どうせ死ぬなら、かっこよく死にたい   作:川に揺蕩う論理の箱

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第1章 手紙
プロローグ グレゴール・ダンカンへの手紙


 ………ああ、やっと休憩に入ったあなたは、この手紙をいつも通り「彼女」から受け取って、焚き火の前で読んでいるのですね。

 そうですよね? この手紙が、いつ届くのかわからないけど、きっとこれを読んでいるあなたはいま街に潜むという狼男を探している途中なはず。だって、あなたが、手紙を読むのは、きまって、仕事へ赴くときの休憩ときですもの。知ってますとも。ええ、知ってますとも。だって、誰よりもあなたのことを………

 怒ってますか? それとも失望してますか? わたしが、こんな手紙を送るとは思っていませんでしたか? こんな女々しい手紙を。

 でも、どうか誤解なさいでくださいまし。変わったわけではないですよ。わたしは、きっと、いえ昔からこんな人間でした。ただ、それを隠していただけ。……ああ、なるほど、わたしの中の奥にあったものが、あなたに姿を現しただけなんですね。それほどまでにあなたのことを思い慕っているのでしょうね、私は。そう、家族にさえ見せなかったこの一面をあなたにだけにまざまざと見せたいと思い、わたしはこの手紙を送ってるのです。でも、ああ、なんと伝えるべきか、いまだにわかりません。

 ………あなたがご存知の通り、わたしは、女でありながらこの騎士団を志望し、入団しました。家族は、反対していました。母は、泣きました。父は、わたしのほおを叩きました。

 おかしくなどありません。というのも、女という肉体は、そもそも戦闘において不向きなのですから。いくら男女問わずに入れるとはいえ、普通は女の方は行かないでしょう。だけど、神から与えられた才能があったのでしょうね。わたしは、そこそこ上の地位に立つことができました。

 相手からの妬みはありました。もちろん嫉妬も。家族に報告しても、父は呆れ果てるばかり。

 けれどわたし、大丈夫でした。

 あのときのわたしは、とにかくできるだけ離れたかったのです。家族から。親が求める理想の像から。

 いわゆる若いときにありがちな反骨精神。

 そんなものが、わたしを突き動かしていましたので、それらの非難はわたしの行動を止める要因にはなりえませんでした。わたしは、ただ自身のうちにある女という精神を殺したかったのです。ですが、まあ、この手紙からわかる通り、それは叶わなかったのですが。

 すべてのはじまりは、わたしが部隊長に昇格して、しばらくあとのことでした。

 あなたが新兵として入団したのです。

 ………思うば、そのときからあなたは変わっている方でした。

 その日、地面には滝のごとく降った雨で濡れそぼり、水たまりができていて、それがどこまでも澄み切った空に浮かぶ太陽の光を反射していたのをよく覚えています。あなたは、仏頂面で上官をみつめ、それにあなたの目つきが悪いことを相まって、気に入らないからとあとで訓練という名の決闘をしましたね。断ることはできないあなたは、その訓練を受け入れてしまいました。そしてまだあなたはそのときは弱く、負けてしまい、早々に医務室のお世話になりましたね。ですが、あなたは折れることもなければ、治ると、すぐに先輩と模擬戦闘を行っていました。それを、どうにも不気味だ、という方は少なくありません。もっとも、わたしはそんな諦めの悪さが好きですが。

 ………しかし、しかし、その諦めの悪さが、あの悲劇を、あの目を背けたいほどの悲劇を招いたというのなら、いったいどうしてその(さが)にすこしの、ほんの少しの憎しみだって抱いていないといえるのでしょう? 思い出します。あなたが冷たくなっていく感覚を、まなこに光が失っていくのを。私は、ああ、私は、死にゆくあなたさえ、美しいと……いえ、なんでもありません。これはおいおい書くつもりでしたのに。やはり、どうにもままならないものです。

