タイトルなんて必要ない   作:ヘルタ様万歳

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書き殴った話を読める形に整形しながら投稿してるので更新頻度は高めです。たぶん何処かで失速します。


金曜日の嘘②

 

 

実験室は、異様なほど静かだった。

 

すべての補助装置は稼働。

精神干渉フィールド、量子投影位相、存在安定係数。すべてが、理論上の最適解に調整されている。

 

「……開始」

 

空間が、僅かに歪む。目に見えるほどではない。けれど計測器の針は確かに振れた。

 

座標一致。

精神投影同期開始。

位相、わずかに遅延──

 

 

「おはよう。もう夢から覚める時間だよ、リィン」

 

私は、現実の世界で初めて、彼女の名前を呼んだ。

 

次の瞬間。

 

──そこに、何かがいた。

 

人の形をしている。

背丈は、夢の中と同じ。

 

輪郭は、ひどく曖昧で、存在しているのに存在していないような矛盾を抱えている。

 

失敗……見慣れた二文字が頭をよぎり、私は震える息を止めて、彼女を見る。

 

「……ヘルタ」

 

聞こえた。

確かに、声が聞こえた。

 

「……リィン」

 

私は、一歩、前に出た。

躊躇いのない動作で、手を伸ばす。

 

──触れた。

 

温度のない、しかし確かな感触。

そこに、夢の少女がいた。

 

「やっぱり……あなたの現実は、少しひんやりしてる」

 

その一言で、私は、少し笑いそうになった。

 

だが次の瞬間、実験室の外で待機していた研究員が、戸惑った声を上げた。

 

「……あの、ミス・ヘルタ。そこに何かあるのですか?」

 

私は、ゆっくりと振り返る。

 

「……どういうこと?」

 

「いえ、観測対象は、私の目には確認できていません。……もしかしてそこに何かいるのですか?」

 

私は、もう一度、リィンを見る。

 

彼女は、そこにいる。

間違いなく、私の目の前に。

 

「……私にしか見えていない?」

 

研究員は、困惑したまま頷いた。

 

「感覚異常や幻視の兆候は──」

 

私は、それ以上の説明を遮った。

もう、理解してしまったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

観測結果は、明確だった。

 

リィンは 存在している。

だが、世界には干渉していない。

 

観測できるのは、私のみ。

接触できるのも、私のみ。

 

他者のセンサー、視覚、触覚、すべてをすり抜けるまるで幽霊の様な存在。

 

これは成功?

 

技術的には、成功だ。

夢の座標を現実へと引き出すことには成功している。

 

 

「ねえ、ヘルタ」

 

実験室の片隅で、リィンは小さな声で言った。

 

「私、今も、まだ夢の中なのかな」

 

その言葉を聞いた瞬間、私ははっきりと理解した。

 

これは、彼女を現実へ連れてきたのではない。

私が、夢を一部だけ現実に溢してしまったにすぎない。私は、ゆっくりと実験ログを閉じる。

 

「……これは、失敗だよ」

 

リィンが目を丸くする。

 

「え? でも、私、外に出られてるよ?」

 

「いいえ」

 

私は、はっきりと言った。

 

「あなたはまだ、他人の居る世界に存在していない」

 

私の世界にだけ存在している。

それは、再現ではない。

 

リィンは、少しだけ困ったように笑った。

 

「でもね、私は嬉しいよ」

 

「それが、いちばん問題なの」

 

私は、端末に新しい実験定義を打ち込む。

 

 

 

《x再現実験・第一回目》

──結果:失敗

 

 

思考、観測者が複数必要。

 

成功条件、第三者が視認・接触できなければならない。世界に属していると証明されなければならない。

 

ヘルタ一人の世界に閉じ込められてはならない───

 

 

 

 

私は、端末を閉じ、リィンを見る。

 

「私は、あなたを私だけの存在にはしない」

 

「……ちょっと、寂しい言い方だね」

 

「あなたが現実に来るということは、私の手から離れることでもある」

 

リィンは、少しだけ目を見開いたあと、

それから、優しく笑った。

 

「それでも、やってくれるんだ」

 

「ええ」

 

私は、実験室の照明を落とす。

 

「それが、あなたに対する、私なりの誠実さだよ」

 

 

薄暗い部屋の中で、世界に属さない少女だけが、隣に立っている。

 

この甘美な成功を、私は失敗と呼ぶ他ない。

 

だから、次は──きっと、もっと正しい形で、彼女をここへ迎える。

 

