「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩――   作:八神 アキト

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第四話 逃離

森を抜ける風は次第に弱まり、倒れた暴雉獣(ぼうちじゅう)が残した血の匂いだけが、夜気の中でゆっくりと広がっていった。折れた枝には散った羽根が引っかかり、夜風に小さく揺れている。

 

 白蓮(ハクレン)は視線を戻し、暴雉獣が確実に息絶えたのを確認すると、休息を取っている銀狐――いや、正確には夏侯家の令嬢・夏侯菖蒲(カコウ・しょうぶ)のもとへ歩み寄った。

 

「菖蒲様。」

 

 白蓮は片膝をつき、小さな白瓷の瓶を取り出す。「まずは安神丸(あんじんがん)を一つ、お飲みください。」

 

 菖蒲の額にはまだ汗がにじみ、呼吸も無理に整えているのがわかる。白蓮が瓶の栓をひねると、淡い薬香が冷たい風に乗ってふわりと広がり、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。

 

「これは……?」

 

 菖蒲は薬瓶を受け取り、掌にころがった淡黄色の丸薬をじっと見つめる。

 

「安神丸です。」白蓮は変わらぬ調子で言う。「修練とは、精・気・神の三つを本とします。一天の功では気を運行でき、二天の功では気で神を調える。そして三天の功に至れば、神が精を化し、肉体と感覚を超常的に強化できるのです。」

 

 白蓮の視線が、先ほど菖蒲の身に浮かんだ戦紋のあたりをかすめる。

 

「菖蒲様の今の修為は、ようやく二天を安定して扱える段階。先ほどのように強引に合神し、不足する気で三天の力を無理に支えれば、鎧魂が反噬し、経脈と神識を傷つけます。安神丸なら、しばらくのあいだ神識を安定させ、暗傷を残さずに済むでしょう。」

 

「……ちっ。」

 

 菖蒲は舌打ちし、丸薬をそのまま口に放り込んだ。苦味が舌に広がるが、眉ひとつ動かさずに仰いで飲み下す。薬力が気息に溶けて胸元へ落ちていき、乱れていた神識が、温い水をかけられたように静まっていくのがわかった。

 

「……ってことはさ。」

 

 菖蒲は瓶を返し、少しむくれた声で続けた。「あんたがここにいるのも、やっぱり昴兄(すばに)がつけたからでしょ。あんたの性格で、わざわざ私の尻拭いに、こんな場所まで来るはずないし。」

 

 白蓮は半拍だけ沈黙し、静かに目を伏せる。

 

「夏侯家の若様(わかさま)より、『菖蒲様が“銀狐”として北国(ほっこく)で活動している以上、余計な災いを招く可能性がある。影から護衛せよ』とのご命令を受けております。」

 

 それは、ほとんど肯定と同じだった。

 

 菖蒲は顔をそらしながらも、口元がわずかに緩む。

 

「ふん……ほんと、余計なお世話なんだから。」

 

 口ではそっけなく言い捨てながら、胸の奥に、じんわりとした温かさが灯る。

 

 視線の端に、まだ息を整えている少年――阿虫(あむし)の姿が入ると、菖蒲はふと思いついたように声を上げた。

 

「白蓮。」

 

「はい。」

 

「もう一つちょうだい。」

 

 白蓮はわずかに眉を上げる。「菖蒲様の神識はすでに――」

 

「私のじゃない。」

 

 菖蒲はそれを遮り、顎で阿虫を示した。「あいつに飲ませて。」

 

 阿虫は、ようやく胸の苦しさを落ち着かせたところだった。白蓮が薬瓶を手に近づいてくるのを見て、思わず身を引く。

 

「ちょ、ちょっと待て。北王府(ほくおうふ)の人間って、みんなそんな乱暴なのかよ?」

 

「口を開けてください。」

 

 白蓮は一切取り合わず、阿虫の顎を掴み、そのまま丸薬を押し込んだ。鉄の護手越しの指先は冷たいが、動きは意外なほど乱暴ではない。

 

「先ほどの合神は無理がありました。このままでは命を削ります。安神丸は、あなたの命を繋ぐものです。」

 

「げほっ……にがっ……!」

 

 阿虫はむせながら、喉に残る苦味を恨めしそうに舌で押しやる。「おいおい、こんな高そうな薬、俺なんかに使って後悔するなよ……?」

 

「別に。」

 

 菖蒲は腕を組み、そっぽを向いたまま言う。「さっき、私の命を助けた分の礼よ。夏侯家の恩怨は夏侯家で片づける。この一粒でチャラ。」

 

