夢の中のわたし①
天井はいつも白い。
白すぎて、たまに自分の目が開いているのか閉じているのか、わからなくなる。機械の音が、わたしの代わりに呼吸をしている。ぴ、ぴ、ぴ、という一定のリズム。
たぶんわたしは、その間で生きている。
というより、まだ壊れていない、という感じに近い。
窓の外は今日も青空だった。いつものように、わたしのいない世界は平然と続いている。
わたしの名はリィン・エファ。余命いくばくかの何の力もない、とるに足らないただの人間。
病弱で、だいたい一日の大半をこうしてベッドの上で過ごしている。起き上がると世界が回るし、少し歩くと心臓が軋む。
だからわたしは、あまり動かない。動かなくても、時間は勝手に進んでくれるから。
家計も傾きかねない莫大な治療費は全て父が惜しむなく与えてくれた。スターピースカンパニーという、星の欠片を集めて世界を回しているみたいな会社のお偉いさんらしく、よくわたしに言って聞かせ、だからお金の心配はいらないと寂しそうに頭を撫でた。
それから暫くして、わたしは息をしている実感をほとんど持たないまま、こうしてチューブに繋がれて一生を過ごしていく。父は忙しい。忙しさはわたしよりずっと丈夫だと思う。看護師さんは優しい。医者の先生もたぶん優しい。
でも、みんなわたしを「治す人」と「治せない人」に分けて見ている気がする。当然ながらわたしは後者のほう。だから余命を聞いたとき、少しだけ安心した。
これで長生きしなくて済むと思ったから。将来とか、夢とか、努力とか、そういう重たい言葉を持たずに済むのは、なんだか楽だった。わたしはもう、十分に頑張ったし、同様に疲れてもいた。
代わりに、わたしは夢を見る。
正確には──夢の中へと『入る』。
眠るとき、意識が薄くなる瞬間に、わたしは誰かの輪郭を探す。ぼんやりとした暖かさとか、不安とか、強すぎる感情の縁取り。そこに、わたしは滑り込む。
他人の夢の中に入る力。
夢の中で、誰かがそう名付けた。
わたしは夢の侵入者で、無断訪問者で、不法滞在者だ。けれど夢の世界には警察も法律もいないから、わたしは今も捕まらずにいられる。
今日も、私は眠りにつく。
目を閉じると、白い天井は少しずつ滲んでいく。機械の音は遠くなり、心臓の鼓動だけが、やけに大きくなる。
息を吸う。
それから、落ちる。
──次に目を開くと、そこはもう病室ではなかった。視界一杯に映るのは夜空と煌くたくさんの星々。まるで父の会社が広告を打ったみたいだった。
地面は冷たい石畳で、靴音がよく響く。わたしはなぜか、ちゃんと立っている。心臓も軋まない。少しだけ、笑いそうになる。遠くに、小さな人影があった。
きっと夢の主だろう。背中がとても小さくて、それだけで胸が苦しくなる。夢はだいたい、そういうふうにできている。逃げた記憶とか、置いてきた感情とか、大切すぎて触れないものとか。
その背中に向かって、ゆっくり歩き出す。現実では一日に数歩も歩けないわたしが、夢の中ではどこまでも行ける。ここでは余命なんて概念は意味を持たない。わたしは死にかけの少女ではなく、ただの観測者で、侵入者で、同時に少しだけ救い手だ。
夜の石畳に、わたしの足音が響く。
その子は、こちらに気づくまで、ほんの僅かな時間を必要とした。
まるで世界のすべてを思考の内側に押し込んで、外界の処理を後回しにしているみたいだった。
背中は小さく、薄茶色の長い髪が、夜の星の光を不自然なほど均一に反射していた。
年齢は、たぶんわたしとそう変わらない。
けれど、その背中にはわたしの知っているどんな大人よりも、重たいものが貼りついている様な気がした。
「……誰?」
振り返ったその顔は、驚くほど整っていた。
人工物みたいに均整がとれていて、感情の配置まで計算されているようで。
けれど、目だけが少し歪んでいる。
期待と、失望と、諦観と、観測者みたいな冷たさが、同時に浮かぶ不思議な目。
「通りすがりの夢泥棒、みたいなものかな」
わたしがそう言うと、その子──ヘルタは、僅かに眉をひそめた。警戒というより、論理の綻びを探す目だった。例え知らないことでも夢の中では何でも伝わってしまう。夢とはそういうものだった。
「仮定にしても雑すぎるわ。夢とは原則的に自己生成型の閉鎖的精神空間よ。外部要因が介入する余地は極めて限定的……」
「でも、わたしはここにいる」
淡々とそう言うと、ヘルタは言葉を途中で止めた。数秒ほど、わたしを頭の先から足先まで目でなぞる。
観測して、分類して、定義しようとしているのかもしれない。
「……現象としては否定できない、ということね。存在が先で、理屈があと」
