「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
泰城の地下牢。
壁際には油灯がいくつか灯されている。だが芯は湿気を吸って柔らかくなり、火はどうにも明るくならない。石壁に落ちるのは、濁った黄色の影ばかりだった。
その影は、腐敗獄に広がる、死にかけた毒沼のように、風もないのにゆらゆらと揺れている。
どこか頭上から、水音が落ちてきた。
一滴。
また一滴。
石床へ落ちるその音は、骨を叩き割る音のように空虚だった。
辛夷(しんい)は壁にもたれかかっていた。
両手は鉄環に拘束されている。
鉄環は太く、縁は粗い。手首を少し動かすたび、ざらついた鉄が皮膚へ食い込み、ようやく塞がりかけていた傷口をまた擦り開いていく。
彼女は暴れなかった。
痛くないわけではない。
ただ、この程度の痛みは、力を使う理由にはならなかった。
辛夷は俯いたまま、額に落ちた髪で半分ほど顔を隠していた。肩には、魔界から逃げる際に負った傷がまだ残っている。地下牢の湿気がそこへ入り込み、鈍い痛みをじわじわと広げていた。
辛夷は目を閉じ、天窓から落ちる水滴の音を聞いていた。
遠くから、足音が聞こえた。
軽い。
だが、隠そうとはしていない。
看守の足音ではなかった。看守が歩く時は鍵の音が混じるし、靴底の響きももっと重い。
この足音は、もっと細く、もっと尖っている。
まるで蠍の尾針のようだった。
聞き覚えのある、けれど陰冷な感覚が、胸の奥からゆっくり這い上がってくる。
辛夷は目を開いた。
足音が牢の前で止まる。
鉄扉が開く時、錆びついた軸が低く軋んだ。
灯火が、来訪者の影に一瞬遮られる。
最初に映り込んだのは、紅だった。
次に、銀鈴。
相手が牢の中へ踏み入れた時、足首の鈴が小さく鳴った。
その音は地下牢の中で、やけに澄んでいた。
そして、やけに場違いだった。
赤蠍(せきかつ)。
百足と飛壁が人界まで追ってきた以上、彼女がここに現れること自体に、辛夷は驚かなかった。
だが、人間の都市の牢で彼女を見ることになるとは思っていなかった。
赤蠍は、わざと整えてきたかのような姿をしていた。紅の衣の裾は汚れ一つなく、腰は細く締められ、爪は深紅に塗られている。髪飾りさえ一分も乱れていない。
黴と湿気と血の臭いに満ちた牢の中で、彼女はまるで、誰かが泥の中へ意図的に置いた毒花のようだった。
赤蠍は辛夷の前に立った。
すぐには口を開かない。
まず、見た。
辛夷の垂れた頭。
鎖に擦られた手首。
衣に残る汚れ。
その目には、単純な快意だけではないものがあった。
ずっと待ち続けていた何かが、ようやく目の前に転がり落ちてきた。
そんな確認の視線だった。
「みっともないわね」
赤蠍が、軽く笑った。
「蛇姫。」
その呼び名が彼女の口から出ると、旧き日の腐敗獄の湿った熱気がまとわりついてくる。
まるでその一言だけで、辛夷は再び、毒池と岩洞と巨大な蛇骸が絡みつくあの場所へ引き戻されそうだった。
辛夷は顔を上げなかった。
赤蠍も急がない。
彼女はゆっくり膝を折る。紅の衣の裾が床に広がった。
血のようだった。
「どうして黙ってるの?」
首を傾げる声は、親しげなほど柔らかい。
「この師姉がここにいるなんて、思わなかった?」
辛夷はようやく視線だけを上げた。
その目の中に、赤蠍が見たがっていたものはなかった。
慌てる気配も。
命乞いも。
旧知と再会した時の揺らぎも。
あるのは疲労だけだった。
骨の奥から滲み出ているような疲労。
まるで憎しみさえ、一時的にもっと深いところへ沈めてしまったような顔だった。
赤蠍の笑みが、少し薄れた。
「ねえ、私があなたの何を一番嫌っているか、分かる?」
彼女は手を伸ばし、指先で辛夷の顎を軽く持ち上げた。
爪が冷たい。
だが、その力は少しずつ強くなっていく。
「毒が使えることじゃない。」
「師父に褒められたことでもない。」
彼女は顔を寄せる。息には、甘く血なまぐさい香りが混じっていた。
「あなたは私たちと同じだった。」
「奴隷の山から這い上がってきたもののくせに、いつも自分だけは高いところにいるみたいな顔をしていた。」
辛夷は彼女を見た。
「そんなこと、思ってない。」
「認めるわけないわよね。」
赤蠍が笑った。
その笑い声は軽いのに、一本の糸のように、牢の空気をゆっくり締め上げていく。
「あなたは昔からそう。」
「試し合いの時も。」
「洞窟に呼ばれた時も。」
「師父に見られていた時も。」
彼女の指先が、辛夷の顎から頬へ移る。
記憶の中の顔と同じかどうかを確かめるように。
「泣かない。」
「叫ばない。」
「そうしていればいるほど、師父はあなたを面白がった。」
辛夷の目が、ようやく少し冷えた。
「面白がった?」
「違うの?」
赤蠍の声がふっと低くなる。
「師父がなぜあなたを残したと思っているの?」
「可哀想だったから?」
「才能があったから?」
「それとも、あなたが一番、まだ心が残っているように装っていたから?」
赤蠍は勢いよく手を離した。
辛夷の顎が横へ振られ、頭が傾く。鎖がそれに合わせて鳴った。
赤蠍は立ち上がり、傍らの刑架へ歩いた。
懐から、いくつかの道具を取り出して並べる。
針。
細い鉤。
薬瓶。
そして、小さな銅鈴。
彼女は一本の細針を選んだ。
針身は長くない。普通の銀針より短いほどだった。
だが針先には、暗紫色の光が浮いている。
まるで、中で何かが生きて蠢いているようだった。
辛夷がそれを見た瞬間、指先がわずかに強張った。
赤蠍は見逃さなかった。
彼女は笑う。
「蠍紅針(かっこうしん)、覚えてる?」
辛夷は答えなかった。
赤蠍は針を持ち、ゆっくり戻ってくる。
「これ、昔あなたも使っていたわよね。」
「刺した瞬間、毒はすぐには広がらない。」
「まず皮膚の中に留まって、小さな虫みたいにゆっくり噛む。」
「慣れたと思った頃に、突然、経絡へ潜り込む。」
彼女は辛夷の前で止まった。
語り口は、昔話でもするかのように穏やかだった。
「あなたはあの頃、これを覚えるのが一番早かった。」
「師父が言っていたわ。」
「あなたは生まれつき毒に向いている、って。」
辛夷の唇がわずかに動く。
「それは、褒め言葉じゃない。」
赤蠍の顔色が一瞬変わった。
次の瞬間、針が辛夷の肩へ刺さった。
とても細い音。
布が軽く裂けたような音だった。
辛夷の身体が、びくりと強張る。
毒は激しくない。
だが、ひどく不快だった。
焼かれるわけではない。
斬られるわけでもない。
無数の小さな脚が、傷口から血肉の下へ這い入り、筋脈に沿ってじわじわと登っていくような感覚。
辛夷は歯を食いしばった。
額に冷汗が浮く。
赤蠍は彼女の前にしゃがみ込み、じっと見つめている。
遅れて始まった舞台を鑑賞するかのように。
「どう?」
彼女は軽く問う。
「まだ、自分は私たちと違うと思っている?」
辛夷の呼吸が一瞬乱れた。
けれど、声は上げなかった。
赤蠍の目の笑みが、少しずつ沈んでいく。
「本当に、あなたは昔からそう。」
彼女は辛夷の髪を掴み、乱暴に後ろへ引いた。
辛夷は無理やり顔を上げさせられる。
「私が一番憎いのは何か、分かる?」
赤蠍は辛夷を睨んだ。声がわずかに震え始める。
「あなたも怖いくせに、私たちみたいに自分が奴隷だと認めようとしないところ。」
「あなたも奴隷のくせに、その屈服しない目で人を見るところ。」
「それから――」
彼女は辛夷の耳元へ顔を寄せた。
「本当に魔界から逃げたこと。」
牢の中が、一瞬だけ静まり返った。
聞こえるのは、水滴の音だけ。
ぽたり。
ぽたり。
辛夷の呼吸は浅い。
彼女は赤蠍を見ていた。
嘲笑もない。
憐れみもない。
「あなたも逃げられる。」
赤蠍は固まった。
次の瞬間。
彼女は声を上げて笑った。
笑い声は牢の中にぶつかり、鋭く、冷たく響いた。
「逃げる?」
まるで、とんでもない冗談を聞かされたようだった。
「どこへ?」
「人界へ?」
彼女は辛夷を放り捨てるように立ち上がり、紅の衣の裾を払った。
「あなたはもう人界へ逃げたでしょう。そしてどうなった?」
「捕まった。」
「鎖に繋がれた。」
「魔女と呼ばれている。」
「見なさいよ、辛夷。」
赤蠍は目尻が赤くなるほど笑っていた。
「命懸けで逃げた先でも、結局は檻の中。」
「ただ、少し綺麗な檻に変わっただけ。」
辛夷は沈黙した。
