クローディアスの叫びが、山頂の空気を裂いた。
「生き返り、現世の王座に舞い戻る、私が欲しいのはそれだけだ!」
その瞬間だった。空が、鳴った。
これまで幾度となく見てきた雷の前兆が、頭上で膨れあがる。雲ひとつない蒼穹の一点に見えない歪みが走り、竜の鱗が青白い燐光を帯びていく。
スカーレットは反射的に身構えた。誰に落ちる――誰が今、王に背いている?
コーネリウスも、ヴォルディマンドも、ポローニアスも、レアティーズも、もういない。皆、雷に打たれ、虚無へと落ちていった。
今、この山頂に立っているのは、自分と――
(クローディアスだけだ)
息を呑んだ。
雷の気配は確かにある。しかし竜は、まだ誰にも狙いを定めていない。
「ここでは、王に背く者に雷が落ちる。そうでしたね、叔父さん」
スカーレットはあえて砕けた口調で、ゆっくりと言葉を紡いだ。クローディアスが、それをぎろりと睨む。
「何が言いたい」
「今、この場で。あなたに背いている者は誰ですか」
スカーレットは、芝居がかった仕草で周囲を見回してみせた。剣は、足元の岩に突き立てたままだ。
「兵も、騎士も、妻もいない。私も、あなたに刃を向けることをやめました。あなたのために死ぬとまで言っている私が、王に背いているとは……さすがに言えないでしょう」
「戯れ言を」
クローディアスが苛立たしげに吐き捨てる。
その頭上で、竜が大きく翼を打った。空の隙間から、雷光が漏れ始めている。
「天に座し、強権を振るい、人の話を聞かずに粛清だけを行う存在。そんなものは、神ではない」
スカーレットは、ゆっくりと視線を上げた。青い瞳が、竜と、クローディアスを交互に射抜く。
「あれは――王そのものだ」
竜の喉から、低い咆哮が漏れた。雷の気配が一段と濃くなる。クローディアスが、わずかにたじろいだ。
「……何を言っている?」
「この世界の理は、王の意志です。兵たちは王の言葉を信じて戦い、王に背く者には雷が落ちた」
雷に撃たれた者達の名前を心の中でなぞりながら、言葉を重ねる。
「その裁きを行ってきた竜は、神なんかじゃない。あなたの『王としての意志』が、虚無の中で肥大化した姿だ」
「黙れ」
クローディアスの声が低く響いた。
「竜は言った! スカーレットの魂を捧げれば、私は現世に還れると!」
「本当に、竜の声を聞いたんですか?」
スカーレットは静かに問い返した。
「それとも……自分の欲望を、『神の声』に仕立てていただけですか」
その瞬間、竜の咆哮が山頂を揺るがした。大気が震え、雷光が尾を引く。だが、やはり狙いは定まらない。
スカーレットは一歩前へ踏み出し、叔父を見据えて、言う。
「この竜は、あなたが『王という役』から降りられなかった結果、生まれた化け物です」
上空の巨影を指さした。
「あれは神様なんかじゃない。あれは、役を降りられなかった、あなた自身だ」
クローディアスの顔が、醜く歪んだ。
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいません。あなたは今、王位もこの国も忠臣もどうでもいいと言った。この舞台を自分のためだけに作ったと認め、民への救いの約束などどうでもよかったと笑った」
スカーレットは、ゆっくりと空を仰ぐ。
「竜よ、聞いているだろう」
初めて、その存在に向けて直接呼びかけた。竜の巨大な頭部が、わずかに動いた。黒い眼が、スカーレットを見下ろす。
「王は言った。『王位などどうでもいい。この国も忠臣も全部どうでもいい。私はただ、生き返りたいだけだ』と。それは、この世界を支えてきたすべての魂への裏切りだ!」
その瞬間、クローディアスの顔から、血の気が引いた。
「処刑された父アムレットも。虚無から引き戻された兵たちも。見果てぬ場所を信じて歩いた者たちも。そして自分の妻さえも雷で焼いたこの王は、最大の反逆者だ!」
雷鳴が、今度ははっきりと轟いた。竜の喉奥から立ち昇る光が、空を両断する。
「やめろ……」
クローディアスが、掠れた声を絞り出した。
「やめろ、スカーレット。竜は私を守るはずだ。私の王国を守るために、作られたのだから!」
スカーレットは、静かに首を振った。
「竜よ。お前はこの国の『王の意志』であるなら、聞き届けよ! 王自身が自分の王国を否定したとき、誰に雷を落とすべきかを!」
「やめろ!」
雷光が膨れ上がった。竜の身体が、光の中に輪郭を失っていく。
クローディアスが叫んだ。
「私を守れ! 私は王だ! この国は私のものだ!」
「もう違う」
スカーレットの声は、驚くほど穏やかだった。
「叔父上。——あなたは、この世界でたった一人の『王の意に背く者』になった」
竜が、咆哮した。雷が落ちた。
それは、これまで見たどの一撃よりも眩しく、重かった。一本の線ではなく、幾重にも絡み合った光の縄が山頂を叩く。
