ぼくのかんがえたさいきょうのあいどる 作:モモジャン箱推し
「はぁ……」
鏡の先に写った俺の肩に、くっきりと残っている噛み跡を見てため息がこぼれた。
二人暮らしを始めたばかりの頃、『誰かに奪われないように』と言って、みのりが首に吸い付こうとしてきたことがあった。当時は、誰かのものになるつもりなんて到底なかったし、みのりに対しても純粋な罪悪感しかなかったので、そういう関係になるのは違うだろうと思って拒否しようとした。
『あ……』
みのりの肩を掴んで離そうとしたとき、その顔に歪な笑みが浮かんで見えた。画面を通してみる仮面を被ったみのりと、それまで何気なく見ていたはずの素のみのりがぐちゃぐちゃに入り混じったような酷い顔だった。
……みのりの指先が僅かに震えていることに気付いたときに、その顔は余計に痛々しく見えた。
今のみのりには素を出せるのが俺しかいない。
ここで俺がみのりを拒絶したら、みのりはどうなってしまうのか。
罪悪感に上乗せする形で同情まで覚えてしまったときには………断るという選択肢は消えていた。
『…分かった。いいよ、みのりの好きにして』
最初の方は首にキスマークをつけてくるだけだったのが、段々とエスカレートしていって、今となっては噛み跡を残してくるようになった。
噛まれること自体が嫌なわけではない。痛くはあるけど、そんなものでみのりがここにいてくれるのなら、いくらでもこの身を捧げようとも思ってる。
問題は、周りに見られたときのこと。キスマなら位置にもよるけどギリギリ誤魔化しは効く。ただ、噛み跡になるとそもそも見られないことに神経を注がないといけず、これがまた中々に気を使う。さっきのため息はそこから出たものだ。
……一応弁明しておくと、それ以上はなにもしていない。
ときどき、みのりがマーキングをしてきたあとに、その先に踏み込む行為に誘うようなことも言ってくるが、適当な理由をつけて断っている。
みのりは、幼馴染という贔屓目なしで見ても可愛いしスタイルだっていい。一緒に暮らしていればそういう気が起きないわけではない。………しかし、俺もみのりも高校一年。軽率なことをしてしまってはなにがあるか分からない。特に、みのりはアイドル。みのりの今後のことを考えれば、欲に任せて手を出すなんてもってのほかだ。
それに、みのりがいつか昔みたいに戻って俺以外の誰かを好きになる、なんてことだって全然有り得る。そうなったときに、過ちを犯してしまっていては一番後悔するのはみのりだろう。
今のところは俺にマーキングをするだけで安定してる。必要がないことをして後々傷が増えてしまう可能性があるなら、そんなことはしない方がいいに決まってる。
………ただ、みのりが本当にどうしようもないくらいに追い詰められて…そのときに求められたのなら、俺はたぶん…というか確実に…。
いや、これ以上はやめておこう。
今よりも酷くなるかも、なんて杞憂であったとしても考えない方がいい。
肩に残った跡を眺めるのもほどほどに、ワイシャツを着てブレザーを羽織る。現在時刻は午前六時。制服に着替えはしたものの、学校に向かうにはまだ早すぎる時間帯だ。
仕事のために日が登る前に家を出なければならなかったみのりに合わせる形で起きて、朝食もみのりと一緒に済ませた結果、家事も含めて早々にやることがなくなってしまった。
この家の家事担当は基本的に俺。
退院したばかりの頃の部屋の様子を見た感じだと、みのりは一人でいたら本当に最低限の家事以外やってなかったと思う。食事はサプリとか完全栄養食で補って、余裕ができた時間は、エゴサーチとその結果から認識をどう修正するか考えたり演技の練習とかに費やしてそうだし。
正直、ついてきてよかったと思ってる。あんな生活を一人でしてたら今よりもよっぽどはやく破滅に向かってるはずだ。
「…そういえば、そろそろかな」
みのりから聞いた話によると、今朝早くに出ていくことになったのは朝のニュース番組にグループで揃ってゲスト出演するかららしい。せっかく時間ができたんだから見てみようと思い、リビングに置かれた大型の液晶テレビの電源を付けて目当てのチャンネルに切り替える。
『遥か遠く、どこまでも!希望の歌が届きますように!
”MORE MORE JUMP!”桐谷遥です』
『今日もみんなに愛をデリバリー!
