私は、基本的に夢という現象を信用していない。
脳が勝手に垂れ流したログを、物語だとか意味だとか呼び出すのは、人類特有の悪い癖だと思う。もっとも、その「悪い癖」に付き合わされるのは、たいてい私のほうなのだけれど。
研究区画の照明は、いまも一定の周期で明滅している。
船体の振動は安定、生命維持装置は正常稼働、システムログも問題なし。そして、私のほうはといえば、連続稼働時間が少しばかり限界値に近づいていた。
「ふぁ……」
つい欠伸が出てしまう。
椅子にもたれ、端末のホログラムを一度閉じる。数字と式が残像のように視界に張り付き、しばらく消えそうにない。
ここ最近の私は、宇宙の再構築にほとんどの稼働時間を割いている。サンプル数を増やし、変数をいじり、結果を観測し、気に入らなければ全部壊す。
簡単な話ね。世界を作って、飽きたら捨てる。子どもの頃からやっている遊びの、スケールだけが大きくなっただけ。
「……子どもの頃、ね」
その言葉に、思考が引っかかる。
子どもの頃、一度だけ奇妙な夢を見た。
いや、正確には数回。あまり回数は多くない。
それでも、データとしては十分に“異常値”に分類される。
煌く星空。
硬い石畳。
あの世界にだけ存在していた少女。
リィン、と名乗った。
余命いくばくかで、病弱で、夢の中にしかまともな自由がないくせに、変に達観していて、やけに言葉の選び方が丁寧で。
私の夢に勝手に入り込んできては、私の迷いを、当たり前みたいな顔で「疲れるね」と言ってきた侵入者。
統計的には、脳が勝手に作り上げた虚構人格。
理屈としては、その説明で足りる。
足りるのだけれど。
「……まあいいわ。判断は、あとで」
私は自分のこめかみを押さえた。作業台の上には、片付けられなかったデータの山と、空になったカップ。
睡眠時間の確保は、効率的な研究の前提条件。そう定義したのも私。ならば、従わない理由はない。
椅子を少し倒し、目を閉じる。
照明の光がまぶた越しに赤く滲む。船内の機械音が一定のリズムで耳に届き、それが次第に遠ざかっていく。
息を吐く。
それから、落ちる。
──次に目を開いたとき、そこは見慣れた研究区画ではなかった。
夜だった。
空には星々が規則正しい配列で瞬いていて、まるで誰かが綺麗に並べ直した宇宙模型みたいだった。
地面は冷たい石畳で、靴音がよく響く。
ここに来るのは、何年ぶりだろう。
「……データの保存期間を、甘く見積もっていたかな」
小さく呟いて、自分で苦笑する。
忘却というゴミ箱に放り込んだつもりの記憶が、こんなに鮮明な形で再構成されているなんて。脳は案外、物持ちがいい。
私は歩き出す。
かつてと同じように、石畳の上に、自分の足音を落としていく。
夢の中の私は、相変わらず疲れ知らずで、息も切れない。現実の身体機能に縛られないのは、評価してもいい仕様だ。
少し歩いた先で、視界の端に見慣れた背中があった。
ああ、と、思う。
やっぱりそういうことになるのね、と。
「久しぶり」
私が声をかけるより先に、彼女が振り向いた。
腰まで届く白髪を風に靡かせた少女。
リィン・エファ。
あのときと変わらない年齢、変わらない背丈、変わらない銀色の目。優しげで、少し眠たげな雰囲気。
増えたのは、きっと、私の方だけだ。
「大きくなったね、ヘルタ」
「成長とは、基本的に勝手に進行する仕様だからね。成長した私も美人でしょ?」
口が自然に、昔と同じ調子で動く。
彼女はそれを聞いて、少しだけ笑った。相変わらず、騒がない笑い方。
「相変わらず、小難しいね」
「褒め言葉として受理しておく。……あなたは、まったく変化が観測されないけど」
「わたしの方は、あんまりバージョンアップの余地がないからね」
リィンはそう言って、石柱を指先でとん、と軽く叩いた。
「ここ、覚えてる?」
