タイトルなんて必要ない   作:ヘルタ様万歳

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なんて言ったっけ①

 

 

 

気付くと私は小さな箱の庭に立っていた。

 

白いテーブル。

白いティーカップ。

午後の穏やかな日差し。

 

夢にしては、あまりらしくない、少し現実に寄り添ったような空間。夢では持ち主の感情が反映される。

 

「……来たのね」

 

テーブルの向こうにあの女性が座っていた。

 

かつて、私が夢の中で声をかけ、現実で壊れかけて、それでも生きてしまった人。

 

少しだけ迷ってから、椅子に座る。

 

「今日は、逃げないんですね」

 

「逃げようとしても、また貴女は来るんでしょう?」

 

それは、諦めにも、信頼にも似た声だった。

 

テーブルの上には、いつの間にか温かい紅茶が二つ、置かれていた。

 

「現実では、こうしてゆっくりお茶なんて飲めなかった」

 

「夢は、そういう都合のいい嘘が許される場所ですから」

 

私は、湯気の向こうで微笑んだ。

 

 

 

「──あの時」

 

彼女は、カップを両手で包みながら言った。

 

「私は、貴女に入れ込むあまり壊れたと思っていた」

 

私は、何も言わずに聞いていた。

 

「それくらい夢が幸せすぎたの。対して現実が、あまりにも空っぽに見えたから」

 

少しだけ、視線が揺れる。

 

「でもね……本当に空っぽだったのは私だった。……すごく、恨んだのに。終わりに縋ったのに。それでも……今も、こうして生きている」

 

風が、庭の葉を揺らす。

彼女は少しだけ笑った。

 

「私にとって貴女は、きっと逃げ場所だったのね」

 

「……」

 

 

「私に逃げ道を作ってくれてありがとう」

 

彼女は優しくそう言った。

その言葉を胸の奥で受け止めて、そっとしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「ところで」

 

彼女は少しだけ悪戯っぽく、私を覗き込む。

 

「貴女最近、夢の中を出歩く頻度が減ったでしょう」

 

「分かるんですか?」

 

「分かるわ。夢の中では全てが筒抜けだもの」

 

ああ、そういえばそうだった。

最近ではあまり夢で誰かと接する機会がなかったからすっかり忘れていた。

 

 

「自分では、そんなつもり、ないんですけど」

 

「あるわよ」

 

「……じゃあ、私の話を、聞いてもらえますか?」

 

「もちろん。貴女にはお世話になったし、これからも会って話をしていいんでしょう?」

 

「はい、是非」

 

 

 

 

カップの底が、静かに鳴る。

 

「悩んでるとは思ってはいたけど、まさか惚気話を聞かされるなんて思わなかったわ」

 

うんざりしたような口振りの割には、とても穏やかな声で言った。

 

「え……そう聞こえましたか?」

 

 

「その人の近くだと安心出来て、新しい一面を知れた時が嬉しくて、怒った姿にときめいて」

 

「そうですね」

 

「照れた様子がずっと見ていたいくらい好きで、寝る前にその事を思い出しては幸せな気持ちになるんでしょう?」

 

私は、一瞬だけ、言葉に詰まった。

 

「……もしかしておかしいですか?」

 

「いいえ」

 

彼女の言葉は、まるで天気の話を聞くみたいに自然と染み込んでいく。

 

「……恋、ですか」

 

私は、カップの中の紅茶を見る。

 

「よく分からないんです。私は、自分が誰だったのかも、まだ、はっきり思い出せないのに」

 

「別に良いじゃない」

 

彼女はそう言って、私のカップに、そっとお茶を足した。

 

「過ぎ去った過去よりも今の話をしまょうよ。事実、貴女はその人の側に居たいんでしょう?」

 

「はい。許されるならこの先もずっと」

 

 

彼女は、柔らかく微笑む。

まるで当たり前のことを教えてくれる様に。

 

「それを、恋って呼ばずに、何て呼ぶの?」

 

 

庭の輪郭が、少しずつ薄れていく。

 

 

「……また、会えますか」

 

