「……」
月夜も眠るような晩に、男は目を覚ました。
まるで、長い夢から眠りが覚めたかのような、妙な心地だった。
目の眩むような才覚に狂わされ、家も、妻子も、仲間も捨て、最期には人としての誇りや侍としての矜持さえも捨て去った。
そうしてなお強さを求め続けた男は、結局として、何一つ、手に入れることはできなかった。
弟と同じ世界を終ぞ見ることは叶わず、そうして何も為せず、残せぬまま、塵となって地獄に堕ちたはずだった──のに。
「なぜ、私は……生きている……」
肉体に流れる血肉も記憶も力の漲りも、鬼である黒死牟そのもの。
だが、その血の巡りに、鬼舞辻無惨の呪いが存在しない。主たる鬼舞辻無惨は死んだのだろうか? ともすれば、配下である鬼たちも問答無用で消滅するはずだ。それは黒死牟も同じこと。
頚を落とされ体を刻まれ潰され、それでも負けを認められず。
そうして侍からは遠く離れた自身の醜い姿を見て、ようやく自身の心裡に目を向けられたはずだったというのに。なぜまだ自分は醜い化け物として生き永らえているのか。
「私は……」
ガサリ、と背後から草木を踏む音がした。
常ならば数十メートル先の気配も分かる黒死牟であっても、こうした混乱の最中では気が付かないのも無理はなかった。
「……おや」
冴え冴えとした月の光に照らされて、一人の男が姿を現す。
「随分長く生きてきましたが、まさか六つ目の生き物を見ることになるとは、思いませんでした」
男は、黒死牟の異形の姿を見ても、特段驚いた様子はなかった。
「貴様は……鬼狩り、か……?」
「おにがり……? あなたは、鬼なのですか」
驚く様子のない男に対し、黒死牟は鬼殺隊員という可能性を考える。
しかし、反応からしてそうではなさそうだ。男は腰に刀を差しているが、一向に抜く気配もない。
「懐かしいですね、私もかつては「鬼」と疎まれ、蔑まれ、狩られかけたことがあります。あなたのいう「鬼」とは違うかもしれませんが……それでも、人に恐れられる存在であることは変わりませんね」
「なに……?」
黒死牟は六つの目を眇めて、感覚を研ぎ澄ました。
世界が透き通り、男の臓器、骨の向き、筋肉の収縮、血の流れがよく視えた。……が、人間の核ともいえる心の臓。そこから、鬼とはまた違う異質で異常な生命力を感じ取った。さらにいえば、それは、この大地や自然からも感じられるような、いわば星の生命力にも近いものだった。
「鬼では、ない……しかし……ヒトでもない……。400年以上の時間を過ごしてきたが……お前のような異質な者は……初めて見受ける」
疑念と驚愕に駆られつつも、黒死牟が静かに呟くさなか。
男は柔和な笑みをたたえたまま、空を見上げた。雲一つない藍色の夜には、白い三日月がくっきりと浮かんでいる。
「数百年も巡り合わなかった鬼同士、こうして月の晩に出会えたのも、何かの縁でしょうか。……どうです? 酒でも一杯、酌み交わしていきませんか?」
鉛色の空が重く垂れ込み、血と硝煙の匂いがたちこめる戦場。
ここに陽の光はなく、もはや昼か夜かも分からず。
敵か味方かも分からない死体で埋め尽くされた一帯を見渡せる崖の上では──今まさに、歴史が変わろうとしていた。
「さあ、白夜叉よ、選べ。師か、仲間か。どちらでも好きな方をな」
刀を携えた銀髪の青年が、地に膝をついたままの吉田松陽の背後に立つ。
松陽は心の水面下で繰り広げていた理性の争奪を横目に、背後の気配に耳を研ぎ澄ませた。
教え子の手に持たれているであろう刀が震えるような、かすかな音がする。
かつては
「──」
せめて、彼に最期の言葉を告げようと口を開いたときだ。
突如として、短い悲鳴と研ぎ澄まされた金属音が響いた。
それは、師の処刑を弟子たちに行わせようと率いてきた、周囲の天導衆と暗殺集団・天照院奈落たちから聞こえてきた。
「曲者か!?」
奈落たちがじゃらりと錫杖を鳴らして構えた。
しかしその間にも、硝煙の中で月の光のように煌めく剣筋が次々と赤い鮮血を生み出していく。遊輪が揺れる音と悲鳴とが、重なり合って響いては消える。
荒々しくも美しい暴風のような斬撃が、崖も人も、何もかもを呑み込んでいく。
松陽も衝撃で吹き飛ばされ、後方の地面を転がった。いつの間にか、弟子たちの姿もいない。
丘の崩れる轟音が、遠く響く。
「チイッ」
土埃が陽炎のように揺らめくその方向に見慣れぬ影を見切った天照院奈落・奈落三羽の一羽である朧は、懐から毒針を投擲した。それを追うように、部下の奈落が穂先を穿つ。
斬撃が舞った。
縦真っ二つに断たれた奈落の間から、曲者がこちらへ歩いてくる。
「ッ化け物が……」
その姿を認めた朧は、忌々し気に舌打ちをこぼした。
