何年ここに居たのかは分からない。気付けば私は天才と名高いヘルタさんの助手として働く事になった。
自分の過去について尋ねるとステーションの人たちは少し困った顔をする。だから私はもあまり聞かない様になった。
それでも記憶を失う前の私はどんな人間だったのだろうかと、ふと考えてしまう時がある。
分からなくても、仕事はできる。
仕事ができれば、ここにいられる。
それで十分だと今では思っている。
「リィン」
夜間作業の準備中、ヘルタさんが私を呼んだ。
「今日は、もう休みなさい」
「まだ記録整理が……」
「いいから」
その言い方は、相変わらずぶっきらぼうで、少し強引だ。
「また、星々の瞬く夢を見てるんでしょ」
私は驚いてしまった。
かなり前に、ほんの数回しか相談した事なかったに、どうしてわかったんだろう。
「どうして、それを……」
「ただの推測。別に大した事じゃない」
ヘルタさんは視線を逸らした。
「あなたが眠っているとき、脳波が少し不安定な動きを観測している……と医療チームが言っていたから。私の助手はあなただけなんだから体には気を付けて」
「私は平気です」
「平気でも、休みなさい」
上官命令だと押し通した言葉が、何だかお願いのように聞こえた。そこで私の中で1つの疑問が生じる。ミス・ヘルタはこんなにも情に厚い人だっただろうか。
医療区間の廊下の途中で、私はルアン・メェイさんに呼び止められた。
「リィンさん。今日もとても安定した精神波ですね。少し、詳しく検査してみませんか」
相変わらず、やわらかくて、丁寧で、けれど少し距離が近い。彼女を前にすると、食器に乗ったケーキにでもなった様な心地になる。
「貴女さえ良ければ、被検体として」
どう答えていいか分からず、少しだけ言葉に迷った。そんな彼女らしい口説き文句にいったい何人が顔を縦に振るんだろうと考えていると、後ろから引っ張られる感覚に驚く。
「駄目」
後ろから、ヘルタさんの声が割り込んだ。
「彼女の事はもう十分に解析したでしょ」
ルアン・メェイさんは、少しだけ首を傾げる。
「そうでしょうか。私はとても興味深い反応を観測しているのですが」
「ルアン・メェイ」
「……ふふ。あのヘルタがずいぶん過保護になりましたね」
「あなたが節操なさすぎるだけだよ。油断も隙もあったものじゃない」
「油断していたのですか?」
「全然」
淡々としたやり取りなのに、空気が少しだけ張りつめていた。私はその間に、そっと一歩下がり、ヘルタさんの影の中へ下がった。なぜか、そこが安全な気がしたんだけど、僅かに目を細めたヘルタさんは珍しく緊張したように身を硬くしていた。何か気に触る様な事をしてしまっただろうか。
その夜、私は早めにベッドに横になった。
照明を落として、天井をぼんやりと見つめる。
最近よく見る、あの星の瞬く夜空の夢。
私はそこを知らない。けれど、なぜか懐かしくて、誘われる様に辿り着いてしまう。
「おやすみなさい」
独り言のように呟いた直後、私は眠りに落ちた。
落下。
意識が、ふっと軽くなる。
身体の輪郭が、ほどけて、どこかへ引き寄せられる。
次に気づいたとき、私はもう自分のベッドの上にはいなかった。
知らない部屋。
知らない天井。
でも、誰かの内側の匂いがする。
ここは、誰かの夢だ。
「……あ」
声が、ちゃんと出た。
私は、立っている。
自分がここに来た理由は分からないのに、来てしまったことだけは、はっきり理解できた。
部屋の隅に、小さな影があった。
丸まって、震えている。
「……大丈夫ですか」
私は、自然にそう声をかけていた。
返事はなかった。
けれど、震えが少しだけ弱くなる。
「ここ、怖い場所なんですね」
それも、自然に出た言葉だった。
私自身が、なぜこんなに静かに誰かの側に立てるのかは分からない。
でもここは、私が来るべき場所のような気がしていた。
その小さな影は、やがて、少しだけ顔を上げた。
知らない誰か。
でも、泣き方はよく知っている気がする。
「……貴女は誰?」
そう訊かれた時、私は少しだけ考えてから答えた。
「……分かりません」
「え?」
「私も、あなたも、たぶん、今ここに溢れてしまっただけです」
影は、しばらく私を見つめてから、小さく頷いた。
そうして色んな話をした。
話している内に彼女を覆っていた影が、少しずつ取り払われるのを見ていた。
泣いてばかりいた彼女は、最初よりも少しだけ背を伸ばして笑顔を見せていた。
私はその様子にどうしようもなく満たされていた。彼女はもう、大丈夫。
次の瞬間、世界が、ゆっくりと崩れはじめる。
壁が溶け、
床が遠ざかり、
音が水の中に沈む。
私は、最後にもう一度だけ、その影に言った。
「ここを出たら、忘れてしまっていいと思います」
それがなぜだか、とても大切な作法のように思えたから。
「……」
私は、研究施設のベッドで目を覚ました。
心臓が、少しだけ速く動いている。でも、頭は痛くない。
しばらくして、扉が開いた。
「やっと起きた。もう26システム時間も無断欠勤して、当の本人は気持ち良さそうに寝てるなんてね。何の冗談かと思った」
ヘルタさんは少し拗ねた表情で言う。
「え……そんなに長く。ご、ごめんなさい……」
「別にいいよ。それより寝ている間、あなたの波形は観測するのも困難なほど不安定だった。……どこへ行ったの?」
その問いに、私は、少しだけ迷ってから答えた。
「……たぶん、誰かの夢です」
ヘルタさんの目が、わずかに細められた。