”MORE MORE JUMP!”ラブリー!フェアリー!愛莉ー!桃井愛莉です!』
『ひとしずくの幸せとどけます。
”MORE MORE JUMP!”日野森雫です』
どんぴしゃ。テレビの画面に映ったのは、それぞれのメンバーカラーと白を基調に、三つ葉のクローバーをモチーフにしたアクセサリーを身につけた四人組のアイドルユニットだった。
『夢と希望の花束、届けます!
”MORE MORE JUMP!”花里みのりです!』
元々、それぞれの分野で人気を博していた彼女たちとグループを組むにあたって、他の事務所からの反発もあったらしい。
しかし、みのりが所属していた事務所が業界でも最大手であることに加えて、みのり自身の実力も相まって横槍を入れようとしてきたものは全て正攻法で黙らせたそうだ。
みのりの事務所も事務所で、サポートをしつつも彼女たちが決めた活動方針に茶々を入れてくることはないと聞いた。下手に機嫌を損ねて、事務所の稼ぎ頭でもあるみのりやみのりが連れてきた実力者たちに抜けられるよりも、好きにやらせた方が稼げるという判断なのだろう。
みのり以外の三人については…俺は関係があるわけでもないし詳しいことは知らない。
一つ言えるのは、みのりに救われたからこそ『みのりの隣に並び立てるアイドルであろう』と考えて、実際に振り落とされないように食らいついていけてるのはすごいということ。彼女たちも並大抵では考えられないような努力をしているはず。
みのりを…本当の意味で救えるのは、今も隣に並び立とうとする彼女たちなのだろう。俺の役目は、みのりが彼女たちに救われるまで彼女をここに引き留めることだけ。それさえ終われば御役御免、晴れて自由の身だ。そうなってしまえば、みのりだって俺のことなんか気にせずもっと高く飛んでいけるはず。
ただ…もし、本当にそうなったら……俺にはなにが残るんだろう。
やれることと言ったら、引っ越す前に『みのりちゃんに不自由な思いをさせるな』と母親に仕込まれた家事全般だけ。かつての夢を追い直そうにも脚はもう使えない。
「────ああ、そっか」
俺は、俺自身がここにいるための理由として、みのりを使っていたんだ。
『みのりを引き留める』なんて耳障りのいい言葉と常識的な行動を取るフリで自分自身も誤魔化して…なにも残っていない俺を必要としてくれる人の近くにいようとした。みのりを繋ぎ止めているつもりで、手放せないのはむしろ俺の方だったというのに。
みのりが壊れたままなら、俺は『みのりに必要とされる』という形で生きていける。
…本当に反吐が出る。自分の中にこんな考えがあったなんて…………気付かなければよかった。醜悪すぎる俺自身の考えに、少しだけ吐き気を催した。
「…………学校、行かなくちゃ」
重くなった身体を持ち上げて、ソファから立ち上がる。
随分と長い間考え込んでいたらしい。気付いた時には、時計の短針は文字盤に書かれた7という文字をとっくに過ぎていた。
▲▼
「パスパス!」
「……しゃあっ!ナイシュー!」
グラウンドと校舎を繋ぐ階段に腰かけながら、クラス対抗のサッカー対決をしている同級生たちの姿を眺める。脚の後遺症のこともあって、俺は体育の時間はほとんど全部見学なので、この時間のこの場所はとっくに俺の定位置と化している。
「いや〜、暇だね〜。一回でもこれなんだから、毎回見学ってかなり暇じゃない?」
今日の見学者は、俺の他にもう一人だけ。冬になれば、学校を休むほどではなくても体育は休むような軽い風邪を引いたりで見学者の数も増えるのかもしれないが、この時期にはそんなことはあまりない。
「今日は話し相手がいるだけだいぶマシだけどな。それにしても、暁山がサボりじゃないなんてな」
「単位のためにも最低限は出ないといけないからね。…ボクだってできたら全部サボってるよ」
暁山とは、体育を見学しているときにそこそこの頻度で一緒になるから話すようになった。クラスは別だし、校内でわざわざ探して会いに行くという程深くはないが、体育の時間は複数クラス合同なので二人揃って見学になれば喋る程度の関係ではある。
「……よう」
「弟くんじゃん。やっほ〜」
「東雲か。珍しいな、見学してるやつに声かけるなんて」