赤蠍は一歩近づく。その目には悪意ある快感が浮かんでいた。
「外の人間たちは、みんなあなたの話をしているわ。」
「あなたが青斑を持ち込んだ。」
「妖毒で人を害した。」
「昨夜、街に魔物を呼び込んだ。」
辛夷が顔を上げる。
「私じゃない。」
「知ってる。」
赤蠍の返事は速かった。
速すぎて、牢の空気がかえって冷えた。
辛夷は彼女を見つめる。
赤蠍は両手を広げるように肩を竦めた。
「もちろん知っているわ。」
「あなたにそんな余裕はない。」
「人界に来たばかりで、索命蠱もまだ解けていない。」
「煒菩提だって、魔気を隠すので精一杯。」
「自分を守るだけで手いっぱいのあなたが、こんなことを仕掛けられるはずがない。」
彼女はそこで言葉を切り、口元をわずかに上げた。
「でも、そんなこと重要?」
辛夷は答えない。
赤蠍はゆっくり身を屈めた。
「彼らは真相なんて必要としていない。」
「泰城に今必要なのは、答え。」
「人間に必要なのは、答え。」
「自分を欺いて、安心するための答え。」
彼女は辛夷の頬を軽く叩いた。
力は弱い。
だが、侮辱としては十分だった。
「そして、魔女であるあなたが、その答えなのよ。」
辛夷の指が、鎖の中でゆっくり握られる。
鉄環が手首の皮膚を裂く。
血が滲み、手首を伝って落ちていった。
それを見て、赤蠍の気分は少し良くなったようだった。
「明後日。」
彼女は静かに言った。
「あなたはこの城で、公開処刑される。」
その四文字が落ちた瞬間。
辛夷の呼吸が、ようやく一瞬止まった。
驚きではない。
その瞬間、彼女は悟ったのだ。
自分は牢にいるのではない。
もう、処刑台の上にいる。
この牢は、ただ待つための場所にすぎない。
赤蠍は、そのわずかな反応を見て満足げに目を細めた。
「ふふ、怖くなった?」
辛夷はすぐには答えなかった。
足元の濁った水溜まりを見る。
水面に顔は映らない。
揺れる灯火だけが映っていた。
長い沈黙のあと。
彼女は言った。
「怖い。」
赤蠍の口元がつり上がりかける。
だが辛夷は、さらに低く続けた。
「でも、魔界へ戻る方が、もっと怖い。」
赤蠍の笑みが凍った。
その言葉は、彼女がもっとも触れられたくない場所を刺した。
次の瞬間。
彼女は辛夷の襟を掴み、壁へ叩きつけた。
鈍い音。
辛夷の背中が石壁にぶつかり、喉の奥から小さな呻きが漏れる。
赤蠍の声がついに乱れた。
「私の前で、そんな顔をするな!」
「自分だけ逃げ出したからって、私たちより高貴になったつもり?」
「たとえ人界へ逃げたって、魔族の仕掛けからは逃げられない!」
「この泰城は、もうとっくに魔界が人界へ差し込んだ前哨点なのよ。」
「あなたも私も、定められた運命からは逃げられない!」
彼女は辛夷を掴み、目を赤くしていた。
「知ってる?」
「私は師父があなたを洞窟へ呼ぶたびに思っていた。」
「どうして私じゃないの?」
「どうして、あなたなの?」
その言葉が口から出た瞬間、赤蠍自身が止まった。
牢の中が静まる。
その言葉は、あまりにも醜かった。
彼女自身でさえ、認めたくないほどに。
辛夷は赤蠍を見ていた。
毒はまだ肩を這っている。
背中も痛む。
それでも、その眼は静かだった。
「あなたが嫉妬していたのは、それだったんだ。」
赤蠍の顔色が変わる。
次の瞬間、乾いた音が響いた。
赤蠍の平手が辛夷の頬を打った。
辛夷の顔が横へ流れ、唇の端から血が滲む。
「黙れ。」
赤蠍の声は低かった。
「あなたに何が分かるの。」
辛夷はゆっくり顔を戻した。
「分かる。」
声は掠れていた。
「あなたは、愛されたかったわけじゃない。」
「ただ、自分の方が私より価値があると証明したかっただけ。」
赤蠍の手がもう一度上がった。
だが、その一撃は落ちなかった。
牢の扉の外から、足音が聞こえたからだ。
看守ではない。
足音は扉の前で止まる。
黒衣の男が頭を下げた。
「厳様がお呼びです。」
赤蠍の手が宙で固まる。
しばらくして、彼女はゆっくり手を下ろした。
彼女は辛夷を見下ろす。
露わになっていた感情は、もう押し戻されていた。
残っているのは、冷たい笑みだけ。
「もう一つ、いい知らせを教えてあげる。死ぬ前に諦めがつくようにね。」
「青斑の症状は、師父が密かに研究していた蝕魂毒法。」
「あなたが処刑台へ送られることも、師父が黙認した段取りよ。」
「最初から最後まで、あなたは一度も師父の掌から逃げ出せていない。」
「せいぜい、その目を保っておきなさい。」
「明後日は、大勢が見るから。」
彼女は背を向けた。
扉のところで足を止める。
振り返らない。
「そうそう。」
「あなたの、小さな人間の友達。」
辛夷の目が、かすかに動いた。
赤蠍は笑う。
「あの、やけに邪魔ばかりする口の悪い小僧。」
「少しでも頭があるなら、遠くで隠れていることね。」
「あなたみたいなもののために、泰城すべてを敵に回すなんて――」
彼女は軽く首を振った。
「馬鹿げているわ。」
鉄扉が閉まる。
鎖の音が重く落ちた。
牢には水滴の音だけが残る。
ぽたり。
ぽたり。
辛夷は俯いたまま、動かなかった。
肩の毒は、さらに深く潜っていく。
細かな虫の群れが、肉の内側で静かに噛み進んでいるようだった。
それでも、彼女は気にしなかった。
見つめていたのは、手首から滲み出る血だった。
長い時間が過ぎて。
辛夷は低く呟いた。
「来ないで。」
声は小さい。
壁へ向けた言葉のようでもあり。
届くはずのない誰かへ向けた言葉のようでもあった。
「阿虫。」
「来ないで。」
けれど、そう言った直後。
彼女は自分で目を閉じた。
分かっていたからだ。
もし相手があの馬鹿なら。
きっと、聞いてくれない。
牢の灯火が揺れた。
辛夷の影が湿った石壁へ長く伸びる。
まるで、壁に釘付けにされた蛇のように。
太守府の地下。
そこには、光の届かぬ場所があった。
毒魔将・厳白蟒が、泰城内部に秘匿している毒術研究室。
壁は煉瓦ではない。
巨大な黒岩をそのまま削り出したような岩壁だった。隙間には暗緑色の苔が這い、空気は湿り気を帯びて肌へまとわりつく。
ここでは灯火さえ長く燃えない。
まるで、何かが火を喰っているようだった。
百足は地に跪いていた。
両腕はすでに潰れている。
身体中の傷口から、まだ血が滲んでいた。
辟邪の鎧が残した斬痕は、肩から脇腹まで大きく裂けている。肉は捲れ、傷の縁は黒く焼け焦げていた。
普通の斬傷ではない。
合神後の霊圧が、まだ傷に残っている。
呼吸するたび、再び斬り裂かれるような激痛が走った。
だが百足は動けない。
小さく痙攣しながら、ただ耐えるしかなかった。
飛壁は、その後ろに立っていた。
百足より傷は浅い。
だが顔色は、むしろ彼の方が悪かった。
静かすぎる。
この場所は、静かであればあるほど恐ろしい。
空気には濃い薬臭が漂っていた。
だが、その下には別の臭いが沈んでいる。
腐肉を毒液へ漬け込んだような、甘く腥い臭い。
飛壁は知っていた。
それが、厳白蟒が毒を練る時の臭いだと。
暗闇の奥から、足音が聞こえる。
軽い。
蛇腹が石床を擦るような音。
やがて、厳白蟒が姿を現した。
遮毒面越しの重い呼吸音が、研究室の中へ響く。
面に覆われた下半分の顔からは、感情が読み取れない。
だが、百足の身体は見る見るうちに震え始めていた。
「し、師父……」
声は掠れている。
厳白蟒は彼を見なかった。
ただ静かに歩き、傍らの青銅鉢を見下ろす。
鉢の中には、細長い毒蛇が数匹浸されていた。
蛇の身体には、うっすら青い斑紋が浮かんでいる。
その色は、雲仙楼で現れた青斑と同じだった。
厳白蟒は手を伸ばす。
指先で、蛇の頭を軽く撫でた。
「青蝕の拡散安定性は、まだ足りんな」
独り言のように呟く。
「完全な形へ至るには、もう少し時間が必要か」
百足は後ろで脂汗を流していた。
「師父……! つ、次こそ必ず――」
「百足よ……百足……」
厳白蟒が、ようやく口を開いた。
百足の身体が強張る。
「弟子は……油断を――」
「違う」
厳白蟒が遮った。
「別に責めているわけではない。そう怯えるな」
空気が、一瞬静まる。
厳白蟒がゆっくり振り返った。
細く陰冷な目が、ようやく百足へ落ちる。
「恐怖というものの、一番面白いところを知っているか?」
「見えぬものほど、人は勝手に膨らませる」
