重いまぶたをこじ開けると、石の天井が見える。懐かしい、エルシノア城の一室。ぼやけた視界の向こうで、誰かが叫んだ。
「目を……目をお覚ましになりました!」
慌ただしい足音。侍医の白い髭。侍女の涙ぐんだ顔。
「スカーレット王女殿下!」
肩を抱き起こされ、水を口元に運ばれる。喉が、痛むほど水を欲していた。口に含んだ瞬間、鉄の味がした。血の名残か、毒の後味か。
「……王は」
掠れた声で問うと、侍医が一瞬だけ顔を曇らせた。
「クローディアス王は……あの日の宴の後、崩御されました」
「世は今、王を失っております。ですが、殿下が目をお覚ましになったことで――」
毒杯。喉を焼く痛み。倒れた叔父の姿。続く言葉は聞こえていたが、頭には入ってこなかった。
(死者の国で死んだ者は虚無となるが、現世で死んだ者は……亡骸になるだけだ)
スカーレットは、拳を握りしめた。
「母上は?」
絞り出すように問う。すると、侍従が目を伏せた。
「ガートルード様も、王の後を追うように……自刃なされました」
「……そう」
短く答え、スカーレットは目を閉じた。死者の国の老婆の横顔が浮かぶ。あの時の笑い方。最後に見せた、複雑な眼差し。
そのときだった。
「このまま何食わぬ顔で即位できると思うなよ」
耳元で、聞き覚えのあるしゃがれた声がした。
スカーレットは、思わず顔を上げた。部屋の隅に、あの老婆が立っていた。死者の国で見たのと同じ姿。白い髪。黒い肌。皺だらけの顔。
「……母上」
「お前は、父とその弟を殺して王座に上り詰めた魔女だ」
声が震えた。老婆は、どこかおかしそうに目を細めた。
「下手をすれば、すぐに民衆の支持など失うものと思え」
その声音に、責めるような色はなかった。ただ、現実を告げる者の冷静さだけがあった。そしてスカーレットが何かを言おうとした瞬間、侍女が不思議そうな顔をして振り向いた。
「どうかなさいましたか?」
先ほどまで老婆が立っていた場所には、誰もいなかった。
「今、そこに」
「そこに?」
「……何でもない」
スカーレットは言葉を飲み込んだ。母も叔父も、もういないのだから。
(生きていれば、それでいい――)
思い出すのは、あの世界で聞いた声だ。
(……本当に、そうだろうか)
その答えを出すには、スカーレットにはまだ時間が必要だった。
*
クローディアスなきエルシノア城の、父も叔父も母もいない王座で。スカーレットは政務に追われながら、何度も「死者の国」のことを思い出した。
城下の広場で、見知らぬ踊りを踊る者たちがいた。素朴な太鼓のリズムに合わせて、独特のステップを踏んでいる。
見覚えのある動きだった死者者の国の集落で、夜通し踊っていた人々。そして思い出すのは、あのときユリと踊ったぎこちないワルツ。
鍛冶場では、鋼を打つ音が響いている。妙に軽やかなリズムで槌を振るう職人がいた。死者の国で、火のそばにいた男に、仕草がよく似ている。
確証はない。ただ、そう思うと、胸のどこかが少しだけ軽くなった。
そんな、ある日のことだった。
「陛下。妹君がご帰還なさいました」
「……妹?」
執務室の扉が叩かれ、侍従が顔を覗かせた。スカーレットは書類を見る手を止めた。
「私に、妹などいたかな」
「何をおっしゃる。陛下の実妹にございますよ。留学中でいらっしゃいましたが、つい先ほど城にお戻りに」
留学。ヴィッテンベルクの冬を思い出す。
「……会わせてくれ」
スカーレットは立ち上がった。
*
謁見の間の重い扉が開き、一人の少女が入ってくる。
年は十六かそこら。髪はスカーレットより少し明るく、肩のあたりで切り揃えられている。瞳は、どこか見覚えのある黒。
少女は、裾をつまんで丁寧に礼をした。
「お久しぶりです――で、合ってますか。お姉さま」
「……」
スカーレットは、警戒と困惑を半分ずつ混ぜた顔で彼女を見た。彼女は丁寧な言葉の割に、どこか軽い。そして、妙に馴れ馴れしい。
「私のことが本当に分からないんですか。ボケるにはまだ早いですよ、陛下」
「誰がボケだ」
反射的に返してから、スカーレットは少しだけたじろいだ。女王の口から出るには、あまりに素の言葉だった。
少女は、くすっと笑うと、一歩……いや二歩分ほど、礼儀を無視した距離で近寄ってきた。
「ちょ、近い」
「失礼。いや、やっぱり失礼じゃないかも」
何を言っているのか分からないうちに、少女の手がスカーレットの手首を取った。
「……!」
「下がっていろ、妹と二人で話したい」
