荒れ果てた空間。
太史邦はその場に立ち、
辟邪鎧の獅鬃紋が、ゆっくりと収まっていく。
息を吐き、合神を解く。
酒の匂いが、再び彼を包む。
まるで、
先ほどの圧倒が幻だったかのように。
——だが、誰一人、そうは思わなかった。
重剣を背に戻し、太史邦は溜息をつく。
「……やれやれ。」
水仙の方を見る。
彼女はまだ草芳と香菱を治療していた。
蝶光は、ようやく安定している。
草芳の呼吸が繋がり、
香菱も、死の淵から引き戻された。
阿橙は息を吐いたが、
手はまだ水仙の背から離さない。
「嬢ちゃん、下山して何日目だ?」
「いきなり随分と賑やかじゃないか。」
水仙は、呆然と彼を見つめる。
「……師叔、ありがとうございました。」
「師叔が来なければ、
私たちは皆……。」
「死んでないなら、運が良かっただけだ。」
太史邦は淡々と言う。
「だが、今夜の件は、
もうお前たちだけで抱えられる話じゃない。」
阿虫は、拳を握ったまま立っていた。
魔斬を見つめ、
忘れたくても忘れられない記憶が、
脳裏でざわめき始める。
魔気は完全に消えた。
一笑楼には、
破壊の残響だけが残る。
折れた卓の脚。
沈んだ床。
血と毒の残り香。
草芳と香菱は角で横たわり、
息は安定しているが、まだ目を覚まさない。
水仙は印を解き、
力が抜けたように前へ崩れかける。
阿橙が即座に支えた。
「……もう大丈夫。」
水仙の声は、かすれていた。
「しばらくは……危険はありません。」
阿橙は頷いたが、
手を離さない。
指先が、震えている。
恐怖ではない。
神識の過剰消耗だ。
阿虫は少し離れた場所で、
その光景を見ていた。
何か言おうとした。
だが——
喉の奥に、言葉が詰まって出てこなかった。
その時——
店の外から、枭のあの独特な口笛が響いた。
続いて、
揃った、切迫した足音。
そして、
刀の鞘が地面を打つ音が、夜の静けさの中でやけに鮮明に響く。
阿虫の胸が、すっと沈んだ。
欧陽枭が、数名の捕吏を率いて店内になだれ込んできた。
「兄さん!」
「枭さん……!」
欧陽莺は兄の姿を見て、助けに来たのだと思い、
西門鸢もまた、想い人である枭の姿に、胸を撫で下ろした。
だが、枭は一歩足を踏み入れた瞬間、動きを止めた。
この光景を、まったく想定していなかったのだ。
「……お前たち、
一笑楼を解体でもしたのか?」
阿虫は思わず、息をついた。
「枭、ちょうどよ——」
「俺は酒を飲みに来たんじゃない。」
枭は、静かだが硬い声で遮った。
手を上げ、部下に現場の制圧を指示する。
床に残る痕跡。
破壊の跡。
角で治療を受けた者たち。
そして——
視線は、辛夷で止まった。
「……そこの娘。」
「名を聞いても?」
「辛夷です。」
「辛夷。申し訳ないが——」
枭の声が、一段低くなる。
「太守の命により、
あなたを拘束し、府へ連行しなければならない。」
一瞬、場が凍りついた。
だが、辛夷は逃げなかった。
最初から、こうなることを知っていたかのように、
その場に立ったままだ。
「分かっています。」
静かな声。
「青い斑点が出る奇病……それが理由でしょう。」
枭の眉が、ほんのわずかに動く。
「この一、二日で、泰城の中に
その症状を発した者が出始めた。」
「雲仙楼周辺では、
あなたが姿を見せた後に、
同じ症状が現れたと証言する者もいる。」
「上の判断では——
あなたと無関係とは言えない。」
阿虫が、思わず振り向いた。
「待て!」
「それは、彼女のせいじゃ——!」
枭は手を上げた。
叱責ではない。
止めるための合図だ。
「阿虫。言いたいことは分かる。」
声を落とし、続ける。
「俺も、この件は怪しいと思っている。」
「だが、問題は——」
一瞬、周囲の捕吏へ視線を走らせ、
「俺が、その場でお前を信じられないことだ。」
その言葉は、拒絶よりも冷たかった。
阿虫の胸が、強く押し潰される。
「彼女は、皆を助けた。」
「さっきだって、
彼女が出てこなければ——
莺も、鸢も……」
「分かってる。」
枭の口調は、終始抑えられていた。
「阿虫、少し我慢しろ。」
「後で、必ず手は打つ。」
それが、彼の引けない一線だった。
辛夷は、阿虫を見る。
そこに、助けを求める色はない。
ただ、
“ここまで来た”という受け入れだけ。
「……行きましょう。」
阿虫は歯を食いしばる。
「どうして、彼女が連れて行かれるんだ……!」
辛夷は彼を見つめ、
ふっと、かすかに笑った。
淡い笑み。
「彼らにはね。」
「全部を説明できる“生きた責任者”が必要なの。」
枭は部下に合図を送る。
手枷は太くはないが、
灯りを受けて、冷たく光った。
辛夷は、抵抗せず手を差し出す。
連行される直前、
彼女は足を止め、振り返った。
阿虫を見る。
「短い時間だったけど……」
「色々なものを、見せてもらった。」
「ありがとう。」
「元気で、阿虫。」
阿虫は、口を開いた。
——だが、言葉にならなかった。
捕吏たちは、踵を返す。
足音が、遠ざかっていく。
一笑楼に、再び静けさが戻った。
それは、
先ほどの戦いの前よりも、重い静寂だった。
玉蓮は草芳と香菱を客室へ運び、
欧陽莺と西門鸢は、無言で店内の残骸を片付け始める。
太史邦は入口の方を見やり、
溜息をつくと、酒を一杯あおった。
「……厄介な渦に、巻き込まれたな、小僧。」
阿虫はその場に立ち尽くし、
指を、ゆっくりと握り締める。
次の瞬間、
振り返って太史邦の頬を殴ろうとした——
が、
その拳は、軽く受け止められた。
「てめぇ、酒飲みが何を分かる!」
「分からんさ。」
太史邦は淡々と答える。
「だがな、
今のお前みたいに歯を食いしばっても、
何一つ解決しねぇ。」
「阿虫! やめなさい!」
阿橙の声が、鋭く響く。
阿虫は、ようやく拳を下ろした。
「辛夷さんの件は、
まだ手立てはある。」
「今は、落ち着いて考えよう。」
阿虫は、その言葉を無視した。
踵を返し、
後門から、一気に駆け出していく。
水仙は俯き、
青い斑点が出る奇病のことを思い返していた。
——この一連の出来事の裏で、
何かが、
静かに、だが確実に動き始めている。