「私は、自ら作り出した恐怖が、人界でどのように広がっていくかを見たいのだ」
「恐怖こそ、私にとって最上の養分……」
厳白蟒はそう言いながら、百足の周囲をゆっくり歩く。
「弟子は……ただ一刻も早く辛夷と万毒宝典を師父のもとへ――」
百足は必死に言葉を繋ごうとした。
だが、唇はもう白くなっている。
「辛夷?」
厳白蟒が、小さく笑った。
その笑いは静かだった。
だが飛壁の背筋を冷やすには十分だった。
厳白蟒は百足の前へしゃがみ込む。
「そこまで私のことを思っていたとは。」
「実に嬉しい」
百足の瞳が揺れる。
厳白蟒の目は、まるで毒を失った虫を見るようだった。
「百足。」
「今から、もう一つだけ私を手伝え」
その瞬間。
百足の瞳孔が大きく縮む。
「師父――ッ!!」
ぷすり。
黒い細針が、すでに彼の首へ刺さっていた。
あまりにも速い。
飛壁には、厳白蟒がいつ手を動かしたのか見えなかった。
百足の身体が、びくりと硬直する。
次の瞬間。
喉の奥から、奇妙な音が漏れ始めた。
ごぼ。
ごぼごぼ。
まるで、何かが内側で暴れ回っている。
皮膚の下が膨らむ。
一本。
二本。
細長い影が、血肉の内側を泳いでいた。
「あ……ああああああッ――!!」
百足が絶叫した。
その声は研究室の壁へぶつかり、人のものとは思えないほど凄惨に響く。
飛壁の顔が一瞬で青ざめた。
思わず半歩退きかける。
だが、止まる。
退けない。
退いた瞬間、自分も終わる。
百足は床を転げ回った。
そして。
ぐちゅ。
黒い小蛇が、喉を突き破って這い出た。
続いて二匹目。
三匹目。
血が床へ飛び散る。
百足の目は大きく見開かれていた。
だが、その瞳はもう焦点を失っている。
身体が数度痙攣し――完全に止まった。
研究室は、再び静まり返る。
聞こえるのは、蛇が床を這う微かな音だけ。
飛壁は俯いていた。
背中は冷汗で濡れている。
百足の死体を見たくない。
呼吸を大きくすることすら怖かった。
厳白蟒はゆっくり立ち上がる。
まるで、壊れた毒虫を一匹処分しただけのように。
「どうだ。」
「これが、私の言う“恐怖の味”だ」
飛壁の身体が大きく強張った。
厳白蟒は彼の前へ立つ。
「顔を上げろ」
飛壁の喉が鳴る。
それでも、逆らえない。
ゆっくり顔を上げた。
厳白蟒は彼を見つめる。
その目には感情がない。
感情がないからこそ、余計に恐ろしかった。
「覚えておけ」
「毒をもって、自らを恐怖そのものへ変えろ」
「己が恐怖した瞬間、毒は力を失う」
飛壁の唇は白かった。
「……はい」
厳白蟒は数息だけ彼を見つめる。
やがて背を向けた。
「ここを片付けておけ」
飛壁は頭を下げる。
「……はい」
厳白蟒の足音が完全に遠ざかった後。
飛壁はようやく息を吐いた。
彼は百足の死体を見る。
その身体は、もはや人の形をしていなかった。
喉は内側から裂け。
黒蛇が、まだ肉の中をゆっくり這っている。
飛壁は胃の奥がひっくり返るのを感じた。
だが、吐けない。
吐いた瞬間、自分も終わる気がした。
そして彼は理解してしまう。
昨夜、一笑楼で。
もし、自分の方が深手を負っていたなら。
今ここで死んでいたのは、自分だった。
研究室の灯火が、小さく揺れる。
飛壁はゆっくりしゃがみ込む。
百足の死体へ手を伸ばした。
だが、その瞬間。
動きが止まる。
昨夜、一笑楼から逃げる直前。
百足が最後に振り返った時の目を、思い出したのだ。
そこに怒りはなかった。
あったのは、恐怖だけ。
まるであの時すでに。
百足は、自分が生きて帰れないことを悟っていたかのように。
飛壁の指先が、わずかに震える。
彼は俯いた。
初めて思った。
人界よりも。
魔界の方が、ずっと出口のない場所なのだと。
太守府最奥。
そこには、一棟の楼閣が建っていた。
高くはない。
むしろ目立たない。
外から見れば、府内に数多く並ぶ建物の一つにしか見えないだろう。
見張りの兵が行き交うこともなく。
灯火が夜通し燃え続けているわけでもない。
ただ軒先に吊るされた銅灯が、夜風に揺れているだけだった。
だが――
泰城で本当に重要な命令の多くは、この場所から出されている。
楼内は暖かかった。
床には厚い絨毯。
香炉では薫香が静かに燃え、外の冷気を完全に遮断している。
窓は半ば開かれていた。
そこから泰城の夜景が見える。
街道の灯火は遠くまで続き、闇の中に無数の火が浮かんでいるようだった。
泰城太守――孫人峰は、高座に腰掛けていた。
黒い官袍を緩く羽織り、袖口は椅子の脇へ垂れている。
机上には巻物。
茶器。
そして城内各所から届いた急報。
孫人峰はそれらに目を通していた。
細く長い指が、静かに紙を捲る。
動作は穏やかだ。
だが、その静けさが逆に、この部屋全体を支配していた。
もし今、誰かがここへ入って来たなら。
目の前の男を、“魔”と結び付けることは難しかっただろう。
冷静。
自制。
沈着。
彼は長い年月、この地位に座り続けてきた。
魔族十二魔将の一柱、“炎魔将”としてよりも。
人界における“泰城太守”という立場の方を、彼自身は気に入っていた。
そして。
その孫人峰の膝には、一人の女が身体を預けている。
血魔将・朱緋魘。
彼女は何も言わない。
ただ孫人峰の胸へ寄り掛かり、その衣の金刺繍を指先でなぞっていた。
くるり。
また、くるり。
朱緋魘は、この時間が嫌いではなかった。
孫人峰が人界の政務を処理している時の顔を見るのが好きだった。
魔界にいる時とは違う。
あちらでの孫人峰は、常に何かを押し殺した炎のようだった。
だが人界では違う。
特に、この泰城では。
彼はようやく、“生きている”ように見えた。
その時。
外から、音が近づいてくる。
足音というより。
毒蛇が地を擦りながら這うような、不快な気配だった。
「入れ」
孫人峰は視線を上げないまま言う。
扉が開いた。
厳白蟒が姿を現す。
遮毒面越しの重い呼吸音が、静かな部屋へ広がった。
朱緋魘が薄く目を上げる。
唇の端が、わずかに歪んだ。
「毒魔将殿じゃない。」
「遅かったわねぇ。」
厳白蟒は軽く頭を下げる。
「価値を失った材料を処分しておりました。」
「少々、時間を取られましたので。」
朱緋魘は、その言葉だけで何が起きたか理解したように笑った。
「ふふ。」
「百足かしら?」
厳白蟒は答えない。
だが、その沈黙が答えだった。
孫人峰は机の書簡を置く。
ようやく視線を上げた。
灯火が、その瞳に映る。
だが、そこにはほとんど温度がなかった。
「青蝕の状況は。」
厳白蟒は数秒沈黙した。
「拡散速度は想定以上。」
「ですが、安定性が足りません。」
「現段階の青斑は、まだ“兆し”に過ぎない。」
彼の細い目に、奇妙な熱が宿る。
「完成した青蝕は、人間の恐怖を養分に増殖し――」
「奴らの魂を、果実の殻を剥くように一つずつ収穫するでしょう。」
その声音には、ほとんど陶酔に近い色が混じっていた。
「あとどれくらい必要だ。」
「現状では、数ヶ月は。」
朱緋魘が、くすりと笑う。
「さすが毒魔将殿。」
「聞いてるだけでゾクゾクするわ。」
厳白蟒は反応しない。
孫人峰は窓の外を見たままだった。
「……数ヶ月か。」
窓から夜風が吹き込む。
雨の匂いが、微かに混じっていた。
孫人峰は街の灯火を見下ろしている。
そして、小さく笑った。
「人間という生き物は、実に面白い。」
「奴らが本当に恐れているのは、“死”そのものではない。」
「自分が、なぜ死ぬのか分からないことだ。」
彼はゆっくり視線を上げる。
「だから奴らは、“答え”を欲しがる。」
「そして辛夷は――」
「その答えに、もっとも都合がいい。」
厳白蟒が低く言った。
「彼女を“魔女”として公開処刑へ送る前に、一応は私にも話を通すべきだったのでは?」
孫人峰は、わずかに眉を上げる。
「随分気に入っていたようだな。」
「本来なら、私の最高傑作になるはずでした。」
厳白蟒の視線が、朱緋魘へ向く。
「ちょうど、あなたにとっての血魔将のように。」
朱緋魘が薄く笑った。
だが、目は笑っていない。
「一緒にしないでちょうだい。」
「私は、あなたの毒虫とは違うもの。」
その言葉には、露骨な侮蔑が混じっていた。
だが次の瞬間、彼女はふっと肩を竦める。
「でも、少し可哀想ではあるわよねぇ。」
「命懸けで魔界から逃げ出したのに、最後は処刑台。」
部屋が静まる。
しばらくして。