護衛が思わず剣に手をかける。しかしスカーレットが視線で制すると、彼らは渋々この部屋から出て行った。
「脈、相変わらず速い」
少女は、まるで当たり前のように言いながら、スカーレットの手の甲を反転させる。指先に柔らかな手のひらが触れる。
「ここ、たまに痺れません?」
「っ……」
彼女が手首の内側を軽く押すと、スカーレットの方がビクリと震えた。少女は、どこか満足げにうなずいた。
「剣を握る癖が抜けない人特有の、筋の張り方。それに……」
今度は、スカーレットの右肩にそっと触れる。押すのではなく、確かめるように、服の上から慎重に。
「ここ、古い傷の引き攣れがあります。無理に動かすと頭まで痛くなるでしょう?」
「なぜ分かる」
「ずっと同じところに負担をかけてる人の身体って、遠目でも分かるんですよ」
少女は笑い、用意されていた椅子の背に掛けてあった薄手のショールを引き寄せると、くるりと丸めてスカーレットの腰の後ろに差し込んだ。
「ちょっと前かがみになりすぎです。ここに支えを入れて、肩の力を抜いて。ほら、首まで軽くなりません?」
スカーレットは訝しみながらも、言われた通りにもたれかかる。驚くほど呼吸が楽になった。
「お前の専攻は魔術だったか?」
「いいえ、職業病です。前世が看護師でしたので」
「看護?」
「ここまで言っても、まだわかんないかぁ……」
聞きなれない単語に眉をひそめるスカーレットを前に、少女はようやく一歩下がり、改めて裾を摘んで礼をした。
「えー、ゴホン。大変お鈍くいらっしゃるお姉さま陛下が忘れておられるようなので、改めて自己紹介いたします」
「……」
「私はリリー。あなたの妹であり、この国の第二王女です。……ところで、知っていますか? リリーというのは、遠い東の国では……」
リリーは悪戯っぽく微笑み、はっきり告げる。
「ユリという言葉になる」
スカーレットの心臓が、一瞬だけ停止したかと思うほど強く跳ねた。
「ユリ……!」
立ち上がりかけた拍子に、腰のショールがクッションのように支える。転ばずに済んだことが、今は少しだけ腹立たしい。
「なんで……!」
「簡単なことですよ」
リリー――もといユリは、肩をすくめる。
「私は令和の女だから」
そう言って、リリーは軽くウインクをしてみせた。
令和。聞き慣れているのに、二度と聞くはずがないと思っていた音。
「令和の日本でトラックに轢かれた人間は、異世界転生するのがお約束」
「ユリ、いや、リリー……お前の言っていることは、まるで分からない!」
「だよね」
そう言いながらも、スカーレットは笑顔が止められない。
「私の本来の行き先は、死者の国じゃなくてこの世界だった。でも転生の道中で、クローディアスの地獄に引き寄せられちゃったみたい」
スカーレットがあの砂漠を思い浮かべていると、リリーが指を二本立てた。
「で、もう一つのお約束。転生チートだけ、先に貰ってたってこと。ひとつは『ほんやくこんにゃく』的な言語能力。もうひとつは、前世の記憶」
「ちーと、ほんやく……何?」
「気にしないで。これは令和の常識だから。不可抗力で死んだ人間が選べる能力を先取りして、私は死者の国に落っこちてたってこと」
「……? 頼むから、私にも分かる言葉で喋って。令和ではそんなに、そのトラックとやらで人が死ぬのか?」
スカーレットは、頭を抱えたい衝動に駆られた。するとリリーが急に真顔に戻り、言った。
「あの集落で出会った人たちも、きっとここにいる」
「えっ?」
スカーレットは、思わず身を乗り出した。
「彼らも令和から来たのか?」
「まさか」
リリーは首を振った。
「彼らは、もともとこの世界に生まれ直す予定だった魂たちだと思う。でも、死者の国が道を塞いでいたから、迷子になっていた」
静かに続ける。
「どうやらあの地獄に留められていた迷子は、みんなこの世界に転生する運命の人たちだったみたい。私も含めてね」
外から、子どもたちの笑い声が聞こえた。広場から聞こえてくる歌の節に、スカーレットは耳を澄ませた。
「だから私は」
リリーは、スカーレットをまっすぐ見た。
「あなたの妹として、生まれ直しました。慣れない政治で四面楚歌の女王スカーレットを、今度こそ支えるために」
スカーレットは、しばらく彼女を見つめていた。
ユリ。令和の女。死者の国で、厄介なほど生にしがみついていた看護師。その面影が、今目の前にいる少女の瞳に確かに宿っている。
「なんて面倒な妹を背負い込んだのか」
