――ここは、生も死も混じり合う場所。
しゃがれた女の声が、空気とも風ともつかぬ何かを震わせた。
――対立するものではない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、つねに溶け合っている。
誰に向けた言葉なのか。声だけが、乾ききった世界にぽつりと落ちる。
「だから、あんたみたいなのが落ちてきたって、不思議なことは何もないのさ」
*
荒涼とした大地が、果てしなく広がっていた。
砂は灰とも黄ともつかない、色を忘れた世界だった。その表面に、細い溝が無数に走っている。毛細血管のように、執拗で、不気味だった。
自然にできたものとは思えない、あまりにも執拗な曲線。巨大な生き物の体内に、自分だけがぽつんと投げ出されたような、異様な感覚をもたらす光景。
かつての大河の痕跡。豊かに水を湛えていた流れがすっかり干上がり、水が刻んだ複雑な跡だけが「ワジ」と呼ばれる傷として、砂漠にいまなお残されているのだ。
そのワジの一本の底に――場違いな色がひとつ、うつぶせに転がっていた。
真っ白なスニーカー。くたびれたパーカー。膝の抜けたジーンズ。
「……あんた、同じだねえ。『あの子』と」
何か――人骨のような、何か――が積み上がってできた山に腰を下ろした老婆が、退屈そうに片頬を指で支えながら、転がる若い女を覗き込んでいる。
女はぴくりとも動かない。ただ、その背中だけが微かに上下していた。生きている。少なくとも、「この国」の基準で言えば。
「起きな、女」
老婆がからからに乾いた声でそう呼びかけた瞬間。
世界に、音が戻った。
*
(心電図。ビーッて鳴った? それともあれはアラーム? ……いや、違う。あんなに長くは鳴らない)
遠くで、電車の走るような、誰かの怒鳴り声のような音のかけらが、ばらばらに浮かんではすぐに消えていく。
ユリは、目を開ける前に、まず「今日が何曜日か」を必死に思い出そうとした。
(夜勤明けだったよね? たしか。救急の患者が立て続けに来て、採血して、あとは……コンビニ行って、肉まん買って……)
そこまで思い出したところで、記憶は唐突に真っ赤に染まった。
熱いものが腹を貫く感覚。冷たくて汚れたアスファルト。誰かの悲鳴、自分の手のひらに広がる鮮血――
(いや、ないない。そんなドラマみたいなこと、私に……)
ユリはそこでようやく瞼を持ち上げた。
「……は?」
最初に目に飛び込んできたのは、見慣れたはずの天井ではなかった。
青とも灰ともつかぬ、色の抜けた空。そしてその空と地平線のあいだを、蜘蛛の巣のような線が、いくつもいくつも走っている。
病室の天井じゃない。渋谷の交差点でもない。スマホの画面でも、インスタのエフェクトでもない。
「……なに、ここ……」
反射的にそう口にしながら、ユリは慣れた動作でポケットを探った。スマホを取り出そうとして、何も触れない空虚な感触に、ようやく「おかしい」と認めざるをえなくなる。
パーカーのポケットには、いつも入っているはずのものがない。ICカードも、鍵も、リップクリームも。何ひとつ。代わりに指先に触れたのは、乾いた砂だけだった。
「こんな場所で熟睡できる奴がいるとはねえ」
声が頭上から降ってきて、ユリはびくりと肩を震わせた。見上げると、少し高いところから、一人の老婆が腰を下ろしていた。
年齢不詳。肌は浅黒く、背は低い。しわくちゃなのに、どこか子どものような目をしている。白いぼさぼさの髪に、王冠のようにして何かの動物の骨を乗せている。民族衣装ともぼろ布ともつかぬ黒い布をまとい、風が吹くたびにひらひらと舞っていた。
「……誰?」
「ただのババアさ。気に留めるような存在じゃないよ」
老婆は、指で自分の頬をこつこつと叩きながら、にやりと笑った。
「ここ、どこですか。砂漠? ロケ? いや、私みたいな一般人がそんな……まさか異世界転生とかだったり、アハハ……」
ユリはあまりにも状況が理解できないとき特有のテンションで、早口にまくしたてた。
「さっきまで令和の渋谷にいたんですけど。ていうか私、夜勤明けでめちゃくちゃ疲れてて、こういうのに付き合ってる余裕ないんで、普通に帰してもらって……」
「レイワのシブヤ。令和の渋谷っていうのかい、あんたのいたとこは」
老婆はその単語だけを拾って、面白そうに目を細めた。
「ここは死者の国。死んだ奴が来るところだ、本来はね」
ユリはさっき頭の中に響いた言葉を思い出した。
――ここは、生も死も混じり合う場所――
「あの。そういう曖昧な単語じゃなくて、ちゃんと教えてくれませんか」
自分でも驚くほど真面目な声が出た。冗談で済ませるには、あまりにもこの風景が「本物」すぎた。触れた砂は冷たいのに、空気は乾いて重い。
「そのまんまさ。あんたの言葉で言うなら、異世界ってやつかもね」
老婆はわざとらしく間を置いた。
「死んだ人間のための国。過去も未来も、みんなごちゃまぜ。あんたみたいな、レイワの時代から落っこちた奴もいれば……」
