「お前は、最初から私のために死ぬためにここにいるのだ、スカーレット」
スカーレットは、拳を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
怒りか、悔しさか、恐怖か。名前をつけられない感情が、喉元で絡まり合っている。クローディアスは、それを楽しむようにわずかに笑う。
「怖じ気づいたかい、姪よ」
「……怖じ気づいているのは、どちらでしょうね」
「減らず口を」
クローディアスは目を細め、短く舌打ちした。その声の奥に、かすかな焦りをスカーレットは嗅ぎ取った。山頂の上空では、竜が相変わらず円を描いている。鱗が陽を受けて、灰色の光を放つ。
「……ガートルード」
ふいに、クローディアスが別の名を呼んだ。
「ガートルード、私にはお前だけだ。どこだ、ガートルード」
かすかに掠れた声だった。スカーレットは、思わず息を呑む。
山頂には、彼ら二人しかいないはずだった。しかし、クローディアスの呼び声に応じるように、石段の影から、ゆっくりとひとつの影が姿を現した。
白い髪。黒い肌。いつもと同じ、擦り切れた衣をまとった老婆。
スカーレットは目を見開いた。
「……!」
「……お呼びかい」
老婆はクローディアスを見て、短く息を吐いた。クローディアスの顔から、一瞬、王の仮面が剥がれた。
「どうして……王妃の姿で、現れない」
それは、山頂までスカーレットに付きまとってきた謎の女に向ける言葉ではなく、かつての王妃に向けられた、どうしようもなく幼い夫の声だった。
「虚無の底で最初に目を覚ましたとき。お前は若く、美しかった」
クローディアスは、じっと老婆を見つめる。
「兄と結婚したばかりの頃の姿で、笑っていた。私は、お前もこの世界に迎え入れようとした。王妃として、私の隣に立たせるつもりだった」
「そうだね」
老婆――ガートルードは、淡々とうなずいた。
「でも、私は見てしまった。あんたが作ったこの地獄を」
ガートルードは、手の甲で自分の顔を軽く叩いた。
「だから、こうなったのさ。元が虚無なんだから、実態を変えるくらい容易だった」
老いた頬。刻まれた皺。化粧でごまかしたつもりの、くすんだ目元。クローディアスの喉が、小さく鳴った。
「……母、上?」
「ここまで姿が変わってりゃ、いくら娘でも気づかないと思ったからね」
ガートルードは、薄く笑う。
「私は王妃である前に、ひとりの母親だ。娘を食い物にするための舞台に笑って立っていられるほど、器用な女じゃない」
母親という言葉に、スカーレットの肩がわずかに揺れた。クローディアスは、その揺れを見て眉をひそめる。
「お前は、あの子に何を吹き込んだ」
「何も」
ガートルードは、きっぱりと言い切った。
「何度も迷ったよ。真実を話してしまえば、あの子はきっと、あんたを刺しに行く」
「それでいい! それこそが私の望んだ結末だ! あの子が私を殺しに来て、私がそれを返り討ちにする。そういう物語だ! 竜がその魂を受け取り、私は現世へ戻る!」
風が、ひゅうっと鳴いた。
「……だから、黙って見ていた」
ガートルードは、かすかに目を伏せる。
「あの子がどんな顔で剣を握っているか。どんな目であんたと向き合うのか。それを最後まで見届けるのが、せめてもの……母としての責任だと思った」
言葉を失ったままのスカーレットに、ガートルードの視線がそっと向けられる。
「スカーレットや」
名を呼ぶ声は、これまで聞いたどんな呼び方とも違った。
「私は、お前を死者の国に縛り付けるつもりはない。現世に帰せるものなら、帰したい」
「……どうやって」
スカーレットがかすれた声で問うと、ガートルードはほんの少しだけ目を細めた。
「簡単な話さ。あんたの叔父さんが、自分の死を受け入れればいい」
「何を――」
ガートルードは、彼を遮るように言った。
「この世界は、クローディアスの願望と罪悪感でできている。彼がそれを手放せば、舞台は終わる」
「黙れ」
クローディアスの声が、低く落ちた。
「お前は、私を肯定するためにここにいるはずだろう」
その目には、嫉妬にも似た激情が燃えている。
「兄にはガートルードがいた。民の称賛があった。父の誇りがあった。私は……いつもその影にいた」
クローディアスは、一歩前に出る。
「だから私は奪った。王冠を、城を、兄の命を。そしてお前、ガートルードの笑顔を」
ガートルードは、黙ってその言葉を受け止めていた。
