ノイサイタマの下層、通称「ダスト」。
そこは、かつての繁栄の残滓と、行き場を失ったテクノロジーの汚泥が堆積する街だ。
降り止まない酸性雨が、極彩色のネオンサインを濡らし、路地裏のマンホールからは常に白い蒸気が噴き出している。
そんな街の片隅にある、倉庫街の一角。
プシューッ、と減圧音が響き、壁面に並んだ無数の金属扉の一つが開いた。
そこは人間が住むための部屋ではない。
セラフィム社が管理する、業務・産業用『
通称『スリープ・ロッカー 』だ。
「……あー、クソ。身体中がバキバキだ」
俺の意識が覚醒すると同時に、全身のセンサーが不快なステータスを吐き出した。
狭い。とにかく狭い。
遺体安置所の冷蔵庫ほどのスペースしかないこのロッカーで、一晩中丸まっていたのだ。関節のアクチュエーターが軋むのも無理はない。
俺は這い出るようにして、冷たいコンクリートの床に降り立った。
視界に映るのは、不相応に華奢で、透き通るような白磁の肌をした手足。
そして、それをすっぽりと覆い隠す、薄汚れたグレーの特大パーカー。
『おはようございます、BP-704。本日のノイサイタマの天気は酸性雨、汚染レベルは「注意」です』
脳内で響く、無機質なAIガブリエルの声。
俺は鬱陶しそうに溜息をつこうとしたが、実際に喉から出たのは「ふあぁ……」という、砂糖菓子のように甘ったるい欠伸だった。
「うるせえよガブリエル。今の俺はオフだ。俺を番号で呼ぶんじゃねえ」
内心で毒づきながら、俺はパーカーのフードを深く被り直した。
鏡を見るまでもない。この『強制省電力パーカー』の静電気バリア機能のせいで、俺の髪はタンポポの綿毛みたいにふわふわと逆立っているはずだ。威厳もへったくれもない。
このパーカーは、俺たち『アセット』が非戦闘時に暴走しないよう、出力を定格の5%以下に抑え込む『拘束具』だ。おまけに、高価な義体が外気で汚れないための防護服も兼ねている。
問題は、この下には下着一枚つけていないということだ。
セラフィム社の経費削減か、開発者の歪んだ性癖か知らんが、「メンテナンス性を考慮して」という名目で、俺のボディは直にこのブカブカの布を纏っている。
「……腹減ったな」
俺はポケットの中で、くしゃくしゃになった紙幣と硬貨を探った。
昨晩の『
「……5ユーロ。ふざけやがって」
俺はギリリと奥歯を噛み締めた。
だが、今の俺には壮大な野望がある。
毎日毎日、味気ない高カロリージェルばかり吸わされて、俺の「魂」は限界を迎えていた。
俺の脳髄――かつて荒事専門の傭兵として鳴らしたおっさんの記憶領域――が、強烈に求めているものがある。
熱々の、味の染みたおでん。
大根。厚揚げ。こんにゃく。
そして、安っぽくて鼻にツンとくる、ワンカップの熱燗。
「今日こそは……今日こそは絶対に、
俺はパーカーの袖口を握りしめ、ダストの雑踏へと歩き出した。
袖が長すぎて手が完全に隠れてしまう「萌え袖」状態だが、これをキープしないと、袖口から冷気が入り込んでスースーするのだ。
歩くたびに、膝丈まであるパーカーの裾が揺れる。
太もものあたりで布が翻るたび、内側の絶対領域が露わになりそうになる感覚。
チッ、落ち着かねえ。
俺は内股気味に歩幅を狭め、裾を手で押さえながら、ネオンが毒々しく光る屋台街を目指した。
___
霧がかった路地裏には、ホログラム広告と古臭い赤提灯が混在している。
合成肉を焼く油の匂い、怪しげな薬品の香、そして電子タバコの煙。
それらが混ざり合ったノイサイタマ独特の悪臭も、今の俺には「飯の匂い」への序曲にしか感じられない。
目当ての店はすぐに見つかった。
ホログラムの看板ではなく、手書きの墨文字で『親父の店』と書かれたボロボロの暖簾。
隙間風が吹き込む屋台の中からは、出汁のいい香りが漂ってくる。
(ここだ……! この場末感、この赤提灯! これこそが俺の求めていたサンクチュアリだ!)
俺は意を決して、暖簾をくぐった。
カウンターには、改造手術を受けていない生身の強面店主が一人。
俺はスツールに座り、ポケットの5ユーロ硬貨をカウンターに叩きつける……つもりで、そっと置いた。
さあ、注文だ。
俺の脳内シミュレーションは完璧だ。
「大将! 酒だ! 熱燗と、あと大根と厚揚げくれ! 辛子たっぷりでな!」
そう叫ぶつもりだった。
だが、この忌々しい『美少女義体』には、標準搭載された『
俺の荒っぽい思考は、瞬時に「最適なアイドル・プロトコル」に変換され、声帯を震わせる。
「あ、あのぉ……えっと……」
俺の口から出たのは、鈴を転がすような愛らしい声だった。
店主がギョッとしてこちらを見る。
その視線に耐えながら、俺は必死に「酒! おでん!」と念じる。
「……ホットミルクとぉ、あま~いパンケーキ、ありますかぁ?」
最後、首を傾げる動作まで勝手につきやがった。
俺の内心は絶叫していた。
(違う! 違うんだよオヤジ! 俺は煮込みと酒が欲しいんだ! 誰がホットミルクだバカヤロウ!)