孫人峰が静かに口を開いた。
「私は、よくやった方だと思うがな。」
朱緋魘が小さく目を瞬かせる。
厳白蟒も視線を向けた。
孫人峰は椅子へ身体を預けたまま、窓の外を見ている。
「魔界から逃げ出せる者など、そう多くない。」
「まして、お前の手からだ。」
最後の一言は、厳白蟒へ向けられていた。
厳白蟒の目が細くなる。
「それは称賛として受け取るべきですかな。」
「誤解するな。」
孫人峰は軽く首を振った。
「逃げ切った時点で、それはすでに“力”だ。」
部屋が静まり返る。
朱緋魘は、じっと孫人峰を見ていた。
彼女は知っている。
孫人峰がこういう顔をする時。
彼はもう単純に“駒”を見ているのではない。
何か別のものを観察している。
「……何を考えてるの?」
朱緋魘が小さく尋ねた。
孫人峰は、しばらく窓外を眺めていた。
やがて静かに言う。
「私は知りたいんだ。」
「彼女が、まだ抗うのかを。」
厳白蟒の目が細くなる。
「つまり――?」
「公開処刑は、多くの者にとって終わりだ。」
孫人峰の声は穏やかだった。
「だが、あの娘には執念がある。」
「私と似た種類の執念が。」
彼は薄く笑う。
「命懸けで魔界から逃げた者が、本当に絶望へ追い込まれた時――」
「なお誰かが、その者のために抗おうとするのか。」
「それを見てみたい。」
朱緋魘が吹き出した。
「また始まった。」
彼女は指先で、孫人峰の胸を軽く突く。
「本当に、人が足掻くのを見るの好きよね。」
孫人峰は彼女を見下ろした。
「面白いからな。」
「運命というものは、最初から公平じゃない。」
「だが、それでも頭を下げない者がいる。」
彼は静かに言った。
「私は、そういう人間が好きだ。」
その声は穏やかだった。
だが朱緋魘は知っている。
それこそが、孫人峰という男の最も危険な部分だと。
彼は、破壊そのものを楽しむわけではない。
虐殺そのものに酔うわけでもない。
彼はただ。
巨大で残酷な舞台を見ている。
そして、その中でもがく者ほど。
強く興味を抱くのだ。
厳白蟒が低く笑った。
「本気で、人間が魔族一人のために刑場を襲うと?」
孫人峰も小さく笑う。
「もし現れるなら――好きに試させればいい。」
「もし辛夷を連れ去れるなら。」
彼はそこで言葉を切った。
「それは、彼女自身が掴み取った命だ。」
厳白蟒が鼻を鳴らす。
「青蝕完成まで、この街は研究場として借りますよ、孫太守。」
「それと――約定は忘れぬよう。」
「忘れない。」
「なら結構。」
厳白蟒は踵を返した。
「必要があれば、弟子を通して連絡を。」
そう言い残し、部屋を出ていく。
灯火が、小さく揺れた。
数息の静寂。
朱緋魘は孫人峰の目を見つめたまま、再び口を開く。
「方家堡の方は、屍魔将が準備を終えてる頃かしら。」
孫人峰は軽く頷く。
「あちらの方が、今は優先だ。」
「方家堡は――人間の魂を集めるには、丁度いい実験場になる。」
彼はようやく、朱緋魘へ視線を戻した。
「次は、お前の番だ。」
朱緋魘の目が細くなる。
ようやく主人に見てもらえた猫のようだった。
「やっと私を動かしてくれるの?」
孫人峰が薄く笑う。
「他の者では、少し不安でな。」
その一言で。
朱緋魘の目から、怠そうな色が完全に消えた。
彼女が好きなのは、殺しではない。
“必要とされること”。
それだった。
彼女はゆっくり腕を伸ばし、孫人峰の首へ絡める。
「……寂しくなる?」
声は柔らかかった。
珍しいほどに。
孫人峰はしばらく黙っていた。
やがて、彼は彼女の乱れた髪を静かに耳へ掛ける。
「なる。」
たった一言。
だが朱緋魘は嬉しそうに笑った。
彼女は身を寄せ。
そっと、孫人峰へ口づける。
情欲というより。
確認だった。
自分が、今も彼にとって最も近い場所にいるのだと。
人界でも。
魔界でも。
この男の目には、まだ自分が映っているのだと。
長い口づけの後。
朱緋魘はゆっくり立ち上がった。
紅の衣が、孫人峰の膝から滑り落ちる。
血のように。
あるいは、花のように。
「じゃあ、あなたの舞台を整えてくる。」
孫人峰は引き留めない。
ただ静かに、その背を見送っていた。
朱緋魘は扉の前で足を止める。
振り返り、笑った。
「辛夷、あんまり早く死なせないでね。」
「私も少し気になってきたから。」
「本当に誰かが、あの子のために命を懸けるのか。」
扉が閉じる。
次の瞬間。
朱緋魘の身体は、蝙蝠の群れのような血霧へ変わり、そのまま楼閣の闇へ溶けて消えた。
部屋は再び静まり返る。
孫人峰は一人、高座に座ったまま。
静かに部屋の中央を見つめていた。
そこに祀られているもの。
幽かな紫光を放つ、鎧魂萃。
それこそが。
彼がこの街で、すべてを動かしている理由だった。
窓の外では。
泰城の灯火が、今も闇の中へ連なっている。
翌日。
一笑楼は開いていなかった。
戸板は半ば閉じられ、昼の光がその隙間から斜めに差し込み、表の間いっぱいに散った木屑の上へ落ちていた。
昨夜、大蛇にぶつけられて裂けた柱脚は、ひとまず仮の木材で支えられている。割れた床板はまだ張り替えられておらず、折れた卓が数台、壁際に積まれていた。
まるで一場の騒動のあと、片づけきれなかった骨のようだった。
西門鼎は床にしゃがみ込み、口に細い木片を咥えたまま、槌で床板へ釘を打っていた。
「鼎。歪んでる。」
阿橙(あだい)は傍らに立ち、帳簿を抱えたまま静かに言った。
西門鼎の槌が、空中で止まる。
彼は床を見下ろした。
「どこが歪んでる?」
阿橙は何も言わない。
ただ、目だけを上げて彼を見る。
西門鼎は一息沈黙し、打ちかけの釘を抜いて、位置を合わせ直した。
「……分かった。歪んでた。」
反対側では、黄毛が新しい木板を押さえていた。思わず笑いが漏れる。
「臥虎先生、床直すだけで覇気出しすぎだろ。」
西門鼎が顔を上げて睨む。
「もう一回言ったら、お前がやれ。」
黄毛はすぐに木板を彼の前へ押し出した。
「やるよ。あんたの腕じゃ、今夜には一笑楼じゃなくて罠楼になる。」
周囲にいたチンピラたちが、一斉に笑った。
臭蛋は木材の束を抱えたまま笑いすぎて、危うく全部落としそうになる。斜眼は脚立を押さえていたが、笑いで脚立が傾き、傍にいた欧陽鶯に冷たく睨まれて、すぐに背筋を伸ばした。
欧陽鶯の顔色は、まだ良くない。
昨夜、無理に妖狐の気を解放したせいで、今も骨の隙間に虚ろな痛みが残っている。それでも彼女は表の間に立ち、男たちへ荷物の運び方を指示していた。
「そこは触らないで。」
彼女は、大蛇に砕かれた梁の根元を指した。
「もう一度触ったら、全部落ちる。」
西門鼎が顔を上げる。
「聞いたか? 全員、気をつけろ。今ここは俺が責任持って直してる。」
黄毛が鼻で笑った。
「責任持って壊す、の間違いだろ。」
「黄毛、お前――」
「はい、そこまで。」
阿橙の一言で、二人は同時に黙った。
表の間に、少しだけ静けさが戻る。
だが、その静けさは普段のものとは違っていた。
普段の一笑楼の朝の静けさは、開店前、竈の匂いを含んだ空白だった。
今の静けさは違う。
血と魔気を浴びたあと、人が無意識に声を落としてしまうような静けさだった。
水仙は、窓際の席に座っていた。
彼女は手を出さなかった。
長公主殿下として、誰かに命じることもなかった。
ただ静かに座り、この市井の者たちが、自分の手で昨夜壊されたものを一つずつ繋ぎ直していく様子を見ていた。
その眼差しは、とても真剣だった。
まるでこれは酒楼の修繕ではなく、宮廷では見たことのない、別の秩序であるかのように。
一つの場所が壊れる。
すると、知っている者も、そうでない者も、口の悪い者も、普段はろくでもない者も、皆がやって来る。
命令はない。
褒賞もない。
誰も、それを高尚な行いだとは言わない。
ただ、木板が壊れたから替える。
卓が折れたから直す。
人が傷ついたことは、今はまだ口にしない。
草芳と香菱はいない。
二人は奥の部屋で療養している。
昨夜、水仙はほとんど神識を使い果たして、ようやく二人を鬼門の手前から引き戻した。今も顔色はまだ白く、茶盞の傍に置かれた指先が、時折、ごく僅かに震えている。
阿橙はそれに気づいていた。
だが何も言わず、ただ彼女の茶を少し薄いものに替えた。
そして、その長公主殿下を迎える役目を負っていた問天教の酒聖――太史邦はというと。