少し、納得したような声だった。
「ここは、あなたの夢?」
「ええ。正確には、意識の深層に構築された自己投影型仮想空間。……まあ、簡単に言えば、そう。夢で間違いない」
吐き捨てるみたいな言い方なのに、言葉選びだけはやたらと几帳面だった。
「私はヘルタ、天才よ。少なくとも、周囲と比較した場合、そう定義される」
誇っているようにも聞こえるし、うんざりしているようにも聞こえる。定義される、という言い方が妙に冷たかった。
わたしはそっと、空を見上げる彼女の隣に並ぶ。
「天才って、大変だね」
「当然よ。理解されない存在が、理解されない環境に放り込まれているんだから」
即答だった。
「同年代の子どもたちは、まだ基礎演算で躓いている段階なのに、私はすでに宇宙構造や次元理論の基礎式を疑い始めている」
星空を仰ぎながら、淡々と続ける。
「教える側は私を“子ども”として扱いたがり、同時に“成果物を生む装置”としても期待する。矛盾しているのに、誰もそれを矛盾だと認識していない」
言葉が、少しずつ早くなる。
呼吸だけが、ほんのわずかに乱れていく。
「出来て当然、理解できて当然、間違えれば欠陥扱い。正解すれば、今度は異物として隔離される。……どちらの結果にも、居場所と呼べるものは含まれていないのよ」
わたしは、その横顔を見る。
悲しげに揺れる理屈の裏側で、小さな喉がかすかに震えているのがわかった。
「それ、疲れるね」
ヘルタは、少しだけ意外そうな顔をしてわたしを見る。
「……それ、同情?」
「ただの感想」
「……」
「わたしは歩くだけで疲れるし、あなたは思考するだけで疲れる。形式は違うけれど、消耗という点では似たようなものだと思う」
彼女は、数秒黙り込んだ。
論理の反証を探しているようで、でも、どこにも見つからなかったみたいだった。
「あなたは……何者なの?」
「わたしはリィン」
「それだけ?」
「それだけで充分だと思ってる」
ヘルタは、また星空を見る。
「……理解できないわ。そんなに曖昧な定義で、どうやって自己を維持しているの」
「壊れそうになったら、夢に逃げる」
「合理的ね。現実逃避というより、精神的退避行動としてはむしろ優秀だわ」
その評価が、少しだけ可笑しかった。
「ねえ、リィン」
「なに?」
「もし、私が普通の知能指数の範囲に収まっていたとしたら、今より幸福だったと思う?」
その問いは、理論ではなく祈りの様だった。
私は、少しだけ考える。
「普通だったら、あなたは今ここにいない。わたしはあなたに会えない。それは、ちょっと困るかな」
「……統計的根拠に乏しい回答ね」
そう言いながら、声の棘は確実に減っていた。
「天才でも、普通でも、あなたはあなたでしょ」
「その“あなた”という概念が、私にはまだ定義できていないから困っているのよ」
「そっか」
わたしは、自分の胸に指を当てる。
「私は、病室で生きてる。残された余命も短い。なのに、こうして夢の中では走れるし、立てるし、誰かの迷いも聞ける。現実のわたしは、ほとんど何もできない」
ヘルタが、じっとこちらを見る。
「それでも、わたしはわたしだと思ってる。動けないわたしも、夢に侵入するわたしも、どっちも、たぶん本物のわたし」
少しだけ、間を置いて。
「あなたも、天才のあなたと、迷ってるあなたと、両方が本物」
ヘルタは、ゆっくりと目を閉じた。
思考を、一度、停止させるみたいに。
「……それは、問題解決を先送りにしているだけなんじゃない?」
「たぶんね。でも、夢はだいたい逃げるためのものだよ」
わたしは、少しだけ微笑む。
「先送りにしている間に、あなたはきっと、もっとたくさん考える。あなたは、それが得意だから」
「……そうね」
そう言った声には、ほんの少しだけ、元の自信が戻ってるようだった。
星空の下、天才の子どもと、死にかけの少女が、並んで立っている。どちらも、現実という座標からほんの少しだけずれている存在。わたしとヘルタの違いは何だろう。
「ねえ、リィン」
「なに?」
「また、観測に来る?」
「たぶん。あなたが眠る限り」
「……そう」
ヘルタは、小さく、ほんとうに小さく笑った。
「それならこの夢はしばらく、壊さず取っておくね」
「……」
ヘルタは何か言おうとして、結局自重する様に口を閉じた。
瞬間、星の光が一度、強く瞬いた。
次に目を閉じたとき、わたしはまた白い病室の天井の下に戻る。けれど胸の奥には、宇宙より少しだけ小さな、誰かの未定義な迷いが残っていた。
それは、不思議と、悪くない重さだった。
だいたい4、5話くらいの構成を考えてます。