「……そう」
私は自分でも不思議なくらい、落ち着いていた。
「そこは何処かの舞台の上で、人が生活する空間を模したセットの中に居ました。これから何か恐ろしい事が起きる前触れの様な……でも、大丈夫でした。ちゃんと、帰ってこられましたから」
ヘルタさんは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「次からは、事前に兆候を教えなさい」
「はい」
「……止めはしないから」
その言葉の真意は、私には推し量れない。
けれど、なぜか胸の奥が、少しだけ温かくなった。
あの舞台の夢で出会った人の顔は、もう、あまりよく思い出せない。
小さな影。
震える肩。
言葉よりも先に、泣いていた感触だけが残っている。
私はそれを、夢と現実の境目に落としてきた筈だったのに。
「ごめんリィンさん、ちょっといい?」
「ちょっと……」
「いや、でも彼女も知っておいた方がいいと思うんだ」
どうにも歯切れが悪そうに、呼び止められた。
「どうかしたんですか?」
その後、研究施設の一室で。ここでは何だからと、私は同僚である研究員に連れられとある端末の前に立たされていた。
映っていたのは、医療区間のとある病室の前、の廊下の定点カメラだった。
騒ぎ。
人だかり。
そして、その中心で──取り乱したひとりの若い女性が、床に額を打ちつけるようにして叫んでいる。
『もう一度だけでいいから……! あの夜を、夢を、リィンと、会わせて……!』
胸が、ぞっとした。
あの声。
あの震える様な痛ましい泣き声。
夢の中で、私が声をかけたあの人に違いなかった。
「この人はメンテナンス課のレイリーって人なんだけど。上司からのパワハラで精神的に追い詰められてて、今まで医療区間で休んでたんだけどね。……起きて早々、突然情緒不安定になったかと思えばリィンの名前を叫びながら頭を打ち付けていた。幸い、酷い怪我にはならなかったらしいけど」
「心配だわ……」
「ああ、そういえば君はメンテナンス課に恋人が居るんだったか」
同僚の研究員は心配そうに説明する。
「目覚めた直後から、強い喪失感を訴えていたらしくて。原因は不明だけど、ずっとリィンの名前を呟いていたらしい。君、彼女になにかした?」
「……それは」
「何言ってるんだ。リィンはもう何ヶ月も前からずっとこの区間ですし詰め状態だっただろ? 多忙な彼女のルーティンに、どうやって片道1システム時間もかかる場所まで足を運ぶっていうんだ」
「まぁ、確かに」
「なぁんだ、ただの同名か〜。紛らわしい」
「でもリィンなんて名前の研究員、他に居たか?」
私は、息を吸うのを忘れていた。
私は、知っている。あの人は、夢の中で私と出会った女性で間違いない。
私は彼女の人生を壊してしまったんだ。
「あなたの所為じゃない」
私が事情を話すと、ヘルタさんは、そう言ってくれた。
いつも通りの、温度を感じさせない淡々とした声で。けれど、今日は少しだけ低かった。
「夢は、人を支えることもあれば、依存させてしまうこともある」
「私が、余計なことをしたから。彼女をより深い絶望に叩き落としてしまったんじゃないかって……」
「違うよ」
きっぱり、言い切られた。
「あなたは、正しい距離で話した。問題なのは、その人が甘美な夢から覚めるのを強く拒んだから」
段々と声に力が入っていく。
「……でも、私が、行かなければ……っ」
「彼女は致死量の睡眠薬を飲んでいた。あなたと出会う少し前からね。あなたは結果として彼女をより苦しめたかもしれないけど、少なくとも踏み止まらせる事には貢献している」
「……貢献」
「これはあなたにとっては意味のない話だけど、彼女に重労働を強いていた上司はもう居ない」
それは……。
「あなたは、彼女に生きる絶望だけじゃなく、思いも寄らない新しい未来への選択肢も与えたんだよ」
ヘルタさんは、少しだけ誇らしそうに笑みを浮かべた。
医療施設の隔離室。
白い壁。
高い天井。
背負わなくていいとヘルタさんは言ったけど、人の傷を見て見ぬ振りするのは私らしくないと思ったから。
あの人は、ベッドの上で膝を抱えていた。
「……あなた」
私の顔を見た瞬間、その人の目が、涙で滲んだ。
「やっぱり……夢の人……」
「……私は、夢の人じゃありません」
私は、静かに、でもはっきり言った。
「私は、現実の人です。はじめまして、リィンといいます。あなたは?」
その言葉は、自分に言い聞かせるためのものでもあった。
「私は───」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、その人は、かすかに話し始めた。
「……私、あの日、本当は死のうとしてたの……」
唐突に降りてきた、死という単語に、胸の奥がきゅっと縮む。
「でも、あなたがいて……あなたが、『忘れていい』って言ったから……。起きたら、なぜか、生きてしまってて……」
私は、その言葉に、すぐ返せる言葉を持っていなかった。
「……でも、もうあの人は居ないと聞いて、とても安心したの。ねぇ、貴女のおかげなんでしょう?」
「どう、なんですかね…? 私が聞かされた時にはもうその方はステーションには居なかったので……」
「……そう」
「さっきの、話の続きですが。生きてしまったなら、それは、悪いことじゃありません。……と、思います」
「……そうね」
その人は、静かに泣いた。
でも、今度の涙は、
夢の中のものとは少し違っていた。
気がする。