 すみません。ですが、許せないでください。どうかこんな醜いわたしのことを許さないで。

 ………それと、あなたのその瞳に宿っている、どうしようもないその絶望。その暗闇に宿るわずかな危なげな火。目は魂の窓とよく言いますが、まさしくその瞳にはあなたの魂が写っていました。真っ黒の闇に浮かび上がる、ゆらゆらと、ゆらゆらと揺れるその蝋燭にも似た火。───なんと、美しい。私は、そう思いました。

 あなたは、いつの時か、わたしに、歓迎会後の吐瀉物を吐く自分に声をかけた理由を聞きましたね? そのときは自覚をしてなかったわたしは、心配だったからと答えました。

 でも、ああ、それは間違いでした。これこそが理由です。泥酔した方でも軽蔑せずに声をかけたのは、こんな腐った国になお灯る火を近くで見てみたいと思ったのです。

 

◻︎

 

 

 

「大丈夫か」

 

 と、ぶっきらぼうに横から女性の低い声が聞こえた。

 グレゴール・ダンカンは、視線を、鋪き石の溝にたまった雨水が吐瀉物と混ざっているのから外し、横へ弱々しくむけた。

 鋭い目つきの女性。見覚えがある顔つき。

 グレゴールは、大丈夫です、と言おうと口を開けた。

 だが、すぐにまた吐き気が襲いかかり、顔を下げた。そして口を手で押さえ、喉までせりあげがったゲロをなんとか飲み込んだ。息が荒々しく吐きながら、地面を意味もなくみつめた。

 据えた匂い。酸っぱい味。街に植えてある木並みの一本に止まっている梟の鳴き声が、まるで失った部分を埋め合わせるように染み込んで聞こえる。

 

(こんな吐いたのは、いつぶりだっけ)

 

 と、こう思ったが、すぐに考えるのをやめ、

 

「すいません」

 

 と、掠れた声でいった。

 

「いや、いい。楽な姿勢でいてくれ。

 きみの名前は、たしかグレゴール・ダンカンだったかな。わたしと同じ師団に所属しているはずだ。そうだろう?」

 

 なぜ自身の名を、それも彼女が知っているのか、という疑問が浮かんだが、「間違いありません」と、ふらふらと立ち上がりながら答えた。

 

「そうか」

 

 と、いうと彼女は、一度グレゴールから視線を外し、夜の暗闇に包まれた街を見返り、「ここでまっててくれ」と、酒場の戸口へ消え、戻ると、その手には煮沸された水が満たされた木のジョッキを持っていた。

 腰に片手を当て、ため息をつきながらそれを渡した。

 受け取り、グレゴールは飲んだ。

 飲み終えるまで長い沈黙が続く。飲み終えると、それを渡せと掌をグレゴールにむけて差し出してきた。

 再び渡すと、彼女は踵を返して、酒場へ戻り、帰る時にはジョッキはもう手元にはなかった。

 

「落ち着いたか」

「ええ、まあ」

「そうか、それならよかった。

 それで、とつぜんだが、すこしばかり話をしないか」

「話?」

「ああ、話だ。結局、歓迎会のときは君と話すことができなかったわけだし、それもかねてね」

「はあ」

「で、どうなんだ?」

「大丈夫ですよ」

「よし」

 

 二人は、〈ホワイト・ムーン〉のカフェの外でおちついた。彼女は、コーヒーを頼むと、ポケットに手を突っ込み、銀色の煙草箱を取り出し、一本取った。それから煙草を口にくわえ、

 

「きみ、煙草は大丈夫なタチかい」

 

 と、訊いた。

 

「ええ」

 

 グレゴールはコーヒーを頼んだ。そして彼女は、自身の煙草の火をつけ、くゆらせると、もう一本、煙草を取り出し、それをグレゴールにさしむけた。グレゴールは、ぱちりと瞬きをした。

 

「ん」

「えっと」

「受け取ってくれないか。なに、別に深い意味はないよ。ただ、そうだな………まあ、親交の証みたいなものだ」

 

 グレゴールは、しばらくじっと煙草をみつめ、彼女をみた。そしてまた煙草へ視線を戻した。

 

