終わりなきスカーレット(完結)   作:雄魔雌

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第10話 生きるべきか

 雷が落ちたあとの中庭に、焼け焦げた匂いがまだ残っていた。

 ひどく静かだった。

 さっきまでの喧噪が嘘みたいに、風の音だけが石畳を撫でていく。スカーレットは、ふらつく足で一歩ずつ前に進んだ。

 そこには、四つの影があるはずだった。

 

 ポローニアス。レアティーズ。ヴォルディマンド。そして、ユリ。

 

(虚無になっているはずだ)

 

 枯葉の渦。砂の嵐。鎧と剣だけを残して、跡形もなく消えているはずだ。……三つは、そうだった。

 

 ポローニアスの衣は、中身のない布切れになって石畳に落ちている。レアティーズの剣と鎧も、からん、と虚しく転がったままだ。ヴォルディマンドの甲冑も、空っぽだ。

 ただ、一つだけ。

 そこには、残っているものがあった。

 

「……」

 

 スカーレットは、息を飲んだ。

 ユリは、そこにいた。

 

 血の気を失った顔。黒く焦げた服。肌はところどころ炭のように焼けているが、形は崩れていない。

 枯葉にも、砂にも、虚無の渦にもならず。ただ、一人の死者として――雷に打たれた焼死体として、そこに横たわっていた。

 

「なん、で……」

 

 声が、喉の奥でひっくり返った。

 

「虚無になるはず、じゃ……」

 

 この国で死ねば、虚無になる。この国で消えれば、全ての痕跡は風に紛れる。そう信じていた。ユリだけが、それに従わなかった。

 

「言っただろう?」

 

 しゃがれた声が、静寂を割った。

 スカーレットが振り向くと、そこにはあの老婆が立っていた。どこにいても場違いなはずのその姿が、今だけは妙に馴染んで見える。

 

「この子にとって、ここは道中だって。この国は、到達点じゃない」

 

 スカーレットは、言葉の意味がすぐには呑み込めなかった。

 

「道中……?」

「嘆くことじゃないさ」

 

 老婆は、軽く肩をすくめる。

 

「行くべきところに行ったまでのこと。ここに根を下ろす前に、雷に焼かれて、別の道に向かったんだろう」

「そんな……」

 

 膝が震えた。

 

「そんな言い方で、納得できると思ってるのか」

 

 声が、勝手に荒くなる。

 

「生きていればそれでいい、って……」

 

 喉が痛い。あれほど嫌った言葉が、口からこぼれ落ちる。

 

「ユリ自身がそう言ったんだ!」

 

 焼け焦げた少女の顔に向かって叫ぶ。

 

「レイワの世界の人間は、そうやって人を慰めるんだろう! 生きてさえいればやり直せるって、それが一番の救いだって! そうなんだろ!」

 

 胸が、きしむ。

 

「人に言うだけ言って……!」

 

 拳を握った。自分の爪が手のひらに食い込む感触だけが、やけに鮮明だ。

 

「自分は命を投げ出すなんて、そんな……」

 

 言葉が、途中で崩れる。

 

「嘘つき……!」

 

 それは、誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 叔父にか。母にか。父にか。それとも、目の前で焼け焦げた、この女の遺体にか。

 

「私は、私は、ユリが……」

 

 喉の奥から、声が絞り出される。

 

「生きていれば、それでよかったのに……」

 

 矛盾だった。あの言葉を、何よりも恨んだ。父の死を前に「生きていればいい」などと言われることが、本当に許せなかった。それなのに今、自分は――まったくの他人に、同じことを言っている。

 老婆は、何も言わなかった。ただ、スカーレットの横顔をじっと見ていた。

 

 長い沈黙のあと、老婆はふっと笑った。

 

「やっと、他人事じゃなくなったね」

「……何がだ」

「ここは、生も死も混じり合う場所」

 

 しゃがれた女の声が、空気とも風ともつかぬ何かを震わせる。

 

「対立するものじゃない。時もまたしかり。ここでは過去も未来も、つねに溶け合っている」

「何を、突然……」

「ご覧よ」

 

 老婆が顎をしゃくった。

 そしてスカーレットが無意識に目を上げた瞬間――世界が、裏返った。

 