男の背後には、血の海が広がっている。優に百を超える暗殺集団は、瞬きの間に死屍累々と化していた。
しかしそれよりも異様なのは、その曲者の姿だ。
黒と紫の袴に刀を携えた長身の男は、まさに侍のような出で立ちであったが、その顔には赤い瞳が六個並んでいる。首元から炎のように奔る赤黒い痣も極まって、どこか重厚な威厳すら漂わせるそれは、単なる天人とは違う「生物」であることを見る者の本能に恐怖として伝えてくるようだった。
男もまた朧の姿を見て、六つの目を細めた。
「何やら……懐かしい、気配がすると思えば……。察するに、この事態……お前の独り善がりが招いたもの……おのが決意を自ら放棄するとは、軟弱千万……」
「黙れっ!!」
朧が地を蹴り、錫杖を振り下ろした一方で──男はその場から半歩静かに退き、刀を横薙ぎに振り払うことでその軌道を逸らした。鋭い金属音が乾いた空気を裂く。
「筋に迷いが見える、正鵠を射たか……。案ずるな……人を妬まぬ者は、運がいいだけだ……その感情は
「だが」と男は呟く。
「お前の話を聞くのは……
相手の錫杖を受け流した勢いをそのままに、男は刀を素早く構え直す。
真昼だというのに、冴え冴えとした青い月光が、脇差の刃に刎ねた。
月の呼吸 捌ノ型
「ッ──!!」
目にも留まらぬ抉り斬るような横薙ぎの一閃が、錫杖ごと、朧の胴体を断つ。
火花と血飛沫が交錯し、戦場の空気が大きく震える。
刀についた血を振り落とし、静かに鞘へ戻す。
鍔が鞘口に触れ、澄んだ鍔鳴りの音が響き、それを最後にようやく静寂が辺りを包み込んだ。
男が振り返り、起き上がった松陽の顔を見た。
「久しいな」
「……ええ、本当に。まさか、来てくれるとは思いませんでした」
乾いた喉からかすれた声を出して、松陽は少し驚いたようにこちらに歩み寄る男を見上げた。
「いや、むしろ……遅くなってしまった……もう少し、眠りが浅ければ……」
ゆっくりと間を置きながら、男が言葉を紡ぐ。
既に殺気はなく、見た目の恐ろしさを除けば、それは穏やかな青年そのものであった。
「いえ、十分です」松陽は首を横に振る。その表情もまた、穏やかだった。
「キミは約束を守ってくれた。私がまた虚ろに溺れかける時、私を殺すのは……巌勝、友である、キミだと」
「……よもや、拮抗すらも、叶わぬか……」
巌勝が、六つの目を細めた。
声も瞳も感情の読めない色合いだったが、どことなく侘しさを称えているようだった。
「はい。長いあいだ天導衆に囚われていたことも、災いしてしまったのでしょう……すでに私の意識は、喉元に虚の刃を突き付けられた状態です。今、こうして君と喋っているのも、ほとんど奇跡に近い」
「……そうか……」
「面倒をかけます。……どうか、
「善処しよう……。遅れた詫びだ……後のことは……私が片を付ける……。お前の……門弟たちのことも……」
巌勝が、ほとんど崩れかけた丘の下をみやる。
いくつもの死体がクッションとなったその上に、気絶した三人の若き侍の姿があった。
「ええ、あとは頼みます」
祈りとも呟きともつかぬ言葉を漏らし、松陽は再び地に膝をついて首を垂れた。
その表情は柔らかく、冷たい風がその頬を撫でても、最初のようなやるせなさはない。
「……」
巌勝は自分の得物ではなく、地面に落ちていた刀を拾った。
人としての理性を保っている人間としての友を殺すならば、自らの血肉で造った妖刀ではなく、人の手で造られたただの刀で殺すのが、自分にとっても彼にとっても、受け入れやすいだろうと。
「次に相まみえるとき……友としての、お前であることを願おう……」
高々と刀が振り下ろされる。
光を反射した刃が閃光のように走り、そうして、静寂を切り裂いた。
雲間から薄明が降り注ぐ。その一筋が、丘の上で揺れる炎を照らしている。
陽だまりの淵の暗がりに佇み、炎に包まれる遺体を静かに眺めていた男は、やがてその場から姿を消した。
攘夷戦争のさなか、当時の将軍であった徳川定々により天導衆主導のもと執り行われた大粛清は、のちに寛政の大獄と呼ばれる。
それは本来の歴史とはずれつつも、全国各地の攘夷活動家たちは恙なく処刑され、攘夷運動を急速に衰退させていった。
侍の国。
そう呼ばれたのは、今は昔の話。
すでに世の中には政府から廃刀令が出されており、例外を除いて、侍も刀も取り上げられた異質な時代。
瓦屋根の平屋が建ち並び、着物や袴を着た町人たちが往来を歩く中に混じる、およそ人間ではない異形の者たち──天人。
さらに空には見慣れない飛行船が大きな轟音を立てて飛び交い、江戸の町に影を差す。
厚い雲が層を成した曇もり空の下。
薄い灰色に沈む江戸の街並みで笠を被ったその男は、静謐ながらも大きな存在感を漂わせていた。その表情に喜怒哀楽の影はなく、ただただ無色の均衡が保たれている。