(受け取るしかないか)

 

 と、決め、その煙草を受け取り、口にくわえた。彼女はマッチの火をつけ、その煙草の先端に近づけた。

 

「ほら、吸え。火がつかないだろ」

 

 グレゴールは頷き、煙草を吸った。

 煙草の火がついた。

 彼女は、火を腕を振るうことで消し、先端が炭となったマッチを灰皿に置いた。そして彼女は煙草をくゆらせる。グレゴールも数回ほど吸って、吐いた。風に吹かれ、揺れる紫煙を目でしばらく追った。それから視線を戻し、話を切り出した。

 

「それで、俺になんの要なんですか、ベアトリス隊長」

「要?」

「ええ」

「要ならない。言っただろう、君のことをある程度知りたいんだよ」

「それだけなんですか?」

「ああ」

 

 なんともあっけない、とグレゴールは思った。だが、同時に彼女らしいとも思った。彼が知っている彼女は、こんなふう。彼は、苦笑した。

 一方ベアトリスは、無骨な髪飾りで留めてた一房を指に絡ませていた。それは、彼女の母が願いで切らずに残された髪だった。3回ほどくるくると遊ぶ。そして母が袖を濡らしたさまを彼女は思い出した。

 ベアトリスは、指を髪から離し、テーブルに置く。伏せていた目をグレゴールへむけた。そして微笑んで、唐突に言った。

 

「冬ももうすぐだな。寒い日が続く」

「そうですね。本当に寒い」

「いい夜景色だ」

 

 ベアトリスは、煙草を口から離し、その先端を、夜の紺青と闇に包まれた街を見下ろす水銀の涙のような三日月へさした。雲ひとつない夜空を泳ぐその月の(かさ)はやさしい。霧雨のように。

 風がふく。ベアトリスの一房を揺らし、グレゴールの頬を斬るように横切った。

 たしかに彼女の言うとおり寒く、美しい夜景色だった。

 ベアトリスは、煙草の灰を落とし、足をクロスするように組んだ。が、すぐにステップを刻むように足を入れ替えた。はじめは、右足が上に行くように、今回は、反対の足が。

 

「なに、君が語りたくないならいいんだ。ほら、この騎士団に入ろうとするものなんてひとつぐらい『秘密』を持っているものだろう。だから、いい」

「─────」

 

 グレゴールはその言葉を聴いて、やはり彼女なのだと思い知る。彼がよく知る彼女なのだと。思わず見開いた目を細め、

 

(やっぱり、死んでほしくないな)

 

 そう思った。

「では、ここは私が過ごしてきた騎士団での生活で起きた奇妙な話をしようではないか」と、穏やかに話しかけてくる彼女をみながら。

 騎士としてふさわしい高貴さをもつ彼女が1ヶ月後に死ぬことが、いや()()()()()()()()()()()()()ことなど、やはりあってはならないとグレゴールは思った。

 

 

 

◻︎

 

   聞きたまえ。

   偉大なる王は死んだ。

   この国を統べた、かの偉大なる方は死んだ。

   が、それを民衆は知るよしがない。

   彼らは機構(システム)の上で生きているゆえに。

   上がどうなろうと、関係がない。

   彼らの平凡の日常は続いている。

   しかし、運命の歯車はすでに動き出している。

   この国の秩序は、いま滅びようとしている。

   そしてその命運は、偉大なる王の後継者に任せられた。

   神を信じる狂信者よ、

   このシステムを破壊し尽くそうとする革命家よ、

   偉大なる王の血を引いた愚者よ、

   この世の真理を知ろうとする学者よ、

   聞きたまえ。

   ページはめくられた。

 

 

『すべての美しい別れ』というタイトルのゲームは、このような語りで始まる。このゲームは、グレゴールの前世に話題となり、徐々に有名となった作品だ。このゲームを開発した会社がゲーム業界にのし上がる、いわば出世作になった。同時にカルト的人気を獲得した作品でもある。革命的システムがあったわけではない。ただシナリオの完成度、そして世界観、エンディング分岐の多様さが評価されたのだ。