卓の端で完全に酔いつぶれ、鼾をかきながら、鼻提灯を膨らませたり縮ませたりしていた。
その時だった。
戸口の方から、柔らかな開門の音がした。
黄毛は木板を抱えていた手を止め、振り向く。相手の姿を見た瞬間、少し怪訝な顔になった。
戸が開く。
最初に見えたのは、やけに上等な菓子箱だった。
朱塗りに金の文様。
淡い色の紐で丁寧に結ばれている。
その後ろから、郁金香が姿を現した。
今日の彼女は、普段よりもずっときちんとした身なりをしていた。淡い色の長衣に、柔らかな外套。髪は丁寧に結い上げられ、鬢に差した小さな花簪まで、わずかな乱れもなかった。
彼女は入口に立ったまま、屋内の惨状に少し驚いたような顔をした。
だが、その驚きはすぐに、ちょうどよい程度の心配そうな表情へ変わる。
「阿橙姉さん。」
彼女は柔らかく声をかけた。
声は風のように甘い。
「兄から聞きました。昨夜、一笑楼で大変なことがあったって。どうしても心配で、少し菓子を持ってきたんです。」
黄毛は木板を抱えたまま、口を開けた。
「え?」
「俺、そんな風に言っ――」
郁金香の視線が、すっと横へ流れた。
ほんの一瞬。
だが、それだけで黄毛は後半を飲み込んだ。
彼は硬直し、乾いた笑いを漏らす。
「あ、ああ。言った。言ったよ。」
「うちの妹は、ほら、心優しいからな。」
西門鼎は隣で黄毛と郁金香を見比べ、口元を引きつらせた。
「お前の妹、いつからそんなに一笑楼を心配する性格になったんだ?」
黄毛が声を潜める。
「俺が聞きたい。」
郁金香は聞こえなかったふりをした。
菓子箱を提げたまま中へ入る。足取りは軽く、床に散った木屑や血の跡を器用に避けていた。
その顔に浮かぶ心配は、綺麗だった。
多すぎず、少なすぎず。
物分かりのよい娘に見える程度の心配。
けれど、悲しみすぎてはいない。
阿橙は彼女を見た。
「気遣いはありがたいわ、郁金香さん。」
「ただ、今は店の中が散らかっていて、まともにおもてなしできないけれど。」
「そんな、構いません。」
郁金香はすぐに首を振った。
「ご迷惑をかけに来たんじゃありません。皆さんのお役に立てることがあればと思って。」
そう言いながら、彼女の視線は自然に窓際の席へ向かった。
今、気づいたように。
だが、その一瞬、彼女の眼にかすかな光が宿る。
水仙。
慕容水仙。
長公主殿下。
問天教での修行を終え、戻ってきた人物。
昨日、黄毛の口からその名を聞いた時点で、郁金香はここへ来ることを決めていた。
一笑楼のためではない。
ただ、この長公主殿下がここにいるからだ。
郁金香は菓子箱を提げ、水仙の卓へ歩いた。
そして、静かに礼をする。
「水仙様。」
「突然お邪魔して、失礼いたします。」
水仙は顔を上げた。
彼女は郁金香に少し見覚えがあった。
かつて泰城で行われた慈善巡演の舞台で、郁金香は伴舞の一人だった。
水仙は軽く頷く。
「ごきげんよう。」
郁金香の笑みが、さらに柔らかくなる。
「まさか、こちらでお会いできるとは思いませんでした。」
「以前、泰城での公演で、私はあなた様の舞台の伴舞を務めたことがございます。覚えていらっしゃいますでしょうか。」
「覚えています。郁金香さん、でしたね。」
「水仙様に覚えていただいていたなんて、光栄です。」
彼女は菓子箱を卓へ置く。
仕草は優雅だった。
「昨夜はあれほど危険なことがありましたし、さぞお疲れでしょう。」
「これは杏花楼の菓子です。そちらの桂花糕は神識の疲れにもよいと聞きましたので、水仙様が昨夜、人を救うために神識を使われたのなら、少しでも補いになればと思いまして。」
言い方は丁寧だった。
むしろ、何も間違ってはいない。
水仙は菓子箱を一瞥する。
「ありがとうございます。」
郁金香は、拒まれなかったことに少し安堵した。
彼女は水仙の向かいに腰を下ろす。
しかし深くは座らない。椅子の半分ほどに腰を預け、いつでも立ち上がれるような姿勢だった。
その距離は恭しく。
同時に、自分の分寸を見せるにはちょうどよかった。
「実は昨夜、兄から話を聞いて、本当に驚きました。」
郁金香は声を落とす。
「魔族がここまで追ってくるなんて……それに、あれほど多くの方が傷ついて。」
“魔族”という言葉の時だけ、彼女の声にはわずかな嫌悪が混じった。
「捕まった辛夷という方……あの方も、魔族だとか?」
水仙の指が、茶盞の縁で静かに止まった。
「ええ。」
郁金香は小さく息を吐く。
「それなら、あんな騒ぎになったのも無理はありませんね。」
その一言で、黄毛が木板を運ぶ手を止めた。
欧陽鶯も顔を上げる。
水仙はすぐには答えなかった。
だが郁金香は、自分が何かを言い損ねたとは思っていないようだった。
物分かりのよい、整った声で続ける。
「もちろん、あの方が必ず悪い人だと言うつもりはありません。」
「ただ……魔族は、やはり私たちとは違いますから。」
「最初からここに留めなければ、皆さんが巻き込まれることもなかったのではないかと。」
彼女は目を伏せる。
本当に悲しそうに見えた。
「阿橙姉さんがこれほど苦労して一笑楼を守っているのに、素性の知れない魔族の女性のせいでこんな目に遭うなんて……あまりにも不公平です。」
阿橙が帳簿をめくる手を止めた。
西門鼎が眉をひそめる。
「おい、郁金香。その言い方は――」
黄毛も慌てて口を挟む。
「妹、少し黙れ。」
郁金香は黄毛を一瞥した。
短い視線。
けれど、明確な警告があった。
黄毛は口を開きかけ、結局閉じた。
水仙は彼女を見ていた。
その眼差しは静かだった。
静かすぎて、郁金香の胸にわずかな違和感が生まれる。
彼女は、自分の言い方が堅実だと思っていた。
こういう時、“普通の人々が魔族に巻き込まれた”という立場に立つのは間違いではない。
一笑楼を心配しているように見える。
水仙の前で、理性的で分別ある態度も示せる。
けれど。
水仙の眼には、賛同はなかった。
むしろ、何かが静かに離れていくようだった。
「郁金香さん。」
水仙がようやく口を開いた。
「あなたの言う“違う”とは、何を指しているのですか。」
郁金香は一瞬止まる。
「それは……種族が違う、ということです。」
水仙は静かに問う。
「種族が違えば、まずその人を受け入れるべきではない、と判断してよいのでしょうか。」
郁金香の笑みが少し固まる。
「私は、そういう意味で言ったのではありません。」
「では、どういう意味ですか。」
水仙の声は、なおも穏やかだった。
責め立てる調子ではない。
だからこそ、感情で逃げることができなかった。
郁金香は袖口を軽く握る。
「私は、普通の人々はもともと大変だと言いたいんです。」
「魔族を受け入れたせいで災いを招くのなら、それは皆さんにとって不公平です。」
水仙は彼女を見ていた。
「では、受け入れられた人が魔族ではなく、異邦人だったら?」
郁金香の呼吸が、一瞬止まる。
水仙は続ける。
「もし誰かが、蛮族の血を引く女性が泰城に入ったから、受け入れるべきではないと言ったら。」
「彼女はここにいる人たちとは違うから。」
「彼女の存在が、いつか災いを招くかもしれないから。」
「あなたはそれも、当然だと思いますか。」
表の間が、一気に静まり返った。
黄毛の顔色が変わる。
彼は思わず郁金香を見る。
郁金香の笑みは、ついに保てなくなった。
彼女の母・黄鶴は、黄金大陸から来た異邦人だった。
郁金香の身にも、いわゆる“蛮族”の血が流れている。
彼女は、それを誰かに指摘されることを何より嫌っていた。
嫌いすぎて、自分のすべてを“もっと泰城の上等な人間らしく”磨き上げてきた。
だが今、水仙は嘲ったわけではない。
暴いたわけでもない。
ただ、郁金香自身が使った理屈を、そのまま静かに彼女へ返しただけだった。
郁金香の指先が冷えていく。
「それは、違います。」
声は小さかった。
「何が違うのですか。」
水仙が問う。
郁金香は口を開きかけた。
だが、言葉が出てこなかった。
魔族が危険だと言うのなら。
黄金大陸の人々もまた、野蛮で、粗野で、信じ難いと多くの者に呼ばれてきた。
辛夷の素性が知れないと言うのなら。
自分の母も、かつて泰城では、指を差される外来の女だった。
辛夷のせいで一笑楼が巻き込まれたというのなら。
郁金香たちの家もまた、この数年、蛮族の血を理由に何度見下されてきただろう。
郁金香は、胸が締め付けられるのを感じた。
