どうせ死ぬなら、かっこよく死にたい   作:川に揺蕩う論理の箱

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二話 いつもの日常にすこしばかりの偶然を(中)

「……なるほど、よくわかりました。そのように神父さまに伝えておきます」

 

 重々しく受け取り、神へ誓いを立てるかのようにロザリオを両手で持ち、胸の元まで掲げ、ソーニャは頷いた。そして彼女は、ロザリオを手放すと、ちらりと神の言葉を教徒に聞かせている神父を見たが、すぐにグレゴールをみた。

 まだ、何話すことがあるのでは、と思っているらしい。

 

「伝えたいことはそれだけだから、安心してくれ。

 ほら、神父の話を聞かないと怒られるかもしれないからな」

 

 と、グレゴールは、ついと軽く指を立て、遠くへいる彼女たちを怪しげに見る中年ほどのシスターを差した。

 そのシスターは、ソーニャのように髪を見せることなく、自身の身体は神にしか知っていないのだ、と貞操を宣言するように厳格な服装をしていた。唯一露わなのは、苦悩が彫られたかのようにシワができた顔だけ。けれど目の奥には優しさはある。それが、彼女がシスターだとたらしめる慈愛というものなのだろう。

 

「────そうですね、たしかにこれ以上は職務怠慢で、怒られてしまいます。あの方はとっても厳しいですから」

 

 そしてソーニャは神父へ向き直り、彼の話を聞く。

 沈黙。

 グレゴールは、地面に対してわずかに斜めの体勢で、肩を預けるようにして壁を寄りかかって、しばらく聞くことにした。

 神父は、祭壇に置いてあった聖書を手に開き、語られた新しい言葉を解釈するのに有効な一節を取り出し、それを復唱し、まずはこの一節はどういう意味なのかを語り、それを踏まえてこの新しい言葉の真意を信徒に教えていた。忙しなく自身の頭を撫でながら。

 もう、要はなかった。この教会を訪れ、彼女に話しかけたのは、『保険』のひとつだった。その保険をかけることは成功した。信徒でもない彼は、神父の言葉に耳を傾ける必要はなかった。

 だが、その言葉を聞き、正確にいうなら神父の動きを見ることにした。それから見たまま彼女に話しかけた。

 

「ありがとうな」

「いえ」

 

 彼女も彼に目を向けることなく返答する。

 

「前から世話をかけてしまいっぱなしだ」

「そうですかね?」

「ああ、いくらソーニャが世に珍しい治癒魔術の使い手とは頼りすぎだ」

「では、騎士の仕事をやめてくださいよ」

「できるなら、まあ、したいよ」

 

 神父の動きはぴたりと止んだ。誰かが質問を投げかけていたのだ。神父はその話を時折相槌をうって、聞いた。それから微笑み、その質問への答えを述べはじめた。

 

「俺も悔い改めるべきかな」

 

 と、グレゴールはぽつりと独り言のように呟いた。

 その言葉を聞き、ソーニャは微笑んだ。目は変わらず神父向けたまま。

 

「何をですか?」

「え?」

「ですから、何を悔い改めるんですか」

「さあ、………そうだな、生きていることを、とか」

 

 一瞬の間。

 ソーニャは、吹き出し、口に手を当てた。

 

「ふふ、たしかに罪深いですね」

「ああ、罪深いだろうな」

 

 これが瀬戸際だろう。

 かのシスターが彼らを睨んでいた。

 グレゴールは、姿勢を正して、歩き出した。手を振り、

 

「じゃあ」

 

 と、いった。

 

「ええ、また」

 

 オルガンが再び奏られる。そして聖歌がはじまった。

 

 

◻︎

 

 

「あ、ああ、寒い、寒い。誰か抱きしめて、赤い、赤いりんごがほしい」

 

 ボロ布を纏って少女が顔を手で覆い隠している。貧民窟南部の閑散とした家並みがまっすぐとつづく道の、ゴミだめの箱が乱雑に散らかり悪臭が漂う路地裏にその少女はいた。陽光がわずかに差し込んでいた。グレゴールは追い詰めた彼女を冷然とみつめ、背後へ声をかけた。

 

「どう思う?」

「考えるまでもないな」

 