「ここにはもう来ないと思うわ」

 

彼女は、穏やかに言った。

 

「これからはもう少し現実に生きてみようかと思ったの。私にはもうこの夢は必要ないから」

 

「そうですか」

 

それを寂しいとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を開くと私は、自室の天井の下にいた。

 

見慣れた白い天井。

研究区画の個室に割り当てられた、狭くて落ち着く部屋。何度か部屋を移らないかとヘルタさんに打診されたけど私はこの狭い部屋を気に入っていた。壁際に置いた簡易デスクと、綺麗に整頓された資料。ここは夢じゃない、ちゃんと現実だ。

 

それなのに。

 

胸の奥が少しだけ暖かくて、心臓がいつもより自己主張するみたいにどくどくと脈打っていた。

理由は、分かっている。

 

分かっているからこそ私はしばらく布団の中で身動きが取れなかった。

 

「……恋、か」

 

小さく、そう呟いてみる。

 

誰に聞かせるわけでもない声なのに、その言葉が、やけに生々しく響いた。

途端に、頬のあたりが熱くなる。

 

「……やだな」

 

布団を少し引き上げて顔を隠す。

 

 

恋。

 

そんな言葉、自分とはあまり縁がないものだと思っていた。

 

過去の私は、生きるだけで手一杯だった。

明日が来るかどうかも分からない身体で誰かを想う余裕なんてなかった。

 

だから、夢の中で誰かに寄り添うことはあっても現実で誰かに心を向けることは無意識のうちに避けていたのだと思う。その後に残酷な別れが待っていると知っていたから。

 

 

それなのに私は今、こうして自分の部屋で、一人で、その人の顔を思い浮かべている。

 

亜麻色の髪。

少し冷たそうな視線。

論理的で、ぶっきらぼうで、

でも、とても不器用な人。

 

ヘルタ。

 

名前を心の中で呼んだだけで胸の奥がまた、鼓動を伝えてくる。

 

……ああ、これは。

 

私は、枕に顔を埋めた。

 

 

「……完全に、恋だ」

 

自覚した瞬間、それまで曖昧だった感情が一気に輪郭を持ってしまった気がした。

 

思い返せば兆候はいくらでもあった。

 

 

研究室で隣に立つと暖かい気持ちで溢れてしまうこと。

 

名前を呼ばれるだけで少しだけ背筋が伸びること。

 

淡々とした声で「今日はもう帰りなさい」と言われると、心配されているのだと勝手に受け取ってしまうこと。

 

星との通信を見せた時、彼女がほんの少しだけ視線を逸らした理由を、都合よく勘違いしてしまいそうになること。

 

 

そして、あの夜。

 

距離を詰められて、嫉妬をぶつけられて、手首を掴まれた瞬間。

 

怖くなかった。

嫌でもなかった。

 

それどころか胸の奥が驚くほど静かに満たされてしまった。

 

 

「……ほんと、どうかしてる」

 

 

好きだと自覚した途端、自分の感情が急に信用できなくなった。

理性で考えれば簡単な話じゃない。

 

ヘルタさんに多くを求めてしまって面倒に思われたらどうしよう。

 

 

だから言わない。そっと胸へしまおう。

この想いは伝えるべきじゃない。

 

全てが吹っ切れて、この気持ちを諦めきれたら、伝えよう。

本当はずっと前から好きだったんだよって。

 

だから私がこの気持ちを口に出す日は、まだずっと先だ。

 

 

今すぐ、何かが変わらなくてもいい。

 

ただあの静かな研究室で彼女の向かい側に座って同じ時間を過ごして。

時々、少しだけ砕けた言葉を交わして。

 

それだけで今日の私は、ちゃんと生きていると言える。

 

 

 

 

私は、布団から顔を出して、天井をもう一度見上げた。

 

白くて、静かで。色褪せた記憶の中の景色と少し似ている天井。

 

 

 

「……早く明日が来ればいいのに」

 

そう呟いて、また恥ずかしくなる。

けれど少しも不快じゃなかった。

 

むしろ胸の奥をくすぐるみたいな賑やかな感情。

 

