タイトルなんて必要ない   作:ヘルタ様万歳

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自由に泣いてもいい②

ステーションに戻った夜。

私は久しぶりに、夢の深いところへ落ちた。

 

星の瞬く夜空。

石の冷たい地面。

 

でも、誰もいない。

私はただ、そこに立っていた。

 

すると──その場の空間が、

ゆっくりと崩れ始めた。

 

空が割れ、

  星がほどけ、

 

 空間の裏側から、

 

知らないはずの記憶が

 

 音もなく落ちてきた。

 

 

 

 

 

 

私は、病室の天井を知っている。

白すぎる天井。目を閉じているのか、分からなくなる。

 

私は機械の音の中を子守唄に眠ることしかできなかった。

 

私は、夢の中でだけ、自由に歩いていた。

 

私は──

「誰かの夢に入る力」を持っていた。

 

それだけが静かに、正確に、戻ってきた。

 

誰と会ったか。

誰と話したか。

誰に惹かれたのか。

 

それは、戻らない。

 

「私は、夢の中で生きていた」その事実だけが取り戻されていた。

 

 

 

 

 

目を覚ましたとき、頬が少しだけ濡れていた。

理由は、分からない。

 

でも、私は、自分の胸に手を当てて、ひとつだけ、はっきり思った。

 

 

「……ああ、私、ちゃんと、自分だったんだ」

 

過去の名前も、過去の誰かも、未だ思い出せない事はたくさんあるけど。

 

それでも私は、夢の中で生きていた私をほんの少しを取り戻した。

 

 

 

 

 

その日も、私は何事もなかったように、ヘルタさんの助手として働いた。

 

ただ、ひとつだけ違うことがある。

 

私は、自分がどんな場所から来てしまった存在なのかを、少しだけ知ってしまった。

 

そして、今日もまた夜が来る。

 

私は懲りずに夢の中に入ってしまう。

 

自分の輪郭だけが、少しずつ形を形成していく。

 

病室の白い天井。

機械の音。

動けない身体。

眠ることでしか、どこにも行けなかった私。

 

それらが夢の断片みたいに、夜になると静かに浮かぶ。

 

でも。そこに誰もいない。

 

声も、名前も、手の温度も、思い出せない。

思い出せないというより、きっとそこに踏み込まないようにしている。

 

理由は、自分でも、まだよく分からない。

 

もし、そこに誰かがいると確信してしまったら、私は、今の場所に立っていられなくなる気がする、と思ったから。

 

「……思ってたよりも、わたしは怖がりだったんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……今日は、随分と静かね」

 

研究室で、ヘルタさんがそう言った。

 

「いつも通りですよ」

 

「今までは輪郭が曖昧だったのに、なんだか少し明瞭になったというか……何かあったの?」

 

相変わらず、言い方が少し難しい。

 

でも、その難しい言葉の裏に、何か言いたいことが隠れているのは、最近分かってきた事だった。

 

「……変ですか」

 

「変、というより……」

 

ヘルタさんは、一瞬だけ言葉を探してから、

視線を端末に戻した。

 

「……何か思い出したの?」

 

私は、その言葉に、少しだけ息が詰まった。

 

 

「……少しだけです」

 

それでも、そう答えた。

 

「自分のことだけ、少し」

 

「そう」

 

それ以上、追及されなかった。

 

でも、その日のヘルタさんは、いつもより、少しだけ視線が多かった。

 

私を見る回数。私が端末に触れるときの指の動き。歩く速さ。

 

まるで、今の私と、どこか別の私を、無意識に重ねているみたいに。

 

やっぱり、ヘルタさんはわたしを知っているんだ。

 

 

 

 

 

ある夜、作業がすべて終わったあと。

 

「……帰りなさい」

 

普段より少し早い時間に、そう言われた。

 

「今日は、もう充分よ」

 

「まだ眠くは……」

 

「あなたが眠くなくても、眠らせたい夜というものがあるの」

 

よく分からない言い方だったけれど、私は大人しく頷いた。

 

部屋を出る前、ふと振り返る。

 

 

「……もしかして心配、してくれているんですか」

 

問いというより、確認だった。

ヘルタさんは、一拍だけ間を置いてから、答えた。

 