しかし、店主の反応は劇的だった。
強面の顔がふにゃりと崩れ、頬が赤く染まる。
「お、おう! 嬢ちゃんみたいな可愛い子が、こんなむさ苦しい店に来てくれるとはな! パンケーキはねぇが……よし、とっておきのイチゴ飴があるんだ。今日は特別にサービスしてやるよ!」
店主が奥から取り出したのは、キラキラと砂糖がコーティングされた、真っ赤なイチゴ飴だった。
それを見た瞬間、俺の視界が歪んだ。
これは悲しみの涙だ。絶望の涙だ。
だが、その涙さえも、端から見れば「嬉し泣き」に見えるよう、目尻の角度や潤み具合が完璧に計算されている。
「ほらほら、泣くほど嬉しかったのかい? 可愛いねぇ」
店主はさらに張り切り、イチゴ飴にホイップクリームまでトッピングし始めた。
俺は震える手(袖)で、その甘ったるい棒を受け取った。
『自律神経プロトコル・エラー 』。
脳は「塩辛いもの・脂・酒」を激しく渇望しているのに、舌と消化器官は「糖分・果実・映えるもの」以外を受け付けず、吐き出す仕様になっている。
つまり、俺がここでおでんを無理やりねじ込んだとしても、身体が拒絶反応を起こしてその場でリバースするだけなのだ。
そう、最初から分かっていた。俺がどんなに男の頃のものを求めていても、この
システム的には、このイチゴ飴が「正解」なのだ。
(畜生……畜生……! 俺はただ、仕事終わりに一杯やりたかっただけなのに……!)
その時だった。
屋台の入り口が乱暴に開け放たれ、下品な笑い声と共に、数人の男たちが雪崩れ込んできた。
見るからに質の悪い、旧式のサイボーグ・チンピラたちだ。
彼らの手には、すでに紙屑同然の価値しかない「日本円」の札束が握られている。
「おい親父ぃ! 酒だ酒! ここにある酒全部出せ!」
「ヒャハハ! 今日はカジノで大勝ちなんだよぉ!」
静かな晩酌(ホットミルクになったが)の時間を土足で踏み荒らす輩に、俺のこめかみに青筋が立つ――はずだが、美少女フェイスは困り眉を作るだけだ。
チンピラの一人が、俺の背中に気づいた。
パーカー越しでも分かる、華奢なシルエット。
「おっ? なんだァ?
男の、油と泥にまみれた義手が伸びてくる。
俺は避けようとしたが、5%の出力制限がかかった身体は、思考に対してワンテンポ反応が遅れた。
ガシッ。
二の腕を掴まれる。
「ひゃうっ!?」
情けない声が出た。
『高感度触覚センサー』が過剰に反応し、背筋に電流のような痺れが走る。
力が抜け、俺はその場にへたり込みそうになった。
「へへ、いい声で鳴くじゃねえか。なぁ、俺たちと遊ぼうぜ? 壊さないように可愛がってやるからよォ」
チンピラの下卑た視線が、俺のパーカーの隙間――鎖骨のあたりや、太ももの隙間――をねめ回す。
俺の中で、何かが切れる音がした。
(……テメェら……)
俺は元軍人だ。
歴戦の傭兵だ。
こんな三流のチンピラ風情に、ナメられたままで終われるか。
「
口では悲鳴を上げながら、俺は冷静に戦闘プランを構築した。
現状の制約を確認する。
出力は5%以下。力押しは不可能。
パーカーの下は全裸。激しい動きで中身が見えれば、俺の社会的な尊厳が死ぬ。
このブカブカの服を逆手に取るしかない。
「こっち来いよ!」
男が俺の手首を引っ張る。
その瞬間、俺は動いた。
(アセット制御、マニュアル・オーバーライド。パーカー格闘術、起動!)
俺は引かれる力に逆らわず、むしろ自分から飛び込んだ。
だが、ただ飛び込むだけじゃない。
だぶついたパーカーの袖――その余剰部分を、遠心力を利用して振り回す。
「
バチンッ!!
重たい布の塊が、鞭のようにしなり、男の眼球を正確に打ち据えた。
『スリーブ・ウィップ』
防弾繊維が織り込まれたパーカーの生地は、束ねて振るえばブラックジャック並みの破壊力を持つ。
「グギャアアッ!?」
男が顔を押さえてのけぞる。
すかさず二人目が殴りかかってくる。
俺はとっさに身を屈めた。
裾がふわりと舞い上がり、太ももの付け根ギリギリまで露出しそうになる。
店主とチンピラたちの視線が、一瞬、その「絶対に見えそうで見えない」深淵に釘付けになった。
(見んじゃねえ! この変態どもが!)