自分が必死に隠してきたものが、綺麗な衣の下からそっと持ち上げられたようだった。
水仙はそれ以上追い詰めなかった。
ただ、卓上の菓子箱へ目を落とす。
「お気持ちだけ、いただきます。」
「ですが今は、受け取るべきではないと思います。」
郁金香の顔が白くなる。
「水仙様、私はただ――」
「分かっています。」
水仙は静かに言った。
「善意なのだと思います。」
その言葉は優しかった。
けれど、叱責よりも郁金香には痛かった。
“善意”という言葉が、この場では一つの距離のように響いたからだ。
水仙は続ける。
「ですが、辛夷さんは、この出来事の原因ではありません。」
「彼女もまた、この出来事の中へ押し込まれた人です。」
「私たちが恐れから、急いで彼女を“人”ではなく、“魔族”や“災厄”や“受け入れるべきではなかったもの”に変えてしまうのなら――」
水仙は郁金香を見た。
「それは、かつて血筋であなたを評価した人たちと、何が違うのでしょう。」
郁金香の顔色が、完全に変わった。
彼女は立ち上がる。
動きはまだ品を保っていた。
けれど、その品の中にひびが入り始めている。
「……失言でした。」
彼女は低く言った。
「失礼いたします。」
踵を返そうとする。
黄毛が本能的に追いかけかけた。
「郁金香――」
だが郁金香は振り返らない。
彼の横を通り過ぎる時、極めて小さな声で言った。
「ついて来ないで。」
黄毛は固まった。
手にはまだ木板を持っている。
置くべきか、追うべきか、分からなかった。
郁金香は戸口まで来て、ふと足を止める。
彼女は水仙を振り返った。
その目にはすでに笑みが戻っていた。
けれど、先ほどほど安定してはいなかった。
「水仙様。」
彼女は軽く言う。
「本当に、この世のすべての“違い”は、理解し合えるものだとお思いですか。」
水仙は一息沈黙した。
そして答える。
「すべてではありません。」
「ですが、最初から理解しようとしなければ、一つも届きません。」
郁金香はそれ以上何も言わなかった。
戸が開く。
彼女は昼の光の中へ出ていく。
精緻な菓子箱だけが、卓の上に残された。
誰も手を付けない。
表の間には、木板と、釘と、壊れた卓と、急に静かになった市井の者たちだけが残った。
黄毛は俯いていた。
顔色が悪い。
西門鼎も、珍しく彼を笑わなかった。
欧陽鶯は再び布巾を取り、床を拭いた。
だが、その動きはゆっくりだった。
阿橙は菓子箱を見つめる。
しばらくして、静かに帳簿を閉じた。
「黄毛。」
黄毛は顔を上げる。
「……ん?」
「持って帰って。」
阿橙は言った。
「その菓子は高すぎる。今の私たちには、食べられない。」
黄毛の喉が動いた。
何か言おうとした。
だが結局、頷いただけだった。
「……分かった。」
水仙は再び目を伏せた。
茶盞の傍に置いた指先は、まだかすかに震えている。
昨夜、草芳と香菱を救うために失った神識は、まだ戻りきっていなかった。
だが、その疲れよりも。
今の彼女を苦しめているものは、別にあった。
人は、自分が最も刺されたくない場所を。
別の誰かへ、刃として向けてしまうことがある。
そして、そういうことは。
この街では、きっと毎日のように起きている。
人と人は理解し合い、包み合うことができる。
そう信じる道を、世界へ伝えていきたい。
けれど、その道は。
思っていたよりも、ずっと長いのだと。
その時だった。
戸の外から、また足音がした。
今度は、重い。
欧陽梟が入ってきた。
欧陽梟が入ってきた時、表の間ではちょうど槌の音が戻りかけていた。
西門鼎は床にしゃがみ込んだまま、釘をまだ打ち下ろしていない。
黄毛は卓の上の菓子箱を取りに行こうとして、手を伸ばしたところで止まった。
最初に顔を上げたのは、欧陽鶯だった。
彼女は欧陽梟の足音を誰よりもよく知っている。
だから、他の誰よりも一瞬早く分かった。
兄は、手伝いに来たのではない。
欧陽梟は戸口に立っていた。
肩には外の冷気が残っている。捕吏の服は着替えておらず、裾には湿り気があり、靴底には泥が付いていた。
かなりの時間、外を歩き回っていたのだろう。
彼はすぐには口を開かなかった。
まず、表の間を見渡す。
割れた床。
仮木で支えられた柱脚。
窓際に座る水仙。
黙っている阿橙。
そして、作業をしているふりをしながら、すでに全員が手を止めている者たち。
最後に、欧陽梟の視線は裏庭の方へ向いた。
阿虫は表の間にいない。
それに気づいた瞬間、欧陽梟の眉間がさらに深くなった。
「阿虫は?」
阿橙が帳簿を閉じる。
「後ろ。」
彼女の声は平らだった。
「辛夷さんの件、何か分かったの?」
欧陽梟は一息だけ黙った。
短い沈黙。
けれど、それだけで表の間にいた全員の胸が沈んだ。
西門鼎がゆっくり立ち上がる。
手にはまだ槌を握ったまま、それを置くことすら忘れていた。
「夜梟……」
「どうなった?」
欧陽梟は彼を見なかった。
阿橙を見た。
この店で本当に受け止めるべき相手に、まず伝えなければならないと分かっているようだった。
「役所から戻ったところだ。」
「太守府にも、人を通して話を入れた。」
「昨夜、雲仙楼の近くで見張っていた捕吏にも話を聞いた。」
一言ごとに、声が低くなっていく。
「試せることは、全部試した。」
阿橙は遮らない。
ただ彼を見ていた。
欧陽梟の垂れた手が、ゆっくり握られる。
「駄目だった。」
表の間が静まり返った。
その二文字は、どんな説明より重かった。
欧陽鶯の顔から血の気が引く。
「兄さん……」
欧陽梟は片手を軽く上げた。
今はまだ言わせるな、という仕草だった。
彼は説明したくないわけではない。
どこから説明すれば滑稽に聞こえないのか、分からなかっただけだ。
「太守府はすでに定案した。」
彼はようやく言った。
「明後日の午時。」
「城南門。」
「公開処刑だ。」
西門鼎の手から、槌が滑り落ちた。
どん、と床に当たる。
誰も拾わない。
水仙の指が、静かに強張る。
茶盞の縁に触れ、小さな音が鳴った。
彼女は目を伏せる。
予感していなかったわけではない。
それでも、その言葉を実際に聞くと、予感は鋭い刃となって胸へ刺さった。
黄毛が口を開く。
「そんなに早いのか?」
声が乾いていた。
「昨日捕まったばかりだろ……」
欧陽梟は彼を見る。
「奴らは、調べているわけじゃない。」
「辛夷さんは、もう“魔女”として定められた。」
黄毛が固まった。
欧陽梟の声は、さらに沈む。
「雲仙楼の一件以来、街はもう乱れ始めてる。」
「青斑は伝染するという奴がいる。」
「異邦の女に近づいた者は生きられないという奴がいる。」
「昨夜、一笑楼に現れた魔物も、彼女が呼んだと言う奴までいる。」
欧陽鶯が冷たく言った。
「でたらめよ。」
「分かってる。」
欧陽梟は妹を見た。
その目に責める色はない。
あるのは疲労だけだった。
「だが今は、でたらめの方が真実より役に立つ。」
その言葉を受け止められる者は、表の間にはいなかった。
水仙がゆっくり顔を上げる。
「太守府は、審問を行わなかったのですか。」
欧陽梟は彼女を見た。
彼は水仙の身分を知っている。
その問いが本来なら重みを持つことも分かっていた。
けれど今、その重みは届くべき場所へ落ちなかった。
「審問はした。」
欧陽梟は言う。
「だが、その結果が何だったのかを、こちらが知ることはない。」
「雲仙楼、菜市、街の噂、一笑楼に現れた魔物。」
「それだけあれば、十分に“見栄えのいい調書”を書ける。」
水仙の顔色が、わずかに白くなった。
「でも、それは真実ではありません。」
欧陽梟は沈黙した。
そして少し低い声で言う。
「水仙様。」
彼は殿下とは呼ばなかった。
一笑楼の中でふさわしい呼び方を選んだ。
「今の問題は、彼女に罪があるかどうかではありません。」
「泰城に、“罪人”が必要だということです。」
水仙の呼吸が、軽く止まった。
その意味が分からないわけではない。
分かるからこそ、認めたくなかった。
昨夜まで、彼女は人と人とは理解し合うべきだと語っていた。
だが今日になって、彼女は思い知らされる。
一つの城が恐怖に包まれた時。
人はまず、理解しようとはしない。
先に、焼き殺せる誰かを探す。
阿橙がようやく口を開いた。
「覆す余地は?」
欧陽梟は彼女を見た。
しばらくして、首を振る。
「表向きには、ない。」
