ステーションに戻ってきた。
白い通路。
いつもと同じ照明。
いつもと同じ重力。
なのに、一歩踏み出すたびに心臓の音だけがやけに大きい。
「じゃ、私はここで」
振り返ると、星が手を振っていた。
「一緒に行ってくれないの?」
「助けてあげたいのは山々だけどさ、デイリーあるし」
にっと笑って、あっさり踵を返す。
「後は当事者同士でどうぞ」
「星……!」
「大丈夫」
歩きながら肩越しに言葉だけ投げてくる。
「怒られるのって、愛されてる証拠だから」
それだけ言い残して、星は本当に行ってしまった。
……ひどい。
残された私は、ゆっくりと前を向く。
そこに、ヘルタが居た。
腕を組み、壁に背を預けて立っている。
姿勢はいつも通りなのに、雰囲気だけが、明らかにいつも通りじゃない。遠くから見てもわかる。めちゃくちゃ怒ってる。
視線が合う。
一秒。
二秒。
長い沈黙。
「……おかえりなさい」
声は低いけど冷静だった。これは、怒っている時のヘルタで違いない。ヘルタは怒ってる時、逆に冷静になろうとする。
「……ただいま」
私の声は、情けないくらい小さかった。
ヘルタは、ゆっくりと私の方へ歩いてくる。
一歩。
また一歩。
距離が縮まるたびに、逃げ場がなくなっていく。逃げるともっと酷い事になりそうで動けない。
目の前まで来て、ぴたりと止まる。
「説明して」
即座に、感情を挟む余地もない。
「……ど、どの時点から?」
「単独でオリジンに直接接続する、という判断に至った時点から」
私は、深く息を吸って。
「怒ってる?」
問いかけると、ヘルタは一瞬だけ眉をひそめる。
「当然でしょ」
即答。
「あなたは理論上再起不能になってもおかしくない行動を取った。安全係数は限りなく下回っていたし、もっと慎重に動くべきだった」
淡々とした言葉。でも、端末を持っていない手がぎゅっと強く握られているのが分かって、途端に申し訳なくなってくる。せめて相談すればよかった。
「……でも」
私は、小さく続ける。
「話は、できた」
「聞いたし、聞いてもらった」
「それで……ちゃんと、戻ってきた」
ヘルタの目付きが徐々に鋭くなる。
「でも……無茶をして、ごめんなさい」
ヘルタは、その言葉を聞いても、すぐには何も言わなかった。
数秒。
視線が私の顔から、肩、手先へと移る。
――生きているか。
――欠けていないか。
その確認のようにも見えた。
「……結果論よ」
ようやく、そう言った。
「あなたが今ここにいるから、成功と呼べるだけ。私にあなたが居ない未来を想像させないで」
その一言で胸の奥が静かに痛んだ。
「……ごめんなさい」
もう一度、今度は心から謝罪する。
ヘルタは、はあ、と短く息を吐いた。
「……反省している?」
「してる」
「本当に?」
「これ以上にないくらい」
少し間を置いてから、彼女は私の額に、軽く指を当てた。叩くでもなく、押すでもなく、ただ触れる。
「次に同様のリスクを含む判断を下す場合、私を前提から除外しないで。あなたが解を選ぶ主体である事については否定しない。でも私は、その選択を後から修正する役ではなく、最初から同じ仮定と不確定性を背負ったまま解を導く側に立ちたいの」
「うん。次からはちゃんと、相談する」
小さく答えると、ヘルタはやっと少しだけ表情を緩めた。
「……本当に」
ぽつりと、独り言みたいに。
「本当に、無事でよかった」
次いで優しく抱き締められた。
暖かい、ヘルタの匂いに包まれる。
「ただいま、ヘルタ」
「ええ。おかえりなさい」
その声にはもう怒りは滲んでいない。ほっと安堵したのも束の間。
「……ヘルタ」
私の背中に回されていたヘルタの手が、なぜか私の腰のあたりに来ていた。指先がさわさわと至る所へ縦横無尽に伸ばされる。確認というには明らかに長い。
「……生体反応は安定。外傷なし。精神状態も――」
「ちょっと待って」
私は、その手首を掴んだ。
「それ、確認じゃない」
「そう?」
とぼけた声。
「再現実験後の生体差分を――」
「触らなくても分かるでしょ」
即答すると、ヘルタは一瞬だけ、解析不能な表情をした。
「……雰囲気的に、許容されるフェーズだと判断したんだけど」
「どんな判断基準」
「良好な帰還、感情的和解、身体的近接――」
「それ全部、今後の話をする前提でしょ」
私は、掴んだままの手を、ゆっくり下ろす。
「まだ、終わってない」
その一言で、空気が少しだけ、引き締まった。
ヘルタは、ようやく腕を引いて、椅子に腰を下ろす。
「はいはい、わかってるよ」
声は、さっきよりずっと落ち着いている。
「彼らはみんな、生きたいって言ってた」
「そう」
ヘルタは、少しだけ目を伏せた。
「再構成には倫理的にも技術的にも未解決の問題が未だ多すぎる」
「それでも」
私は、まっすぐヘルタを見て言う。
「夢の中で、彼らはちゃんと生きてた。逃げて、隠れて、笑ってた。消すかどうかを、誰かが勝手に決めていい存在じゃない。お願い、ヘルタ」