 

 

 

 まばゆい光と、色の洪水。

 石畳ではない。砂漠でもない。エルシノアの海風でもない。巨大な光の板がいくつも積み重なり、動く絵と文字を流している。

 人間が、ありえない数で行き交っている。知らない言語と、知っている言葉がごちゃ混ぜに飛び交って、どれも意味を成さない。

 

「……ここは」

 

 スカーレットは息を呑んだ。足元には、黒い舗装された道。白い線。 「渋谷」とか「スクランブル交差点」と書かれた看板が、目に入る。なぜだか、文字が読めてしまう。聞いたこともないはずの「シブヤ」という地名の響きが、記憶のどこかから這い上がる。

 視線を落とすと、ガラス窓に自分の姿が映っていた。

 

「な……」

 

 青いワンピース。肩口で切り揃えられた、短い髪。

 

「なんだ、この格好は」

 

 自分の声が、自分の耳にも他人のもののように聞こえる。

 夜なのに、街は昼間のように明るい。巨大な交差点。信号が青になり、人の波が一斉に動き出す。スカーレットも人ごみに流されるように、交差点の中に歩みを進めた。

 すると、その歩行者の群れの端に、見慣れた背中を見つけた。

 

「……ユリ」

 

 白いマスクを顎までずらし、あくびを噛み殺しながら歩いている。片手にはコンビニ――なぜかこのとき、全ての文字や単語をスカーレットは全て理解していた――のコーヒー。夜勤明けという言葉が、自然と浮かんだ。

 思わず名を呼んだが、ユリは気づかない。すぐそばを通り過ぎていく。

 

 信号が点滅を始め、歩行者たちの足が速くなる。そのときだった。

 交差点の奥で、甲高いブレーキ音が響いた。

 

「っ!」

 

 遠くから、トラックが突っ込んでくるのが見えた。

 荷台付きの大きな車。赤い信号を誤って突っ切ってきたのか、ハンドルがぶれている。

 スカーレットは叫ぼうとした。だが声が出ず、足も動かない。地面に触れているようでいて、実体がどこにもなかった。

 そのかわりに、誰かが動いた。

 

「危ない!」

 

 一瞬だった。

 コーヒーのカップが宙を舞い、茶色い液体が夜の光に散る。声の主はスカーレットの背中に体当たりするように飛びつき、その身体を押し飛ばした。

 風圧。鉄の塊が皮一枚をかすめていくような音。スクランブル交差点が、一瞬だけ静まり返った……ように感じられた。

 トラックは急ブレーキをかけ、横滑りしながらなんとか止まった。運転手の叫び声。誰かの悲鳴。

 スカーレットが身体を起こすと、その傍ら――交差点の中に、ひとつの身体が残されていた。

 

 ユリだった。

 

 スカーレットの服は少し擦りむけただけで、血も流れていない。代わりに、ユリの足が不自然な角度に曲がっていた。

 トラックのタイヤの跡が、アスファルトに黒く残る。

 

「ね、ねぇ……」

 

 スカーレットは駆け寄ろうとして、やっぱり空を掴んだ。

 

「ユリ、立って……立って!」

 

 上着をじわりと赤く染めたユリが、虚ろな目でスカーレットを見た。

 

「……あなた、が……」

 

 言葉の途中で、血が口からあふれた。

 

「やめろ、喋るな!」

「生きて……て……」

「ユリ!」

「よかった……」

 

 かすれた声が夜の中で溶ける。スカーレットは、彼女の肩を掴んだ。

 

「ユリ! 目を覚ませ、ユリ!」

 

 血が止まらない。腹部から溢れた赤が、アスファルトに大きな染みを作っていく。

 

「どうしたらいいんだ……!?」

 

 スカーレットの声は、誰の耳にも届かない。

 通りすがりの人間たちが、遠巻きに見ている。誰かが「救急車お願いします」と叫んでいる。ユリの手は、もう力が入っていない。

 

「包帯を巻けばいいのか、それとも圧迫? どうしたらいい?」

 

 頭が真っ白になる。

 

「教えてくれ、ユリ! 私は……どうしたら……」

 