座っている俺と暁山の横で、立ち止まって声をかけてきた人が一人。
東雲とは、同じクラスで仲良くなった彼の相棒を介して知り合った。なんでも、東雲の相棒と東雲、他にも二人を入れた計四人でユニットを組み、ストリートで歌っているらしい。
東雲と暁山の関係は知らないが、様子を見ている限りそこまで悪いものではないのだろう。
「東雲、そこどいた方がいい」
「? お、おう」
「もう一歩後ろ…そこ」
東雲に声をかけながら、フィールドの状況を把握する。今の試合は1-Aと1-Bで1-Aが優勢。東雲のクラスは1-Cで今は試合はやっていない。本人の気質的に、次の試合があったらアップくらいはしそうなので今やっている試合が最後ということか。
東雲の相棒も、全員一度は参加しなければならない試合に参加しているので、ついさっきまで応援をしていて気まぐれかなにかでこっちに来たのだろう。
「おー!ナイストラップ、弟くん!」
暁山の声を聞いて、フィールドから東雲の足元へと視線を移すと、そこには先程まではなかったサッカーボールが収まっていた。
「今の褒めるならオレよりも椎名だろ……よく気付いたな。落ちてくる位置までぴったりだったぞ」
「あっちの試合見てたからな」
「見てた…かなぁ?」
「いや、オレに聞くなよ」
『すまん!ボールそっち行った!取ってくれー!』
東雲が手に持ったボールを置こうとした様子を見て……
「俺にやらせてくれないか?」
そんな言葉が口から漏れていた。自分でもふざけたことを言っているのは分かってる。思い返せば、リハビリを終わらせてからボールを蹴ることはなかった気がする。医者の言った通りにすっぱりとやめて、それ以降はみのりと一緒にいるようになって……。
眼と頭だけは現役のときよりも働いているのだから、『もしかしたら』なんて希望的な予測が浮かんでくる。
「いや、お前…脚が…」
「加減はちゃんとするし、一回蹴るくらいなら問題ない。それだけで壊れてたら日常生活すらまともにできてないって」
半ば奪う形で東雲の両手からボールを受け取り、フリーキックと同じ要領で蹴ると、ボールは空中に弧を描いて、こちらに向かってくる同級生の足元にすっぽりと収まった。
インパクトは完璧だった。ボールが足から放たれた時の音も感覚も…何一つ変わっていない。『俺の脚以外は』だけど。
「………………」
ブランクは感じたが……それ以上に大きな違和感があった。ボールを蹴ってから少し待っても、違和感は残っていた。比較的怪我の少なかった左で、加減して蹴ったのにこの感覚。
確かに、この脚で本気で動けばすぐに壊れる。左よりも重症だった右なんて、もっと簡単に壊れるだろう。
俺に、夢を追い直すことはできない。
自分の感覚で確かめて、改めて確信が持てた。その事を突きつけられると共に、もう一つの事実も受け入れるしかないと分かった。
「椎名、お前…なにかあったか?」
「え!?嘘、やっぱり脚が…!」
「なんでもない。脚は本当に大丈夫だ。ただ、諦めるしかないんだなって思っただけ」
だから
─────今の俺は、みのりに縋るしかないんだ。
▲▼
「紡くん?」
家事を終えた紡くんが、リビングで台本を読み込んでいたわたしの前で立ち止まった。声をかけても反応はない。
紡くんの顔を見上げるために首を持ち上げて………視界に飛び込んできた泣きそうな顔には、とても見覚えがあった。
だって、わたし自身も全く同じ顔をしたことがあるから。
紡くんも、気付いちゃったんだ。わたしが紡くんなしじゃ生きていけないように、紡くんもわたしなしじゃ生きていけない。
「……いいよ。おいで」
紡くんがどこにもいかないように印を付けようとした日は、わたしが紡くんに縋ったけど、今はその真逆の構図。
「大丈夫だよ」
紡くんの顔を優しく抱いて胸元に引き寄せながら、できる限り安心させるような優しい声を出す。
紡くんがこうなったのはわたしのせいだから。
わたしが紡くんの未来を奪ったんだから、わたしはわたしの未来を全部紡くんにあげる。紡くんのそばからは離れないし、一生紡くんだけを見続ける。
───だからね、
「愛してるよ、紡くん」
ラストの後もエッチなことはしてないです。紡くんがみのりちゃんみたいにマーキングしただけです。