そうしたら今度こそ、彼女に言ってやるのだ。

 

 

 

 

 

彼女と再会してから87672システム時間が経過した。

 

 

他人に助けを求めるという行為を、長いこと無意味だと定義していた。自分で引いた幕は自分で下すべきだと考えていたからだ。

 

それでも今回は、その定義を修正する必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

「貴女が自ら訪ねてくるとは、珍しい事もありますね」

 

培養槽の中で、小さな生命体たちが規則正しく呼吸している。淡い光に照らされて、透明な羽や、微細な触角がきらきらと揺れていた。

 

その前で、1人の女が、飴細工のように精巧な菓子を静かにかじっている。

 

ルアン・メェイ。

天才クラブ、会員番号#81番。

 

「……なるほど。とても、興味深い現象ですね」

 

私の提示した投影ログを、彼女は端末越しに静かに追っていた。相変わらず感情の揺れは、ほとんど観測できない。

 

「夢の存在が現実へと半分だけ滲み出し、尚且つ観測者が個人に限定されている……」

 

ぱき、と、小さな音を立てて、彼女はクッキーを割る。

 

少しだけ首を傾けて、淡々と続けた。

 

「貴女は彼女を現実へ出したつもりになっていますが、実際には自身の認識モデルの内側に、幽霊を作ってしまったという状況に近いかと思います」

 

「……あなたの言い方は、いつも正確で、容赦がないね」

 

「ええ。誤魔化すよりはきちんと切り離した方が腐敗しませんので」

 

そう言って、彼女は培養槽の中を覗き込む。

 

「……この子、また分裂していますね。栄養過多でしょうか。あとで糖分を少し減らします」

 

──話が逸れている。

 

「本題に戻して。完全定着の方法は?」

 

「結論を急かさないでください」

 

ルアン・メェイは、お菓子の粉を指先で払いながら、静かに言った。

 

「ただし、その場合、彼女はあなたのものではなくなります」

 

その一言は、声音がどれほど穏やかでも、メスの先端の様に鋭利だった。彼女は、培養槽の横に置かれた小さな椅子に腰かける。

 

「あなたの精神構造に、彼女の存在が少しのラグもなく同期されている状態です。観測も、接触も、維持も、すべてあなた依存」

 

静かに、しかし断定的に。

 

「つまりあなたは今、彼女を招いたようで、囲ってしまっているのです」

 

胸の奥で、はっきりと音を立てて何かが割れた。本当に良い性格をしている。

 

「それで、方法は?」

 

「ありますよ」

 

彼女は、まるで小動物に餌をあげるような手つきで、培養槽の調整パネルを操作しながら言う。

 

「彼女を生命として現実世界へ定着させる方法です。そのつもりで、私の下へ来たのでしょう?」

 

淡々と、まるでケーキのレシピを説明するような調子でルアン・メェイは切り出した。

 

「必要な要素は、3つです」

 

指を一本立てる。

 

「第一に、梦的自己を支える安定核。つまり器となる肉体の事です。それについては私が用意出来ます」

 

二本目。

 

「第二に、現実世界との因果接続。これらは肉体と彼女に強い結び付きを植え付けなければならない」

 

「要はあなたが手掛けた作品の調整をしろって事でしょ?」

 

「はい」

 

 

そして、三本目の指を立てる瞬間、少しだけ間を置いた。

 

「第三に──彼女を手放す意志です」

 

「……それは、物理条件ではないわ」

 

「ええ。ですが、最も重要なピースです」

 

ルアン・メェイは、こちらを見た。

 

「完全定着が成功した場合、彼女はあなたの観測領域から一度、完全に切り離されます」

 

「……それで?」

 

自分でもわかりきった事を聞いてしまったと思った。

 

「彼女は、あなたの知らない誰かに触れられ、あなたの知らない景色を見て、あなたが関与できない感情を持つ、ということです」

 

さらに、静かに付け加える。

 

「加えて、定着直後、彼女があなたを認識できない可能性もあります」

 

私は、無意識に息を止めていた。

 

「あなたは、彼女を世界へ渡した直後に、彼女を失うことになります」

 

あまりにも穏やかな声で、あまりにも残酷な条件が提示された。

 

「それでも、続けますか?」

 

 

 

 

 

 

 

ステーションに戻ってきた後から、私はしばらく言葉を失っていた。思考は回っている。判断も下せる。

 

それでも、なぜか足だけが止まっていた。

 

実験室に戻る。薄暗い空間の中で、私にしか見えない彼女が、いつもの場所に立っていた。

 

