「龍神英雄譚 靈皇 第一部 地の劫/天の殤 」 ――一人の少年が運命に抗い、運命を超え、虫より龍へと至る神話叙事詩―― 作:八神 アキト
森を抜ける風は次第に弱まり、倒れた暴雉獣(ぼうちじゅう)が残した血の匂いだけが、夜気の中でゆっくりと広がっていった。折れた枝には散った羽根が引っかかり、夜風に小さく揺れている。
白蓮(ハクレン)は視線を戻し、暴雉獣が確実に息絶えたのを確認すると、休息を取っている銀狐――いや、正確には夏侯家の令嬢・夏侯菖蒲(カコウ・しょうぶ)のもとへ歩み寄った。
「菖蒲様。」
白蓮は片膝をつき、小さな白瓷の瓶を取り出す。「まずは安神丸(あんじんがん)を一つ、お飲みください。」
菖蒲の額にはまだ汗がにじみ、呼吸も無理に整えているのがわかる。白蓮が瓶の栓をひねると、淡い薬香が冷たい風に乗ってふわりと広がり、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
「これは……?」
菖蒲は薬瓶を受け取り、掌にころがった淡黄色の丸薬をじっと見つめる。
「安神丸です。」白蓮は変わらぬ調子で言う。「修練とは、精・気・神の三つを本とします。一天の功では気を運行でき、二天の功では気で神を調える。そして三天の功に至れば、神が精を化し、肉体と感覚を超常的に強化できるのです。」
白蓮の視線が、先ほど菖蒲の身に浮かんだ戦紋のあたりをかすめる。
「菖蒲様の今の修為は、ようやく二天を安定して扱える段階。先ほどのように強引に合神し、不足する気で三天の力を無理に支えれば、鎧魂が反噬し、経脈と神識を傷つけます。安神丸なら、しばらくのあいだ神識を安定させ、暗傷を残さずに済むでしょう。」
「……ちっ。」
菖蒲は舌打ちし、丸薬をそのまま口に放り込んだ。苦味が舌に広がるが、眉ひとつ動かさずに仰いで飲み下す。薬力が気息に溶けて胸元へ落ちていき、乱れていた神識が、温い水をかけられたように静まっていくのがわかった。
「……ってことはさ。」
菖蒲は瓶を返し、少しむくれた声で続けた。「あんたがここにいるのも、やっぱり昴兄(すばに)がつけたからでしょ。あんたの性格で、わざわざ私の尻拭いに、こんな場所まで来るはずないし。」
白蓮は半拍だけ沈黙し、静かに目を伏せる。
「夏侯家の若様(わかさま)より、『菖蒲様が“銀狐”として北国(ほっこく)で活動している以上、余計な災いを招く可能性がある。影から護衛せよ』とのご命令を受けております。」
それは、ほとんど肯定と同じだった。
菖蒲は顔をそらしながらも、口元がわずかに緩む。
「ふん……ほんと、余計なお世話なんだから。」
口ではそっけなく言い捨てながら、胸の奥に、じんわりとした温かさが灯る。
視線の端に、まだ息を整えている少年――阿虫(あむし)の姿が入ると、菖蒲はふと思いついたように声を上げた。
「白蓮。」
「はい。」
「もう一つちょうだい。」
白蓮はわずかに眉を上げる。「菖蒲様の神識はすでに――」
「私のじゃない。」
菖蒲はそれを遮り、顎で阿虫を示した。「あいつに飲ませて。」
阿虫は、ようやく胸の苦しさを落ち着かせたところだった。白蓮が薬瓶を手に近づいてくるのを見て、思わず身を引く。
「ちょ、ちょっと待て。北王府(ほくおうふ)の人間って、みんなそんな乱暴なのかよ?」
「口を開けてください。」
白蓮は一切取り合わず、阿虫の顎を掴み、そのまま丸薬を押し込んだ。鉄の護手越しの指先は冷たいが、動きは意外なほど乱暴ではない。
「先ほどの合神は無理がありました。このままでは命を削ります。安神丸は、あなたの命を繋ぐものです。」
「げほっ……にがっ……!」