「忘れるほど鈍い脳じゃない。自己投影型仮想空間。あなたと最初に接触した、あの夢と同じ構造」
「うん。言ったでしょ。壊さず保存しておくって」
私は少しだけ、息を止める。
あれがただの夢ではなく、「彼女側の意思によって保存された座標」だという証拠を、いまさら突きつけられた形だ。
「……となると、ますます説明が面倒になるね。外部からの夢への侵入能力を持つ観測者が、そのまま構造を保持し続けていた、ということになる」
「難しい言い方をすると、現実味が増す?」
「逆よ。嘘っぽさが増す。けれど、否定し難くもある」
私は、彼女の真正面に立つ。
距離が近い。彼女の顔が、もうあの頃と同じ高さにない事が妙に胸をざわつかせる。
「現実でのあなたはどう? まだ……」
問いかけかけて、やめた。
代わりに、少しだけ言い換える。
「──まだ、生きてる?」
リィンは、空を見上げた。
星々が、その瞳に映って揺れる。
「どうだろうね。わたし自身も、そこはよく分かってない」
淡々とした口調だった。諦めでも、悲観でもなく、ただの事実報告。
「わたしの意識は夢の中のまま、もう何年も現実に帰ってない。病室の時間は、とっくに終わった気もするし、まだ続いている気もする。延命装置が止まったのかどうかも、こっちからは見えないしね」
「生死を本人が観測できない状態。シュレーディンガーの患者、とでも呼ぶべき?」
「どことなく間抜けな響きだね」
リィンはくすりと笑ったあと、こちらを見た。
「ヘルタは? 天才の行き着く先は、どんな景色だった?」
その問いは、妙に真っ直ぐだった。
私は、ほんの少しだけ視線をそらす。夜空ではなく、自分の足元を見る。
「相変わらず、誰も私のいる場所には立てないみたい」
言いながら、自分でも驚くくらい、昔と同じ言葉が口から出た。
「研究成果は山ほどある。世界はいくつも観測したし、いくつも壊した。評価も、称賛も、恐怖も、だいたい予想通りに獲得した。統計的に見れば、かなり成功した人生に分類されるはず。でも……」
「でも?」
リィンが、続きを促す。
私は、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「それでも、居場所というラベルを貼れる座標は、未だに見つからない」
石畳に、私の靴音がひとつ落ちる。
さっきまで聞こえなかった鼓動が、妙にうるさい。
「同年代の子どもたちなんて、もうとっくに同年代という括りから外れている年齢になった。それでも、私はずっと、『天才』というラベルの下に展示されている。展示品自身の感想は、誰も気にしていない」
「そっか」
短い相槌が不思議と心地良い。
「だから、たまに思うの。あの時、あなたが言った言葉、覚えてる?」
リィンが首をかしげる。
私は、彼女の目を見て言う。
「『天才でも、普通でも、あなたはあなたでしょ』」
「ああ……」
彼女は目を細める。
「そんなことも言ったね、わたし」
「根拠に乏しくて、統計的裏付けもなくて、論理的にも甘い。でも、妙にデータに残り続けるタイプの言葉」
それをずっと保持したまま、大人になった。
認めるのは少し癪だけど、私は彼女にだいぶ影響されている。
「あなたが居なかったら、私はもっと雑に自分を切り捨ててたと思う。『天才である私』以外の部分を、全部誤差として」
「それは、寂しいね」
リィンが即答した。
「だって、天才であるヘルタと、迷ってるヘルタは、両方が本物なんだから」
「……あの頃と言ってること、ほとんど変わってないわね、あなた」
「成長の余地がないって、言ったでしょ?」
ふふ、と笑う。
私は、思わず少しだけ息を吐く。緊張が、ほんの少し抜けていく。
「あなたは?」と、今度は私から問う。
「夢の侵入者としての生活は、どうだったの?」
「うーん……」