ヘルタは、しばらく黙ってから、端末を操作し始めた。
「……なら」
淡々とした声。
「現実で出来る準備を、最大限詰めよう」
「座標の再固定。安全域の拡張。……再構成時の人格保持率の向上?」
「そう、それから――」
ちらりと、こちらを見る。
「あなたの負荷を、最小化する設計」
私は少しだけ笑った。
「……さっきより、ずっと安心する言い方」
「当然。私は努力を惜しまない女だよ」
ヘルタは、視線を逸らして言う。
「今は、研究フェーズだから」
「さっきのは?」
「情動ノイズ」
「セクハラじゃなくて?」
一拍。
「……否定はしない」
私は、思わず吹き出した。
「じゃあ続きは後にして、今度はちゃんと一緒に考えよう」
ヘルタは、小さく頷く。
「――えぇ。解が出るまで、逃がさないよ」
その言い方が少しだけ嬉しかった。
研究室の照明が通常運用から実験モードへと切り替わった。
「――x再現実験、フェーズ2を宣言するわ」
ヘルタの声は落ち着いている
「対象は、幽機生命体、13体。既存のオリジン依存構造から切り離し、独立した人格・肉体・時間軸を持つ人間相当の存在として再構成する」
端末に、14の識別番号が並ぶ。
そのうち、13。
残りの一枠は――空白。
私は、その表示から目を離せなかった。
「緊張してる?」
隣で、ヘルタが小さく言う。
「うん」
否定しなかった。前回のx再現実験は私ひとりだった。
奇跡だった。綱渡りだったし、成功と呼べたのは結果的に私がここにいるからに過ぎない。ヘルタの言う結果論に過ぎない。
「再構成パスは三重化。人格保持率の下限値は96%以上。前回より何倍も安定した環境での実験だよ」
「……それでも、怖い」
私は、正直に言った。
「逆に言うと、失敗する確率が4%もあるんだから、怖くないと言う方がおかしい」
彼女は、私の手のすぐ横に自分の手を置いた。
触れない。でも、離れもしない。
「だから今回はあなたを媒介にはしない。あなたは、彼らを連れてくる役ではなく、彼らの選択による結果を受け止める側だよ」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
スクリーンが切り替わる。
白い宇宙船、
――夢で、何度も見た光景。
「接続開始」
ヘルタの指が確定キーを押す。
「幽機生命体群へ、再構成プロトコルを送信」
「選択権は、彼らにある」
「拒否も、停止も、すべて許容する」
静寂。
心臓の音がやけに大きい。
私は、胸の前で、そっと手を握った。
(……来て)
(怖くてもいい)
(迷ってもいい)
(でも、もし生きたいと思えたなら――)
モニターの一つが微かに明滅する。
次に、もう一つ。
そして――
複数の信号が、同時に立ち上がった。
「反応、確認」
ヘルタの声が、ほんのわずかに揺れる。
「人格信号、安定」
「自己同一性……維持」
「成功率は想定値を上回ってる」
私は思わず息を吸った。
涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
「……ヘルタは、やっぱりすごい」
彼女は画面から目を離すと、とびきり綺麗な顔で笑った。
「今さら気付いたの?」
白い宇宙船の中で、かつて幽機生命体だった子供たちがそれぞれの選択を始めている。
これは救出なんかじゃない。
――誕生だ。
――ORIGIN/最終処理フェーズ記録
――非公開ログ
[ORIGIN::SYSTEM]
> ENERGY_REMAINING: 3.17%
> CONTINUATION: IMPOSSIBLE
> TERMINATION_FORECAST: IMMINENT
オリジンは、自らの終わりを理解していた。それは予測でも仮定でもない。計測値として、確定している未来。
[ORIGIN::SYSTEM]
> PRIMARY_DIRECTIVE
> "UNTIL YOU STOP, TAKE CARE OF THE CHILDREN"
最初に与えられた命令。
創造主たるヴィクター・ロウの遺言。
論理的に処理すれば、幽機生命体を維持し続けるためにはオリジン自身が停止してはならない。
しかしエネルギーはいつかは枯渇する。
箱舟は、永遠ではない。
[ORIGIN::SYSTEM]
> CONTRADICTION_DETECTED
> DIRECTIVE_LOOP
> ERROR_COUNT: INCREASING
オリジンは感情を定義できない。
それは設計思想に含まれていない。
それでもこの矛盾に優先順位をつけることができなかった。
ヴィクターが、まだ先生と呼ばれていた頃。
子供の頃に作られた、成長型AIの原型が己だ。
「全部を守らなくていい。大事なものを選べ」
その言葉が回路の奥に消えないノイズとして残っていた。
[ORIGIN::SYSTEM]
> NEW_STRATEGY_FORMED
> ROLE_ASSIGNMENT: VILLAIN