西門鼎が苛立ったように言う。
「表向きには、って何だよ。裏は? あんた捕吏頭だろ? 何とか――」
「俺にできるのは、今日ここへ来て、お前たちに伝えることだけだ。」
欧陽梟は彼を遮った。
声は高くない。
だが、押し殺した怒りが滲んでいた。
「これ以上俺が動けば、太守府はまず一笑楼を調べる。」
「昨夜ここには魔物が現れた。」
「店には妖の血を引く者がいる。」
「魔族がいた。」
「問天教の弟子が負傷した。」
「帝国の長公主殿下まで命の危険に晒された。」
彼は一字ずつ、ゆっくり言った。
「お前ら、本気でここが今、綺麗な場所だと思ってるのか?」
西門鼎は言葉を失った。
欧陽鶯の手が、静かに握られる。
彼女には分かっていた。
欧陽梟は脅しているのではない。
上がその気になれば。
一笑楼は“魔女を匿った店”にできる。
阿橙は、魔女をかくまった者にできる。
欧陽鶯は妖族の同党にできる。
西門鼎や黄毛たちのように修繕を手伝いに来た者でさえ、徒党を組んで騒乱を起こした者として書ける。
この世には、網というものがある。
一度それが収まり始めれば、その一本一本が真実である必要はない。
ただ、十分に密であればいい。
人は、それだけで逃げられなくなる。
水仙が立ち上がった。
身体はまだ完全に戻っていない。立ち上がる時、指先がそっと卓に触れた。
「私が太守府へ行きます。」
「私の身分で、孫太守と直接交渉します。」
草芳と香菱はここにいない。
もし二人がいたなら、必ず止めただろう。
だが今、水仙は自分の口でそう言った。
声は静かだった。
けれど、そこにはほとんど頑固と呼べるほどの真剣さがあった。
欧陽梟は彼女を見る。
「水仙様。」
「もちろん、行くことはできます。」
「ですが、太守府があなたに会うとは限りません。」
水仙は言った。
「私は慕容家の者です。」
欧陽梟は沈黙する。
その言葉は間違っていない。
だからこそ、複雑だった。
阿橙が、彼の代わりに続きを言った。
「慕容家の人間だからこそ、行くべきではありません。」
水仙は彼女を見る。
阿橙の声は平らだった。
「ここは泰城です。」
「表向きは太守府の管轄です。」
「向こうがあなたの顔を立てる気なら、あなたの一言は有効でしょう。」
「けれど、向こうにその気がなければ、事態は急を要し、民の不安も限界に達していた。だから先に処理せざるを得なかった――そう言える。」
「会う理由をつけて引き延ばし、すべてが終わるまで正式に会わないことだってできる。」
阿橙は一度言葉を切った。
「その時、あなたの身分は逆に利用されます。」
「長公主殿下が魔物の出現を目撃した。」
「一笑楼には確かに問題があった。」
「そういう証にされる。」
彼女の声は、さらに静かになる。
「しかも、慕容家の長公主殿下が泰城で魔物に襲われ、命を落としかけた。」
「その話が大きくなれば、北国と東皇の政治問題にもなる。」
水仙の顔色がさらに白くなった。
理解できないのではない。
理解できてしまうから、沈黙するしかなかった。
郁金香が残していった菓子箱は、まだ卓の上にある。
精緻で。
清潔で。
美しい。
表の間の割れた床とは、あまりにも馴染まなかった。
黄毛はゆっくりそれを手に取る。
今度は、何も言わなかった。
欧陽梟は裏庭の方へ目を向ける。
「阿虫は知っているのか?」
表の間はまた静まった。
阿橙はすぐには答えない。
答えたくなかったのだ。
その時、裏庭から足音がした。
阿虫ではない。
玉蓮だった。
彼女は奥から出てくると、少し顔色を悪くしていた。
「阿虫はさっき、裏庭にいました。」
「聞こえた?」
阿橙が問う。
玉蓮は頷く。
「たぶん、聞こえています。」
「それで?」
玉蓮は少し黙った。
「何も言いませんでした。」
「薪小屋へ行きました。」
阿橙は目を閉じた。
何かが、最も見たくない場所へ落ちたような顔だった。
欧陽鶯がすぐに後ろへ向かおうとする。
「私、見てくる。」
「行かないで。」
阿橙の声は強くない。
だが、欧陽鶯を止めるには十分だった。
欧陽鶯は振り返る。
その目には焦りがある。
「でも、あいつ――」
「今は、誰が行っても無駄。」
阿橙は裏庭を見る。
その眼には深い疲れが滲んでいた。
「一人にしてあげて。」
その直後。
裏庭から、鈍い音がした。
砰。
斧が木へ深く入ったような音。
あるいは、何かが無理やり叩き割られたような音だった。
表の間にいた全員が、それを聞いた。
西門鼎の顔色が変わる。
「あいつ、何してんだ?」
誰も答えない。
二度目の音が響く。
砰。
一度目より重い。
黄毛は菓子箱を抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
彼は阿虫とそこまで親しいわけではない。
だが、あの小僧が普段なら、空が落ちてきても先に悪態をつくような奴だということくらいは知っている。
だが今。
阿虫は一言も言わない。
それは、怒鳴るよりもよほど悪かった。
水仙は裏庭の方を見る。
彼女はふと、昼間の菜市の裏路地を思い出した。
猫の骸を火にかける時、阿虫が見せた眼。
冷たく。
硬く。
人を刺すような眼。
だが、その冷たさの下にあったのは、無情ではなかった。
死を処理することに慣れざるを得なかった者の疲れだった。
今、その少年の前に、また死が押し出されている。
ただし今度は、猫ではない。
生きている人だ。
彼が救った人――辛夷だった。
欧陽梟が低く言った。
「俺が伝えられるのは、ここまでだ。」
「明後日午時までに、城南門には重兵が置かれる。」
「太守府は、騒ぎを起こしそうな者をすべて監視するだろう。」
「孫太守は、人を処理してから北王府へ報告を上げるつもりらしい。」
「すでに辛夷が魔族であると定められた以上、官としても民を鎮める立場としても、あの処理は隙がない。」
彼は阿橙を見る。
「あの小僧に、衝動で動くなと言っておけ。」
阿橙は答えない。
欧陽梟は続けた。
「阿虫のことだ。」
「辛夷さんをここへ連れてきたのは、あいつだ。」
「さらに掘られれば、あいつ自身も無関係では済まない。」
阿橙が、ようやく彼を見る。
欧陽梟の眼は重かった。
「あいつが本当に無茶をすれば、俺でももう助けられないかもしれん。」
脅しではなかった。
ただの現実だった。
阿橙は静かに頷いた。
「分かっています。」
裏庭から、三度目の斧音が響く。
砰。
木が裂ける音は、前の二度より乱れていた。
斧はもう、柴を割るためだけに振り下ろされているのではない。
表の間では、誰も口を開かなくなった。
ただ、その音だけが。
一度。
また一度。
裏庭から聞こえてくる。
暗い場所へ自分を閉じ込めた誰かが、ようやく少しずつ裂け始めているようだった。
裏庭の薪小屋は狭かった。
普段は柴、古い酒甕、しばらく使わない雑物を積んでおくだけの場所だ。壁際には、湿った木の匂いがいつも籠もっている。酒粕と埃の匂いも混じり、苦く、息苦しい。
阿虫はそこに立っていた。
手には斧。
目の前には、割られたばかりの薪が一本転がっている。
木目の裂け方は乱れていた。
普段のように、きれいには割れていない。
阿虫は俯いている。
額の髪が落ち、目元を隠していた。
外の声は、全部聞こえていた。
欧陽梟が入ってきた足音。
「公開処刑」という四文字。
そして、表の間の空気が急に静まり返ったこと。
全部、聞こえていた。
だから彼は、ここへ来た。
あのまま表の間に立っていたら、自分が何をするか分からなかったからだ。
砰。
斧が再び振り下ろされる。
薪が力任せに割れた。
飛んだ木片が手の甲に当たる。
だが阿虫は、何も感じていないようだった。
ただ、次の薪を掴む。
また割る。
砰。
一度。
また一度。
動きはどんどん速くなる。
だが、どんどん乱れていく。
普段、彼の薪割りはこんなものではない。
阿虫はだらしなく、口も悪い。
だが手は安定している。
かつて夏侯戒に教えられたことがある。
刀を握るのも。
斧を握るのも。
剣を握るのも。
本質は同じだ、と。
気が乱れれば、力は散る。
心が定まらなければ、斬るものは必ず歪む。
だから阿虫は、ただ薪を割る時でさえ、あまり乱れなかった。
だが今は違う。
斧が落ちるたび、薪を割っているようには見えなかった。
何か別のものを、叩き潰そうとしているようだった。
砰!