「おかえり、ヘルタ」

 

「……ただいま」

 

私は、彼女の前に立つ。

 

「あなたを、完全に現実へ渡す方法が見つかった」

 

リィンは、ほんの少し驚いた。

 

「本当?」

 

「ええ。ただし──」

 

私は、正確に条件を伝えた。

成功率。定着後の不安定さ。

私との接続が切れる可能性だけを伏せて。

 

話し終えたとき、彼女は少しだけ俯いた。

 

「定着後の不安定さか……それって、しばらく、話せなくなるってこと?」

 

「そうなる可能性もある」

 

「そっか」

 

少し、寂しそうに。

でも、拒絶はしなかった。

 

「ヘルタ」

 

「なに?」

 

「それでも、進める?」

 

私は、初めてこの問いを自分に向けて突きつけられた気がした。

 

彼女を本当の意味で失うかもしれない実験。

彼女を私だけの座標から、完全に切り離す選択。

 

それは、研究者として正しい。

恩返しとしても、正しい。

 

けれど、ただのヘルタとしては、最も残酷な選択になる。

 

 

「……進めるわ」

 

私は、そう言った。

声は、予想よりも静かだった。

 

「あなたが世界に属するなら、それは、私にとって不利益にならない」

 

リィンは、ゆっくりと目を見開き、それから、少しだけ泣きそうな顔で笑った。

 

「やっぱり、ヘルタは、優しいね」

 

「それは、あなたがそう思ってくれるから成立する評価だよ」

 

私は、彼女の前にそっと手を差し出す。

今はまだ、触れることができる。

 

次に彼女に触れるとき、それは私だけの特権ではなくなる。感情の整理が付いたからなのか、少しも惜しいとは感じなかった。

 

彼女は、私の指先に、そっと触れた。

 

薄くて、曖昧で、それでも確かに存在している感触。私はその接触を、静かに記録する。

 

 

 

 

 

 

 

実験室の照明は、落とされていた。

 

必要最小限の光だけが、床の円環式に刻まれた投影陣を淡く照らしている。

 

その中心に、空白がある。

今は、まだ。

 

「安定核、出力85%。因果接続位相、同期率92%……ふふ、小動物の心拍と同じくらい安定していますね」

 

ルアン・メェイは、端末を片手に、ガラス越しの培養槽を一度だけ見やった。その中で、小さな生き物が眠るように丸まっている。

 

興味は一瞬だけ。すぐに実験へと意識が戻る。

 

「観測者は、私とヘルタ。そして外部監視員3名です。第三者観測条件、満たしています」

 

私は、無言で頷いた。

 

──ここから先は、

理論でも、確率でもない。

 

選択の段階だ。

 

「最後に確認しますね」

 

ルアン・メェイは、穏やかな声で言う。

 

「この実験が成功した場合、彼女はあなたの精神投影領域から切り離され、あなたにしか見えない存在ではなくなります」

 

「えぇ」

 

「その瞬間、あなたは彼女を失う可能性があります」

 

「……それでも」

 

私は、はっきりと答えた。

 

「それでも、進めるよ」

 

ルアン・メェイは、小さく頷いた。

 

「ええ。とても良い覚悟だと思います。それでは──開始します」

 

 

 

 

 

精神干渉フィールド、展開。

位相反転、開始。プロトコル、起動。

 

私の視界から、私にしか見えないはずのリィンが、ゆっくりと薄れていく。

 

───大丈夫だよ、ヘルタ。

 

その声が、私にだけ届く。

 

「これからあなたの中の彼女への直通回線を遮断します」

 

ルアン・メェイの声音は、どこまでも静かだった。

 

「少し、痛みが生じるかもしれません」

 

「問題ないよ」

 

次の瞬間、胸の奥が、ぐにゃりと歪んだ。

 

記憶が剥がされるわけではない。

感情が消えるわけでもない。

 

ただ、繋がっている前提そのものが、引き抜かれる感覚。産まれ落ちた時から存在していた四肢を亡くしたような痛みが走る。

 

「……っ」

 

一瞬だけ、呼吸が詰まる。

瞬きの僅かな間に、リィンの輪郭が私の視界から完全に消えた。

 

私は再び、彼女がいない現実に立たされた。

 

 

 

 

 

 

「因果接続、完全同期──投影、開始いたします」

 

空白だった円環の中心が、淡い光で満ちていく。

 

空気が、わずかに重くなる。

粒子が集まり、そこに在るべきでなかった存在の形を取り始める。

 