阿虫はむせながら、喉に残る苦味を恨めしそうに舌で押しやる。「おいおい、こんな高そうな薬、俺なんかに使って後悔するなよ……?」
「別に。」
菖蒲は腕を組み、そっぽを向いたまま言う。「さっき、私の命を助けた分の礼よ。夏侯家の恩怨は夏侯家で片づける。この一粒でチャラ。」
そう言ってから、きゅっと目つきを変える。
「でもね、話は話。女奴を私的に運んでた罪は、別腹でしっかり清算してもらうから。」
阿虫は、せっかく飲み込んだ苦味をまた思い出したような顔をした。
「いやお前、手のひら返すの早すぎだろ……」
「被害者ぶらないで。」
菖蒲は冷たく言い放つ。「女を捕まえて、売り飛ばして、金にしか見てない。そういう連中は、北部じゃ斬首でも足りないくらいよ。」
視線が、縮こまっている少女たちに滑る。菖蒲の目には、抑えきれない嫌悪が宿っていた。
「金のためなら、人の尊厳なんてどうでもいいってわけ。」
阿虫は背中を木に預け、夜空を見上げる。
「好きに言えばいいさ。」
彼は淡々と答える。「どうせ、俺の言い訳なんて聞く気ないんだろ。」
「賢ぶらないで。」
「ただ、俺は俺がやるべきだと思ったことをやってるだけだ。」
阿虫は目を閉じ、薬力が乱れた神識を縫い合わせていくのを感じながら言う。「それが汚れ仕事に見えるなら、最初から俺は汚れてるってことでいい。」
菖蒲は一瞬、言葉を失った。
白蓮は二人の会話には口を挟まず、振り返って部下たちに馬具や荷車の整理、怯えた少女たちの宥めを指示していく。
「運搬経路の調査が大方済みました。」
白蓮は再び阿虫と西門鼎(シモン・かなえ)へ視線を向ける。「車輪の跡は北境の外側、ある隠し関所付近で受け渡しを行い、そのまま聚香(ジュコウ)方面へ折り返しています。」
「つまり――お前たちが請け負っていたのは、第二経路というわけです。」
西門鼎はびくりと肩を震わせたが、白蓮の冷たい視線に射抜かれ、喉元まで出かかった言い訳をそのまま飲み込んだ。
「この女たちは、北部国境の外から連れてこられた者たち。」
白蓮は淡々と続ける。「北国の律例に従えば、不法越境者は――どこから来たか、その場所へ戻す。それが原則です。」
その瞬間、女奴たちが一斉に地面へ額を打ちつけた。
「お願いです、官様──!」
「将軍様、どうか……! 私たちは、西国(さいこく)の者なんです……!」
「外に戻されたら、もう生きてはいけません……!」
悲鳴と泣き声が、夜の林の中で渦を巻く。
白蓮は眉間に皺を寄せた。
その後ろで、一人だけ、周囲と異なる気配を放つ少女がいた。粗末な布で後頸を隠し、深く俯いたまま。だが布の下で、赤い光が小さく脈打っている。
白蓮の声が耳に届いた瞬間、彼女の指先がかすかに震えた。
(……やっぱり、この声。)
炎に包まれた夜の村。
踏み荒らされた家々。
飛んでいく自分の首。
そして、血と火の中で現れた、その影――
星片の仮面(ほしへんのかめん)をつけた人物が、差し伸べた手。
昔の光景が、鮮やかによみがえる。
(北王府に行けるなら……最初の手間が省けるだけ。)
彼女は唇の端で、誰にも気づかれない笑みを、ほんの一瞬だけ浮かべた。それはすぐに闇へと溶ける。
一方で、少女たちの訴えは止まらない。
「本当に……私たちは西国の者なんです……!」
「追放されてからは、雨風をしのぐ家もなくて……!」
「食べる物も着る物もなく、家畜みたいにこき使われて……!」
「北国に入れるなら、たとえ奴婢でも娼妓でも……外で野犬みたいに死ぬよりはましなんです……!」
それは、紛れもない現実であり、同時に、歪められた情報に基づく憎悪でもあった。
本当は――
あの虐殺を仕組み、西国人を追放し、その罪を北国に押しつけたのは、東皇の側だった。
