タイトルなんて必要ない   作:ヘルタ様万歳

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なんて言ったっけ②

 

──おかしい。

 

その違和感は、数値として示せるほど明確ではなかった。

けれど無視できるほど些細でもない。

 

リィンの様子がいつもより、ほんの少しだけぎこちない。

 

動作は正確だ。

作業速度も許容範囲。

返答も遅れていない。

 

距離は保っている。

態度も柔らかい。

 

それでも何かを隠しているようなただならない雰囲気がある。

 

この感覚を、私は嫌というほど知っている。研究対象が意図的にデータを伏せている時の、あの空気だ。

 

気に入らない。

 

普段なら日常の些細な変化でさえ「聞いてヘルタ」と嬉しそうに言って報告しに来るような子が今回ばかりは気まずげに沈黙している。

 

それ自体は問題ではない。

 

私は、端末を操作しながら、思考を切り替える。

 

まずは原因の切り分けだ。

 

仕事ではない。

彼女の作業内容に、特段の変更はない。

 

体調でもない。

歩調、呼吸、声の安定性。

すべて正常範囲。

 

精神的ストレス?

可能性はあるが、外因が見当たらない。

 

 

──ルアン・メェイ。

 

一瞬、その名前が脳裏をよぎる。

 

だが、即座に却下する。

最近、研究区画に足を運んだ記録はない。

通信ログも確認済みだ。

 

 

では、何だ。

 

私は、無意識に視線を動かしていた。

 

リィンの胸元。

通信機の位置。

 

……ああ。

 

またあのお子ちゃまが、何かしたというの?

 

 

その瞬間。

 

胸の奥に昨日とは質の違う、はっきりとした不快感が生まれた。

 

曖昧ではない。

誤魔化しのきかない、不快感。

 

 

羨望?

――違う。

 

不安?

――近いが、核心ではない。

 

猜疑?

――それも、違和感が生まれる。

 

 

私は意識的に呼吸を整え、改めて感情を分解する。

 

 

現在の状況。

これまでの経緯。

彼女の性格。

私自身の立場。

 

すべてを並べ、論理的に、冷静に、再構築する。

 

 

 

……結果。

 

 

導き出された答えは私の想像よりも何倍も苦いものだった。

 

おこちゃまには話せて、私には話せないことがある。

 

その可能性。

 

それを想像してしまった瞬間、胸の奥で何かが確実に焼けた。

 

焼けた、という表現が一番近い。

じわじわと、不可逆に。

 

なぜ。

 

私は彼女の保護者ではない。

上司では、ある。

 

……でも、それだけでもない筈だ。

 

 

それなのに、なぜ。

 

彼女の共有先に、自分が含まれていない事がどうしても許容しがたい。

 

端末を操作する指に、また僅かに力を込めてしまう。

 

タップ音が、ほんの少しだけ硬くなる。

 

まずい。

 

このままでは、感情が行動に滲み出る。

 

 

即座に修正をかける。

声のトーン。

姿勢。

表情。

 

すべてを自然な状態へ戻す。

 

 

それなのに、ごく自然を装っても尚、抑えきれずに言ってしまった。

 

 

「……あなた最近、あのおこちゃまとばかり連絡を取っているよね」

 

 

しまった、と思った。

自分で自分の失敗を自覚するのは最悪な気分だ。

 

 

なんて醜い、嫉妬。

 

 

リィンの肩が、僅かに揺れる。

 

 

「それが、どうかした?」

 

 

ほんの少し間があったけど、声音は平静そのものだった。

 

 

「ただの雑談だよ。気に留めるものでもない。……そんな事よりこの資料、アスターに渡しといてくれる? 急ぎなの」

 

「わかった」

 

 

 

 

 

「……はぁ」

 

 

これ以上、踏み込むべきではない。

分かっている。

 

世界に繋ぎ留めるためとはいえ、彼女を失わせた私がぶつけていいものではない。

資格がない。

 

既に多くを諦めて、抜け殻の少女に残った最後の一欠けらを奪ったのは私だ。

その上で自分にだけ話してほしいなどと、どの口が言うのだと。

 

私は、感情に蓋をするように。

理性で、強く、押さえ込む。

 

これは錯覚だ。

一時的な感情の揺らぎだ。

観測誤差の範囲。

 

そう、何度も言い聞かせる。

 

 

その蓋がいつまで持つのかは、もう自分でも分からなかった。

 

 

彼女が、私に向ける沈黙はどんな怒りや拒絶よりも静かに私を追い詰めるから。

 

私は端末に視線を落としたまま、自分の内側で結論を先送りにする。

 

 

今は、まだ。

今は、踏み込まない。

 

彼女を尊重する。

彼女の選択を、信じる。

 

私が信じたいだけ。

本当は怖いだけなのかもしれない。

 

 

もしも、この感情がこれ以上増幅してしまったら。

 

その時、私は果たして、どこまで理性を保てるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうにも手持ち無沙汰で、特に急ぎでもない定期回線のノイズチェック中だった。

 

ただの作業。

ただの偶然。

 

そのはずの回線に、一瞬だけ別の通信が紛れ込んだ。

 

 

 

【星】

『だからさ』

『好きなんでしょ?』

 

 

……おこちゃま?