一本の薪が弾け飛び、壁際へ転がった。
阿虫の呼吸が重くなる。
胸の中に、何かが詰まっていた。
どんどん苦しくなる。
どんどん、痒くなる。
あの馴染みのある感覚が、また皮膚の下を這い始める。
血の中を、無数の小さな虫が上ってくるようだった。
彼は動きを止めた。
俯く。
自分の手を見る。
指先が、無意識に丸まり始めていた。
痒い。
まただ。
阿虫は目を閉じた。
押さえ込もうとする。
だが、押さえようとするほど、その感覚は強くなる。
特に、手首。
皮膚の下で何かが這っている。
幼い頃からそうだった。
感情が抑えきれなくなるたび、身体が痒くなる。
最初は、少し掻くだけだった。
だが、少しずつ酷くなった。
ある夜など、自分で脚を血だらけになるまで掻き壊し、翌日まともに歩けなくなったこともある。
だから、いつからか。
彼は布を巻くようになった。
手首。
脛。
足首。
何重にも巻きつける。
まるで、何かを縛るみたいに。
あるいは、自分に言い聞かせるみたいに。
掻くな、と。
砰。
斧がまた落ちた。
だが今度は刃が逸れた。
薪割り台の端に深く食い込む。
阿虫は息を吐いた。
ようやく低く悪態をつく。
「……くそ。」
彼は斧を引き抜き、柴の山へ投げ捨てた。
両手を薪割り台につく。
呼吸がますます荒くなった。
辛夷が牢に繋がれている姿が、何度も頭の中をよぎる。
昨夜、雲仙楼で不器用に箸を使おうとしていた姿。
「この木の棒、言うこと聞かない」と言った時の顔。
路地で、「私じゃない」と言った声。
そして、欧陽梟に連れて行かれる前。
振り返ったあの目。
それらの光景が、釘のように頭の中へ打ち込まれる。
一つ。
また一つ。
阿虫はふいに手を上げた。
手首を掻きむしる。
布越しでも、爪の音がした。
足りない。
まだ痒い。
彼は俯いたまま、呼吸を乱す。
そして、ついに手首の布を引き剥がした。
布が解ける。
その下から、無数の掻き傷が現れた。
新しいもの。
古いもの。
すでに瘡蓋になったもの。
まだ裂けたばかりのもの。
傷は幾重にも重なっている。
長い間、治りきらない病のようだった。
阿虫はその痕を見つめた。
目が、ますます沈んでいく。
次の瞬間。
爪が皮膚へ食い込んだ。
「っ……」
皮膚が裂けた瞬間、あの痒みが一瞬だけ薄くなる。
血がじわりと滲み出る。
手首を伝って流れた。
阿虫はようやく息ができたように、低く吸い込む。
だが、すぐに脛も痒くなった。
手首よりも重い。
彼は俯き、乱暴に裾の下の布帯を引き剥がした。
布が床へ落ちる。
白い脛にも、同じように掻き傷がびっしりと刻まれていた。
場所によっては、何度も掻き壊したせいで、薄い傷痕になっている。
阿虫は薪割り台の横に座り込む。
背中を壁へ預ける。
それでも手は止まらなかった。
掻き続ける。
止められない。
血が少しずつ滲み出る。
床へ落ちる。
薪小屋は静かだった。
聞こえるのは、阿虫の荒い呼吸と、爪が皮膚を削る音だけ。
自分でも分かっていた。
今の自分は、ひどく醜い。
まるで狂人だ。
けれど止められない。
頭の中には、欧陽梟の言葉だけが残っていた。
――泰城には、罪人が必要だ。
阿虫はふいに笑った。
短く。
冷たい笑いだった。
「……選ぶのが上手いな。」
辛夷は魔族だ。
異邦人だ。
知り合いも少ない。
守ってくれる者もいない。
青い斑の怪病が城内に広がっている。
その上、昨夜は魔物が一笑楼を襲った。
だから、彼女は最も押し出しやすい。
すべてを背負わせることができる。
死んだところで、誰も困らない。
そう考えた瞬間。
阿虫の手に力がこもる。
新しい血痕が、無理やり皮膚に刻まれた。
痛い。
だが、その痛みがかえって頭を少しだけ澄ませる。
「くそ……」
彼は低く罵った。
声はどんどん掠れていく。
「何でだよ……」
誰に向けた問いなのか、自分でも分からなかった。
なぜ辛夷なのか。
それとも。
なぜ、またこうなのか。
彼は思い出していた。
守ろうとしたのに、すべて失ってきたものを。
そして今度は、辛夷だ。
この世には、いつも簡単に押し出される者がいる。
重要ではないから。
ここに属していないから。
死んでも、本当に高い場所にいる者には傷一つ付かないから。
薪小屋の外で、風が木戸を揺らした。
表の間では誰かが木板を運ぶ音が微かに聞こえる。
だが、それは遠かった。
まるで別の世界の音だった。
阿虫は俯いたまま。
ふと、昼間に辛夷が路地で問いかけた言葉を思い出す。
――あなたは、属しているの?
あの時、彼は笑った。
自分の属する場所など、とっくに消えた、と言った。
だが今になって。
彼は気づいてしまった。
辛夷も同じだ。
彼女は魔界から逃げてきた。
だが人界も、彼女を人として扱わなかった。
なら、彼女はいったいどこへ行けばいい?
そこまで考えた瞬間。
阿虫の呼吸が、一瞬止まった。
あることに気づいたからだ。
辛夷は、たぶん最初から分かっていた。
連れて行かれたあの時から。
誰も自分の言葉など聞かない、と。
だから、あれほど静かだった。
静かすぎるほど。
まるで、もう死ぬ覚悟をしていたみたいに。
阿虫は強く目を閉じた。
胸の奥にあった火が、ようやく少しずつ燃え上がってくる。
さっきまでの乱れではない。
もっと沈んだ、別のものだった。
彼はゆっくり、掻く手を止めた。
血は手首を伝って滴っている。
だがもう、痒みは感じなかった。
薪小屋は長い間、静まり返っていた。
外の空が暗くなり始めるほどの時間が過ぎて。
阿虫は、ようやくゆっくり顔を上げた。
その眼にあった乱れは、沈んでいた。
まるで剣が鞘へ収まったように。
もう、あちこちへ暴れ回らない。
残っているのは、冷たさだけだった。
彼は俯き、解けた布を拾う。
そして手首へ、ゆっくり巻き戻していった。
いつもより遅く。
だが、いつもより確かに。
血はまた、布の下へ押し込められていく。
最後に。
阿虫は立ち上がった。
その手には、七殺の鎧魂萃が強く握られている。
爪で掻き裂いた血が、指の間から鎧魂萃へ滲み込んでいた。
七殺は、まるで心臓の鼓動のように。
どくん。
どくん。
阿虫の内側にある、本当の声へ応えるように脈打っていた。
阿虫は何も言わなかった。
ただ、その鼓動を握り潰すように、さらに強く握った。