「お互い様ですよ、お姉さま」
ぽつりとつぶやくと、リリーがにやっと笑った。
その黒い瞳には、砂漠で見たのと同じ光が宿っていた。誰かの身体に触れずにはいられない性分と、 それでも生きてほしいと願ってしまう、厄介な優しさ。
スカーレットは何かを言い返そうとして、喉の奥に詰まった言葉を飲み込んだ。
(ユリが生きている。ただそれだけのことが、私は……こんなにも、嬉しい)
*
城の高台に、二つの影が並んでいた。
風に揺れるのは、スカーレットの白いドレス。装飾は最低限の、簡素な純白。
その隣で、リリーの赤いドレスが夕陽を受けて深く輝いている。燃えるような緋色ではないが、それでもはっきりと分かる強い紅。まるで本来スカーレットと呼ばれるべき色を、妹が引き受けたかのようだった。
冷たい海峡の風が、二人の裾を同時に揺らした。遠くには、スウェーデンの影が薄く見える。砲台は今も海の向こうを睨み、石の壁は潮風に黒ずんでいる。
「私が知っているデンマークではね」
赤いドレスの裾を押さえながら、リリーがぽつりと言った。
「このあたりに、魚のオブジェがあったんだ」
「魚?」
白のドレスを纏ったスカーレットが、少しだけ首をかしげた。
「うん。私と同じ国の人が、捨てられたゴミを集めて作ったアートだった」
「ゴミで魚を作るのか」
「そう。誰かが捨てたものを集めて、別の命みたいに形を与える」
リリーは海を見ながら笑った。赤い布が風に翻り、その色が沈みゆく太陽と溶け合う。
「あなたのいた国と、私のいた国に、ちゃんと繋がりがあった証拠だね」
「……不思議なものだな」
スカーレットは、小さく息を吐いた。
白い裾が、足首のあたりで揺れる。かつて血飛沫を浴びるためにあった黒い革鎧は、今はどこにもない。この白は、汚せばすぐ目立つ。だからこそ、汚さないで生きていく責任そのもののようで、それは鎧よりも重かった。
「私には、父も叔父ももういない」
スカーレットは、海の向こうを見据えたまま言った。
「政治の手本とするべき存在を、この手で排除してきてしまった。それでも民は、私についてきてくれるだろうか」
リリーは、迷いなく答えた。
「大丈夫だとは言い切れない。あなたやクローディアスが復讐の炎に囚われたみたいに、どこかの誰かが、いつか同じ道を辿る可能性は大いにある」
「……」
「復讐の連鎖を完全に断ち切ることはできない。それは、終わりのない人間の業だから」
「慰めになっているような、なっていないような」
スカーレットは、白い袖をつまみ上げて苦笑した。
復讐のために握ってきた剣の重みは、もうドレスの下に隠れている。それでも、消えてはいない。
「でも、それでも……」
リリーは、赤いスカートの裾を軽く踏みしめた。
「私はあなたのそばにいる」
スカーレットが、ゆっくりと顔を向けた。
青い瞳と、黒い瞳が正面からぶつかった。白と赤のコントラストが、海風の中ではっきりと浮かび上がる。
「あなたに長く生きてほしいから」
リリーは、笑わずに言った。その言葉だけは、冗談にしたくなかった。
「だから、私の持つ知識で、あなたの政治を全力で支えるよ」
スカーレットは、しばらく何も言えなかった。
死者の国で「生きていればそれでいい」と言われたときには、あれほど拒絶したのに。今、白いドレスを纏った肩の上で、その願いを否定しきれなくなっている。
「……勝手にしろ」
「お互い様ですよ、お姉さま」
結局、搾り出せたのはそれだけだった。けれどその声は、かつてのように棘だらけではない。リリーには、それがちゃんと分かっていた。
そのとき不意に、スカーレットの肩の奥で、鈍い痛みが顔を出した。気づかれまいとして、わずかに息を殺す。
「痛いの?」
すぐ隣から、看破するような声がした。
「どうして分かった?」
「さっきまでと、呼吸の深さが違う」
リリーはそう言うと、何の前触れもなく背後に回り込んだ。
「ちょ」
「いいから、ちょっとだけ失礼」
白いドレスの背中越しに、リリーの手がそっと肩甲骨のあたりに触れる。押し込むのではなく、筋の流れをなぞるように。
「ここが固まってる。全部、自分だけで背負おうとする人の凝り方だね」
「医者ぶるな」
「前世が本当に医療職だったから、半分くらいは正解かも」
リリーは肩の筋を軽くほぐしながら、ふっと息を吐いた。
「大丈夫。ちゃんと痛いって言えるうちは、まだ生きていける」
ユリとして聞いたことがあるような台詞を、今度はリリーとして、王の背中に向けて言う。