だが今も、国境の外に追いやられた原西国人たちは、「自分たちを殺し、追い出したのは北国だ」と信じ込まされている。
その誤った憎しみが、何年にもわたって両国の溝を深くし続けてきたのだ。
白蓮は、思わず剣の柄を握りしめていた。
国境の外がどれほど過酷か、彼女は骨の髄まで知っている。
水も薬も乏しく、冬に耐える衣もなく、律法も届かない。
ただ、残酷な生存競争だけがある場所。
そこへ彼女たちを「戻す」ことは――ほとんど「捨てる」のと同じだった。
「白蓮。」
菖蒲が静かに呼びかける。
白蓮は振り返った。
「規則では……そうするべきなんだろうね。」
菖蒲は低く呟く。「でも、私はもう、見なかったふりはできない。」
「菖蒲様、これは北王府の――」
「規則?」
菖蒲はかすかに笑った。「私も、ずっとそう思ってた。」
彼女は少女たちに歩み寄る。
凍えた指先。
こけた頬。
黄ばんだ眼白。
それは、これまで城の中で暮らしてきた自分が、意識的に視界から外してきた現実だった。
「奴隷商の荷車を壊せば、それで正義だと思ってた。」
「でも、この子たちは、『助けたあと』に行く場所すらない。」
菖蒲は腰を落とし、目の前で震えている少女と視線を合わせる。
「北国に残りたい?」
「……はい……! どうか……!」
「どんな仕事でもします……!」
必死の声が、かすれながらも真っすぐに届いた。
菖蒲は長く息を吐き、白蓮に向き直る。
「この子たちは、聚香まで連れて行く。北王府の後院の倉房に仮収容して、まずは人数を確認。」
「菖蒲様、それは――」
「律の話なら、私が昴兄(すばに)と李叔父(り・おじ)に説明する。」
菖蒲の声には、もう迷いはなかった。「一度北国に足を踏み入れた命だもの。なら、北王府が責任を持つ。」
彼女は少女たちの、希望で潤んだ瞳を見渡す。
「人数確認のあと、問題のない子は、全員北王府の仆役として受け入れる。衣食住は保証する。出世なんてできなくてもいい――少なくとも、理不尽に殺されることはない。」
少女たちは、感極まったように地面へ崩れ落ち、何度も頭を下げた。
「本当に……そんなことが……?」
「ご迷惑に……なりませんか……」
「迷惑なのは、あなたたちじゃない。」
菖蒲は自嘲気味に笑う。「今まで、あなたたちを見ようともしなかった、私たちのほうよ。」
それから白蓮を見据える。
「あなたも、西国の出でしょ。」
白蓮の指が、ぴくりと震えた。
「北王府に来たばかりの頃、あんた、すごく小さく見えたよ。」
「『西国の穢れ』だとか、『護衛なんて無理だ』とか、いろいろ言われてさ。」
「菖蒲様……」
「でも今や、護衛隊長まで登り詰めた。」
「それは、あんた自身の力で掴んだものでしょ。」
菖蒲は、そっと白蓮の手の甲に触れる。
「だから、一番わかってるはず。『捨てられる痛み』を。」
白蓮は目を伏せ、静かに息を吸い込んだ。
「……承知しました。」
顔を上げたときには、いつもの冷静な指揮官の表情に戻っている。
「全員、馬車に乗せろ。十人ずつ区切って配置する。乱暴な扱いは絶対に許さん。北王府の仮登録仆役として扱え。」
「はっ!」
兵たちが一斉に動き出し、壊れた馬車を立て直し、怯えた少女たちを丁寧に扶け上げていく。
「そんなに頭を下げなくていいって。」
菖蒲は、どこか照れくさそうに言った。「頭を打って働けなくなったら、こっちが困るんだから。」
少し離れたところで、阿虫がその光景を眺め、口の端を上げる。
「へぇ……やるじゃん、お嬢ちゃん。」
「なぁ阿虫。」
西門鼎(シモン・かなえ)が弓を抱えたまま、半泣き顔で寄ってくる。「あの“荷”、全部北王府に持ってかれたんだけど! どうすんだよ! 泰城に帰ったら、赤字どころじゃ済まねぇぞ!」
「うるせぇ。」