町を静かに歩いていた男だったが、やがてその歩みを止め、すっと笠をずらして空を見上げた。
視線の先にあるのは、「万事屋銀ちゃん」という看板。
「ふむ……」
青年は思案し、そしてその店に続く階段を上ることにした。
そのあたりの人間に道を聞こうと思っていたが、なんとなく、その銀という字面に、妙な懐かしさを覚えたからだ。
二階に上がって玄関前に立ち、インターホンのボタンを押す。
しばらく待っていると、磨りガラスの奥からドタドタと駆け足と忙しない返事が聞こえてきた。
「はーい、どちら様です……か」
ガララと引き戸を開けて出てきたのは、これといった特徴のない眼鏡の少年だった。
だんだんとその言葉尻が弱くなっていったのは、ドアを開けた先に190cmを超えるであろう体格と強烈な威圧感を持った寡黙な男が立っているからだろう。
「え、ええと……あの……」
男を見上げ、メガネの少年はやや委縮した様子だった。
「……ここは……万屋と伺ったが……」
「……え? あ、は、はい!」
男がようやく口を開く。
まさか依頼人だとは思わなかったのか、眼鏡の少年は素っ頓狂な声を上げた後に大きくうなずいた。
「早速だが……道を伺いたい……。この辺りで一番近い不動産屋は、どこか……」
「あ、不動産屋……、ここから歩けばすぐなんですけど、案内しましょうか?」
不動産を探している、つまりこのかぶき町に来たばかりの人だと察したのか、眼鏡の少年はそう申し出た。
「助かる」
男は笠に手を添えて、静かに一礼した。
なんとなく悪い人ではなさそうだと感じたのか、眼鏡の少年の表情も柔らかくなった。
案内をしているあいだ、二人は軽く談笑を交わした。
眼鏡の少年は、新八と名乗った。
一方で笠を被った男は、
各地を旅していたが、かぶき町にしばらく腰を下ろすため家を探している途中なのだという。
「お前は……あの店を……ひとりで取り持っているのか……?」
「あぁえっと……他にも二人いるんですけど、あいにく今は外出していて」
「そうか……」
「あの、もしかして黒死牟さんって、剣道とかやられていますか?」
「……なぜ、そう思う」
笠の下で、黒死牟がすっと目を細める気配がした。
背筋の凍る圧を感じたが、それは一瞬のことだった。
「いや、僕の実家が剣術道場をやっていて……それのおかげってわけじゃないですけど、
「……そうか」
男は、何か思うところがある様子だった。
「あの時……武士として侍としての在り方もすべてを捨てたと……そう、思っていたが……」
一陣の風が、男の掠れた声を攫って行った。
新八は黒死牟のその言葉を聞き取ることができなかった。
「あ、あの……」
「案内は……ここまでで、構わない」
黒死牟がすっと立ち止まる。
路地をまっすぐ抜けた先に不動産屋の看板が見えた。
「助かった、感謝する」
「いえ、ただ道を教えただけですから……」
「これは……礼だ」
懐から取り出した札束を押し付けられ、咄嗟に受け取ってしまったものの新八はピシリと固まった。
「え、ちょちょちょ、これ……!!」
「足りぬか」
「いやいやいや! むしろ多すぎですよ!! ただ道教えただけですよ!?」
「ならば良い……。私には、不要なものだ……」
騒ぐ新八を置いて、さっさと行ってしまう黒死牟。
その背を追いかけようとしたところで、「おー? ぱっつあん?」と気だるげな声がかかった。
聞き慣れたそれに、条件反射で振り向いてしまう。
「銀さん! どこ行ってたんですかあんた!」
「どこってほらーアレだよアレ、ちょっと経済回しによー」
「嘘つけェェその手首の捻りただパチンコ回してただけだろうがァァ!! 経済回すどころか吸い取られてんだろうがァァ!!」
「いやほんとだって。あとちょっとで回せたからね? 一個台が違ってればさあ──って、オイ新八、その金なんだよ」
「あ、これはさっき依頼で道案内をした方からの報酬で……」
「ハアア!? 道案内ごときでンな大金手に入るわけねえだろうがァアア!!! 嘘つくならもっとマシな嘘つきやがれ!! 言え!! 本当はどこから盗んできやがった!!」
「いやいや! ほんとうですって! 黒死牟さんっていう方からの依頼で……あ、あれっ!? もういない!!」
「なーにが
「いや最悪な変換から最悪な展開にするのやめてくれません!!? あとメガネ関係ねえだろうがァァ!!」
騒がしくなってきた往来に、しばらくしてから、少女の声と犬の鳴き声も折り重なってくる。
笑い声が響く町並みの中。
男の影はすでに、暗がりの奥に消えていた。
どっかで説明しますが朧くんは一瞬だけど村下松塾√入ってるひとです。