クローディアスの身体を、雷が貫いた。
「——ッ」
声にならない悲鳴。しかし、血は一滴も流れない。
彼の身体は、輪郭から崩れていった。兵たちと同じように、枯葉のように舞う砂となって、虚無へと還っていく。
違ったのは、その過程で見えたものだった。王の姿が崩れ、青年の頃に変わり、さらに若き日の姿へと縮んでいく。 戦場で剣を振るっていた頃の彼。兄の背中を追っていた頃の彼。
最後に残ったのは――まだ王冠など知らない、幼い少年の顔だった。その瞳には、わずかな憧れと、抑えきれない嫉妬が浮かんでいた。それも、次の瞬間には砂になって消えた。
同時に、竜の巨体にも亀裂が走った。
鱗が剥がれ、体が崩れ、骨組みのような光の線だけが空に残る。その中心に、同じ少年の影が一瞬だけ浮かび――やがてそれも、ひとひらの塵となって風に溶けた。
空から雷光が消え、青空が現れた。耳鳴りのような静寂だけが残る。
「……叔父上」
スカーレットは、風の中で呟いた。
もう誰もいない空に向かって、言う。
「あなたはすでに、ただの虚無だった。私の魂を使って生き返ることなんて、最初からできなかった」
どこからか、微かな声が響いた気がした。
「嫌だ……生き返ると、竜は……竜は言った……」
スカーレットは、目を閉じて深く息を吐いた。
「さようなら、クローディアス叔父さん」
「実の娘でもない私の世話をしてくれたこと、感謝しています」
その言葉とともに、空の色が変わった。竜のいない空は、ひどく広く、薄い。初めて余計な色が抜けたようでもあった。
そして同時に、世界が崩れ始めた。
*
足元の石が、静かにひび割れを起こした。山の斜面。遠くの砂漠。干上がった川の跡。崩れた神殿。集落の屋根。それらが舞台装置のように、順番に崩れ去っていく。
砂漠の彼方で、人影がいくつも揺れた。エルシノアの兵の姿をした者たちは、音もなく崩れ、そのまま暗い何かに飲まれていく。虚無。彼ら本来の行き先だ。
見知らぬ衣服を纏った人々――集落で出会ったあの者たちに似た影は、それぞれ違う色の光に変わり、遠くへ散っていった。空の彼方へ向かう者。地の底へ沈む者。どこか別の、まだ見ぬ場所へ滑り込んでいく者。
(ユリも……どこかへ向かっているのだろうか)
スカーレットは、胸の奥で友の名を呼んだ。答えはない。ただ、世界が解体されていくさまだけが、静かに進んでいく。
その中で、ひとつだけ変わらないものがあった。
見果てぬ場所へ続く階段だ。崩れゆく山の上で、階段だけが、先ほどよりも鮮やかに光っていた。
スカーレットは、足元に突き立てていた剣を抜いた。しばらくその刃を見つめる。復讐のために握ってきた剣。父の仇を求めて振り続けてきた鉄の重み。彼女は、その剣を静かに背中へ戻した。
これはもう、誰かを殺すための刃ではない。生きている限り、背負い続けるもののひとつになっただけだ。
スカーレットは、階段の前に立った。
一段目に足を置く。光が、脈打つように微かに震えた。二段、三段と登るたび、下界の崩壊は遠ざかり、代わりに別の音が混じり始める。
波の音。風の音。遠くで鳴る鐘の音。
階段の最上段にたどり着いたとき、スカーレットの目の前に広がっていたのは――海だった。
*
灰色ではない。死者の国で見た濁った空とは違う、冷たく生きた水の色。鉛色と深い青が混じり合い、穏やかに揺れている。
海の真ん中に、一枚の扉があった。
石でできた片開きの扉が、水面の上にぽつんと立っている。周囲には足場も橋もない。扉だけが、不自然にそこに存在していた。
スカーレットが一歩踏み出すと、足元に見えない道が現れた。水の上を歩いているような、不思議な感覚。
扉に近づくほど、その向こうに何かが見えてきた。暗い石の天井。蝋燭の小さな光。誰かの押し殺したうめき声。
喉の奥が、ひりつくのを感じた。
(エルシノア……)
扉に手を伸ばす。冷たい石の感触。
押す前に、ふと振り返った。崩れゆく死者の国が、遥か下に見える。
砂漠も、神殿も、集落も、もう影だけだ。そこを歩いていた人々の気配は、どこかへ確かに流れていった。
ユリ。集落の人々。兵士たち。
彼らが「行くべき場所」へ行けるのだと――信じるしかない。
「……ユリ」
スカーレットは、小さく呟いた。
「私は、生きる」
誰よりも聞かせたくない言葉だったはずなのに、今、一番に思い浮かぶのはその人の顔だった。
扉を押した。
白い光が溢れ、視界が塗りつぶされる。波の音が、心臓の鼓動に変わった。
原作との差異
・竜が王だ云々(原作にない設定)
・見果てぬ場所の風景(そもそも原作でクローディアスと出会うのはこの扉の前)
映画見ました?
-
観た
-
観たし、小説版も読んだ
-
観てないけど観る予定
-
観てないし見る気もない