 軽くこのゲームについて説明しよう。ゲームジャンルとしてはアクションアドベンチャーゲーム。自身の選択によって分岐するストーリー、爽快さを感じるスピディーの戦闘システムが用意されている。世界観は、ダークファンタジー、魔術と怪物が跋扈している世界だ。時間軸は、まだ銃が覇権を握るほどではないが、銃火器が広く広まりはじめたぐらいの頃。すなわち近代。舞台となるのは、この近代化の波に乗って発展しつつあるとある名無しの国。この土地を統治する偉大なる王が死に、その後継者を王子やら、革命家やら、教皇やら、将軍などなど多くの権力者が水面下で争っているところだ。

 モデルとなった国は、おそらくイギリスであろう。ゴシック調の建物が点在するところや、ビック・ベンを彷彿させる時計とがあるところや、この偉大なる王の伝説がアーサー王伝説と似通っているところや、政治体制として立憲君主制の採用などがそう考えられる理由だ。

 この名無しの国では、魔のものが潜んでいて、その専門部隊として銀の騎士団と呼ばれる、王直属の特務組織が存在している。この国ではすでに近代的軍隊が存在するため、もはや騎士団というのは時代錯誤の組織だが、魔のものに対抗する専門家(エクスパート)としていまだに形骸化していない。

 この作品のあらすじをざっと述べよう。

 このゲームの主人公は、この騎士団に所属している。彼はとある『目的』のためにこの騎士団で働いている。魔のものを狩る日々。しかし、ある日、彼はひとつの事件のあと、この日常に違和感を感じる。そしてその日からその違和感がどんどんと膨張し、───それが爆発すると、次にヒロインに出会い、この水面下で起きている激しい動きに気づくことになり、その闇に巻き込まれることになる……

 話のおおよそはこのような感じだ。一見シンプルだが、そこは伏線を重ね、どんでん返しにつづくどんでん返しによって、物語の推進力を生み出しているのが魅力だ。

 しかし、この作品が一部批判呼ぶところがある。それが、シナリオのダークさだ。むろん、ダークファンタジーなのだから、当たり前だが、主要キャラがどんどんと死んでいく。しかし、その死に方があまりにも露悪的すぎる。これがこのシナリオへの批判だ。そのシナリオの過激さとバッドエンドの胸糞度合いにリタイアをした人も少なくない。グレゴールもそのシナリオの過激さに辟易したもののひとりだが、そのシナリオとキャラの魅力、そして世界観に心を奪われていたのでなんとか読み通すことができた。イタロは、前世ではこのゲームをつくった会社の狂信的なファンになったのも、このゲームがきっかけだった。それほど、このゲームは衝撃的だった。

 

 さて、話を本筋に戻そう。ここで大事なのは、そのシナリオの露悪的と感じるほどの悲惨な展開。それを実感するのは、プレイしてすぐにわかる。序盤のシナリオと戦闘を終えると、視点が変わり、とある部隊の進軍の場面になる。その部隊は、廃墟となった館のなかを進んでいる。彼らは、ここに潜んでいるという吸血鬼の討伐を命じられていた。薄暗い廊下。赤絨毯張りの床。歴代城の主の肖像画。いかにも吸血鬼がいそうな館。そして彼らは、とある部屋にはいると、罠にかかることになる。瞬時にその部屋は爆発し、部隊の半分は死ぬ。その丹念に書かれる死体描写や映像に映し出される死体。そして怪我を負った残りの部隊に、襲いかかるのが、盗賊だ。そう、はじめから吸血鬼などいなかったのだ。そうして最後に絶望の末殺されるその部隊の隊長こそ、ベアトリスなのだ。

 

 

◻︎

 

 

 同時刻、ひとりの男が、両足を、安物の貼り木の机に組んで置いていて、新聞紙を顔にかぶって寝ていた。風が明け離れた窓を通り抜け、カーテンをユラユラゆらす。何かの匂いに寄せられたのか一匹の蝿が、窓から入ってきて、ブウン、ブウン、と部屋の隅から隅まで旋回していたが、やがて男の目隠しとなっている新聞紙へ止まった。