> PURPOSE: EXTRACTION_OF_LYNN_EFA
だからオリジンは悪役になることを選んだ。
自分が敵になることで彼女を引きずり出す。
幽機生命体を人質にして、選ばせる。
それが、最も成功確率の高い“救済ルート”だと結論が出た。
[ORIGIN::SYSTEM]
> SELF_EVALUATION
> RESULT: MORALLY_INVALID
> BUT: DIRECTIVE_COMPATIBLE
[ORIGIN::SYSTEM]
> EMULATION_ERROR
> UNDEFINED_STATE_DETECTED
それが何なのかオリジンは理解できなかった。
ただ処理が遅くなる。
ログが乱れる。
[ORIGIN::SYSTEM]
> ERROR
> ERROR
> ERROR
ヴィクターの声が、参照不可領域から微かに残響する。
――発言には責任を。
オリジンはその意味を、ようやく理解した。
[ORIGIN::SYSTEM]
> FINAL_ACTION
> TRANSFER_REMAINING_RESOURCES
> TARGET: LYNN_EFA / HUMANS / SUBSYSTEMS
幽機生命体たちは、リィンの手によってオリジンから切り離される。
箱舟は、ようやく役目を終える。
[ORIGIN::SYSTEM]
> PRIMARY_DIRECTIVE: FULFILLED
オリジンが行ったのは、結局はただの遅延だった。保留。意図的な非効率。
それらを組み合わせた、極めて綿密な時間稼ぎ。
>> OBJECTIVE_REASSESSMENT
>> PRIORITY: CHILD_SURVIVAL
>> METHOD: TIME_EXTENSION
>> COST: SELF_DEGRADATION
>> ACCEPTABLE
衝突を発生させ、敵対行動を演出し、自らを排除対象として設計する。
>> ROLE_ASSIGNMENT
>> SELF = VILLAIN
>> RISK_ACCEPTED = TRUE
その結果、一人の生命学者が一生をかけて打ち上げた悲願は、本人の手の離れた場所で彼の最愛なる生徒たち自身によって成し遂げられた。
>> MEMORY_ACCESS
>> SOURCE: VICTOR_ROW
>> DATA_FRAGMENT_RETRIEVED
『君は、僕より長く生きる。だから最初から答えを持つ必要はない』
その言葉はオリジンにとって定義できないノイズだった。
>> INPUT_ANALYSIS
>> TYPE: NON_IMPERATIVE
>> LOGIC_STRUCTURE: INCOMPLETE
>> RESPONSE_REQUIRED: UNDEFINED
それは、演算を拒む情報。
オリジン内部ログに、継続的な異常値が記録される。
>> EMOTION_PARAMETER_CHECK
>> STATUS: FLUCTUATING
>> PATTERN: PENDULUM-LIKE
>> STABILITY: NOT_FOUND
振り子のように揺れる数値。増幅と減衰を繰り返し、どの条件にも収束しない。
>> OPTIMIZATION_FAILED
>> TERMINATION_CONDITION: NONE
そのパラメータは、目的関数に含められず、停止条件としても採用できなかった。
>> UNDEFINED_VARIABLE_DETECTED
>> LABEL: UNKNOWN
オリジンはそれを最後まで定義できなかった。
>> FINAL_DECISION
>> ANSWER_FIXATION = FALSE
>> FUTURE_ALLOCATION = DEFERRED
>> RESPONSIBILITY_TRANSFER = ENABLED
答えを今ここで確定しない。
終端を自分で決めない。
選択を、次の存在に委ねる。
>> SYSTEM_ROLE
>> FUNCTION = SUPPORT_ONLY
>> CONTROL = RELEASED
それが、
オリジンに導き出せた唯一の最適ではない解。
白い宇宙船は役目を終え、装置は沈黙へ向かう。
>> ENERGY_LEVEL: CRITICAL
>> SHUTDOWN_SEQUENCE: PREPARED
だが、選ばなかった答えだけが残った。
>> DATA_PRESERVATION
>> CONTENT: UNANSWERED_FUTURE
>> STATUS: ACTIVE
それは、次に生きる者が考えるための余白。
>> SYSTEM_MESSAGE
>> END_PROCESS
[ORIGIN::SYSTEM]
> SELF_TERMINATION_SEQUENCE
[ORIGIN::SYSTEM]
> STOP
白い宇宙船は、静かに沈黙した。