「虚無に落ちた私のそばに、最初に現れたのは誰だった? 兄でもなく、民でもなく、忠臣でもなく――ガートルード、お前だった。お前だけが、私を見てくれていたのだと。その時やっと理解した」
「……」
「なのに今、なぜお前は私を見ない。あの子ばかりを見ている」
その声は、醜く幼かった。
「スカーレットばかりを! 私の舞台で、私の復讐劇で――お前の目はいつも、あの子に向いている!」
ガートルードは、ゆっくりと首を振った。
「当たり前だろう」
その一言は、静かだった。
「私は、母親なんだよ」
「……何だと」
「お腹を痛めて産んだ子の魂を」
ガートルードの声が、鋭くなる。
「後夫などに奪わせてたまるものか」
クローディアスの顔から血の気が引いた、その瞬間だった。
空が鳴る。竜の影が、山頂の真上で止まる。スカーレットが反射的に顔を上げた。
「下がれ!」
スカーレットが叫ぶ。しかし、雷はその言葉を聞かなかった。
稲妻が落ちる。
それは一本の線ではなく、竜の爪のような形をした光の塊だった。山頂を薙ぎ払うはずのその一撃は、しかし、狙いを違えない。そして――ガートルードただひとりを、正確に貫いた。
「――っ」
声にならない息が漏れたきり、ガートルードは動かなかった。
焼け焦げる匂いはしない。血も飛び散らない。彼女の身体は、輪郭からゆっくりと崩れ始めた。枯葉のように、乾いた紙片が風に舞うように。形を保てなくなった影が、虚無へ帰っていく。
「母上!」
スカーレットは思わず手を伸ばした。
指先が掴めたのは、ほんの一瞬だけ。しわの刻まれた手の感触も、温度も……すぐに、砂のように指の隙間から零れ落ちていく。
最後に残ったのは、若い頃の面影が微かに残る、優しく笑った横顔だった。
「……」
ガートルードは、言葉を残さなかった。
山頂に、静寂が戻る。冷たい風が、残された二人の間を通り抜けていった。
「……これで分かっただろう」
沈黙を破ったのは、クローディアスだった。スカーレットを見ず、空を仰いだまま、かすかに笑う。
「竜は私だけを守る存在だ」
スカーレットは、歯を食いしばった。
「お前に私は殺せない。あの竜がいる限り。王に背いた者は、すべてあの雷が裁く」
クローディアスは、ゆっくりとスカーレットを振り返る。その目には、悲しみとも歓喜ともつかない光が揺れていた。
「さあ、続けようか。ここまで来て、よもや降りるなどと言うまいな」
クローディアスの手が、腰の剣に伸びる。スカーレットは、剣の柄に触れていた手に力を込めた。
ガートルードが消えたあとに残った、奇妙な空洞。胸の奥にぽっかりと空いた穴が、冷たい風を通す。その穴に、別の言葉が忍び込んできた。
『生きてさえいれば、それでいい』
父とユリの声色が重なって聞こえた。
(そんなわけ、あるか)
スカーレットは、心の中で吐き捨てる。
生きているだけで良かったことなど、一度もない。生かされた時間の分だけ、復讐の炎は濃くなった。けれど――
(生きていてほしいと言われたことは、確かにあった)
ガートルードの視線。ユリの笑い声。コーネリウスやヴォルディマンドが見せた迷い。全部まとめて、鬱陶しかった。鬱陶しいくせに、なぜか胸の奥に刺さったまま抜けない。
スカーレットがゆっくりと剣を抜くと、クローディアスの目がわずかに細くなる。
「そうだ、それでいい」
しかし次の瞬間、スカーレットは剣を逆手に持ち替えた。そして自分の足元の石に向かって、それを思い切り突き立てた。硬い音が響く。刃が石に食い込み、柄が震えた。スカーレットはそのまま剣から手を離した。
「……戦わない」
「なんだと?」
山頂の風が、一瞬止まったかのように感じられた。
「聞き間違いなら、王として訂正してやろうか」
「必要ない」
スカーレットは、ゆっくりと顔を上げた。青い瞳が、真っ直ぐにクローディアスを射抜く。
「あなたを見ていて、非常に馬鹿らしくなりました」
クローディアスの眉が、ぴくりと動く。
「復讐だけを生き甲斐にした者の末路がこんなに醜いものなら、私はあなたの写し鏡になど、なりたくない」
スカーレットの声は、驚くほど静かだった。
「父は言いました、『許せ』と」
胸の奥で、古い傷が軋む。
「あの時、私はその言葉を殺した。聞こえなかったふりをして、復讐の炎に油を注いだ」
握りしめた拳に、爪が食い込む。
「でも、こうしてあなたの舞台を最後まで見てしまった今……はっきり分かりました」
スカーレットは、一歩前に出た。
「私は、あなたのようにはなりたくない」
「戯言を」
クローディアスが吐き捨てる。
「お前は父の死を見た。私の処刑命令を聞いた。復讐以外に、お前に何が残っている?」