リィンは少し考える仕草をした。
「たくさんの夢に入ったよ。泣いている子の夢、怒っている大人の夢、怖くて隠れてる人の夢。皆、様々な形で迷ってて、逃げてた」
「あなたは、何をしたの?」
「何もしなかった」
あっさりとした答えだった。
「ただ話して、ただ聞いて、ただ一緒にいるだけ。私にできるのは、それくらいだしね」
「それで、彼らはどうなったの?」
「さあ。目が覚めた後のことは、こっちからは見えないから」
それは、少しだけ私に似ていた。
私は世界を観測して、結果を保存する。でも、その世界の“その後”を、いちいち追跡しない。
「ただ、一つだけ言えるのはね」
リィンが、小さく指を一本立てる。
「わたしの中には、たくさんの迷ってる誰かの重さが残ってる。宇宙よりは小さいけど、わたし一人で抱えるには、ちょっとだけ重たいぐらい」
「それは、苦痛?」
「ううん。不思議と、悪くない重さ」
ああ、と私は思う。
昔、彼女が別れ際に言った言葉と、今のそれが綺麗に重なった。
「ねえ、ヘルタ」
今度はリィンの方が、私を真っ直ぐ見る。
「また、来る?」
聞き慣れた質問。
違うのは、私の方がもう「子ども」ではないという点だけ。私は少しだけ考えてから、答える。
「来るわよ。たぶん、以前より頻度は低くなるでしょうけど」
「どうして?」
「忙しいから。世界を作って壊す作業は、思っているより時間がかかるの」
「ふふ、そうだろうね」
リィンが嬉しそうに笑う。
それが、妙に心に引っかかる。
「……ただし」
私は、付け加える。
「あなたのほうが先に終わる可能性も高い」
「うん、知ってる」
あっさりとした返事だった。
「だからね、今日こうしてもう一度会えただけで、わたしとしてはかなりの大収穫なんだ。観測者としても、夢泥棒としても」
「夢泥棒を自称するの、やめる気はないのね」
「今さら看板は変えられないよ」
リィンが肩をすくめる。
その仕草が、どうしようもなく生きている人間のものに見えて、私は視線を少しだけ逸らした。
「……ヘルタ」
「何?」
「最後に、ひとつだけ、わがまま言ってもいい?」
その言い方は、とても静かで、けれどとても真剣だった。
「この夢を、あなたの中にも、少しだけ残しておいてほしい」
「保存しておいて、ってこと?」
「うん。忘れてもいいけど、あったっていう記録だけ、どこかに」
私は、ほんの一瞬だけ黙り込む。
それから、小さく頷いた。
「いいよ。私の貴重な研究記録の中に、ひとつ項目を増やしてあげてもいい」
「どんな項目?」
「『観測不能の夢侵入者についての断片的ログ』」
「名前、長いね」
「タイトルは長いほうがそれっぽいの」
リィンがまた、笑う。
その笑い声と、星の光が、同時に強く瞬いた。
世界が、少しずつ崩れはじめる。
石畳が遠ざかり、星が線になり、音が水に沈む。
「ヘルタ」
崩れゆく視界の中で、リィンの声だけがはっきり聞こえた。
「天才でも、展示品でも、研究者でも、どれでもいいけどさ……ちゃんと、あなたをやってね」
返事をするより早く、意識が引き戻される。
──目を開けると、天井だった。
今度は金属と配線でできた、船内の天井。機械音が、さっきより少しうるさく聞こえる。
私は、ゆっくりと上体を起こし、端末を呼び出す。そこに新しい記録ファイルを一つ作る。
タイトル欄に、少しだけ迷ってから、こう入力した。
《観測ログ:友人、リィン・エファについて》
虚構か現実か、証明はできない。
する必要も、あまり感じない。
「……まあ、いいか」
私はファイルの本文を一先ず白紙のまま保存し、椅子から立ち上がる。
世界を作っては破壊する。その合間に、たぶんまた、眠る。
その時、あの石畳の夜空に誰が立っているのか。それはまだ、観測されていない未来だ。
だからこそ少しだけ、楽しみにしておいてもいい。そう思えた