痛みが完全に消えたわけではない。それでも、スカーレットは少しだけ、肩を落とせるようになった。
「……お前は本当に、距離の詰め方がおかしい」
「看護師の特権です。触ってなんぼ」
そう言ってから、リリーはスカーレットの前に回り込む。
「ねぇ、お姉さま」
「何だ」
「せっかくドレスを新調したんだからさ……」
リリーは、赤い裾をつまんでひらりと揺らした。
「踊りません?」
スカーレットは、目を瞬いた。
「ここで? 二人で?」
「そう、ここで。二人で」
リリーは、いたずらを企む子どものような顔で笑う。
「楽師もいないし、手拍子もない」
「音楽なら、頭の中に流せばいい。令和ではよくやるよ」
「またか。令和は本当に何でもありだな」
「わりと」
返事を待たず、リリーは片手を差し出した。
海風の中、赤いドレスの第二王女が、白いドレスの女王へ向けて差し出す手。その構図に、スカーレットは砂漠の夜を思い出す。
焚き火。素朴な三拍子。「王女様なのにダンスが下手っぴだったりして」とからかってきた令和の女。リードできると豪語して、盛大にリズムを外した姿。
「……ちょっとは上手くなった?」
スカーレットがわざと神妙な顔で問う。
「もちろん。第二王女ですから」
「その理屈はおかしい」
「細かいことは気にしない。ほら」
スカーレットは、溜息をひとつついてから、差し出された手を取った。
指先に触れる感触は、あの砂漠で手を掴まれたときと同じだった。少しだけ冷たいのに、妙に安心する温度。
「今度は、リードを私に任せて」
リリーは、足を一度だけ軽く踏み鳴らす。
「一、二、三――」
声にならない拍子を刻むように、足が動き始めた。
最初の数歩はぎこちない。石畳の上、風の音しかない場所で踊るというのは、やはり奇妙だ。
けれど、すぐに二人の足取りは合い始める。
どこからともなく、手拍子のリズムが加わった。振り向くと、侍女や兵たちが遠巻きに見ており、誰からともなく、三拍子の手拍子を打ち始めていた。
集落での夜と同じリズム。死者の国で一度燃え尽きたはずの踊りが、今度は現世で、白と赤のドレスとともに繰り返されている。
「ほら」
リリーが、小声で囁いた。
「私、ちゃんとリードできてるでしょう?」
「……えぇ」
スカーレットは、目線を合わせぬまま答えた。
「前よりは、いくらかマシになった」
「最高の賛辞、頂きました」
二人のドレスが、海風の中で円を描く。
白と赤が交互に揺れ、夕陽の色を拾いながら、まるでひとつの炎のような軌跡を描いていた。
海の色は、灰色と青のあいだで揺れている。その上に沈む夕陽が、白いドレスの裾をやわらかく染め、赤いドレスをひときわ鮮やかに輝かせた。
(終わりなき炎――)
スカーレットは、胸の内でそっと呟いた。
かつて燃やし尽くそうとしていた復讐の炎ではない。今この白を、赤や黒や金に、少しずつ積み重ねていくための、長く続く炎だ。
その炎が二人のあいだで行き交うのを感じながら、白いドレスの女王と、赤いドレスの第二王女は、海と空と風に囲まれた高台で、音のない音楽に合わせて、いつまでも踊り続けていた。
(終)
「転生したら王族が身内で殺し合ってる16世紀デンマークの第二王女だった」
実姉のスカーレットは、叔父を毒殺した血まみれの女王様!
そのせいで貴族には不信感を持たれてるし、スウェーデンとは戦争直前、財政は破綻寸前! 宗教改革まっただなかで国教は分裂気味だし、前世の医療知識が教会と衝突しちゃうよ〜! 私、どうなっちゃうの〜!?
というわけで完結しました。
ここまで読んでいただいたということは、もちろん原作映画も視聴済みですよね!?
最終話の原作との差異
・スカーレットが即位する以外何もかも全てが違う
魚のオブジェはマジであるのでぜひ見に行ってみてください。
ありがとうございました!
映画見ました?
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観た
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観たし、小説版も読んだ
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観てないけど観る予定
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観てないし見る気もない