思考がそこで一度、完全に止まった。

さらに、続く。

 

 

【星】

『気づいてないのが不思議なくらい』

『見てたら分かるよ』

 

 

次の瞬間、突然通信が途切れた。

僅かな時間。断片的な情報。それでも天才的な頭脳が次々と仮説を打ち立てていく。

 

好き。

見ていたら分かるのに、気づいていない。

 

条件はすべて、ひとりの人物に一致している。

 

 

「……なにそれ」

 

 

 

 

その直後、端末が再び、短く振動した。

 

【星】

『今の聞いた?』

 

 

私は、返さない。

 

 

【星】

『いや今のはさ』

『好きっていうのはさ』

『比喩というか』

『一般論というか……』

 

 

文章のテンポが、徐々に崩壊していく。

 

 

【星】

『対象は不特定で』

『誰とは言ってないし』

『そもそも話題は別の人で』

『リィンじゃないし』

『全然関係ない話だから!』

 

 

ここまで来ると、もはや自白してる様なものじゃない?

 

 

【星】

『つまり何が言いたいかっていうと』

『ヘルタは』

『深読みしなくていいから』

『ほんとに』

『ほんとに』

 

 

少し間があり。

 

 

【星】

『忘れて』

 

 

なんともし難い感情が溢れ、端末をオフにする。誤魔化しとしてはあまりにも遅く、あまりにも下手で、あまりにも的確に核心を裏打ちしてしまっている。

 

 

「我慢する理由は、もうないかな」

 

 

完全に、いったい何処の馬の骨よ、というやつだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の夜の研究室はいつもよりずっと静かだった。

その所為か、機械の駆動音が普段よりもはっきりと耳に入ってくる。

 

冷却装置の低い唸り。端末の微かな振動。

天井照明の、ほとんど聞こえない電流音。いつもと同じ研究室のはずなのに、何故か別の場所みたいに感じられた。

 

私は自分の席で資料を閉じ、立ち上がるタイミングを失っていた。

 

帰ろうと思えば帰れた。

今日はもう十分働いた。

 

でも、今ここを出るのは勿体ない。そんな感情が足を止めさせていた。

 

 

 

「リィン」

 

名前を呼ばれ、いつもの様に視線を向けようとした瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。

 

正直を言うと、呼ばれる前から分かっていた。

だって普段の落ち着いた雰囲気とは明らかに違っていた。

 

ヘルタさんは私が業務を終えるのを待っていたと言わんばかりにぴったりのタイミングで声をかけてきた。

 

視線を上げる。

ヘルタさんは端末を操作する手を止め、こちらを見ていた。

 

表情はいつもと変わらない。

冷静で、整っていて、感情を読み取りにくい顔。

 

それなのに。

 

その目だけが、逃げ場を許さないみたいに冷ややかな色をしていた。

 

 

私はこの瞬間になんとなく悟ってしまった。

逃げられない。

 

 

「ずっと考えてたんだけど、あなた。私に隠しごとをしているでしょ」

 

声は、静かだった。

怒っているわけでも、詰問しているわけでもない。

 

私は、喉がひくりと鳴るのを感じた。

心臓が、嫌な速さで脈を打ち始める。

 

隠している訳じゃない。

ただ、言えなかっただけなのに。

 

言葉にしてしまえば、取り返しがつかなくなる気がして。

この場所が、今までと同じではいられなくなる気がして。

 

 

「おこちゃまに言えて、私に言えないことってなに?」

 

 

二つ目の問い。

 

私は、その場で、完全に固まった。

 

 

頭の中にはいくつもの言葉が浮かんでいた。

 

 

他愛ない話。

旅の報告を少し。

大したことじゃない。

 

どれも、嘘ではない。

けれど本当でもない。

 

答えられない沈黙で彼女を怒らせてしまうことを私は知っていたのに。

 

 

「……言えない」

 

そう言うのが精一杯だった。

 

 

その瞬間、ヘルタさんの目がほんの僅かに揺れた。

 