「……リィン」

 

私は無意識に、彼女の名前を呟いていた。

 

次の瞬間。

彼女は、現れた。

 

はっきりとした輪郭。

確かな影。

床に触れる、裸足の足の感触。

 

研究員の一人が、息を呑む音がした。

 

「……観測対象、視認しました」

 

誰かが、震えた声で続ける。

 

「……心拍、確認。……対象、物理接触、可能です」

 

私は、動けなかった。

 

──いる。

世界の中に。

 

私の世界の中ではなく、妄想の産物でもなく。この場所の中に、リィンが立っている。

 

「……あ」

 

彼女は研究員に支えてもらいながらきょろきょろと周囲を見回し、小さく、息を吸った。

 

「……音が、たくさんする」

 

その声は、私だけでなく、全員に届いていた。

 

 

 

 

 

私は、ゆっくりと一歩、前に出る。

 

「リィン……」

 

だが、彼女は、私を見なかった。

 

視線は、技術者たちへ。

光る装置へ。

ガラス越しの培養槽へ。

 

「あ……あれ、ちょっとかわいい」

 

部屋の隅に鎮座した小さな生き物に視線が映る。ルアン・メェイが、ほんのわずかだけ目を細めた。

 

「ふふ。生き物にまず目が行くのですね。……ええ、あなたと少し、似ています」

 

私は、そこでようやく理解した。

 

彼女はもう、私の夢の中のリィンではない。

 

彼女は、この場の誰とでも接続しうる存在になった。

 

その事実は、理論上は予測済みだった。

だが、実際に見せつけられると、胸の奥が、わずかに軋む。

 

「……ヘルタ?」

 

遅れて、彼女がこちらを見る。

そして、小さく首を傾げた。

 

「……ヘルタ、だよね?」

 

その言葉は、記憶喪失ではない。

忘却でもない。

 

再接続が、まだ完了していないだけ。

 

彼女は、今、世界を先に認識していて、私を後回しにしている。

 

それは、正しい順序だった。

 

 

リィンが、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

今度は、床に足音を残しながら。

 

そして、私のすぐ目の前で立ち止まり、少しだけ照れたように言った。

 

「ねえ、ヘルタ」

 

「……なに」

 

「あなたの現実、やっぱり……ちょっと、ひんやりしてるね」

 

私は、思わず、小さく笑った。

 

まだ、完璧ではない。

まだ、再接続も途中だ。

 

それでも。

彼女は今、世界の中に、立っている。

 

床に影を落とし、呼吸をし、冷たい空気に、ほんのわずか肩をすくめる。

 

それだけで、この実験が理論通りに成功したことは、誰の目にも明らかだった。

 

「……完全定着、安定を確認」

 

研究員の声が、静かに響く。

私は、一歩、彼女に近づこうとした。

 

今度こそ、誰にも遮られず、現実の彼女に触れられる筈だった。

 

 

 

──その時。

 

「……っ」

 

リィンが、ふらりと膝を折った。

 

「……あ、れ……?」

 

頭を押さえ、まるで内側から何かが暴れているかのように、呼吸が乱れ始める。

 

「……頭、が……」

 

声が、明らかに苦しそうに歪んだ。

 

「……いた、い…?…思い、出が……」

 

私は、即座に駆け寄った。

 

「リィン!」

 

触れた肩は、冷たくて、けれど確かに生きているとわかる僅かな温度を保っている。

 

「……夢の、星が……、石畳が……あなたの声っ、が……」

 

言葉が、ばらばらに零れ落ちる。

同時に、計測器が異常な数値を示し始めた。

 

「精神領域に異常な速度で侵食されています!」

 

「記憶領域、急速膨張──遮断しなければ精神が崩壊します!」

 

私は、すぐに理解した。

 

夢の中で生き続けた記憶が、現実の脳にそのまま流れ込んでしまっている。

 

 

 

「……これは、予想外ですね」

 

ルアン・メェイは、リィンの苦悶の表情を淡々と観測していた。

 

「夢の中で蓄積された記憶と感情が、現実の神経構造に適応不可能な密度で流入しています」

 

指を端末の上で滑らせながら、静かに続ける。

 

「このままでは、精神が先に壊れます」

 

私は、喉が張りついた。

 

「……対処法は」

 

私はまた、分かりきった問い掛けをした。

ルアン・メェイは、特に気にした様子もなく、こちらを見る。

 

「記憶のフォーマット。夢由来の長期記憶を、すべて初期化しなければ、彼女の精神は持ちません」

 