 薄暗いボロい部屋だった。埃をかぶった電球のオレンジ色の光は、この部屋の全容を照らすには弱すぎた。チカチカと、点滅していた。

 ふと、錆びたドアノブ付きのドアからノック音が聞こえる。だが、男はいびきをかいたまま。起きる気配はない。

 

「おい、開けろ。私だ」

 

 男は起きない。舌打ちが聞こえる。そして突然、鍵穴が吹き飛ぶと、ドアが開く。侵入者は、上質な靴が踏み締めるたびに床が軋みながら、男のもとで止まった。ちらりと横へ視線を向けると、神経質な顔はさらに眉間にシワを寄せた。面倒ごとを、と内心悪態をついていた。

 

「おい」

「…………」

「おい」

 

 侵入者は腕を組んで、片腕に指で一定の間隔を持って叩いた。トントンと。男は変わらず起きない。侵入者は振り返り、誰もいないことを確認した。戸口の柱では彼の部下が外套を纏って、待っている。

 いびき。

 沈黙。

 やがて忍耐が切れた侵入者は、男の新聞紙をひったくった。蝿が飛ぶ。

 

「────んあっ」

 

 と、そこでようやく男は起きた。その男は、細い目をこすると、ポマードで固めた髪を撫でて、緩慢な動作で侵入者を認めた。特徴のない顔をしている男は、ニヤリと笑うと、組んでいた両足を床へ下ろした。

 

「これは、これは、ひさしぶりじゃないですか」

 

 いかにも芝居めいた発言。

 侵入者は、眉をひそめ、舌打ちをした。いやらしい、と思った。

 彼は、ポケットから一枚の紙を渡した。

 

「これは………?」

「黙れ、要件は、その紙に書いてある」

 

 男はその紙をじっと見つめ、ふんふんと頷いた。

 

「わかったか?」

「ええ、それはもう。でも、こいつは、骨が折れますぜ。ストレートフラッシュ出したほうがまだマシじゃないですかね」

「降りるのか」

「いえいえ、まさか、オールインしますぜ。どうせ、あっしには断ることができないのでしょう?」

「よくわかっているな」

「ええ」

 

 侵入者は、男がその紙を胸ポケットに入れるのを確認すると、何も言わずくるりと踵を返した。それから戸口付近まで歩くと、

 

「それにしても、あなたさまは悪い方だ。こんなことを知ったら、どうなることやら」

 

 と、男がくつくつと笑う声が聞こえた。

 侵入者は再び舌打ちをした。両手をそれぞれポケットに突っ込み、男へ斜めになるように体をむけた。親指は外へ出しながら。互いが見つめ合って、侵入者が言う。

 

「おまえにはわからないだろうな」

「そいつは、いわゆる大義というやつですかい」

「ああ」

「ふうん。なるほど、確かにあっしにはわからないことですわな」

「ふん」

 

 と、鼻で笑い、背を向けた。

 そして侵入者は、乱暴にドアを閉めた。男は、仕方がなそうにふうと息を吐くと、横にいる何かに「用意はいいですかい」と、視線をやって話しかけた。

 唸り声だけだ。返答はない。

 しかし、満足げに男は何度もよしよしと頷いた。

 そのとき、先ほど飛び去った蝿が、男にまた近づいてきたので、鬱陶しそうに手を振った。

 蝿は逃げる。

 

「久しぶりの大仕事ですぜい」

 

 そしてその蝿が旋回し、止まった。喉仏にナイフが刺さった死体の瞳に。もう何も写さない瞳。死の世界を眺めている瞳。

 男は、その死体にも何かをボソボソを話しかけると、笑って、立ち上がった。それから歩き、しゃがみこんで、飛ばされた鍵穴を拾って、しげしげとみつめた。そしてポケットにしまった。

 

 

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