 

私は、目を閉じる。

 

次に目を開けた時、研究室へ向かう自分を想像する。

 

いつもと同じ白衣。

いつもと同じ通路。

 

胸の奥に、この暖かさを抱えた私。

 

 

恋って、こんな風に静かに日常を変えてしまうものなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜、通信機が震えた。

 

【星】

『生存報告その⑤』

『今日は砂浜』

『猿が強い』

『負けた』

 

私は思わず笑って、短く返す。

 

『その猿は可愛かった?』

 

【星】

『全然』

『で、リィン』

 

少しだけ、間が空いた。

 

【星】

『最近ヘルタとはどうなの』

『進展した?』

 

唐突な話題変換はいつもの事だが、今回ばかりは少しだけ戸惑ってから、ぽつぽつと、短い文章で要点だけを送った。

 

 

しばらくして、返事が来た。

 

【星】

『……あー』

 

やけに含みのある間だった。

なんとなく既知感を感じる。

 

【星】

『それ恋だよ』

 

即答だった。

 

速すぎて私の思考が追いつかない。

 

『違うよ』

 

【星】

『いや、どう考えても恋』

『迷う要素どこ?』

 

『迷う要素しかない』

『どうしてそう言い切れるの』

 

【星】

『その人の前だけ無防備になれて』

『その人に触られて嬉しかったことも自覚してて』

『それで恋じゃなかったら何なの?』

 

通信機を持つ手が、じわっと熱くなった。奇しくもまったく同じ事を言われてしまい困惑する。

自分の心の内に秘めておこうと思ってとぼけてみたけど、やっぱりお見通しみたいだった。

 

 

『……そんなに、分かりやすい?』

 

【星】

『めちゃくちゃ分かりやすい』

『ていうか、リィン』

『自覚遅い』

 

胸の奥がきゅっと音を立てる。

 

『……本人にもバレてるのかな』

 

【星】

『どうだろ』

『案外気付いてなかったらウケるね』

 

『ウケない』

 

【星】

『でもさ』

『好きって自覚するのは、悪いことじゃないよ』

『むしろ、スタートライン』

 

その言葉を画面越しになぞり、そっと胸に押し当てた。

 

……恋。

 

私は、そんな言葉が許される人生を自分が歩いているなんて、少し前まで想像すらしていなかった。

 

いいんだろうか。

そもそもヘルタさん……ヘルタは許してくれるのだろうか。自分に絶対の自信を持つ人だから、好意を向ける事自体きっと拒みはしないとは思うけど。そんな邪な感情を抱えたまま彼女に接するのは全然誠実じゃない、と思う。

 

 

『どうやったら迷惑をかけずに感謝の気持ちだけ伝えられるかな』

 

打とうとして、やめる。

これは自分で考えなくてはならないものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日。

 

今日も今日とて私は研究室でいつも通り、ヘルタさんと向かい合わせるように研究資料を種類別にまとめていた。

 

端末の光。

静かな駆動音。

白衣の裾が、椅子の脚に軽く触れる感触。

 

すべて昨日までと変わらない配置だ。なのに昨日から胸の奥に居座っている感情だけが、どうにも扱いづらくて仕方がなかった。

 

とんでもないデバフだと思う。

集中力低下。

思考遅延。

そして、無駄に上がる心拍数。

 

研究者として最悪に近い。

 

私は資料を一枚取り違えそうになって、慌てて元に戻した。

 

……落ち着け。

落ち着いて。

 

ただ、好きだと自覚しただけだ。

それだけで何かが起きたわけじゃない。

 

そう、何も──何も、起きていない。

 

それなのに、向かい側に座るヘルタさんをどうしても意識してしまう。

 

指先の動き。

資料をめくる癖。

端末に映る文字を追う横顔。

 

昨日まで「いつもの光景」だったものが、今日は全部。少しだけ別の意味を含んでしまっている。

 

……どうしよう。

 

 

 

 

「ねぇ」

 

その声で、私はほんの少し肩を跳ねさせた。

 

 

「なに」

 