その言葉は、単なる実験操作の説明でありながら、私にとっては完全な別れの宣告だった。

 

「それは……」

 

私は、すぐに言葉を継げなかった。

 

「彼女があなたと出会ったことも、あなたに名前を呼ばれたことも、あなたと夢で話したすべてを」

 

ルアン・メェイは、丁寧に、淡々と言った。

 

「忘れる事になります」

 

 

 

 

……、…………そう。

 

私は、彼女の額に手を当てる。

 

「……ヘルタ……?」

 

リィンは、私を見る。

だが、その視線はすでに定まっていない。

 

「……ない、てるの……?」

 

胸の奥で、何かがはっきりと音を立てて崩れた。これが、私が世界に渡すと選んだ代償。

 

独占しないと決めた。

囲わないと決めた。

手放す覚悟も、していた。

 

それでも、忘れ去られる覚悟まではまだ用意していなかったのに。

 

「……早く始めて」

 

私は、血の気の引いた声で言った。

ルアン・メェイが、静かに頷く。

 

「わかりました」

 

その指が、躊躇なくスイッチを押す。

 

 

 

 

 

 

リィンの身体が、わずかに跳ねた。

 

「……あ──」

 

声が、喉で途切れる。

計測器の中で、記憶の波形が、上から順に消えていく。

 

病室

両親

 

星空

石畳

 

ヘルタ

 

 

「……っ……」

 

最後に、彼女の瞳から、

一粒だけ、涙が落ちた。

 

そして──リィンは、静かに意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから程なくして、リィンは、医療ベッドの上で目を覚ました。

 

ゆっくりと瞬きをし、天井を見上げ、

そして、こちらを見た。

 

「……あの」

 

初めて聞く声のように、何の感情も、何の記憶も乗っていない声で。

 

「……ここは、どこですか? ……私は、」

 

私は、ほんの一瞬、言葉を失う。それから、いつもの調子で答えた。

 

「ここは私の研究施設。あなたはリィン。今日からここで働く事になった」

 

「……働く?」

 

「ええ。私の助手として。一応、意見くらいは聞いてあげる」

 

リィンは、少しだけ考え込み、それから、小さく頷いた。

 

「……いえ、わかりました。よろしくお願いします」

 

その礼儀正しさは、かつての夢の中のリィンとは、まるで違うものだった。

 

 

 

 

 

彼女と別れて8760システム時間が経過した。

 

彼女は私のいう通り助手になった。

白衣を着て、端末を持ち、私の隣で。淡々と作業をこなす。

 

「ヘルタさん、この数値、外れ値です」

 

「じゃあ修正して」

 

「はい」

 

そこに、かつての星も、石畳も、夢の侵入者も、存在しない。

 

ただ優秀で、静かで、記憶を持たない少女がいるだけだ。

 

それでも時々、研究室の窓の外を見つめながら、彼女は、ぽつりと呟く事がある。

 

「……私、昔、どこか、とても静かな場所に居たような気がするんです」

 

私は、その言葉に、返事をしない。

私と彼女だけの記録は大切にしまって、誰にも見せない事にしたから。

 

 

私は、彼女を世界に渡した。

同時に、彼女の中の私を、完全に消した。

 

これは、成功だ。

誰の定義に照らしても。

 

今でも、星の瞬く夜空を思い出す。

もうあの石畳に彼女はいない。

 

私を知っている彼女は、この宇宙のどこにも存在しない。ひとときの夢だった。

 

それでも私は、彼女を傍に置いておきたかった。彼女が離れたいと言うまではこの束の間の感傷に浸っていたかった。このテキストに名前を付けるならきっと、───未練。

 

 

 

 

 

 

 

彼女と別れてから26304システム時間が経過した。

 

リィンは、よく眠る助手だった。

 

業務に支障が出るわけではない。与えられた作業は正確で、報告は簡潔で、無駄な質問もしない。

 

優秀で、従順で、危ういほどに何も持っていない。この子にとって目覚めて最初に出会ったのが私で、だから彼女の為にもっと何か出来た筈なのに。どうしてか彼女に何も与えられないでいた。

 

 

「ヘルタさん、夜間記録、更新しておきました」

 

「ご苦労様」

 

「次の思考実験の準備も終わっています」

 

端末を差し出す指は、少し冷たい。私はそれを受け取りながら、無意識のうちに彼女の手の温度を、夢の中で触れた、あの曖昧な温度と比べてしまう。

 

