タイトルなんて必要ない   作:ヘルタ様万歳

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なんて言ったっけ③

扉が閉まった瞬間、外の空気とここに流れる空気が、はっきりと違うのが分かった。

 

研究室特有の無機質な匂いとは異なる、どこか生活の痕跡が混じった空気。

 

甘い匂いと、薬品と焼き菓子が混ざった、少し変な匂い。

 

嫌じゃない。

むしろ、胸の奥で強張っていたものが、彼女らしいなとほんの少しだけ緩む。

 

 

「……あら」

 

そこには、いつもと変わらないルアン・メェイさんがいた。

 

淡々としていて、感情の起伏をほとんど感じさせない表情。

 

「これは驚きました。依然会った時よりも数値に乱れが見受けられます。何かあったのですか?」

 

 

相変わらず淡々とした物言いには責めるような空気はない。

それに少しだけ救われた気分になる。

 

 

「……泊めてください」

 

「空いている実験用ベッドが2つ程ありますが、それでもよろしいですか?」

 

「え……それは人間用、ですか?」

 

「人間が使っても問題はありません」

 

 

苦笑しながらソファに腰を下ろす。

今夜はここで寝よう。

 

 

ルアン・メェイさんは私にお茶とお菓子を差し出すと、少しだけ考えるように首を傾げた。

 

 

「質問をしても?」

 

「だ、大丈夫です……」

 

 

「現在のあなたは、怒っている、悲しんでいる。それとも自棄になっている。この3つのうち、より当てはまるのはどちらですか?」

 

その問いに、私は少しだけ考えてから答えた。

 

 

「……たぶん自棄、ですかね?」

 

「なるほど、衝動的行動ですか」

 

淡々とした分析。

 

 

 

「えっと、……喧嘩を、しました」

 

「そうですか」

 

関心なさそうに頷く。

徐々に心が軽くなっていく。

 

 

「原因は、感情の摩擦ですか?」

 

「たぶん、そうです」

 

「恋愛性の誤作動ですね」

 

即断だった。

 

 

 

「……え、そんなに、分かりやすいですか」

 

いったいあと何人に知れ渡っているんだろう。

怖くなってきた。

 

 

「感情は、進化の過程で獲得された機能ですが、人間関係において想定外の挙動を示すこともあります」

 

無言で出された湯呑を一口飲む。

温度が喉を通って、胸の奥に落ちていく。

 

 

「……おいしい」

 

「口に合ったようで幸いです」

 

ルアン・メェイさんは少し満足そうに頷いた。

 

 

「貴女は彼女と仲違いをしてしまったのですか?」

 

 

「どうなんでしょう……」

 

ヘルタも同様に怒ってくれたのか確証がなくて、煮え切らない返事を返してしまう。

喧嘩するには同じ土俵に立たないと成立しないから。

 

今頃私のことなんて忘れて研究をしているかもしれない。

 

 

 

「生憎ですが、情緒的な慰めは私の専門外です」

 

そう言ってから一拍。

 

ルアン・メェイさんは、私の湯呑が空になりかけているのを見て、何も言わずにお茶を注ぎ足した。

 

 

 

しばらく、無言になる。

でもこの沈黙は居心地が悪くなかった。

 

ルアン・メェイさんは、黙々とデータを整理しながらぽつりと言った。

 

 

「貴女は感情を抱えるのが、とても上手ですね」

 

「え…そうですか?」

 

「はい。多くの人は、感情に飲み込まれるか、感情を否定するか、大抵はどちらかに偏る筈です」

 

キーの音が、規則正しく続く。

 

「貴女は飲み込まれようとはせずに、否定もせず、抱えたまま動こうとする」

 

その言葉は評価なのか観測なのか、どうにも私には分からなかった。

 

 

「そんなことないです。私は逃げてばかりで、ずるくて、酷い事を言いました」

 

「たったそれだけで傷ついてしまうほど、彼女も弱くもありませんよ」

 

 

 

「う……それはそれで、ちょっと傷付くので…、勘弁してください」

 

「そう、ですか?」

 

 

 

 

 

 

「……明日、迎えに来ると思います」

 

「そうですね。実は先程から大量の通知が来ていたのでそうではないかと思っていました」

 

 

 

「え。……ごめん、なさい?」

 

 

ルアン・メェイさんは、お菓子の山を少しだけこちらに押しやって言った。

 

 

「どうぞ」

 

「あ、…ありがとうございます……」

 

私は素直に一つ取った。

 

包みを開け、口の中へと放る。

甘さがじんわりと広がって自然と頬が緩む。

 

 