 噛みタバコを口に含んでいたヨンは、唾を地面に吐いた。背中に迫っていたハルバードを手に取った。そして素振りをした。銀の刃は陽光を反射し、あやしく光っていた。

 

「というと」

「あ? そりゃ、殺すよ、ありゃだめだろ」

「少女しか見えないが」

「はっ、ずいぶん都合がいいお目目だな。いい夢を見そうだな」

 

 グレゴールは、剣をもつ手を小刻みに揺らした。それから路地裏の闇を背にハルバードを構えているヨンをみた。

 ヨンは、両壁に散らかるゴミへ噛みタバコを吐くと、首をわずかに横へ傾け、コキリと鳴らした。 

 グレゴールは、少女へ視線を戻し、言った。

 

「悪いが、ここに入団して以来、いい夢なんて見ないな」

「それは失敬。だが、死と隣り合わせの仕事なんだ。

 悪夢を見たほうが生き逃れそうだと思わないか。ええ? グレゴール」

「かもな、ま、くだらないことはやめだ。

 ────やるぞ」

「あいよ」

「いつも通りにだ」

「はいはい、わかっているって。ほら、はやく口火を切ってくれ」

 

 静寂。

 グレゴールは口火を切った。前へ踏み出し、首へ狙いを定めて剣を振るう。泣きじゃくる少女。その細い首を胴体と切断しようと、刃は迫って、

 

「あ、ああ……あ、ああ、寒い、寒い。誰か抱きしめて、赤い、赤いりんごがほしい……ほしいっ!」

 

 ガンと、蜘蛛の足が迫った刃を止めた。予想通りだったグレゴールは、手首を返し刃を滑らせ、火花を散らかし、少女の無垢な細い腕を切り落とそうとする。

 

「チッ」

 

 しかし、2本目の蜘蛛の足が、彼の腹部を突き刺そうとしてきて、やむなくグレーゴルは斬撃を止めないといけなかった。グレゴールは体を無理やり横へ倒し、槍のように鋭い足を避ける。轟音。両端に溜まっていたゴミが吹き飛んで、体にあたる。

 少女とすれ違う。目が合った。

 いや、顔らしきものと向き合ったというべきか。目も鼻も口もなく、顔にはただ半透明の膜に覆われていて、そこから果実のように脊髄の先端に実っている脳が、脈打ってうごめいているのが透けてみえる。ホルマリン漬けにしたかのように青白い透明な液体に浮かぶ脳。

 

「ああ、寒いっ!」

 

 再び迫る少女の肩甲骨から伸びる蜘蛛の二つの足を下へ弾き返した。地面に叩きつけられた。そしてグレゴールは、脚をかかげ、それを全力で踏みつぶした。

 ふたつの破砕音。青緑色の血。

 がくりと、少女は膝をつくと、グレゴールは体勢を立ち直す前に首へ剣を突く。が、さらにその前に、地面から敷石を砕きながら『3本目』の足が襲いかかってきた。狙いは顔。

 グレゴールは少女の背から生えた三本目が地面に突き刺さっているのをみた。彼が踏み砕いた音以外に混ざったのが、あの足の地面へ刺した音だと気づいた。

 まったく、やらかした、とグレゴールは歪に口の端が上がった。

 もはやグレゴールの攻撃は、自身の意思から離れている。ここから攻撃から守りへ変更することなど不可能だ。刃と槍。そのどっちが相手を食い破るか先か。それは飛び散った血の色でわかった。

 赤。

 剣は手を離れて地面へ落ちた。

 カランと、路地裏に響く。

 ぼとりぼとりと落ちる血の居所は、グレゴールの右肩。

 だが、グレーゴルは笑った。そして左腕を広げた。短剣。彼の左の太ももに仕込んであったもの。いつの間にか握られていた。

 少女は逃げようとする。動かない。

 グレゴールが右腕で足を握り締め、逃がさないようにしていたのだ。

 

「そんなに寒いなら抱きしめてやるよ。ほら、寒いんだろ? 嫌がるなよ」

 

 前へ進む。

 とっさに少女の腕を操り、その顔を殴るが、グレゴールは効かなかった。

 

「おい、逃げるんな」

「あ、ああ、赤いりんご、アカイリンゴ」

 