 喉が裂けるように痛い。

 

「私は……」

 

 涙が、気づけば頬を伝っていた。

 

「治療の仕方も、復讐の終わらせ方も分からない……こんなに無力な人間なのに……」

 

 そして、世界が遠ざかる。ネオンもサイレンも、人のざわめきも、全部が枯葉の渦のように崩れ落ちた。

 

 

 

 

「っ――!」

 

 スカーレットは、息を吸い込んで目を覚ました。

 足元には、すでに見慣れた石畳。中庭。焼け焦げた匂い。自分の手は、まだ焼死体の横で握り締められている。ユリの顔は、さっきと変わらず静かだ。

 

「今のは……」

 

 震える声でつぶやく。

 

「あの子は、現世でも誰かをかばって死んだのさ」

「私だった……」

「そいつはどうだろうね、住んでる世界が違うのに」

 

 いつの間にか、老婆がすぐ隣にしゃがみ込んでいた。

 

 スカーレットは、ユリの手をそっと握った。死体のくせに、まだ少しあたたかい気がした。

 

「じゃあ、あれは」

「もしもでもあり、本当でもある」

 

 老婆はあいまいな言い方をする。

 

「ここは生も死も、過去も未来も混じり合う場所だって、言ったろう? あんたが見たのは、あの子の道中の一部さ」

 

 スカーレットは、返す言葉が見つからなかった。

 ユリは、ずっとそういう人間だったのだ。自分より誰かを庇って、血を流すことを厭わない女。

 

 自分が今、ここで見た光景は、死者の国に落ちる前の彼女の「日常の終わり」だったのかもしれない。

 

 老婆は、立ち上がった。

 

「もう一つ、見せるものがあるよ」

 

 スカーレットの視界が、ふたたび揺らいだ。

 

 

 

 

 今度は、懐かしい潮風の匂いがした。

 石と石の擦れる音。宮廷楽師の鳴らす弦の音。

 エルシノア城の大広間だった。

 壁にはタペストリー。天井からはシャンデリア。兵と侍女と貴族たちが、ざわめきの波を作っている。

 

 壇上に、二人の男女がいた。叔父のクローディアス。そしてスカーレットの母、ガートルード。

 婚礼の衣装に身を包んだ母は、目元だけ笑っていた。その笑みの中に、罪悪感と安堵と打算が、全部少しずつ混じっている。

 

「父が死んで間もないのに……」

 

 幻の中の自分が、低く呟く声が聞こえた。

 十三歳のスカーレット。白いドレスを着せられ、脇に立たされている。しかし誰も、彼女の顔をまっすぐ見ようとはしない。

 ガートルードは、一度も娘を振り返らない。クローディアスは、堂々とした笑顔で民に手を振っている。

 

(そうだ。これは、私が何度も夢に見た光景)

 

 かつて母は、スカーレットの描いた父の絵を目の前で破り捨てた。「男児でなければ意味がない」と、冷たく言い放って。

 かつての夫でありスカーレットの父であるアムレットが引き立てられていく姿を見たときも、娘を抱きしめることすらしなかった。

 

(この二人に、私への愛情なんてなかった)

 

 婚礼の儀が終わり、客人たちが散っていく。音楽が止まり、兵たちが片づけを始める。幼いスカーレットは、隅の柱の影でひとり立ち尽くしていた。誰も話しかけてこない。誰も、彼女に「おめでとう」とも「大丈夫か」とも言わない。そのとき――

 

「寒くないかい」

 

 背後から、声がした。母、ガートルードだった。

 スカーレットは驚いて振り返る。母は、さっきまでの笑みを消していた。疲れたような目で、娘を見つめている。

 

「そのドレス、あんたには少し薄いね」

 

 そう言って侍女から自分のマントを受け取ると、ぎこちない手つきでスカーレットの肩にかけた。

 

「……」

 

 スカーレットは固まったまま、動けない。ガートルードはうまく紐を結べずに手間取ったが、やがて娘の前髪を、そっと耳にかけた。

 

「ナデシコ、リリー、スズラン、バラ――白い色は、お前の赤い髪によく似合う。私が選んだドレスだ」

 

 スカーレットは息を飲んだ。

 