私は、湯のみを両手で包みながら少しだけ、明日のことを考えていた。

 

ヘルタさんときちんと話そう。たとえ面倒に思われても、私の知るヘルタさんならきっと、真摯に受け止めてくれる様な気がした。

 

 

 

「そういえば、以前お渡ししたお菓子は、食べていただけましたか」

 

「ッ、…げほ、…ぇ…なんですか…?」

 

 

その言葉さえなければ、幸せな気持ちでお菓子を堪能できたのに。

 

どうして今言った? もしかしてこれにも何か入ってたりしますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めた時、研究室の天井は昨日のままだった。

角度も色も、視界に入る配線の位置すら変わらない。

 

薬品の匂い。甘い焼き菓子の残り香。

機械の低い駆動音。

 

昨日の出来事やここが避難場所だったことをゆっくりと思い出す。

 

身体を起こすと、簡易ベッドの縁が少しだけ軋んだ。

ソファで寝ていた筈なのに。

 

ルアン・メェイさんが運んでくれたのだろうか。

 

 

当の彼女はすでに起きていた。

 

白衣の裾を整え、いつものように淡々とデータを整理している。

 

私が目を覚ましたことに対しても視線を一瞬上げるだけで、特に反応は示さない。

 

その距離感が今の私には酷くありがたかった。

 

 

「服はそちらに畳んであります。更衣室はありませんのでここで着替えてください――それから、ヘルタがもうすぐこちらへ訪れる頃合いです」

 

 

「……わかりました。色々と、ありがとうございます」

 

 

自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

 

 

洗ってくれたのだろうか。

言われた通りに綺麗に畳まれた服に袖を通す。

 

借りたこの服は、後で洗って返そう。

 

 

 

 

 

 

――そのときだった。

 

研究室の扉が、ノックもなく少し強めに開いた。

 

金属が擦れる音。

空気が一瞬、張り詰める。

 

 

そこに立っていたのは勿論、ヘルタさんだった。

 

髪も、服も、いつも通り。

完璧に整えられた外見。

 

目だけが、いつもより少し鋭い気がした。

研究に没頭した時の、あの研ぎ澄まされた視線に似ていた。

 

 

「こんにちわ、ルアン・メェイ」

 

少しだけ、低い声。

 

 

けれど私は、この人が今、理性で必死に感情を固定していることを、直感的に理解してしまった。どうして今まで気付かなかったんだろう。

 

ヘルタさんはこんなにも、わかりやすいサインを出してくれていたのに。

 

 

 

ルアン・メェイさんが椅子に座ったまま、相変わらず淡々とした口調で言う。

 

 

「補足説明は必要なさそうですね」

 

 

「えぇ。このお返しはあなたが熱を上げているあのお店の看板メニューでどう?」

 

 

「十分です」

 

 

 

……何だか賄賂でやり取りされた気分になる。

 

 

 

 

 

するとヘルタさんの視線が私を捉えた。

 

確認するように。

確かめるように。

 

一歩、こちらへ距離を詰めた。

 

 

「ほら、帰るよ」

 

その声音はあまりにもいつも通りだった。

 

私は少しだけ迷ってから、頷いた。

 

 

「……うん」

 

 

短い返事。

そこに私の意思が全部詰まっていた様にも思う。

 

 

するとヘルタさんの肩からほんの少しだけ、緊張が抜け落ちたのが分かった。

まるで張り詰めていた糸が一瞬、緩んだみたいに。その事実に気づいてしまったことで、胸の奥がじんわりと暖かくなる。

 

ヘルタさんは何も言わずに私の手を握って、歩き出す。

 

 

ルアン・メェイさんが私を一瞥し、淡々と告げる。

 

「昨夜の衣類は差し上げます」

 

 

言われて、そういえばあまり制服以外に服を持ってないことを思い出す。

 

私の背丈は自分で言うのもなんだが、かなり小柄な方だと思う。思えばどう見てもサイズはピッタリで……もしかしてルアン・メェイさんの子供の時の服だろうか。

 

 

「……あ、ありがとうございます」

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘルタさんに手を引かれながら、一瞬だけ振り返る。

 

ルアン・メェイさんは既にデータに視線を戻していた。

 

 

 

研究室を出ると、少し冷たい空気が肌を撫でる。

 

昨日と同じ廊下。

同じ光。

 

それでも隣を歩く人がいるだけで、こんなに違って見えるものなのか。

私は故意に歩を進めて横に並んで、隣へと視線を向けた。

 

ヘルタさんは、前を向いたまま歩いている。

その歩幅は私に合わせられていた。

 

 

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