 そう言ってから、きゅっと目つきを変える。

 

「でもね、話は話。女奴を私的に運んでた罪は、別腹でしっかり清算してもらうから。」

 

 阿虫は、せっかく飲み込んだ苦味をまた思い出したような顔をした。

 

「いやお前、手のひら返すの早すぎだろ……」

 

「被害者ぶらないで。」

 

 菖蒲は冷たく言い放つ。「女を捕まえて、売り飛ばして、金にしか見てない。そういう連中は、北部じゃ斬首でも足りないくらいよ。」

 

 視線が、縮こまっている少女たちに滑る。菖蒲の目には、抑えきれない嫌悪が宿っていた。

 

「金のためなら、人の尊厳なんてどうでもいいってわけ。」

 

 阿虫は背中を木に預け、夜空を見上げる。

 

「好きに言えばいいさ。」

 

 彼は淡々と答える。「どうせ、俺の言い訳なんて聞く気ないんだろ。」

 

「賢ぶらないで。」

 

「ただ、俺は俺がやるべきだと思ったことをやってるだけだ。」

 

 阿虫は目を閉じ、薬力が乱れた神識を縫い合わせていくのを感じながら言う。「それが汚れ仕事に見えるなら、最初から俺は汚れてるってことでいい。」

 

 菖蒲は一瞬、言葉を失った。

 

 白蓮は二人の会話には口を挟まず、振り返って部下たちに馬具や荷車の整理、怯えた少女たちの宥めを指示していく。

 

「運搬経路の調査が大方済みました。」

 

 白蓮は再び阿虫と西門鼎(シモン・かなえ)へ視線を向ける。「車輪の跡は北境の外側、ある隠し関所付近で受け渡しを行い、そのまま聚香(ジュコウ)方面へ折り返しています。」

 

「つまり――お前たちが請け負っていたのは、第二経路というわけです。」

 

 西門鼎はびくりと肩を震わせたが、白蓮の冷たい視線に射抜かれ、喉元まで出かかった言い訳をそのまま飲み込んだ。

 

「この女たちは、北部国境の外から連れてこられた者たち。」

 

 白蓮は淡々と続ける。「北国の律例に従えば、不法越境者は――どこから来たか、その場所へ戻す。それが原則です。」

 

 その瞬間、女奴たちが一斉に地面へ額を打ちつけた。

 

「お願いです、官様──!」

 

「将軍様、どうか……! 私たちは、西国(さいこく)の者なんです……!」

 

「外に戻されたら、もう生きてはいけません……!」

 

 悲鳴と泣き声が、夜の林の中で渦を巻く。

 

 白蓮は眉間に皺を寄せた。

 

 その後ろで、一人だけ、周囲と異なる気配を放つ少女がいた。粗末な布で後頸を隠し、深く俯いたまま。だが布の下で、赤い光が小さく脈打っている。

 

 白蓮の声が耳に届いた瞬間、彼女の指先がかすかに震えた。

 

(……やっぱり、この声。)

 

 炎に包まれた夜の村。

 

 踏み荒らされた家々。

 

 飛んでいく自分の首。

 

 そして、血と火の中で現れた、その影――

 

 星片の仮面(ほしへんのかめん)をつけた人物が、差し伸べた手。

 

 昔の光景が、鮮やかによみがえる。

 

(北王府に行けるなら……最初の手間が省けるだけ。)

 

 彼女は唇の端で、誰にも気づかれない笑みを、ほんの一瞬だけ浮かべた。それはすぐに闇へと溶ける。

 

 一方で、少女たちの訴えは止まらない。

 

「本当に……私たちは西国の者なんです……!」

 

「追放されてからは、雨風をしのぐ家もなくて……!」

 

「食べる物も着る物もなく、家畜みたいにこき使われて……!」

 

「北国に入れるなら、たとえ奴婢でも娼妓でも……外で野犬みたいに死ぬよりはましなんです……!」

 

 それは、紛れもない現実であり、同時に、歪められた情報に基づく憎悪でもあった。

 

 本当は――

 

 あの虐殺を仕組み、西国人を追放し、その罪を北国に押しつけたのは、東皇の側だった。

 

 だが今も、国境の外に追いやられた原西国人たちは、「自分たちを殺し、追い出したのは北国だ」と信じ込まされている。

 

 その誤った憎しみが、何年にもわたって両国の溝を深くし続けてきたのだ。

 

 白蓮は、思わず剣の柄を握りしめていた。

 

 国境の外がどれほど過酷か、彼女は骨の髄まで知っている。

 