「礼法の教師や侍女たちは、みんな嫌がったよ。喪も明けておりませんのに……ってね」

 

 ガートルードは、苦笑した。

 

「あんたを婚礼の場所に立ち合わせ、引き続き王女の身分であると民に主張できるよう、私が選んだ。侍女たちの優しさや常識なんてものに甘えていれば、お前はあの場に顔を出すことすらできなかっただろう」

 

 マントの紐をようやく結び終えると、ガートルードは手を離した。

 

「これは、私のわがままだ。あんたを王女のままでいさせるための」

「……そんな地位、要りません」

 

 スカーレットは、震える声で言った。

 

「私の父は、先王アムレットだけです」

「そうかい。でもあんたの母親は、私だけだ」

 

 ガートルードは、素直に認める。

 

「お前はクローディアスにとっては他人だ。私の夫は、あんたを殺せる男だよ」

 

 その一言は、今のスカーレットの胸に突き刺さる。ガートルードは、娘の頬に触れた。

 

「だからせめて、飾りになりな。使い道があるものなら、簡単には壊されない」

 

 それは、愛情とは程遠い理屈だ。でも――そこには確かに、「失いたくない」という感情が混じっていた。

 ガートルードは、娘をまっすぐ見た。

 

「生きろ」

 

 言って、踵を返す。

 

「……」

 

 スカーレットは、その背中に手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。

 

 

 

 

 光景は、そこで途切れた。

 

「……今のは夢か、幻か、本当の記憶か」

「全部だよ」

 

 老婆はあっさりと言う。

 

「ここでは、そういう区別に意味はない」

 

 スカーレットは、しばらく黙っていた。

 ユリは、どこかの世界で、自分によく似た誰かを庇って死んだ。自分は、母と叔父の歪んだ形の庇護の中で、生かされ続けた。

 

 スカーレットは、どんな場所でも、何度も、誰かに生かされ続けてきた。その事実が、喉奥に引っかかる。

 老婆が、スカーレットの表情をうかがう。

 

「進むのか、それとも、ここで座り込むかい」

 

 スカーレットは、ゆっくりと立ち上がった。

 

 ユリの顔を、もう一度見る。焼け焦げた肌。閉じた瞼。

 

「……」

 

 スカーレットは、そっと彼女の手を離した。

 

 中庭の片隅に置かれていた、小さなナイフを拾う。戦場で落ちた誰かの予備の刃だ。

 

 自分の髪を掴む。長く編まれた三つ編み。ずっと、王女としての印のように背中に垂らしていた髪。

 

「何をする気だい」

 

 老婆が問う。スカーレットは答えず、ナイフを入れた。

 ざくりという音とともに、重さが一気に消える。切り落とされた三つ編みが、石畳に落ちる音がした。

 

 残った髪は、肩のあたりで不揃いに揺れる。渋谷の夜の幻と、同じ長さ。

 

 ナイフを握りしめたまま、城の奥を見据える。

 

「私は、生かされたことの責任を取る」

 

 それは、誰に対する宣言でもあり、自分自身への呪いのようでもあった。

 

 父に、母に、叔父に。雷に焼かれて散っていった騎士に。そして、焼け焦げたまま虚無にもなれなかった、レイワの女に。

 スカーレットは、短くなった髪をかきあげる。青い瞳に、まだ消えていない炎が灯っていた。

 

 復讐の炎か、命を繋ぐ炎か。スカーレットという名前が示すもの。その違いは、まだはっきりしない。

 それでも彼女は、ここで立ち止まるという選択肢を、自分から手放した。

 

 




原作はハムレットベースだそうですが、この作品ではあらゆる全てを完全に無視しています(今更)
原作との差異
・令和の人間が死ぬ
・死者の国にいる者でも、虚無になる者とそうでない者がいる(原作にそんな設定はない)
・生きていればそれでいい云々の葛藤(そんなものは原作にない)
・令和の人間の死因が違う
・スカーレットの意識が令和の渋谷に飛んだとき、スカーレットがスクランブル交差点で陽気なダンスをしていない(何言ってるかわかりますか?)
・母ガートルードとのやりとり(原作に存在しない設定と会話)

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