ヘルタさんは、端末から目を離さずに答える。

 

 

「今日はやけに、静かだと思わない?」

 

「ここはいつも静かだと思うけど」

 

声のトーンは、できるだけ平常を装った。

 

 

「あなたの話だよ」

 

そう言われて、胸の奥がひくりと鳴った。

私は、少しだけ視線を逸らす。

 

 

「……考え事してるだけ」

 

「ふぅん」

 

 

それだけの返事。

 

あなたの所為ですなんて言える筈もなかった。

言えるわけがない。

 

だって、それを口に出してしまったらこの場所が今までと同じではいられなくなる。

 

私は、この静かな研究室が好きだ。

 

ヘルタさんの隣で「助手」として存在できるこの立ち位置がとても心地良い。

 

 

だから余計に怖い。

 

もしこの感情が、ヘルタさんにとって研究の邪魔として切り捨てられてしまったら。

 

もし、私の態度が彼女にとって我慢ならないものになったとしたら。

 

もし、面倒だと、思われたら。

 

 

考えれば考えるほど胸の奥が軋む様に縮んでいく。

 

私は資料に視線を戻し、指先に力を込めた。

 

……仕事に集中しよう。

 

そう思えば思うほど、意識は逆方向へ引っ張られてしまう。

 

距離。

視線。

空気。

 

ヘルタさんが私を見ていない事に、何処かほっとしている自分がいた。

 

同時に、少しだけ寂しくもある。

 

……面倒くさい。

 

自分の感情が、とことん面倒くさい。

どっちなんだと思ってしまう。

 

 

 

しばらく、無言の時間が続いた。

資料の束が、少しずつ減っていく。

 

作業は進んでいる。

表面上は、問題ない。

 

けれど。

 

 

「……リィン」

 

名前を呼ばれて、またも心臓が跳ねた。

 

「なに」

 

反射的に返事をする。

ヘルタさんは、私の手元と、顔を、交互に見てから言った。

 

 

「今日は、もう帰りなさい」

 

胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。

 

「……どうして?」

 

 

「作業効率が、僅かに落ちている」

 

その声は、いつも通り淡々としている。

責めるでも、追及するでもない。

 

私は何とか持ち直して、息を整えた。

 

 

「……ごめん」

 

「謝罪はいいよ」

 

即答だった。

 

 

「理由があるなら、それはあなたの内側の問題だよ」

 

私はその言葉に、少しだけ罰が悪い気持ちになる。

 

「私はそれを聞く権利も、無理に踏み込む義務も持っていない」

 

それがヘルタさんなりの最大限の配慮なのだと、今の私でもよく分かってしまう。

 

ヘルタさんの踏み込まない優しさが好きだったのに、どうして惜しい気持ちになってしまうんだろう。

恋は人を身勝手にするのかもしれない。こんなに不誠実な思いなんてしたくなかった。

 

 

私は、笑おうとしたけど、やめる。

元々そんなに笑顔を浮かべる人間ではなかった。笑うと疲れるから。

 

 

「……大丈夫だよ、大丈夫。でも、ちょっと休むね」

 

 

「そう」

 

ヘルタさんは、それ以上、何も言わなかった。

 

もし、ここで踏み込まれたら、私はたぶん、崩れていた。

 

でも、踏み込まれないと、こんなにも自分の感情が宙ぶらりんになるなんて。

相反する度し難い感情ばかり溢れてしまって苦しかった。

 

私は、資料をまとめ終え、端末を閉じ、立ち上がる。

 

 

その時一瞬だけ視線が交わる。

 

ほんの一瞬。

ほんの一拍。

 

でも、その短い時間に、言葉にしなかった感情がたくさん、行き交った気がした。

 

私は、研究室を出る。

廊下はいつもより少し長く感じた。

 

胸の奥はまだざわざわしている。

 

迷惑をかけたくない。

嫌われたくない。

それなのに、隣にいたい。

 

どうしようもなく自分勝手な感情だと思う。

 

 

明日はもう少し、まともな返事が出来たらいいな。

 

そう思いながら、答えは出ないままだった。

 

 

 

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