老婆の視線が、遠くの地平線の向こうをかすめた。
「ずうっ……と昔に、炎と毒と裏切りだけで出来た国から転げ落ちた女もいる」
老婆は肩をすくめた。
「ここは『到着点』じゃない。『途中』だよ、令和の女」
ユリの胸がきゅっと縮んだ。さっきの真っ赤な記憶が、勝手によみがえってくる。
――誰かが叫んでいた。「救急車!」「誰か来て!」誰かに肩を揺さぶられて、視界がどんどん遠ざかって――
「まさか、私、本当に……」
口に出そうとして、ユリは途中で言葉を飲み込んだ。それを言ってしまったら、何かが決定的になってしまいそうで、怖かった。
老婆はそんなユリの内心を見透かしたように、ふっと笑う。
ユリはようやく上体を起こした。足元の溝――ワジが、蜘蛛の巣のように大地を這い、はるか彼方の山へと収束していくのが見える。
その山の頂に、何かが見えた。
「今、何かが光ったような……」
思わずつぶやいた。空を突き刺すように、真っ直ぐ伸びる一本の線。山の頂のさらにその先へと続く、細い細い白い帯。
「おや。見果てぬ場所へ続く階段でも、見えたかな」
「また新しい単語が出た……そこは何ですか?」
老婆の声が、少しだけ低くなる。
「ここにいる奴らは、みんななぜか『見果てぬ場所』を目指す。死者の国が嫌で嫌でたまらないんだろう。でも、あそこがどこへ通じてるのか、本当のところを知ってる者はほとんどいない」
「そんな曖昧なものを……どうして目指すんですか」
ユリが問うと、老婆は肩をすくめた。
「地獄がはっきりしているときほど、知らないものを選びたくなるんだろ」
その言葉に、ユリは少しだけ、胸の奥がひやりとした。
今いる場所が地獄だと言われても、彼女にはまだ実感がない。砂は冷たいし、空は静かで、誰も彼女を責めもしない。ただ、何もかもが「現実から半歩ずれた」ような気持ちち悪さだけが、ようやくじわじわと染みこんできていた。
「みんな……その階段を登ったら、現世に帰れると思ってる?」
ユリは、やっと立ち上がりながら、足についた砂を払った。
「さあね」
老婆は少し高い場所から、ひらりと飛び降りた。信じられないくらい軽い動きで、ユリの真正面に立つ。
そしてユリの胸元を、骨ばった指でちょん、と突いた。
「ねえ、令和の女。あんた、誰か一人でも『生かしたかったのに生かせなかった人間』って、いるかい?」
問われた瞬間、ユリの脳裏に、何人もの顔が一度に押し寄せた。
救急車で運ばれてきて、そのまま帰ってこなかった人たち。人工呼吸器の管の奥で、もう返事をしなかった人たち。「もっと早く連れてきてくれてたら」と、心の中でだけ何度もこぼした言葉。
「……いますよ、何人も」
ユリはゆっくりと答えた。老婆は満足そうにうなずき、にたりと笑う。
「よし。じゃあ、あんたはまだましだ。命を雑に扱ってない奴なら、助かる」
「なんですか、助かるって」
「あんたと同じタイミングで堕ちてきた子が、ちょっと厄介でね」
老婆は、遠くの山の方向を顎でしゃくった。
「生命力に満ちているけど、寂しがり屋で、脆くて、可哀想で……意地っ張りな女の子」
ユリは、思わず息を呑んだ。
「死者の国の『同期』だ。仲良くしな」
老婆は、ユリの背中をぱん、と叩いた。
「さあ行きな、令和の女。あんたの炎と、あの子の炎を……わたしはちょっと見てみたい」
ユリは、よろめきながらも前を向く。足元には、干上がった大河の跡が、山へ向かって迷路のように続いている。
ここがどこで、自分がどうなったのか、まだ整理はつかない。けれど、「行くしかない」という感覚だけは、なぜか妙に現実味を帯びていた。
(……令和の女、ね)
ユリは、自分の胸の内でその言葉を反芻する。
死んだとは思っていないし、思いたくもない。けれど、今までとはまったく違う何かに巻き込まれてしまったことだけは、さすがの彼女にもはっきりわかっていた。
彼女は一歩、荒野の先へと足を踏み出した。乾いた砂が、かすかに音を立てる。
その音は、遠くで誰かが歩き出す足音と、どこかでかすかに重なっていた。
*
ユリの背中が小さくなっていくのを見送りながら、老婆はぽつりとつぶやいた。
「……むかしね、兄と弟と娘を、まとめて裏切った女がいたんだよ」
乾いた砂を指先ですくい上げて、ぱらぱらと落とす。
「どっちの男も選んだふりをして、本当は権力しか見てなかった。娘のことなんか、愛しいと思ったこともない」
老婆の目が、遠い過去を見つめるように細められる。
「地獄に残るくらいじゃ、たぶん償いには足りないけどねえ」
砂が風に舞い、灰色の空へと溶けていく。
老婆は、それきり何も言わなかった。
原作と全然違う展開になります。
現時点での原作との差異
・令和サイド主人公が女。名前も「聖」ではなく「ユリ」
・老婆が主人公にやたら絡んだあげく意味深なことを言う
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