俺はその隙を見逃さない。
わざと足をもつれさせ、ドジっ子のように転ぶふりをして――
「
全体重を乗せた頭突きを、二人目の
ドゴォッ! という鈍い音。
男は泡を吹いて気絶した。
だが、その衝撃で俺の身体もバウンドし、パーカーのファスナーがジジッと下がる。
肩が、白い肌が、露わになりかける。
『警告。露出率が危険域に達しています。公然わいせつ罪の適用リスクあり』
(
俺は素早く身を翻し、空中でパーカーの前合わせを手で押さえ込む。
その動きは、まるで恥じらう乙女の舞のように優雅に見えたはずだ。
実際は、社会的な死を回避するための必死の動きだが。
残るはリーダー格の男一人。
奴は仲間がやられたことに激昂し、懐から粗末なナイフを取り出した。
「このアマ……! ぶっ刺してやる!」
5%の出力では、ナイフを素手で受けるのはリスクが高い。
回避行動をとれば、パーカーがめくれて中身が見える。
詰んだか?
いや、まだだ。俺にはまだ、武器がある。
俺の視界の端に、屋台の鍋が映った。
グツグツと煮えたぎる出汁の中で、湯気を上げている灰色の塊。
俺が夢にまで見た、愛しのアイツ。
「おじさん! ごめんなさい、少し借ります!」
「えっ?」
俺はカウンターの菜箸をひったくり、鍋の中のこんにゃくを突き刺した。
そして、そのまま振りかぶる。
「
ヒュンッ!
放たれた熱々のこんにゃくは、美しい放物線を描き、リーダー格の男の顔面にベチャリと張り付いた。
「アッ、アチチチチチチッ!!!」
煮えたぎる出汁を吸ったこんにゃくの熱量は半端ではない。
男は顔を押さえてのたうち回る。
さらに、俺はトドメの一撃を加えるべく、涙目で(こんにゃくを無駄にした悲しみで)睨みつけた。
「もぉ……怒りましたからねっ!」
その表情――頬を赤らめ、涙を溜め、少し着崩れたパーカーを押さえる美少女の姿――があまりにも可憐すぎたのだろう。
男は熱さの苦痛と、脳を焼くような「萌え」の過剰摂取により、白目を剥いて倒れた。
スラムのチンピラには刺激が強すぎたようだ。
___
静寂が戻った屋台。
だが、代償は大きかった。
乱闘の余波で屋台の柱が折れ、屋根が半壊していたのだ。
「あーあ……」
店主ががっくりと肩を落とす。
俺は気まずさで縮こまるしかなかった。
結局、俺の虎の子の5ユーロは、屋台の修理代の一部として没収された。
それどころか、全然足りていないので、しばらくの間、この店で皿洗いのバイト(時給3ユーロ)をすることになってしまった。
夕暮れ。
ノイサイタマの空が、紫とオレンジの毒々しいグラデーションに染まる頃。
俺は屋台の裏路地で、うずくまっていた。
手には、店主が「お詫び」としてくれた、例のイチゴ飴。
そして、結局食べられなかったおでんの残骸。
俺はパーカーの萌え袖から指先だけを出し、配給された「イチゴ味の高カロリージェル」をちゅーちゅーと吸った。
イチゴ飴は甘すぎて、今の俺には毒だ。
「……はぁ」
ため息をつくと、白い息がネオンに照らされる。
通りがかりのドローンが、空中に巨大な広告映像を投影した。
『セラフィム社、あなただけのアイドルをお届けします。戦場に咲く一輪の花、バトル・ドールシリーズ好評発売中』
そこには、俺と同じ顔をした美少女たちが、作り物の笑顔で歌って踊っていた。
俺は虚空を見つめ、誰に聞かせるでもなく独りごちた。
「……塩が、舐めたいなぁ」
その言葉は、甘ったるい声にかき消され、スラムのノイズの中に溶けていった。
『塩分の過剰摂取は、義体の外皮および内部フレームの腐食原因となります』
ガブリエルの冷静なツッコミが、俺の心に冷たく突き刺さる。
『美肌維持のため、ビタミン剤の投与を推奨します。明日も頑張りましょう、BP-704』
「……へいへい。分かりましたよ、っと」
俺は重たい身体を起こし、パーカーの裾をパンパンと払った。
裾から一瞬覗いた白い太ももを、誰にも見られていないことを確認する。
俺は再びフードを目深に被り、コインロッカーへと帰る道を歩き出した。
明日は、塩辛でも食えるといいな。
そんな叶わぬ夢を見ながら。
属性アンケート
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チャイナドレス
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レースクイーン
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ロリータ