「だからこそ」
スカーレットは、首を振った。
「私はあなたが、私を殺すことを許します」
クローディアスの目が、見開かれる。
「現世でも、毒杯でお互いを殺そうとした。あの夜、渡し合った杯は、お互いの首への刃だった。ならば、その続きでも構わない。ここで私を殺せばいい。竜に私の魂を捧げて、現世に戻ればいい」
スカーレットは胸に手を当て、続けた。
「そして、あなたに殺されることで、私は……」
ほんの一瞬だけ、喉がつまる。
「私自身を、許すことにします」
クローディアスは、言葉を失ったように彼女を見つめた。
「せっかく、生きていればそれでいい、と言ってくれた人たちがいたけれど」
スカーレットは、静かに続ける。
「人を何人も殺そうとしてきた私など、やっぱり生きるべきではない」
ユリの顔が脳裏に浮かんだ。雷に打たれたあとの姿ではなく、あの集落で「王女様はダンスもできないんですか〜?」と笑っていた顔が。「生きて」と言った顔が。
しかし自分の行いを、自分の手で棚に上げることはできない。
「だからもう、いいんです」
スカーレットは、両手を広げた。
「叔父上。あなたの復讐完遂に、私を使えばいい」
クローディアスはしばらく何も言わなかったが、やがてゆっくりと口を開く。
「……本当に、兄の娘だな」
「どういう意味ですか」
「自分自身に向ける刃の向け方が、よく似ている」
クローディアスは、乾いた笑いを漏らす。
「兄はいつだって、自分さえ我慢すれば、と考える男だった。民のために、王家のために、弟のために。そのくせ、私が一番ほしかったものだけは、いつも渡してくれなかった」
クローディアスは、視線を空へやった。
「私はいつも『兄の弟』だった。戦場でどれだけ血を流そうと、外交でどれだけ巧みに立ち回ろうと、誰も、私を見てはくれなかった」
そう呟くクローディアスの姿は、スカーレットには酷く幼く見えた。
「だが、ガートルードだけは違った。あの女は、兄の妻でありながら、いつも私の話を聞いてくれた。私のみっともない嫉妬や、情けない泣き言でも……」
スカーレットは、拳を握った。
「だから私は、王座と共に彼女も奪った。あの兄から、何もかも奪ってやらなければ気が済まなかった」
「……」
「王座は私にとって、唯一の証明だ。兄よりも上に立てるという、ただそれだけの証明だ」
クローディアスは唇を歪めて山頂を見渡し、一拍置いて、肩を震わせるように笑った。
「……だが、正直なところ、もうどうでもよい」
スカーレットは、はっと顔を上げた。
「何と……?」
「この地獄も、忠臣も、民も。全部どうでもいい」
クローディアスは、はっきりと言った。竜が、低く唸り声をあげる。
「今、私がほしいものは、たったひとつ」
クローディアスは、スカーレットを、そしてその向こうの見えない何かを睨みつける。
「死者の国の王座などどうでもいい! この地獄も、ガートルードも、忠臣も! 全部がどうでもいい! 私はただ――」
彼の声は、怒りとも絶望ともつかない響きを帯びている。
「生きてさえいればそれでいい! ……生き返り、現世の王座に舞い戻る、私が欲しいのはそれだけだ!」
喉の奥からむき出しの願いが漏れたその瞬間、山頂の空気が変わった。竜の影が、揺らぐ。雷の気配が、空の奥で蠢き始める。
死者の国の王は、自らの作った王国を否定した。
そしてそれは「王の意に背く者」に雷が落ちるこの世界で――今、一番大きな反逆者が、間違いなくクローディアス自身であることを示していた。
原作との差異
・老婆の正体明かし(原作に存在しない設定と展開)
・天誅ドラゴンの設定(雷を撃つ理由付けは原作になかったはず)
・ガートルードからスカーレットへの情(原作にない描写)
・復讐のやめ方が違う
・許せの解釈が違う
・生きてさえいれば云々
・もはや原作と一致する箇所を探したほうが早い
映画見ました?
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観た
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観たし、小説版も読んだ
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観てないけど観る予定
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観てないし見る気もない