「心配しない研究者はいないわ。観測対象が変化し始めたときは、特に」

 

でも、その声は、どこか少し低くて。

それ以上聞かないほうがいい気がした。

 

私は、ヘルタさんのことを、よく知らない。

 

どんな過去があったのか。

誰と、どこで、どうして、今ここにいるのか。

 

どうして、私を傍に置いておくのか。

何一つ、知らない。

 

でも私は、この人の側にいる時だけ、自分がちゃんと現実に立っていると感じる。

 

それが私にはとても不思議で。

とても、安心した。

 

ある日、私が端末の入力を間違えたとき。

 

「ここ、間違ってる」

 

短く指摘されて、

私は慌てて修正しようとして、さらに間違えた。

 

「……ごめんなさい」

 

珍しく、少しだけ声が揺れた。

 

「別に、謝らなくていいよ」

 

ヘルタさんは、そう言って、私の手首を軽く止めた。

 

「あなたは、今、ここにいる。それだけで、充分よ」

 

指先は、少し冷たかった。

でも、その冷たさが、ひどく心地よかった。

 

胸の奥で、理由の分からない熱が、小さく灯った気がした。私は、その熱の名前を、まだ知らない。

 

初めて会った人に、なぜか強く惹かれてしまうような、あの感じに、とてもよく似ていた。

 

 

 

次の日も、私は助手として働く。

 

ヘルタさんの難解な指示を聞いて、端末を操作して、白衣の裾を揺らしながら、隣に立つ。

 

その様子を、私は、自然なことのように受け止めている。

 

でも、胸の奥では確実に、何かが育ちはじめている気配がした。

 

そして私はもう一度、何も知らずに。

初めて会った時のように、ヘルタという1人の人間を傷付けてしまうんだ。

 

 

 

 

 

 

 

その日は、特別なことは何もない一日だった。

 

実験補助。

データ整理。

いつも通りの端末での作業

いつも通りの無言の時間。

 

なのに、胸の奥だけが、ずっと落ち着かなかった。

 

理由は、わからない。

わからないけれど、聞かなければいけない気がしてしまった。

 

「……ヘルタさん」

 

夜の研究室。照明は落とされて、補助灯だけが机の上を照らしている。

 

「なに」

 

短い返事。

いつも通りの声。

 

私は、一度、息を吸った。

 

「……私は、あなたに、前にも会ったことがありますか?」

 

言ってしまった後で、胸の奥が、きゅっと縮む。

 

沈黙が落ちた。

 

ほんの数秒。

でも、私にはやけに長く感じられた。

 

ヘルタさんは、端末から目を離さず、

ごく自然な調子で答えた。

 

「ないよ」

 

即答だった。

 

「あなたがここに来たのは、記録上では初めて会った時がファースト」

 

その声は、正確で、論理的で、完璧な研究者の言葉。

 

「そう、ですよね」

 

私の方が、少しだけぎこちなく笑った。

 

「変なことを聞いて、すみません」

 

でも、その後の会話は、なぜか少しだけぎくしゃくした。

 

私は、それ以上、何も聞かなかった。

聞けなかった。

 

 

 

自室に戻った後、私はベッドに横たわりしばらく天井を見つめていた。

 

白い天井。

どこかで見たことのある白。

 

さっきの答えが、ずっと胸に引っかかっていた。

 

「ないよ」

 

あまりにも、あっさりした返答。

 

私は、人の嘘を、上手に見抜けるわけじゃない。でも、あの瞬間だけは何故か分かってしまった。

 

あれは嘘なんだろう。

 

だからといって、悲しいわけじゃない。

怒っているわけでもない。

 

ただ疑問に思った。

どうしてヘルタさんはそう答える必要があったのか。

 

 

 

 

 

 

次の日の朝。

私は、いつもより少し早く研究室に入った。

 

ヘルタさんは、すでに来ていた。

端末を操作している指先が、ほんの僅かだけいつもより速い。

 

「……おはようございます」

 

「ええ」

 

それだけ。

でも、私は、なぜか確信していた。

 

昨日の嘘は、この人にとって初めての嘘だったのだと。

 

研究者として、真理を解き明かす事を生き甲斐としてきた人。

 

そんな人が、誰かの質問に事実ではない言葉を返した。

 

それが、どれだけ重たいことか。私は、まだ本当には理解できない。

 

それでも私はもう一度、ヘルタさんの横顔を見る。

 

冷たくて、少し不器用で。とても、優しい横顔。

 

私は、もう一度、あの質問を、頭の中でだけ繰り返す。

 

──前にも、会いましたか?