 もう一歩前へ、その刹那、残りの足が出現した。

 それらといま彼が押さえているのと合わせて八本。ああ、たしかに蜘蛛の本数と一致している、とグレゴールは独りごちた。

 そのうちの五本の足がグレゴールを貫かんと、迫ってくる。

 

「なんだ、赤いりんごが欲しいのか。あげてもいいが、───」

 

 影が、少女の背に差した。

 少女の首が百八十度回り、背後にいる敵を見据える。

 ヨンが、いた。ハルバードはすでに天へ掲げられている。

 

「おめえは、子供好きなのか。ええ? どうなんだ、グレゴール」

「───その前に背後は気をつけたほうがいい」

「アカイリ───」

 

 斧が少女の首を切断した。

 

 

 戦闘が終わると、グレゴールは、刺さった足を抜くことはせず、これ以上悪化しないように自身の腕を固定した。外套を包帯にしたものを骨折したときと同じ要領で巻くことで。

 傷口から流れ出る血で包帯は赤く染まっていく。

 落ちた剣を拾い、鞘にしまう。

 

「それにしても、よくわかったな」

 

 と、グレゴールは、胡座をかいて、彼に背を向けてしゃがんでいるヨンに声をかけた。

 

「何がだ」

 

 ヨンは、少女の死骸の両手を彼女の胸の前で交差させ、神に祈りを捧げるように指を合わせていた。そして首にかけたロザリアを握りしめ、聖句を唱えた。その少女の死骸の首はなかった。首は切断されると、泥のように溶けて消えていったのだ。

 死者への祈り。

 

「いや、なに。今回の怪物は寄生型だったろう。おかげで、捜索は停滞していた。

 それをよくあの少女だと見抜いた、って思ってな」

 

 ヨンは聖句を唱え終え、立ち上がった。その胸元では少女を抱えていた。彼は、壁をみつめながら答えた。

 

「大した話じゃない。答えるまでない」

「大した話だと俺は思うぜ」

「やめてくれ、話して何になるっていうんだ。それにこれから家族に報告しないといけない」

「…………」

「ほら、いくぞ」

 

 ヨンは、グレゴールの横を通り過ぎ、路地裏を抜けた。続いてグレゴールは立ち上がって、歩き出した。

 

(……相変わらずちぐはぐなやつだな)

 

 グレゴールはその背を見ながら、そう思った。酒とタバコの愛好家。粗末な口調。女癖も褒めたものではない。とても、彼が信仰する改革派が掲げる清貧とはいえないだろう。しかし、一方、いまのように聖句を聖書なしに暗誦し、死者への弔いを忘れない彼は、どうにも同じ人間とは到底思えなかった。

 だが、それが人間というやつだろう、と片づけ、グレゴールは、この哀れな少女の家族にどんな顔をすべきか考えた。

 二人は、貧民窟の大通りを歩む人々と行き違う。すると、彼らは、振り返って少女の死体を運ぶこの二人を眺めた。今にも崩れそうな煉瓦造りの家の影に包まれた、このふたりを。空は、青かった。雲ひとつさえなかった。

 首から先、何もない少女を見て、女性は神に祈りを捧げた。男性は被っていたフードを深く被り、他人にその顔を見せないようにもした。また、別のものは、その少女を見て、ふたりの騎士を嫌悪の眼差しで睨んでいた。

 が、どちらにせよ、この騎士たちに、とやかく言うことはできなかった。というのも、この騎士たちが抱えるものを思うと、あらゆる選択の分岐が持ち受ける明日という未来でもなく、いずれ風化し姿を消えゆく古き良き昨日という過去でもなく、ただ今だけしか生き残れないこの人々の胸の内から湧き出た言葉は、崩れて落ちていったからだった。

 

 

「………ありがとうございます。騎士さま」

 

 ただ一言いうと、彼女は頭を下げた。顔はやつれ、隈が目の縁にできていた。齢は三十をまだ超えてないようだった。彼女は頭をあげ、掌を天へ向けるようにして腕を、ヨンへ伸ばした。自身の最愛の娘の死骸を受け取るために。

 ヨンはこれ以上何も言わないでその死骸を渡した。

 彼女は受け取った。そしてまた頭を下げた。

 

「では」

「ええ」

 

 ヨンは、だらんと下げた両腕を垂らしたまま、踵を返した。

 グレゴールは木並みのうちのひとつの影の下にいた。グレゴールは、彼を認めると、近づき、顧みている彼に声をかけた。その視線の先を追うと、薄い服装をしていた少女の母が戸口へまだ立っていた。外は寒いのに。