 水も薬も乏しく、冬に耐える衣もなく、律法も届かない。

 

 ただ、残酷な生存競争だけがある場所。

 

 そこへ彼女たちを「戻す」ことは――ほとんど「捨てる」のと同じだった。

 

「白蓮。」

 

 菖蒲が静かに呼びかける。

 

 白蓮は振り返った。

 

「規則では……そうするべきなんだろうね。」

 

 菖蒲は低く呟く。「でも、私はもう、見なかったふりはできない。」

 

「菖蒲様、これは北王府の――」

 

「規則?」

 

 菖蒲はかすかに笑った。「私も、ずっとそう思ってた。」

 

 彼女は少女たちに歩み寄る。

 

 凍えた指先。

 

 こけた頬。

 

 黄ばんだ眼白。

 

 それは、これまで城の中で暮らしてきた自分が、意識的に視界から外してきた現実だった。

 

「奴隷商の荷車を壊せば、それで正義だと思ってた。」

 

「でも、この子たちは、『助けたあと』に行く場所すらない。」

 

 菖蒲は腰を落とし、目の前で震えている少女と視線を合わせる。

 

「北国に残りたい?」

 

「……はい……! どうか……!」

 

「どんな仕事でもします……!」

 

 必死の声が、かすれながらも真っすぐに届いた。

 

 菖蒲は長く息を吐き、白蓮に向き直る。

 

「この子たちは、聚香まで連れて行く。北王府の後院の倉房に仮収容して、まずは人数を確認。」

 

「菖蒲様、それは――」

 

「律の話なら、私が昴兄(すばに)と李叔父(り・おじ)に説明する。」

 

 菖蒲の声には、もう迷いはなかった。「一度北国に足を踏み入れた命だもの。なら、北王府が責任を持つ。」

 

 彼女は少女たちの、希望で潤んだ瞳を見渡す。

 

「人数確認のあと、問題のない子は、全員北王府の仆役として受け入れる。衣食住は保証する。出世なんてできなくてもいい――少なくとも、理不尽に殺されることはない。」

 

 少女たちは、感極まったように地面へ崩れ落ち、何度も頭を下げた。

 

「本当に……そんなことが……?」

 

「ご迷惑に……なりませんか……」

 

「迷惑なのは、あなたたちじゃない。」

 

 菖蒲は自嘲気味に笑う。「今まで、あなたたちを見ようともしなかった、私たちのほうよ。」

 

 それから白蓮を見据える。

 

「あなたも、西国の出でしょ。」

 

 白蓮の指が、ぴくりと震えた。

 

「北王府に来たばかりの頃、あんた、すごく小さく見えたよ。」

 

「『西国の穢れ』だとか、『護衛なんて無理だ』とか、いろいろ言われてさ。」

 

「菖蒲様……」

 

「でも今や、護衛隊長まで登り詰めた。」

 

「それは、あんた自身の力で掴んだものでしょ。」

 

 菖蒲は、そっと白蓮の手の甲に触れる。

 

「だから、一番わかってるはず。『捨てられる痛み』を。」

 

 白蓮は目を伏せ、静かに息を吸い込んだ。

 

「……承知しました。」

 

 顔を上げたときには、いつもの冷静な指揮官の表情に戻っている。

 

「全員、馬車に乗せろ。十人ずつ区切って配置する。乱暴な扱いは絶対に許さん。北王府の仮登録仆役として扱え。」

 

「はっ!」

 

 兵たちが一斉に動き出し、壊れた馬車を立て直し、怯えた少女たちを丁寧に扶け上げていく。

 

「そんなに頭を下げなくていいって。」

 

 菖蒲は、どこか照れくさそうに言った。「頭を打って働けなくなったら、こっちが困るんだから。」

 

 少し離れたところで、阿虫がその光景を眺め、口の端を上げる。

 

「へぇ……やるじゃん、お嬢ちゃん。」

 

「なぁ阿虫。」

 

 西門鼎(シモン・かなえ)が弓を抱えたまま、半泣き顔で寄ってくる。「あの“荷”、全部北王府に持ってかれたんだけど! どうすんだよ! 泰城に帰ったら、赤字どころじゃ済まねぇぞ!」

 

「うるせぇ。」

 

 阿虫は小声で返す。「そんなこと大きな声で言ってたら、マジで首飛ぶぞ。」

 

「もともと俺は――げほっ、ごほん。いや、その、あいつらにとっちゃ“奴商”なんだろうけどさ。」

 