 

でも、今度は、口には出さなかった。

 

 

ヘルタさんが慣れない嘘をついてまで守りたかった何かが、確かにそこにあると分かってしまったから。

 

それを、今の私が踏み越えてしまうのは彼女の気持ちを踏み躙る行為だ。

 

 

嘘をつかれて距離を作られたのに。

それでも私はますます、ヘルタさんに惹かれてしまう。

 

「……なに。さっきから人の顔をじろじろ見て」

 

「相変わらず綺麗だなって、思っていただけです」

 

「……仕事に集中しなさい」

 

不器用な嘘。

守るためだけの否定。

優しさと、自己嫌悪の混じった声。

 

それらすべてが何故か私にはとても、愛おしく感じられてしまう。

 

私は、もう一度、ヘルタさんの横顔を見る。

 

相変わらず、硬くて、少し冷たそうで、

それでも、ひどく不器用な横顔

 

「ヘルタさん」

 

夜の研究室は、昼間より少しだけ静かで、機械の音が、私たちの間の沈黙を埋めていた。

 

「……なに」

 

私は、ほんの少しだけ、勇気を出した。

 

「別に、答えが本当でも、嘘でも……私は、どっちでも大丈夫です」

 

忙しなく電子盤を弾いていたヘルタさんの指が、一瞬だけ止まる。

 

私は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「私は、私です。あなたは、あなたです」

 

それは、なぜかずっと前から胸の奥にあった言葉だった。

 

「前に誰と会っていたとしても、前の私が、どんな人だったとしても」

 

私は、今日の自分の胸に手を当てる。

 

「今、ここにいる私は、今の私なんです」

 

ヘルタさんは、何も言わなかった。

 

だから私は、問い詰める代わりに、ただ少しだけ、笑った。

 

「守ってくれてありがとうございます」

 

「……そう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は完全に、過去の亡霊を見てしまった。

 

同じ言葉。

同じ間。

同じ、相手を否定しない優しさ。

 

『私は私、あなたはあなた』

 

かつて夢の中で聞いた、頭の中で何度も反芻した言葉。

 

忘れたはずの声が、今のリィンの声と完全に重なってしまう。

 

違う人物だ。

違う記憶だ。

違う人生だ。

 

頭では分かっている。

 

それでも胸の奥が、どうしようもなくかつての彼女と目の前の彼女の違いを潰していく。

 

「……っ」

 

呼吸が、一瞬だけ詰まった。

 

私は今の彼女を見ているはずなのに、もう存在しない彼女の影を、重ねてしまっている。なんて無責任な事だろうか。彼女の存在を歪めてしまったのは私なのに。

 

彼女は、何も知らない。

ただ、今の言葉で、今の選択をしただけだ。

 

それなのに私は、勝手に重ねて、勝手に苦しんでいる。自分が、ひどく醜い存在に思えた。

 

彼女を「過去の代替」にしてしまいそうになる自分。それを、必死に否定している自分。

 

どちらも、同じ私だったから。

 

「……あなたは、何も悪くない」

 

口に出た言葉は、リィンに向けたものではなく、私自身を取り繕う為のものだった。

 

彼女は、少し不思議そうに首を傾げたあと、それでもやっぱり笑って言った。

 

「はい。だから、大丈夫なんです」

 

その笑顔が、また決定的にあの子と重なってしまった。

 

私は自分が何重にも縛られていることを悟った。

 

過去に縛られ、嘘に縛られ、今の彼女に、もう一度惹かれ始めている自分自身に。

 

それがどれほど残酷なことか、誰よりも、私がよく分かっていた。

 




ようやく前提が終わったので、次からがいよいよ書きたかった話になります。

ところで四話で終わるとか話してなかったか
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