彼女は、知らない。

星も、石畳も、私の名前を誰よりも親しそうに呼んだことも。それでも、時々。

 

 

「……不思議ですね」

 

「なにが?」

 

「ヘルタさんの様な人は、大抵の物事を自分だけで進めるタイプだと思っていました」

 

「……ああ、ルアン・メェイやスクリューガム、スティーブンと共同制作している実験のこと?」

 

「彼らと接している時のヘルタさんは面倒だとでも言うように溜息を付いているのに、時折楽しそうに笑っていました」

 

「……それで?」

 

「あ……すみません……それだけです。特にオチはなくて」

 

私は、返事をしなかった。

これ以上続ければ、とても我慢できそうになかったから。

 

 

 

 

 

 

彼女と別れてから35064システム時間が経過した。

 

異変が最初に観測されたのは、

精神波のモニタリングデータだった。

 

睡眠中のリィンの脳波が、明らかに特殊な侵入型位相を計測している。

 

それは、かつて夢に入る能力を持っていた頃だけに現れていた波形と、ほぼ同一のパターンだった。

 

「……記憶は白紙のまま。けれど、能力だけが再活性化している?」

 

こんな現象、理論上はありえない。

 

能力とは、経験と記憶に紐づく。記憶を初期化すれば、夢へ侵入する理由も、方法も、痛みも、すべて失われる筈だった。

 

 

それなのに。

 

能力だけが、本能の位置まで沈み込み、保存されている。

 

その日の夜、医療区画のモニター室で、彼女の睡眠データを眺めていた。危険信号を発し始めたらすぐに止められる様に。

 

リィンは、ベッドの上で、ゆっくり呼吸を繰り返していた。

 

やがて、呼吸が深くなり、

脳波が、あの形に滑り込む。

 

「……っ」

 

微かに、彼女の指先が動いた。

まるで、どこかへ触れようとするみたいに。

 

 

 

 

 

 

翌朝。

彼女は、研究室に入ってくるなり、ほんの少し、上の空だった。

 

「……眠れなかったの?」

 

「いいえ」

 

少し迷ってから、彼女は言った。

 

「ただ、夢を、見ていました」

 

「……どんな?」

 

「よく、分からないです」

 

それなのに、その指先は、なぜか微かに震えていた。

 

「でも……空に星がたくさん輝いていました」

 

一瞬、私の心拍が乱れた。

 

「……星?」

 

「はい。夜だった気がします。星が瞬いていて、どこか幻想的でした」

 

確信はない。

断片的。

曖昧。

 

それでも、あまりにも聞き覚えのある特徴。

 

「……他には?」

 

私は、平静を装って尋ねた。

大切にしまっておいた景色との違いを見定めて安心したかった。

 

リィンは、少しだけ考えてから、首を振る。

 

「……石の、冷たい……音がする地面?」

 

私は、思わず、端末を握る指に力を入れた。

彼女は、それを知らない筈だった。

 

「……そこには誰か、居た?」

 

「分からないです」

 

けれど、彼女は、胸のあたりに手を当てて、静かに付け加えた。

 

「ただ……そこで、すごく静かな匂いがして。確かに、……1人じゃなかった気も、します」

 

私は、それ以上、何も聞かなかった。

 

記憶は失われた筈だ。

跡形もなく完全に。

回復の兆候もない。

 

けれど夢に入る能力は、リィンという存在そのものに刻まれていた。

 

かつての彼女は、夢の中で生きていたのではない。夢の構造そのものと、共振して生きていた。

 

だから記憶を消しても、人格を初期化しても、入口だけは切っても切り離せない血の一部として残ってしまった。それは、呪いにも祝福にも、どちらにも見えた。

 

 

 

 

 

数日後。

 

リィンは、また同じ夢を見た。今度は少しだけ長かったらしい。

 

「……歩いていました」

 

「……どこを?」

 

「石の、冷たい道です。星が瞬いていました」

 

それでも彼女は、誰の名前も呼ばない。

私の名を、夢の中で呼ばない。

 

「……不思議ですね」

 

リィンは、少しだけ笑った。

 

「知らないはずの場所なのに、なぜか懐かしいと思ってしまって」

 

その言葉に、何も返せなかった。

 

 

 

その夜もまた、睡眠中のリィンの精神波形はかつてと同じ数値を示していた。

 

けれど、どうしてか彼女の口振り的に誰かの夢に入った様子はない。あの星々の瞬く夜空そのものへ無意識に帰ろうとしている様だった。

 

 

 

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