 

「言えない、のではなく――」

 

続きを言わせてはいけない。

その直感が私を突き動かした。

 

 

「言いたくない、の!」

 

声が、思っていたよりも強く響いた。

自分でも驚くほど。

 

研究室の静けさが一気に割れた気がした。

 

私は、慌てて言葉を重ねる。

 

 

「私は……私のタイミングで、自分から言いたいから」

 

言葉を間違えてしまったのか、もはや言い訳にしか聞こえない。

 

けれど紛れもない本心で、必死なお願いだった。

お願い、だったのに。

 

返ってきたのは沈黙だった。

 

 

いつもの暖かな沈黙じゃない。

拒絶に、近い音。

 

頭では分かっている。

 

これは、考えるための沈黙だ。

 

感情を整理するための間だ。

そうであってほしい。

 

 

胸の奥に広がる不安はそんな理屈を簡単に押し流してしまう。

 

 

「……分かった」

 

低い声。

感情を削ぎ落としたような響き。

 

 

「無理に話してくれなくたっていいよ。別に大して興味もないしね」

 

私の方がもっと嫌な言い方をした筈なのに、見切りをつけたようなその言い方を酷いと感じてしまった。

どうしようもなく突き放されたように思えて、感情が暴れはじめる。

 

 

違う。そんなつもりじゃない。私はあなたに話したくないわけじゃない。ただ話す準備が、出来ていなかっただけなのに。その思いが喉の奥で言葉にならずに詰まる。

 

 

ここに居たら、もっとひどい言葉を言ってしまいそうだった。

 

傷つけたくない。

嫌われたくない。

 

そんな身勝手な気持ちと、今すぐこの場から消えたい気持ちがごちゃ混ぜになって私を押し出した。

 

 

そうして胸の奥で何かが、ぷつりと切れた。

 

 

「……もう、いい」

 

 

私は、そのまま研究室を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廊下の空気が、ひどく冷たく感じる。

 

研究室を出た直後と今立っている場所とで、温度そのものが違うわけじゃない筈なのに。

それでも、肌に触れる空気が刺々しく思えた。

 

足音が、やけに大きく響く。

 

一歩、また一歩。

普段なら気にも留めない筈の音が、静まり返った夜の廊下では、まるで自分の存在を強調するみたいに過剰に耳に残る。

 

なんで私はここにいるんだ、と。

 

視界が、少し滲んでいることに気付いて私は歯を食いしばった。

 

だめだ。

泣きたくないのに。

 

 

涙が出る理由を自分でちゃんと説明できない内は、泣く資格なんてない気がした。

私は、悪いことをしたわけじゃない。

 

言い方は間違えてしまったかもしれないが、間違った事をしたとは思わない。

でも正しいことをしたとも、胸を張って言えるほど潔白でもなかった。

 

でももし、ほんの少しだけ勇気を出して、もっと別の言い方ができていたら。

 

もし、感情が先走らずに、もう一歩、立ち止まってよく考えられていたら。

 

過ぎてしまった「もしも」が、遅れて胸に押し寄せてくる。

 

 

自室の扉の前で、ふと足が止まる。

 

手を伸ばせばすぐそこなのに、扉に触れる勇気が何故か出なかった。

胸の奥が、まだ、ひどく痛む。

 

直ぐに戻って謝りに行った方がいいのだろうか。

 

原因を説明できない癖にどう謝るというの。

さらに誤解を生むだけだ。

 

 

 

好きだと自覚した時から、こうなるとは何となく分かっていたはずなのに。

 

この人の前では、きっと私はうまく振る舞えなくなる。

理性だけで全部を割り切れなくなる。

 

 

自分でも驚くほど感情が私の足元を不安定にしている。

通信機を強く握りしめる。

 

金属の感触が手のひらに、はっきり伝わる。

 

 

短い振動が鳴った。

 

心臓が、一瞬だけ跳ねる。

 

反射的に、画面を見そうになって、ぎりぎりで視線を逸らした。

画面がまた、一瞬だけ点灯した。

 

誰からの通知かは分からない。

分からないままで、別によかった。

 

今は誰の言葉も、どんな優しさも。

どんな軽い冗談でも楽しく受け取れる気がしなかった。

 

誰かの声に触れたらきっと、今必死に抑えているものが一気に溢れてしまいそうだった。

 

 

深く息を吸って、ゆっくり吐いた。

それだけで胸の痛みが消えるわけじゃないけど、気分を落ち着ける効果は少なくともあったらしい。

 

 

「……もっと、ちゃんと考える時間が、必要」

 

 

 

 

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