 

「帰ろうぜ」

「ああ」

「疲れたな」

「そうだな」

「報告書、どっちが書く」

「俺がやるよ、おめえ、その肩じゃ無理だろ」

「すまん」

「いいってことよ」

「一杯やるか?」

「いや、今日はいいや」

「そうか」

「悪いな」

「気にするな」

「お前の肩、どうなんだ」

「まあ、また彼女に頼らないといけないみたいだな」

「またか」

「ああ」

「親の顔より見たんじゃないか」

「そうじゃないことを祈るよ」

「べつに彼女に頼らなくてもいいのに、迷惑と思っているかもしれないぞ」

「かもな、だが、すぐに動けるほど回復できるのは彼女しかいないんだ」

「まあ、それならいいけど。あんま迷惑かけないほうがいいぞ」

「重々承知さ」

 

 彼らは元の道を引き返し、等間隔に植えた木々を数本通り過ぎると、ヨンは、振り返り、少女が愛した家をみた。粗末な、しかし安息の場所。他のなんだっていらないと断言できる愛すべき場所。だが、そこへ通じる玄関前には母はもう立っていなかった。閉じられた扉がそこにあるだけだった。

 怪我をした旦那に報告してきたのだろう、とヨンは思い、歩き出した。それから二度と振り返ることはなかった。

 

 

 

◻︎

 

 

「………これで、もう動けるはずです。

 もう、言ったすぐそばにここに来るなんて。ソーニャの都合なんて考えているのですか?」

「───すまん」

 

 まったく、と腰に手を当てる彼女を横目に、グレゴールは、ベッドから起き上がって右肩を回していた。どこも違和感や痛みを感じることはないと確認すると、グレゴールはコップに注がれていた水を飲んだ。そして横のテーブルの血ぬれた蜘蛛の足と、傍に置かれたメスとガーゼを眺めた。

 

「迷惑をかけている、とは思っている」

「もう、では、騎士の仕事をやめてくださいよ」

「………すまん」

「またそんなこと言って……」

 

 つい先刻前と同じような会話。

 グレゴールは眉を下げて、椅子に無造作に掛けてあった服を着た。グレゴールは、手をベッドに下ろすと、このベソをかいたのか顔をそっぽむいた少女に、何かを声をかけないと思い、

 

「でも、頼りになるのは、お前しかいないんだ。他のやつ以外に頼めない」

 

 と、いった。すると、ソーニャはピタリと動きをとめ、驚いたように目を見開くが、すぐに元に戻った。そして苦笑いをして、

 

「それ、ほんとうですか?」

 

 と、聞いた。

 事実なので、グレゴールは頷いた。

 彼女は、その反応を認めると、今度は笑顔を浮かべた。

 

「なら、仕方がないですね。………グレゴールさま、肩触りますね」

「うん? ああ、構わない」

 

 ソーニャは、彼の右肩に傷ができていた処をさわり、「痛くないですか?」と、確認をとっていった。グレゴールの反応を伺いながら、後ろへまわり、腕を地面に平行になるまで上げさせた。問題はない、と判断をすると、彼女は腕から肩へ滑らせた。怪我をした右肩。

 

「………神父さま、いいと言ってましたよ」

「えっ?」

「ほら、あれですよ。あなたが怪我をする前にした」

「ああ、それか。

 そうか、ありがとう。世話をかける。やっぱりソーニャしかこんなこと頼めないよ」

 

 ソーニャは答えなかった。

 ひどく違和感を覚える沈黙が流れた。

 グレゴールは振り返ろうとするが、彼女は顔を前へ向けさせ、自分が見えないようにした。そして指は、顔から首、右肩へ降りていった。

 手が、彼の視界に映る。まだ誰にも踏み荒らされていない新雪のように真っ白で艶やかな肌。細く長い指の先の、貝殻のような傷ひとつさえない爪。

 

「グレゴールさま、わたしは、ソーニャは、あなたさまが怪我をするところみると、いつも心が痛みます。だというのにあなたはこの仕事を辞めません。ソーニャ、気が気ではありません。