阿虫は小声で返す。「そんなこと大きな声で言ってたら、マジで首飛ぶぞ。」
「もともと俺は――げほっ、ごほん。いや、その、あいつらにとっちゃ“奴商”なんだろうけどさ。」
西門鼎は慌てて咳払いをしてごまかす。「で、どうすんだよ阿虫。お前、その鎧まで見せちまったんだぞ。目立ちすぎだろ。」
阿虫はすぐには答えず、白蓮と菖蒲のほうへちらりと視線を向けた。
菖蒲は腕を組み、二人のほうへ向かってくる。どう見ても、「きっちり落とし前をつける」顔だ。
阿虫は、そっと指の背で西門鼎の手首を小突いた。
かなえは一瞬だけ目を見開き、すぐに状況を悟って目を輝かせる。
「……まさか。」
「合図したら、切れ。」
阿虫は低く囁く。「お前、自分で綱張り替えたんだよな。」
「もちろんだとも! 車輪から綱から馬具から――」
「なら、自分の仕事は自分で責任取れよ。」
阿虫は、いかにも胡散臭い笑みを浮かべた。
「その顔が、一番信用できねぇんだよなぁ……」
菖蒲がちょうど二人の前で足を止め、腕を組んだ。
「さ、観念しなさい。女奴の私運搬――」
「白蓮。」
阿虫が唐突に声を上げる。
「何でしょう。」
「綱、結び方が雑だぞ。」
阿虫は、あくびでもするような声で、適当に馬車のほうを指さした。「俺、だらしないの嫌いなんだよ。」
白蓮の視線が、一瞬そちらへ向く。
「今だ。」
かなえが主綱をざんっと切り落とした。
繋ぎが外れ、馬が驚いて大きくいななき、そのまま前へ飛び出す。阿虫はその背に跳び乗り、車辕を蹴って兵たちの進路を塞いだ。
「かなえ、乗れ!」
「うおっ、ちょ、待てってぇぇぇ!!」
西門鼎――かなえは、倒れかけた荷台を踏み台にして飛びつき、阿虫の腰にしがみつく。
「駆けろッ!!」
阿虫が馬腹を蹴ると、馬は泥を跳ね上げながら一気に走り出した。兵たちは突然の動きに対応できず、倒れた馬車が行く手を塞ぎ、十分に追撃態勢を整える前に距離を離されてしまう。
「追え!」
誰かが叫ぶが、その前に菖蒲の声が響いた。
「待って!」
白蓮の足が止まる。
阿虫は振り返り、火の光を受けてにやりと笑った。
「よぉ、銀顔狐(ぎんがおきつね)。」
「さっきの薬の借りは、そのうち返してやるよ。」
そして――中指を立てる。
「義賊を名乗りたいならさ。」
「命の値段くらい、ちゃんと勉強しとけよ、お嬢ちゃん。」
「なっ……!」
「阿虫――!! 俺の腰、マジで折れるって!!」
「黙ってしがみついてろ! 落ちたら、二度と拾わねぇからな!!」
二人を乗せた馬は、闇の中へと駆け去っていった。
白蓮はその背を見送り、静かに言う。
「追う必要はありません。あの馬では、そう長くは走れません。」
「でもあいつ……!」
菖蒲が歯を噛む。
「菖蒲様。」
白蓮は横目で彼女を見る。「行き先は、菖蒲様が一番よくご存じでしょう。」
菖蒲は、はっとして言葉を詰まらせた。
「……泰城(たいじょう)。」
「……あのボロ宿。」
白蓮は何も言わず、小さく頷く。
雪の夜、炎、屍の山の中、泣きもせず歯を食いしばっていた小さな少年――。
(……あの子が、ここまで生きたのね。)
胸の奥に浮かびかけた感傷を押し込め、白蓮は声を張り上げた。
「整列! 聚香へ向かう!」
掲げられた松明の列が、森の奥からゆっくりと動き出す。きしむ馬車には、まだ震えが残るものの、かすかな希望を宿した西国の少女たちが乗せられていた。
一方には、行き先も知れぬ自由へと逃げていく二人の少年。
一方には、運命を塗り替えるかもしれない扉へ向かう少女たち。
同じ「逃離」でありながら、その意味は、まったく違っていた。
そして北国のもう一方――北王府(ほくおうふ)の置かれた都・聚香(ジュコウ)では、すでに次なる嵐が、静かに形を成しつつあった。