 西門鼎は慌てて咳払いをしてごまかす。「で、どうすんだよ阿虫。お前、その鎧まで見せちまったんだぞ。目立ちすぎだろ。」

 

 阿虫はすぐには答えず、白蓮と菖蒲のほうへちらりと視線を向けた。

 

 菖蒲は腕を組み、二人のほうへ向かってくる。どう見ても、「きっちり落とし前をつける」顔だ。

 

 阿虫は、そっと指の背で西門鼎の手首を小突いた。

 

 かなえは一瞬だけ目を見開き、すぐに状況を悟って目を輝かせる。

 

「……まさか。」

 

「合図したら、切れ。」

 

 阿虫は低く囁く。「お前、自分で綱張り替えたんだよな。」

 

「もちろんだとも! 車輪から綱から馬具から――」

 

「なら、自分の仕事は自分で責任取れよ。」

 

 阿虫は、いかにも胡散臭い笑みを浮かべた。

 

「その顔が、一番信用できねぇんだよなぁ……」

 

 菖蒲がちょうど二人の前で足を止め、腕を組んだ。

 

「さ、観念しなさい。女奴の私運搬――」

 

「白蓮。」

 

 阿虫が唐突に声を上げる。

 

「何でしょう。」

 

「綱、結び方が雑だぞ。」

 

 阿虫は、あくびでもするような声で、適当に馬車のほうを指さした。「俺、だらしないの嫌いなんだよ。」

 

 白蓮の視線が、一瞬そちらへ向く。

 

「今だ。」

 

 かなえが主綱をざんっと切り落とした。

 

 繋ぎが外れ、馬が驚いて大きくいななき、そのまま前へ飛び出す。阿虫はその背に跳び乗り、車辕を蹴って兵たちの進路を塞いだ。

 

「かなえ、乗れ!」

 

「うおっ、ちょ、待てってぇぇぇ!!」

 

 西門鼎――かなえは、倒れかけた荷台を踏み台にして飛びつき、阿虫の腰にしがみつく。

 

「駆けろッ!!」

 

 阿虫が馬腹を蹴ると、馬は泥を跳ね上げながら一気に走り出した。兵たちは突然の動きに対応できず、倒れた馬車が行く手を塞ぎ、十分に追撃態勢を整える前に距離を離されてしまう。

 

「追え!」

 

 誰かが叫ぶが、その前に菖蒲の声が響いた。

 

「待って!」

 

 白蓮の足が止まる。

 

 阿虫は振り返り、火の光を受けてにやりと笑った。

 

「よぉ、銀顔狐(ぎんがおきつね)。」

 

「さっきの薬の借りは、そのうち返してやるよ。」

 

 そして――中指を立てる。

 

「義賊を名乗りたいならさ。」

 

「命の値段くらい、ちゃんと勉強しとけよ、お嬢ちゃん。」

 

「なっ……!」

 

「阿虫――!! 俺の腰、マジで折れるって!!」

 

「黙ってしがみついてろ! 落ちたら、二度と拾わねぇからな!!」

 

 二人を乗せた馬は、闇の中へと駆け去っていった。

 

 白蓮はその背を見送り、静かに言う。

 

「追う必要はありません。あの馬では、そう長くは走れません。」

 

「でもあいつ……!」

 

 菖蒲が歯を噛む。

 

「菖蒲様。」

 

 白蓮は横目で彼女を見る。「行き先は、菖蒲様が一番よくご存じでしょう。」

 

 菖蒲は、はっとして言葉を詰まらせた。

 

「……泰城(たいじょう)。」

 

「……あのボロ宿。」

 

 白蓮は何も言わず、小さく頷く。

 

雪の夜、炎、屍の山の中、泣きもせず歯を食いしばっていた小さな少年――。

 

(……あの子が、ここまで生きたのね。)

 

 

 

 胸の奥に浮かびかけた感傷を押し込め、白蓮は声を張り上げた。

 

「整列! 聚香へ向かう!」

 

 掲げられた松明の列が、森の奥からゆっくりと動き出す。きしむ馬車には、まだ震えが残るものの、かすかな希望を宿した西国の少女たちが乗せられていた。

 

 一方には、行き先も知れぬ自由へと逃げていく二人の少年。

 

 一方には、運命を塗り替えるかもしれない扉へ向かう少女たち。

 

 同じ「逃離」でありながら、その意味は、まったく違っていた。

 

 そして北国のもう一方――北王府(ほくおうふ)の置かれた都・聚香(ジュコウ)では、すでに次なる嵐が、静かに形を成しつつあった。

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