 ですが、…………ですが、ソーニャを頼りにしてくれるなら、ソーニャだけを頼りにしてくれるなら、あなたのために頑張ります。ですからどうか、どうか────」

「─────」

「わたし以外頼らないでくださいね」

 

 このとき、おそらく会話のなかで、グレゴールははじめて言い表しようのないドス黒い感情を乗せた声を聞いた。全身にゾウッとした感覚が駆け巡った。彼女は、怪我をした肩を優しく愛撫した。自身が治した怪我を。

 

 

『すべての美しい別れ』においてソーニャのことを一言で表すのは難しい。前世で、ネットでも彼女のことを表すのは、難儀をしているようであった。というのも、彼女は物語において波乱な展開の中心人物であり、また主人公が一番はじめに接触するヒロインだからだ。ルート次第では彼女と結ばれることもあるが、基本的に本格的な物語を展開する火付け役ではない。むしろ、彼女は、その火に油を注ぐ役割だ。そんな役割を持ちながら、ヒロインという二つの役割を持っていることから、彼女の性格は、非常に捻じ曲がっていて、多様な一面を持っている。そのためグレゴールは、彼女と軽々と話すのは、憚れていた。彼女と関わると事態がややこしくなることが往々にあるが、

 

「────まあ、それでも彼女がいないと無理だろうな」

 

 彼女について情報を思い出しながら、グレゴールは独りごちる。帰路をたどり、活気に満ちている街並みを眺める。傍には芥がうかぶ濁った川のせせらぎが聞こえていた。

 太陽は世界の淵へ徐々に浸っていこうとしていた。空を覆い尽くしていた群青が、太陽を起点として黄金色へと、じわりじわりと染め上がっていく。そして夜の闇と入れ替わる前の最後の抵抗として、太陽は血のような鉄錆色になり、うろこ雲の縁を赤金色に照らしはじめていた。

 小路が血管のごとく入れ込んだ家並みや通行人の影法師は細長く、濃くなり始めていた。

 暮れ果てゆく薄汚れた街。

 空には工場群の煤煙が風で左右へ首を振って、上っている。彼の横を、泡唾を白い息吹とともに吹き出しながら、青毛の馬が跑足で富んだものを車に乗せて、ガラガラと通り過ぎている。街灯に火をつけるために無言で点灯夫が梯子をかけている。雑沓とはほど遠い、穏やかな人通り。

 失われていく昔の世界と産声をあげ始めたこれからの世界の狭間。

 

(……できれば、あんなヤバいものを抱える教会と関わりたくなかったが、まあ、あれは不可抗力だ。しょうがない。それも彼女と友が救えるなら───)

 

 ああ、そうか、冗談で言った言葉はあながち、はずれてはいなかったらしい、とグレゴールは気づいた。いや、そもそもはじめからそうだったんだ。自身が転生し、ここが『すべての美しい別れ』の世界だと気づき、絶望したあの日から。それも自身がグレゴール・ダンカンだと知ったあの日から、俺は………

 

「────グレゴール」

 

 声が、した。芯が通った、女性にしては低い声。

 知っている声だった。それもつい数日前に聞いた声。

 顔を上げた。彼女が、そこにいた。

 

「ベアトリス隊長、どうもこんばんは」

「ああ、こんばんは」

 

 ベアトリスは、陽が世界の縁へ去っていくのを眺め、口を開いた。

 

「きみはこれから帰り?」

「そうですけど」

「ふむ、───もし君が気分を害さなかったら、一緒に飲みに行かないか?」

 

 グレゴールは、目をしばたたき、僅かに悩んだが、頷くことにした。

 

「よし、それじゃあ、行こうか」

 

 彼女は背筋を伸ばし、きびきびとした足取りで歩き出す。無骨な髪かざりが陽の残照できらきらときらめき、揺れるたびに柑橘の匂いがした。

 グレゴールの足が、止まった。彼女に見入っていたのだ。

 彼女は、いつでも隣に来ないのを不思議に思ったのか、金縛りにあったかのようにグレゴールが立ち止まっているのを見返り、

 

「どうした。何かあったか?」

 

 と、訊く。遅れて伸ばした黒髪の一房が揺れる。茜いろに染まる彼女。そこでようやくグレゴールは、金縛りが解けたのか、首をゆっくりと横へ振ると、歩き出した。

 しばらくして彼らは酒場についた。

 

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